3 照らしてよ、ペリドット『一昨日はごめん。怒ってる?』
『怒ってない。けど、驚いた』
『写真現像したの、見てもらいたくて。日曜に会ってくれるなら、その時にまた貴方を撮りたい』
『分かった』
先程までのやり取りより最後は少し時間がかかって、それでも承諾の返事がスマホの画面に表示された。不意打ちでキスしようとしたことを怒っていないし、またモデルもしてくれると言う。自分が言うのも何だが、こんなにお人好しで大丈夫なのだろうか。それともこちらが望んだ通りに、甘い方へ傾きかけてくれているのだろうか。この『分かった』という四文字の裏にもしかしたら込められているかもしれない意味を読もうと試みるけれど、あの人がそんな芸当をするとは思えなくてすぐにやめた。
「出かけんの?」
「うん」
当日、玄関でスニーカーの靴紐を結んでいると兄が後ろから声を掛けてきた。ヘアバンドで髪を上げて、兄も出かける仕度をしているらしい。
「兄さんはデート?」
「おう。あ、あれか。煉󠄁獄の撮影」
「そう」
脇に置いていたカメラの入ったバッグを掴み、立ち上がる。一段高いところにいる兄に向き直り、自分によく似た顔を見上げて告げた。
「兄さん。杏寿郎さんを貸してくれてありがとう」
「へあ?何だよ貸すって、俺んじゃねぇし」
歯ブラシを咥えながら可笑しそうに兄は答えた。
「俺の親友、ド派手に撮ってやってくれよな」
「努力するよ」
ドアを開けて家を出る。午後の雨の予報を裏付けるように、空は重たい鉛色を広げていた。待ち合わせ場所に着くと、彼はもうそこにいた。こちらに気がついて腰かけていたベンチから立ち上がる。傍に行って見下ろすと、少し緊張しているような警戒しているような空気が伝わってきた。
「おはよう」
「…おはよう。雨が降りそうだな」
彼は空の方へ視線を移しながら言った。
「うん。でも雨の中で撮ってみたい気もしてて、少し降ってくれないかなとも思ってる」
「カメラ、濡れて大丈夫なのか?」
「土砂降りとかでなければ平気」
「そうなのか」
「向こう、少し歩くと公園があるから。来て」
示した方向へ先に進み出すと、彼も続いて来ているのが足音で知れた。桜もとっくに散り、こんな雨模様では公園へ遊びに来ている人は疎らだ。目的の場所についた所で、示し合わせたようにちょうど空が泣き出した。
「降ってきたな」
「そうだね。貴方が良ければそのまま傘ささないで欲しい」
「わかった」
頷いた彼は、近くのベンチまで行ってそこにバッグを置き、雨よけとしてその上に傘を開いて置いた。
「その噴水の前に立っていて。こっちは向かなくていいから」
「うん」
アンティークのようにクリームの塗装が少し剥げかけた西洋風の瀟洒な装飾の噴水の前に彼が立った。一定の間隔で上部の尖塔から時折水が押し出される。それを背景にしながら、彼は俺に対して横向きに立った。2回目だからと言ってもうすでに慣れたはずもなく、彼は前回同様所在無げに佇み、脚の横に下ろした手を握ったり開いたりしている。
「出てくる時に、兄さんと話したんだ」
兄の話題に、解り易くぴくりと彼の指先が動いたのを見逃さなかった。
「俺の親友をド派手に撮ってくれってさ」
「そう、か」
シャッターを切りながら何でもないようにさっきあったことを話すと、彼は前方を見据えながらぎこちなくそれに答えた。
「兄さんからしたらこれ以上ない親愛を表した名称なんだろうけどさ。残酷だよね」
親友、だなんて。
「…その話、今しなくてもいいんじゃないか」
怒りや震えを押し殺した人のように、抑揚のない声が返ってくる。ゆっくりと彼を濡らしていく雨が、いつの間にか彼の肩の輪郭を際立たせていた。その上に、水分を含んで色を濃くした金色の房があちらこちらを向いて寝転ぶ。
「どうして?俺と貴方しか知らない秘密でしょう?聞かれて困るような人はどこにもいないよ」
挑発にも似た言動に、彼の二つの金環がこちらに向けられた。すかさずシャッターを切る。レンズに水滴がつき、けぶる視界の中でも輝きを放つ彼の双眸は、雨雲を突き抜けて落ちて来た太陽、夜に下界に取り残された月だった。
多くの人が、彼を太陽のような人だと思っている。温かくて、誰にでも平等で、莫迦がつくほどお人好しで。そんな人であると少し前まで自分も思っていた。けれど彼自身が眩しすぎて、その中身が覗けなかっただけだ。太陽は、翳る時もある。そんな影に偶然に出くわして知った暗く深い彼の底。隠して、殺さなければならないと思っている彼の本心。友人のふりをして兄の傍にいる自分が後ろめたくて、けれどその居場所を捨てきれない弱さへの苦しみ。その葛藤を知っているのは自分だけ。貴方が自身に科している罪を知るのは、この自分だけだ――。
「ねえ、いい加減疲れたでしょう、何年も」
「なに…?」
かりそめでも手に入れられるなら、そうやって惑っている貴方を唆す蛇にでも何物にでもなれる。
「………」
撮ることも、撮られることも忘れて、互いの頭を占めるのは、想う人だけ。
「少し、状況を変えてみたらどうかな」
首から提げたホルダーに任せて手離したカメラを垂らし、彼の方へ歩み寄った。
「だから…何のはな……、っ!」
「こういう風に」
すんでで引き下がろうとした彼の腕を取り、そのまま強引に口づけた。
「…!」
真近に見つめる金輪が大きく広がる。抱き寄せられて不自由にしながら、腕を胸の前で折り曲げた彼は、それで俺の胸を強く叩いた。彼より上背があるから覆い被さるようにしてしまえば、そんな抵抗は痛くも痒くもない。合わさった唇の間から舌を入れると、今度は仰け反って逃げようとした。けれど忘れてはいけない。彼の後ろには噴水がある。誤ってそこへ倒れ込めば、二人とも濡れ鼠だ。
逃げ惑う甘い舌を追って、反らされた背中を下から撫で上げると、彼はびくりと大袈裟に震えた。絡め取った舌を柔く噛むと、あからさまに力が抜ける。こんなに意志の強そうな外見をしておいて、"こういう刺激"の方にはめっぽう弱いのかもしれない。
「んッ…ふ、…ぅう…!」
雨が強くなった。髪も顔も服も全て濡らして、天からのそれがかからないのは繋がった口の中だけ。冷やされていく体のあちこちとは反対に、擦り合せて味わう舌先は嘘みたいに熱くなってゆく。
「ん、う、っぅ…る、しい…っ」
首を捩って逃れようとする彼の頬を両手で包み込み、口づけの合間に懇願する。
「ねぇ駄目だよ…、離れないで…」
思ったよりもずっと掠れた声が出て、驚いて薄目を開けて自分を見上げてきた彼の目には、"どちらが"映ったのだろう。彼は全身を震わせるほど動揺したのだ。
ねぇ今気がついたんでしょう。よくよく聞けば自分たちは、声まで似ているんだ。
*****
彼が、似ているからだなんて関係ないはずなんだ。
関係ない、はずなのに。
「ん、う、っぅ…る、しい…っ」
離れなければいけないから、彼の胸を打って首をよじって逃れようとするけれど。
「ねぇ駄目だよ…、離れないで…」
吐息混じりの弱い声に、まるで鞭で打たれたように動けなくなった。
「煉󠄁獄」
「…!」
狡い。いつもはそんな呼び方、しないくせに。
「ッん、ン…」
怯んだ体をここぞとばかりに腕ごと抱き締め直されて、突っぱねる術すら奪われてしまった。拘束されている不穏な状態に反して、口の中を探る舌は優しく、緩慢になった。甘やかすようにこちらの舌を撫でて、ほぐすように柔く噛んで吸って、込み上げてくる唾液まで恭しく盗ってゆく。打ち付けてくる雨は冷たいのに、体は火が灯ったようにじわじわと奥から熱くなって――
「んあ…っ」
舌の付け根を撫でつけるようにねっとりと舐められた時、信じられない声が自分の喉から出て、同時にがくりと膝から力が抜けた。
「大丈夫?」
崩折れかけた自分を支えた彼は息一つ乱していない。見上げる視界が滲んでぼやけて仕方ない。どうして涙が出ているのか解らなかった。いや、雨が目に入っただけかもしれない……。
「……こんなことが…」
『少し、状況を変えてみたらどうかな』
先程彼が言った言葉の意味。いつかの、"身代わりと"いう提案。
「何になるっていうんだ……」
彼は俺の脇に手を入れしっかり立たせると、垂れ下がって目に入りかけた俺の前髪を指で払いながら言った。
「そうだね…解決にはならないかもしれない。もしかしたら、貴方が好きでもない男に付け入られる損を被るだけかも」
もうすでに合意無くこんなことをした後なのに彼はぬけぬけとこう言いながら、それでも、と付け加えた。
「でも打開できないとは限らない。それはやってみないと解らないよ」
もしかしたら上手くいくかも?そんな甘い話があるものか。そんな、
「それに、兄さんがどんな反応をするのか知りたくはない?」
「………」
そんな簡単に、自分の願い通りにいく話なんか――
「俺と杏寿郎さんが恋人同士になったって聞いたら、貴方贔屓のあの人がいったいどんな顔をするか」
黒みを帯びた紅い瞳は、"彼"で見慣れている筈なのに。恐ろしい誘惑を前に、まるで知らない人の視線に縫い付けられているようだった。
もしもそんなことをして…何も変わらなかったら?むしろ大事な兄弟をマイノリティの道に陥れられただなんて宇髄が考えたら?そうしたら自分は、もしも友人という立場さえ失ったら、自分は―――
「見てみたくはない?」
「………、…」
誰か今すぐ、この甘い毒を濯ぎ落として。
頭が重い。鉛を詰め込まれたみたいだ。熱はだいぶ下がったけれど、それでもまるで誰かに纏わりつかれているような暑さと怠さがまだ抜けなかった。
日曜に、雨に打たれて風邪を引いた。あの、撮影の日だ。体の丈夫さには自信があったから、冬でもないのにあれくらいのことで高熱を出したことが未だに信じられないくらいだ。
彼は、平気だったのだろうか。自分と同じように濡れて…あれから連絡を取っていないから解らない。
『見てみたくはない?』
「………」
このニ日、熱に浮かされながら、気を失うように眠りに落ちながら、想像してしまった。何度も何度も。彼の言う、自分にもしも恋人が出来たことを、それもその相手が彼の弟であると打ち明けた時の、宇髄の反応はどんなものか。自分が一番望むのは、それを聞いた彼が動揺し、”何らかの感情”を元に反対してくれることだけれど――それは弟が世間の大多数のくくりから外れたことに対してのそれであるという考えにどうしたって帰着してしまう。だって宇髄は異性愛者だ。その彼が、こんな賭けのような馬鹿げた偽りの告白で、自分を惜しむことは無いだろう。きっと自分が、親友の椅子を失うだけ。嘘だらけの、親友の…。
『着いた』
スマホが鳴ったので画面を覗くと、宇髄からの連絡だった。二日学校を欠席した自分を見舞うと言って聞かなかった彼が、家の前に到着したのだろう。マスクを付けて、返信を打つ。
『鍵開いてるから入れるぞ』
メッセージを送信して暫く経つと、玄関のドアが開き、二階のこの部屋へ続く階段を登る足音が聞こえてきた。ノックに応答し、ドアを見つめていると、土日と合わせてたった三日ぶりなのに懐かしく感じる顔が覗いた。
「煉󠄁獄だいじょぶかよお前〜」
部屋に入るなり形の良い眉を下げ、ベッドに寄ってくる宇髄に、伝染るからそんなに近づくな、と手で制する。二日も、というか自分が病欠するなんてことがまず無いので彼にとっても相当異常事態だったらしく、断っても見舞いに来ると言って聞かないので結局自分が折れてしまった。けれどそれも言い訳かもしれない。こうして心配してくれるのが嬉しくて、風邪を伝染してしまう可能性もあるのに無責任に彼の優しさに甘えてしまったのだ。後ろめたい気持ちを背後に礼を告げる。
「…ありがとう、大丈夫だ。多分、明日には登校できると思う」
「無理すんなよなぁ。お前なら一週間くらい休んだって受験には響かねぇだろうし」
随分買い被った発言に笑おうとして咳こんでしまうと、
「っ、」
宇髄が寝ている自分の頭を撫でてきたものだから、驚きで咳も引っ込んでしまった。
「あいつが雨ん中撮影に付き合わせたせいで、ほんとごめんな」
そのまま規則的に、大事そうに頭を撫でてゆく大きな手に俺はますます体を硬くした。動く腕に合わせて、彼が好んでつけている香水と、彼自身の匂いが鼻を掠める。ちょっと前まで鼻も詰まっていたはずなのに、なんて現金な。
「…君の弟は大丈夫なのか?同じように彼も濡れてしまったから…」
「あいつならピンピンしてるよ。根暗だから病気の方が逃げてくんだって」
わざと自分の弟を貶めて戯けてみせる宇髄に苦笑する。それにしても、男友達に対していつまでも、いくら病人だからといって頭を撫でるだなんて…まるで恋人にするような甘い仕草が落ち着かない。嬉しいけれど、……この手を外して欲しくもある。
「宇ず…」
もう大丈夫だから、と言おうとしたところで、彼のスマホが着信を告げた。
「ん?リンからだ」
彼女からの連絡のようだ。こちらを向いた視線に「出てくれ」と合図をすると、宇髄は顔の前で手を立てて断ってみせた。
「ん、今煉󠄁獄んち。……あ?いやLINE入れただろ。…うん。…うん?今から?……あー、…そ。ん、わかった、待ってて」
通話を切り、スマホをポケットに仕舞うので、帰るのだと解った。
「大丈夫なのか?」
何となく彼らに行き違いがあったような受け答えに聞こえたので、この見舞いが原因なのではと心配になり思わず尋ねてしまった。
「あーだいじょぶだいじょぶ。あいつ煉󠄁獄に妬いてんの。ウケんだろ?学校戻って迎えに行くことにしたから、機嫌治ったし」
やっぱり、自分が原因だったのだ。
「…優しいんだな、ほんとに君は」
だからきっと、彼女も君に甘えてしまうんだろう。俺も、もしも異性だったら――そんな風に我が儘を言ったりして君に凭れかかったりすることが許されたんだろうか。想いを告げることも許されたし、たとえ叶わなかったとしてもその後も友人として傍にいることができたのだろうか。けれど現実は。
(告げることさえ障害があり過ぎて)
きっとこのまま卒業して、たまに連絡を取り合うくらいはしたとしても、彼は結婚して子供を持って"普通の"道を歩んで行く――いつか、高校まで派手な奴とよくつるんでたっけな、だなんて思い出してもらえたらまだ良い方で。君の人生の頁に自分の載る場所はもうきっと無い。
『でも打開できないとは限らない。それはやってみないと解らないよ』
「……」
考えてしまったら、心臓が嘘みたいにどこどこと大きく鳴り出した。莫迦な真似は止めろと、忠告するみたいに。
「宇、髄」
彼女の元へ向かうつもりの宇髄は、もう俺から去ろうと立ち上がっていた。けれどまだベッドから手を伸ばせばすぐに届く距離に彼はいるのだ。あの日も。出会った日からずっと。今だって。
『お前ド派手でいいなぁ!煉󠄁獄杏寿郎?何だよ名前まで派手じゃん!』
「ん?どした?」
なぁ知らないだろう。君に会えたことを、自分が君の目に留まったことを、感謝しない日はないってことを。
こんなに好きなのに。どうして同じ性というだけで、こんなに我慢しなければならないのだろう。
それを物ともせず、当たり前のように――もしも自分に君と同じ男の恋人ができたなんて告げたら君は。
「…お、れ…」
「うん?」
それが君の弟だと告げたとしたら。
「恋人が、できた」
少しは違う目で見てくれるのだろうか。
ただの気の合う友人ではなくて。
「え」
「きみの、……君の、」
弟なんだ、と告げたら。