淡恋歌⑥唄を忘れた 金糸雀は 後の山に棄てましょか いえいえ それはなりませぬ
唄を忘れた 金糸雀は 背戸の小藪に埋めましょか いえいえ それもなりませぬ
唄を忘れた 金糸雀は 柳の鞭で ぶちましょか いえいえ それはかわいそう
唄を忘れた 金糸雀は 象牙の船に 銀の櫂 月夜の海に浮かべれば 忘れた唄をおもいだす
「もし!そこの旦那。そこの、眼帯の」
家の風呂を新しくするんでその工事のため家のは使えず、銭湯通いが続いていた。今日は少しばかり普段より早めに汗を流そうかと思い立って、昼餉を納めた胃袋が落ち着いてから早々に散歩がてら家を出た。ぶらぶらといつもと違う道を歩いていると、ちょうど通りすがった店から声を掛けられたのでそちらを見ると、そこは飼い鳥を主に扱う店で、様々な色をした鳥が入った籠が店先に吊られ、中を覗くと店内にもまた同じように籠が整然と並んでいた。無意識にあの鳥はいるのだろうかと、目を走らせる。
「急に呼び止めて悪いね。ある人から預かっているものを渡す人の特徴に、あんたが似ているもんだから声を掛けさせてもらったよ」
店主と思しき男がそう言って店先まで出て来た。はて。鳥屋の親爺から預かりものを渡されるような物や相手があるだろうかと内心で首を傾げていると、ちょっと待っててくんな、と男は一度奥へ引っ込んだ。そしてほどなくして、上の方が円型の、店に吊り提げられている籠と同じ形状の鳥籠を一つ手にして戻って来た。中では一羽の山吹色の羽をした金糸雀が、留まり木に大人しく掴まっている。
「これは?」
「雪色の髪で、背が六尺近くある大変な美丈夫がもしもここを通ったら、これを渡して欲しいって―――、旦那のことだよなあ?」
まあ自分の背恰好はそうそういる種類のものではないと自負はしているが、肝心の差出人に心当たりがない。いや、一人だけ無くはないがその相手はもう数年前に他界している。そんな相手がどうやって鳥屋の親爺に預けものをするというのか。
「確かに俺のようだが、あんたにこれを託したのは何という奴なんだ?」
直接本人には贈らずに、手に渡るかどうかも解らないのに店主に頼み込むだなんて、もはや奥ゆかしいのか図々しいのか解らない。手に渡らなかったとしても、それはそれで良いと思ってのことだったのだろうか。
「それがね、御名前を頂戴出来なかったのよ。迷惑を掛けてすまないがと言ってこの鳥のお代と、あんたの手に渡るまでの飼育費を充分過ぎるほど置いていかれてね」
「……どんな、奴だった」
尋ねた直後、親爺の抱える籠の中で金糸雀が鳴いた。
ピィ、ピィ。
空気を洗うような、一瞬で周囲を惹きつけるような目の醒める音で。
『ぴぃ、ぴぃ。……いや、ぴーよぴーよ、だろうか?』
「――…」
途端、あの夜のことが鮮烈に頭の中に蘇る。あれが、最後に煉獄を抱いた夜となった。
「あんたに負けないくらい美丈夫なお客だったよ。そうだね、ちょうどこいつの羽のような髪色で」
ああ、やはり。
親爺は抱いた籠の中の鳥を指して言った。そして「良かったなお前、やっとご主人の元に行けるぞ」と、小さく小首をかしげるような仕草をする金色のそれに語りかけた。
「…って、貰ってくれるよな?実はあんたが受け取らなかった場合の引取り先も伺ってんだが…」
勝手に話を進めてしまったと思ったのだろう、俄に親爺は慌てたように顔を上げると俺に言った。
用意周到なこって。それに、実にお前らしい。端から押しつける気は無かったんだな。計らずも(?)忘れ形見となったこの鳥が、もしも奴が生きている内に俺の手に渡った時は、いったいどんな説明をするつもりだったのだろう。
「貰って行くが………、そのもう一つの引取り先ってのを教えてもらえたりするか?」
「ああ、ちょっとその書きつけを取ってくるよ」
応じた親爺が再び店の奥へ向かい、帳簿なんかを仕舞ってあるらしい小棚をがさごそとやって、一枚の紙切れを持って戻ってきた。
「これさ」
「ありがとさん」
受け取って視線を落とす。そこに、懐かしい筆跡で奴の生家と思われる住所が書いてあった。俺が受け取らなかった場合の後始末の手筈を、お前はどんな想いで――。
つい握り締めてしまいそうになった衝動を抑え、店主に尋ねる。
「これも、貰っても?」
「え?ああ、俺は構わねぇが」
金糸雀の行き先が決まった今では、ただの紙切れになったそれを欲しがる俺に少し驚いた様子だった店主も、しかしすぐに頷いた。
「有難う。長いこと気を揉ませて悪かったな」
「いやいや…。旦那、ちょっと待っててくれ。余った飼育費を今、精算して…」
言ってまた店の中へ引っ込もうとする律儀な店主を俺は引き留めた。
「親爺、それは手間賃として貰ってくれ」
「いや、でもねぇ…」
「俺が受け取っても本人に渡せねぇんだよ。あんたからこの鳥を買った男はちょっと簡単には会えないところに行っちまってね」
「そうなのかい?」
見上げてくる親爺に笑って頷いてみせた。
「またこいつの餌のことなんかを教わりに来るから、引き続き面倒見てくれや」
そう残して俺は鳥籠を提げ、来た道を引き返した。
唄を忘れた 金糸雀は 象牙の船に 銀の櫂 月夜の海に浮かべれば 忘れた唄をおもいだす
ピィ
「うん?何だ、お前も一緒に歌うか?」
銭湯に行くのを辞めにして、家の縁側に座り込んで貰ったばかりの鳥籠を真横に置いた。とろとろとした春の陽が差す庭に、金色の髪を靡かせる幻影を見ながら、最近知った童謡を口ずさんでいると。贈り主とは違って小さな、まだ頼りない声で籠の中の新しい家族が鳴いた。屈んで中を覗くと、そいつは留まり木の上をちょんちょんと二、三度跳ねた。
ピィ
まだ若いようだから鳴き方もあまり上手くないようだ。金糸雀に限らないらしいが、鳴き声を楽しむための飼い鳥は、訓練を積ませ美しい鳴き声に仕立てていくのが鳴禽を飼育する一つの醍醐味らしい。
「けどよ、お前さんだって歌いたい時もありゃあそうじゃねぇ時だってあらァなあ」
直接触れることは叶わないから、残った右手を籠の上に乗せ、語りかけた。
「歌ぐらい、てめぇの好きな時に好きなように歌いてぇじゃねぇか」
犬猫と違ってその躾け方だってだいぶ違うのだろうけれど。
「だからお前は悩むことねぇぞ。気が向いた時に聴かせてくれや」
言って、規則正しい間隔で並ぶ金属製の格子の列をざらりと撫でた。
ピィ ピィ
後から知ったことだったが、童謡「かなりや」の歌詞は、急に歌わずに怠けるようになったように見えても、それは実はもっと上手く歌おうと苦しんでいるだけなのかもしれないという、当人にしか解らないことで悩み惑う人間の姿を金糸雀に映して作詞されたらしい。
それを知った時、俺が金糸雀に例えた男、誰にも眩しく力強く映っていたあの男も――自分たちの与り知らぬ胸の奥底で、悩み、惑い、苦しむこともあったのだろうと、改めて思いを馳せた。
あの夜、あの最後に情を交わした夜、任務で多くの仲間を失っても気丈に最後まで上官の顔を貫いた煉獄。それは柱として当たり前と言えばそれまで。しかし唄の中の金糸雀のように、奴にしか解らぬ炎柱という重圧に時には潰れそうになることだってあるのだと、あの日二人きりになった闇の中で奴の目が、体が、気が、立ち昇るように語っていたと思っている。言葉にせずとも。奴の肩には自身が己に課した重みだけではなく、自分たち周りの者が、知らぬ内に彼に覆い被せていた厚布が少なからずあったはず――。
俺があの日金糸雀に喩えたのはその容姿だけだったが、歌詞の意味を知った今ではあながち的外れな比喩でも無かったのだと納得した。
(真面目過ぎたんだよ、お前)
唄の中の金糸雀のようにずっと在り方を考え続けていたんだろう。けれど優雅に見える水鳥が水中では実はその脚を懸命に動かしているのと同じように、その苦悩は決して周りには見せなかった。だから惹かれたのだ、きっと。何を考えているのか、思っているのか、その外側からでは知れなくて。
(あの夜だけだ)
あの夜、たった一度だけ、俺には見せた弱さ。あの日肌を合わせたあのひと時だけ、俺達は恋人だったろう。
柔い部分を見せたお前、後で奴は後悔するやもしれないと予感しながらそれを受け入れ、甘やかした自分。
(全部俺の勝手な願望だけどな)
俺の手に自分のそれを重ね、いつまでも離さず、必死ささえ窺えた奴の手が堪らなく愛しかった。
『君の肌を借りたい』
欲しい、とは言わなかったな。それは自分もだけれど。
最後まで明かさなかった。けれどあの時鎧を解いた剥き身の、ただの人の子になった己に触れさせた煉獄も、自分を憎からず思ってくれていたのではないかと――
(お前も想ってくれていたと自惚れていいか?)
強がりなお前が寄りかかってくれるくらいには信用してくれていたのだと誇っていいか。
そうでなければ。
そうであってくれなければ。
「……何でお前は俺に許したのかなあ」
永遠に考え続けなければならない。何せ答えをくれる本人はもういないのだ。
随分淡い恋だった。お互い口にしないから、透けてしまいそうなくらい静かで、いつもあっという間に朝に溶けてしまった。もしも互いがもっと別の立場、境遇だったなら…と考えないこともないけれど、だとすれば惹かれていたとは限らない。
見せないお前だったから。
炎の名に相応しく鮮烈な姿形に隠された、脆く、自分や周りの者と何ら変わらない、神様でも仏様でもないただの人の子の柔らかな魂。人より強固な皮に何枚にも覆われて隠れていたそれを、あの夜俺に曝してくれた。仲間の死という不本意なものが切っ掛けになってしまったのかもしれないが。
その彼が、何を思って俺に金糸雀を贈ったのか。寄り添うことの叶わない自分たちだったから、せめて似ていると言われたこの鳥を、己の代わりに寄越したのだろうか。そのくせ心は明かさないまま。このいたいけな小鳥を俺が拒んだ際の避難先まで用意して。
「………」
いなくなって漸く、お前の想いが透けて見えた気がするよ。
いや、本当は、
「もっと前から視えていたか…」
煉獄の家で抱き合った時、腹の上に抱えたあいつが口吸いの代わりに甘えるように俺の口へ寄越した指先。それが何よりも雄弁に語っていたじゃないか。
『愛して』
いや、それよりももっと前に。初めてあの身体を愛した時に――
戸惑いながらも自分の背に回して来た腕。俺の汗に滑りながら、けれどそれも厭わずに背を撫でて来た手のひらから感じ取ったものは。
『宇髄』
自分と同じく胸の奥底に淡く沈ませた愛だった。
『愛している。』
言葉にすることは許されないから、我が身で伝えることは憚られるから、代わりにこの金の小鳥に愛を唄わせようとしたのなら、なんといじらしい。
ピィ ピィピィ
「お?早速もう聴かせてくれんのか?」
不意に籠の中から聞こえた声に、驚かせないよう静かに声を掛ける。
「お前のもう一人のご主人もな、お前に歌って欲しいんだと」
くりりと丸い目に、頭頂がうっすらと紅色に色づいているところもどことなく彼奴らしい。
「色んなもん背負っていたから重たかっただろうが、本来ならすごく自由で伸びやかな奴なんだよ」
数えるほどしか見ることが叶わなかったが、本質はきっとそうだったのだ。それは奴の所作や言葉の端々に表れていたのだと今は思う。
「だから代わりに歌ってやってくれよ」
奴の分まで。何に自己を抑えることも何に縛られることもなく、本当なら思うまままに気の済むまで、したかったように。
「あれ?天元様、もう帰っていらしたんですか?」
「ん?ああ、ちょっとな。……湯よりも先に、歌を浴びたくなって」
「ええ?何を………、あら?カナリア?」
俺もずっと奏で続けるよ。今も変わらず恋しいと。
遥か遠くにいる彼に届くように。
重ね続けていつしか深く、鮮やかな恋火となって来世に繋がるようにと。
ピィ!
この日一番の清流のように透き通る声で、籠の中の鳥が歌った。
淡恋歌 終