【晶蛍】エチュードをふたりで「……驚かせてすまなかったね、ではまた明日!」
「ちょっと晶」
ばたん、と目の前で扉が閉まる。自室と外を区切るそれで隔たれた先、話したかった相手はきっともう隣室に戻っているのだろう。
が……ひとまず先にどうにかしなくてはならないことがある。
「蛇ノ目君」
「はい、なんでしょう」
「君は今何かを見た?」
扉の木目を見つめながら問う。おそらく向こうも窓を見つめたままだろう。
「ボクは声を聴いただけですねぇ。君の慌てたような声と、紫」
「ならいいんだ。話はそれだけだよ」
「……フフ、わかりました」
この部屋で余計な会話はない。その意図を込めたつもりが、切り捨てるような言い方になって些か後悔する。しかしそんな場合でもない。
晶が人目も憚らず大胆な行動に出るのはそう珍しいことではない。だから人の部屋に踏み込んで突然強く抱きしめてきたのも大目に見ることにしよう。
問題はそれをした表情と耳元に落ちた声のトーンだ。
『……蛍』
彼は時折、ひとりで抱え込んでは暴走特急のような思考の速さで自己完結するきらいがある。それが自身に対することなら結構、まずいのは他人が関わる場合だ。
しかも今回はポジティブな方面ではない。
つまるところ――なんだか面倒なことになっていそうだ、ということである。
(愛宕君あたりにでも探りを入れようかな)
直接聞いてもなにも出ないのが目に見えている。ならば周りを攻めるのが上策だろう。
机に座り、タブレットを起動したところでポケットにいれていたスマートフォンが震えた。練習中からバイブレーションにしたままだったらしいそれを開く。送り主は珍しい人物だった。
《ケーちゃん、これ知ってる? 大変なことになってるヨ!》
続いて送られてきたこれは、しゃべスタジオのURLだ。嫌な予感を覚えてページを開く。
ぐ、と肩に力が入った。
(…………これは)
駅前の大きなホテルの、おそらくは吹き抜けの上階から撮影されたもの。写真の中にはラウンジが写っていた。
いくつかのテーブルと椅子に客がいる。そしてそ真ん中にコーヒーと紅茶を並べて談笑しているのは、自分と、とある女性。
とても身に覚えがある光景だった。ただし反吐が出る類の。
これをもって晶が何かを誤解したのだとしたら、なんて可哀想な奴なのだろう――蛍が抱いた感想はそんな慈悲のないものだった。しかし彼からすればこれは当然の思考である。自分たちの絆が揺るぎないものであるといつだって吹聴して回っているのは紛れもない晶自身なのだ。こんなものに振り回されること自体が愚の骨頂。これでパフォーマンスに影響が出るならノエルにお灸を据えてもらわねばならない。
――けれども、彼の手はそんな思考と裏腹に晶へとメッセージを打っていた。
《30分後にダンス棟の前に来られる?》
既読がつけばラッキーという状況で望への返事を打っていると《了解だ!》というスタンプが返ってきた。
晶は、時折可哀想に思うことさえあるほどにまっすぐなことが取り柄だ。だから曲げることよりも、その障害になりうるものを蹴散らしたほうが早い。
悲しいかな、長年の付き合いから蛍はそんな対処法を身に着けていた。
必要なものを引き出しから取り出しバッグへ詰めていると、ンフフフ、と左から笑い声がしてそちらを向く。デザインノートを手にしたシキと目があった。
「まだ寝ていなかったんだ」
「ボクは生憎夜行性なんです。君こそ、こんな時間からお出掛けですか?」
「そうだよ。ちょっとやらなくちゃいけないことを思い出したんだ。じゃあおやすみ」
探るような視線をかわして扉の前へ立ってしまえば、彼は追いかけてこない。おやすみなさい、と声がしたのを聴いて扉を閉めた。
壁を背にして逃げないことをあらわしながら腕を広げる。晶の口が、ぽかんと開いた。
「やり直しを要求しているんだ。この意味がわからないほど、馬鹿じゃないよね?」
そんな風にして用件を切り出すことが出来たのは、無言で柔軟を始めてから30分ほど経った後だった。
夜になりカーテンを閉めてしまったこの部屋では監視カメラこそ動いて録画されているけれども、それも何か事件でもなければ再生されない。何もなければキラートリックの練習で通用するだろう――こんなふうに考えられる肝の強さは、間違いなく目の前の男から与えられたものだろう。でもそれでいいと思うのだ。欲しいものがある時、ためらう理由などないのだから。
「晶」
「蛍!」
突然ではない、けれども先程部屋で受けたよりも強い抱擁にあう。身体を温めていたおかげで、高い温度が胸と首筋に触れた。
「まったく。さっきは突然来て突然離れるから、腕を回せなかったじゃないか」
ゆっくりと晶の背に腕を回し、肩口へと顎を置く。既にお風呂を済ませていたのだろう、ボディソープの香りが鼻をくすぐった。
「晶、覚えておいて。君の抱く不安は僕が抱く不安でもあるんだよ」
晶が何も言わない以上、発端に触れることはしない。でも、漠然とした不安に襲われた彼へ言葉と行動で気持ちを示すことは出来る。
「このまま何をしても許すよ。今日だけはね」
こんな風にすることを許すのは、すべてを預けた彼にだけだ。
それをわからせるためならこれくらい安いものだし、自分の中の何かが満たされる感覚もある。
だからいいのだと腕の力を強めれば、いいのかい、とくぐもった声がした。いいって言ってるでしょ、と答えてすぐに抱擁が離され、そのまま無言の晶がふたり分の荷物を拾い上げる。彼に続く形でレッスン室から出て、電気を消した。
真っ暗になった部屋を見つめる暇もなく腕を引かれる。どうにか扉だけは閉めてから、彼に寄り添ってシャワー室へ続く廊下を歩んだ。