『りんごの香りは週末だけのお楽しみ』「年末年始実家で過ごすんだけどよォ…大晦日お前も来てくんねェ?」
不死川と一緒に過ごしたクリスマスから数日。まだ年明け前の、人もまばらな学園。この寒い中外で運動部の指導をする冨岡を一瞥し、よくやるもんだと感心しながら2月にある入試の準備に勤しむ。今日は部活が無いからこういう時に進めておかないと、毎年余裕をぶちかまして直前になって後悔していた。昼になり、メシを食おうと美術準備室に籠ると不死川がやってきて、ドアを閉めるなりいきなりそんなことを言い出す。
「いいけど…なんで?大掃除の手伝い?」
「…そうじゃなくてェ」
ごにょごにょと言いづらそうに口籠もる不死川に首を傾げる。察しろとでも言いたげな瞳でじっと見つめられるが、残念ながら検討もつかない。いい加減痺れを切らした不死川がほんのりと頬を染めながら口を開いた。
「一緒に住むってェ…おふくろに報告してェ…からァ」
「………へ?」
自分の口から間抜けな声が転がり出る。見る見るうちに真っ赤に染まった不死川の顔にようやく意味を理解して、こっちまで顔が熱くなった。それって…
「同棲してくれる…ってコト?」
クリスマスに合鍵を持っていていいか聞かれ、その際一緒に住みたい旨を伝えた。戸惑い混乱していた不死川に考えておいてと伝えたのは他でもない俺なのだが、まさかこんなに早く答えを出してくれるとは思ってもみなかったために今度はこちらが戸惑う。
「そう言ってんだろォ。なんだよ…テメェが言い出したくせに」
不死川が少し不貞腐れたように口を尖らせる。その腕には俺のやったアメジストの腕時計がつけられており、チッチッという音と共に秒針を刻んでいた。うれしくて思わず抱きしめる。
「ホントに?夢じゃねぇよな」
腕の中にその身体をすっぽりと収めると、にゅっと伸びてきた手に遠慮なく頬を引っ張られる。
「イテテテテテテ。やめて。もうわかったから。さねみチャンってば!」
俺の頬を引っ張る手を、手首を掴んでひっぺがす。赤い顔のまま悪ガキのように笑った顔が愛しくて、そっと口を塞いだ。
「ン…ふッ」
角度を変えて何度も口付ける。鼻にかかった声が鼓膜に響き、ずくりと腰が疼いた。そのまま広げられた胸元に手を忍ばせれば、慌ててその手を止め身体を離される。
「学校ォ!」
「えー…ダメなの?」
「……ッ!いいわけねェだろォ…」
小首を傾げ、捨てられた子犬のような目でじっと見つめる。するとオネダリに弱い長男は一瞬考える素振りを見せたものの、否定の言葉を口にして目を逸らした。そんなところも堪らなくかわいい。
「マジメだなぁ不死川先生は。で?いつ行けばいいの?」
クスクス笑いながら問えば、キッと俺のことを睨み上げながら「17時に鬼滅ヶ丘駅で」と返ってくる。そんな赤い顔で言われても怖くないんだけど。了解。そう言ってもう一度不死川を腕の中に閉じ込めた。一緒に暮らす決心をしてくれたことが、親御さんに紹介してくれることがうれしくて。知らず腕に力が込もる。そろりと背中に回ってきた手に、今度は触れるだけのキスをして離れた。
◇◇
大晦日。年内最後の買い物客で賑わう駅前で不死川を待つ。時刻は16時半。ちょっと早いけど遅れるよりは良いだろう。ソワソワと落ち着かない気持ちでしばらく待っていると、遠くから見慣れた毛玉が近づいてくる。ブンブンと手を振って愛しい恋人の名前を呼んだ。
「さねみちゃーん♡こっちこっち!」
俺に気づくと不死川が頬を染めて走ってくる。そんなに俺に会いたかったのか。抱きしめようと両手を広げたら目の前に来た不死川にいきなり胸ぐらを掴まれた。
「宇髄ィ!テメェ目立つことすんじゃねェよ!ただでさえ目立つんだからすぐわかるっつーのォ。だいたい何だよその格好はァ」
「え…何か変だった?」
なんで怒ってるのかな。初めて行く不死川の実家。失礼の無いように一番上等なスーツ着て、髪も結んできたのに。手土産もちゃんと用意したし。
「なんでスーツなんだよォ。いつも通りでいいんだよいつも通りでェ!」
「いやいやそういうわけにいかねぇだろ?ちゃんとお前を任せても大丈夫って思ってもらわねぇと」
「…でもォ…」
弟妹達が混乱するからただのルームシェアってことにしてくれ。あの時そう言われていた。ちょっと寂しいが、申し訳なさそうに短い眉を下げる不死川を見て俺も了承した。考えてみればコイツの弟妹達も多感な年頃だし、特に次男坊なんかはうちの生徒だ。自分の兄貴が同僚の男と同棲してますなんて受け入れ難い事実だろう。確かにそっちの方が良い。俺には何も無いけど、コイツには守るものがたくさんあるから。
「わかってるよ。ただのルームシェア、だろ?」
「……悪ィ」
「いいって。一緒に住めるだけで万々歳♡」
またしょんぼりと眉を下げてしまった不死川の頭を、わしゃわしゃと掻き混ぜる。ボサボサになった毛玉に一頻り笑い、指で梳いて整えてやるとぼそりと「ありがとなァ」という言葉が聞こえた。ポンポンと頭を撫で、行こ。と声を掛けると引っ張られてぐしゃぐしゃになったコートを整えてくれる。歩き出した不死川の横に並んでついていった。
「ただいまァ」
「あー兄ちゃん!」
「さね兄おかえりなさい」
「……だーれ?」
玄関に足を踏み入れるなり不死川に飛びつくチビッ子共が、続いて入ってきた俺をきょとんと見上げる。話には聞いてたけど、随分小せぇのもいるな。
「宇髄…先生?なんでスーツ…」
「よぉ弟。ちょっくらジャマするぜ」
「ぇ、あ…はい。か、母ちゃん!ちょっと来て」
部屋の奥から現れた玄弥に右手を軽く上げて応えると、忙しく台所に向かう背中に慌てて話し掛ける。エプロンで手を拭きながら随分と小柄な女性がこちらにやってきた。
「初めまして。キメツ学園で美術教師をしています。宇髄天元です」
「あら。あらあら。いつも実弥と玄弥がお世話になっております」
「こちらこそ」
「狭い家ですがどうぞ上がってくださいな。寿美、お茶淹れてくれる?」
「はーい」
寿美と呼ばれた中学生くらいの女の子がパタパタと台所に消えていった。ちらりと不死川を見遣れば小さく頷かれ、靴を脱いで上がらせてもらう。
「お邪魔します」
「どうぞこちらへ」
ちゃぶ台の所に座布団を出され、座って周りを見渡す。かなり年季の入った一軒家。色褪せた畳。片方取っ手の外れた箪笥。ツギハギだらけの襖。壁に貼られた子どもの絵。そこかしこに飾られた家族写真に、柱に横切る背比べの跡。ここで不死川が育ったのか…。自分の実家とはまるで違う家が新鮮で、失礼とは思いつつもついじっと見てしまう。お世辞にも広いとも綺麗とも言えないが、ひどく温かみを感じた。なんか良いな。こういうの。
「お茶…どうぞ」
「お。ありがとな寿美ちゃん」
「……ッ!」
目の前にコトリと音を立てて湯呑みが置かれ意識を戻す。にっこり笑って礼を言うと顔を真っ赤にして玄弥の後ろに隠れちまった。不死川と同じで恥ずかしがりらしい。
「それで、今日は一体どういったご用件でしょう」
ごくり。不死川の母親がそう言うと、隣の男が息を呑んだ音が聞こえた。待ち合わせの時からずっと心音が速いから、相当緊張しているらしい。
「実は実弥さんとルームシェアをさせていただきたいと思いまして。今日はそのご報告に」
「……ルームシェア…ですか?ですがご迷惑では…」
「とんでもない。恥ずかしながら俺は家事が苦手なのでその方が助かりますし、仕事面でも色々都合がいいので。な?」
「お…おォ」
同意を求めて不死川を見遣れば、微かに肩を揺らして頷く。別に結婚の挨拶じゃねぇんだからそんなに緊張しなくてもいいのに。思わず漏れそうになった笑いを飲み込み、なんとか内に留めた。
「…そういうことでしたら。この子はよく無理をするから一人暮らしは心配で。でも宇髄さんが一緒なら大丈夫そうね。お母ちゃん安心したわ」
不死川に向けられた優しい微笑み。我が子を想う母の顔。あぁ、きっと大切に育てられてきたんだろうな。心がじわりと温かくなると共に、羨望と嫉妬が入り混じる。いいな…俺もこういう家に生まれたかった。
「……お?」
そんなどうにもならないことを考えつつちょっとセンチメンタルな気分に浸っていると、くいくいと服を引っ張られる感覚に後ろを振り向く。一際チビっこい小学校に上がったかどうかくらいの子どもが小さい手で懸命に俺のスーツを引っ張っていた。
「おはなしおわったぁ?ねぇあそぼ」
「しゅ…就也!」
玄弥が慌てた様子で黙らせようとする。やっぱコイツが就也か。クリスマスにサンタさん来るまで起きてるって言って不死川を困らせたっていう…想像したらちょっとおもしろくなってきたな。俺もそのシーン見たかった。
「いいぜ。何する?」
「トランプー」
「手加減しねぇぞ。負けても泣くなよな」
「しゅーやなかないもん」
「言ったな?おし。勝負だ就也!」
脇の下に手を入れて高く持ち上げてやるとキャッキャと愉しげな声を出す。そんな俺達を見て不死川の母親が「あら良かったわね就也」とにこやかに微笑んだ。
玄弥や他の弟妹達も巻き込んでのトランプ大会。不死川は母親と一緒に夕飯の支度をしているようだ。ババ抜き。七並べ。ポーカー。俺は子どもが相手だろうが容赦はしない。
「うわーまた負けた」
「強すぎですよ宇髄先生…」
「俺様に勝とうなんざ10年早ぇんだよ」
手加減しないとは言ったものの、ちっとばかしやり過ぎたかもしれない。そう思いちらりと就也を見遣ると、すごーい!と目を輝かせていたからほっと胸を撫で下ろす。良かった。さすがに不死川の弟ギャン泣きさせたらヤベェもんな。
「ほら、飯できたぞォ。片付けろォ」
「はーい」
「あ、じゃあ俺はそろそろ」
不死川は三が日まで実家で過ごす予定だから今日は俺一人で帰る予定だ。不死川がリビングにやってきたのを合図に立ち上がろうとすると、料理を運んできた不死川の母親に呼び止められた。
「あら。折角いらしたんですから食べてってくださいな。大したものは無いですけど」
「いえ、長居してしまいすいません。失礼します」
「いっしょにたべよ。おいしいよ」
「…へ?」
視線を下に向ければ首を懸命に上に向けた就也と目が合って、さすがに対応に困る。助けを求めて不死川に視線を移すと母親がくすりと笑った。
「この子もこう言ってますから。ね?」
「………はぁ」
結局なぜかやたらと懐かれた就也を膝に乗せたまま夕飯をご馳走になることになったが、出されたものはどれももれなく美味かった。不死川の作るメシと味が似てる。まぁ不死川のメシが母親に似てんのか。おふくろの味ってやつなんだろう。最後に俺が持ってきた焼き菓子を一緒に食って、出されたお茶で身体が温まったところで立ち上がった。
「今度こそ失礼します。ご馳走様でした。メチャクチャ美味かったです」
「お口に合ったみたいで良かったです。またいつでもいらしてくださいね」
「はい」
靴を履き、口々にさようなら。と言って玄関先で手を振る弟妹達に軽く手を上げて応える。俺のズボンを不満げに握りしめる就也には、屈んで「またな」と言って頭を撫でてやると笑顔に戻って小さい手を振ってきた。
「じゃあまたな。不死川」
「おォ。駅までの道わかるかァ?」
「何しよるの実弥。あんたも宇髄さんと一緒に帰りんさい」
「「……は?」」
思わずハモった。不死川も事態が飲み込めていないようで、デカい瞳をパチパチと瞬かせて呆然と母親を見つめている。しかしそんなことはまるでお構い無しで不死川の母親が続けた。
「先生はなかなかお休み取れんのじゃろ?お正月休みの間に早う引越し済ませてしまいんさい。玄弥。実弥のコートと荷物持ってきて」
「え?あ…うん!」
パタパタと音を立てて玄弥がリビングの向こうに消えていき、戻ってきて未だ固まったままの不死川にコートを着せた。足元に見慣れたバッグも置かれる。ぼんやりとその様子を眺めていたら急に「宇髄さん」と呼ばれて肩が跳ねた。
「実弥は優しい子です。でも頑固で不器用な所があって、時には他人のために自分が悪者にさえなろうとする。そんな所が親としてとても心配なんです。どうか支えてやってください。実弥のこと、よろしくお願いしますね」
手を取られ、ぎゅっと両手で握り込まれる。マニキュアも塗られていない、所々マメのあるひび割れた手。きっとこの寒さの中、家族のために毎日冷たい水で米を研ぎ、洗濯をしているのだろう。そういう手だった。小さいのに温かくて、優しさの中に凛とした音を感じる。あぁ、この人にはきっとバレてるんだろう。俺達がどういう関係なのか。わかっていて何も言わずに受け入れてくれているんだ。唐突にそう理解した。
「…ホント危なっかしくて、見てるこっちがハラハラしますよね。もちろんです。お任せください」
「ありがとうございます。ほいじゃまたね。実弥」
「……うん」
「身体壊さんように気ぃつけてよ」
そっと頬に触れる手に、不死川が息を詰める。「おふくろもなァ」となんとかそれだけ絞り出して、外に出た不死川に続いた。手を振り返しながら、パタンとドアが閉まる。クリスマスに続いてまたやってきた寒波に、吐き出す息が白く色付いた。日中も気温が上がらず、建物の陰になって日当たりの悪い場所にはまだ霜柱が残っている。辺りに人の姿は無く、無言で歩き出した不死川の横に並ぶとサクサクと霜柱が割れる音が澄んだ空気の中に響いた。
「良い家族だな」
「……ん」
ず、と微かに鼻を啜る音が聞こえる。わしゃわしゃと柔らかな髪を掻き混ぜてやると、不死川が白い息を吐き出しながら口を開いた。
「一緒に飯作ってる時、就也達と遊ぶお前見て『息子が増えたみたいでうれしい』ってェ…おふくろが」
「………ぇ?」
「そんでとっとと一緒に住めってんだもんなァ。敵わねェよ。全部お見通しっつーこったろォ?」
おふくろに隠し事はできねェな。そう言って笑った不死川の横顔は寒さのためか照れのためか、街灯に照らされて仄かに赤く染まっているのが見えて。それがひどく綺麗だと思った。
「なぁ。うち来る?」
正月は一人寂しく過ごすと思っていたから完全に想定外ではあったものの、これは嬉しい誤算というやつで。不死川が引越しの準備をしなきゃいけないのはわかっているが、今日は一緒に過ごしたい。そう思い不死川の手を取れば、そっと握り返される。不死川の口は閉ざされたままで返事は無い。でも握り返された手と下から見上げてくるアメジストが口ほどに物を言っていて、不死川を連れて家に帰った。
結局一緒に新年を迎えて、昼頃不死川は帰っていった。引越しの準備を手伝おうかと申し出たが、物が少ないから大丈夫だと断られる。気を遣っているだけかと思ったが、次の日には終わったという連絡が入った。さすがに早すぎだろうと思ったがテレビ電話で家を見せてもらうと本当に部屋は空っぽで、ベッドや電化製品はリサイクルショップに売るという。荷物が少ないため業者には頼まず、知り合いに軽トラを借りて俺が運ぶことにした。
「悪ィな運んでもらっちまってェ」
「こんくらいお安い御用だって」
3日の朝不死川の家に行き、二人で洗濯機やら冷蔵庫を軽トラに乗せる。どれも単身者用の小さいやつだし、俺も不死川も力があるから大して苦じゃなかった。車を走らせてリサイクルショップに持って行くと、俺が思っていたより買い取り額が随分安くて驚く。だが不死川は元々が安物だし、粗大ゴミに出すと金を取られるから十分だと満足そうだった。
不死川の家に戻り、今度はダンボールを乗せて俺の家に向かう。部屋を引き払うのはもう少し先のようで、粗方掃除は済ませたがまた時間のある時に行って最後の掃除をすると言っていた。家に着いて不死川とダンボールを降ろし、軽トラを返して戻ると荷解きをしている不死川の傍に懐かしい物を見つけて思わず手に取る。
「コレ…持っててくれたんだ?」
「…捨てたとでも思ったかよォ」
イルカのキャラクターの描かれたタオル。初めてのデートで水族館に行って、最前列でイルカショーを見ていたらド派手に上がった水飛沫に二人してずぶ濡れになった。一瞬何が起こったかわからず硬直した後互いに顔を見合わせて爆笑して、売店で買ったタオルで俺は不死川を、不死川は俺を拭き合った。そんな思い出のタオル。
うちにも同じ物があるが、あれから使わずに大事にしまってある。もしかしたら、あの後妹にでもあげちまったんじゃねぇかと思ってた。俺が持ってればそれでいいかと思ってたけど、不死川もちゃんと持っていてくれたことがうれしくてつい口元が緩む。
「へへ。なぁ今日一緒に風呂入ろ。んでコレで拭きっこしようぜ♡」
「拭きっこって…幾つだテメェはァ。まぁいいけどよ…」
「やった♡さねみチャン大好き!」
頬を赤く染め、目を逸らした顔を顎を捕らえて持ち上げる。そのままゆっくりと近づいていくとアメジストがゆらゆらと揺れ、観念したようにぎゅっと瞼が閉じられるのが愛しくて何度も口付けた。結局それだけじゃ足りなくてベッドに連れ込むと、荷解きがまだ終わってねェ。とか口では言うものの素直な身体にまた口を塞ぐ。壊れないように自分と不死川の腕時計を外してそっとベッドボードに並べた。
◇◇
朝起きて、隣にある温もりに毎日幸せを噛みしめる。一緒にメシを食って風呂に入り、交わされる言葉。おやすみ。おはよう。ただいま。おかえり。不死川が家にいることに少しずつ慣れてきた頃新学期が始まった。教師である俺達は新学期前から出勤しているが、やはり生徒がいるとなると全然違う。今日は始業式だけだが明日からは授業が始まる。正月ボケも程々にして気合い入れねぇとな。
「あ、いた。宇髄先生」
「おう。どうした竈門?」
始業式が終わり、美術準備室で作業中。ホームルームを終えたのか竈門炭治郎がやってきた。俺はコイツの担任でもなければ顧問でもない。もう生徒は帰る時間のはずだが一体何の用だと尋ねれば、その手に見慣れた物が握られていることに気づく。
「これ、昇降口の近くに置き忘れてましたよ。宇髄先生のですよね?」
「…おぉ。悪ぃ悪ぃ!ありがとな」
額に手をやるといつもあるべきものが無い。竈門が手にしていたのは紛れもなく俺に彩りを添える額当てだった。そういえばちょっと髪を整えようとしてそのまま置きっぱなしにしてたな。記憶を辿り、そう思い至って額当てを受け取る。では俺はこれで。そう言って出て行こうとする竈門と、ちょうど入ってきた不死川がぶつかりそうになった。
「す、すいません!」
「おー悪ィな。平気かァ?」
「はい。だいじょ…あれ?不死川先生…宇髄先生と同じシャンプーの匂いがします」
「………は?」
クンクンと鼻を鳴らし、「りんごの良い匂い」と続けた竈門に不死川が硬直する。あぁ、そういやコイツやたらと鼻が良いんだったか。俺の使っているシャンプーは美容院で買った特殊なやつで、市販はされていない。たまたま同じシャンプーを使っているというのは苦しい言い訳だ。今までは不死川が泊まるのが週末だったから気づかれなかったんだろう。ちらりと不死川を盗み見る。なんだかんだ素直なこの男は嘘をつくのが下手だ。ここは俺様の出番だな。未だ硬直したままの不死川の代わりに、上手く誤魔化してやることにした。
「昨日俺んちで宅飲みしてさ。不死川泊まってったからだろ」
「あぁ!それでですか」
竈門がポンと手を叩く。どうやら上手くいったらしい。
「お二人は仲が良いんですね。あ、腕時計もお揃いなんですか?」
「あぁコレ?最近流行ってんだぜ。イカしてるだ…ろ?」
腕時計のことも上手く誤魔化そうと口を開いたその時、ポスンと胸に柔らかい衝撃を受けて視線を下に向ける。視界に入ったのは淡いピンクのモフモフで、もはや見慣れたそれが不死川の頭だと理解した。しかし状況が理解できない。
「不死川?どうし…」
どうした。そう聞こうとした時、真っ赤になった耳が見えてドクリと心臓が高鳴る。俺の胸に顔を埋め、その顔を隠すように顔の横でパーカーを握りしめているため不死川の顔は見えなかった。でもその仕草は明らかに恥ずかしさを示していて。もしかして、竈門に指摘されて俺と同じ匂いなの意識したからそんな風になってんの?何それかわいすぎなんだけど。どちらのものとも知れぬドクドクとうるさい心臓の音が、腕時計の秒針を刻む音を掻き消す。
「あ!貧血?コイツ貧血持ちなんだよ。ちょっと保健室連れてくわ」
竈門に不死川の赤くなった耳を見られないよう、腕で抱きしめて隠した。
「え大変だ…俺珠世先生呼んできます!」
「いい!俺が連れてくから。お前はもう帰れ。な?」
「でも…」
心配そうに眉を下げる竈門に大丈夫だからと声を掛ければ、不死川もコクコクと頭を縦に振る。その様子を見て失礼します…。とやや不満げに出て行った竈門にようやく安堵の息を吐いた。力無くしゃがみこむ不死川と共に膝を折り曲げる。
「…さねみチャン。顔上げて?」
びくりと肩が震え、おずおずと顔を上げると恥ずかしさのためか薄らと透明な膜を張ったアメジストが姿を現した。その顔は耳と同じく茹でダコのように赤く染まっている。
「……ふはッ。こりゃシャンプー買って帰らねぇとな」
溜息をつき、不死川の髪に鼻を埋める。俺この匂い好きなんだけどな。残念だが不死川には違うシャンプーを使ってもらうことにしよう。俺と同じ匂いは週末だけのお楽しみ。そんなことを考えながら、金曜の夜までお預けのりんごの香りをめいっぱい吸い込んだ。