舞台裏のカーテンコール 演劇の舞台上。開演にはまだ遠く、照明も未だその光を灯すことはない。自分以外の役者も、それぞれの部屋で思い思いの時間を過ごしている。
そんな早すぎる時間に、わたしは本番前の緊張を舞台に上がって解していた。
「………」
台上から観客席を見つめて深く、長く、息をする。しかし、早まる鼓動は未だ忙しなくて、堪らず慣れた笑みを浮かべてしまう。……そんな時、舞台袖から自身の名を呼ぶ声があった。
「これ、何枚か撮らせてほしいんだけど、いいかな」
聞き覚えのある声を聞いて、とくんと落ち着いた音を奏でる鼓動。振り向けば思った通りの人物がいて、彼の方に歩みを進めると一世代以上昔の写真機がその手握られていることに気がついた。
「無粋かなとは思うけど、偶には舞台裏の表情も残しておいてもいいかなって」
照れ臭くも申し訳なさそうに笑う彼は、劇団の中でもとても良い人柄で知られている。誰に対しても優しく真摯で、なのに筋が通らないと思ったことにはしっかりと反論ができる。だからその思考は頑なではなく柔軟性に富んでいて、わたしとは違って人の感情に素直に共感できる優しい人だ。
そんな彼だが、今回の公演では残念ながら表舞台に立つことはない。しかし、それでもと意見出しと裏方仕事に懸命に回ってくれていた。曲者が多いこの劇団がこんなにも円滑に進んでいる一つの要因には、間違いなく彼の温かい日差しのようなカリスマ性があったのだろう。
「ううん。わたしは素敵だと思うよ」
そんなふうに日々お世話になってる彼からの提案だ。断ることなんてしたくなかったから、不安そうに尋ねる彼の瞳にぶんぶんと首を振る。すると彼は暗い照明の中でも綺麗に輝く青色で、わたしの気持ちを穏やかに肯定してくれた。
「ありがとう。じゃあこっち、着いてきてくれる?」
「うん」
そんな彼にそっと手を差し出されれば、ほんの少しの躊躇いと共に、手袋に包まれた手でその手を取る。
掴んだ指先は手袋越しだというのにどこか温かく感じて、自分が考えていたよりも尚ずっと緊張していたのだと気がついた。
「?舞台裏で撮るんじゃないの?」
「うーん、撮るならちゃんと君の綺麗な顔を撮りたいから、やっぱりこっちがいいな」
「そ、そっか……」
言葉の意味を字面のまま受け取ったあと、一歩一歩歩みを進めた先の光に気がつくと、自身が一瞬でもとても恥ずかしい勘違いをしたことに死にたくなる。頬に熱が集まり、手袋越しでも手汗が彼に気づかれないか心配になる。
だが一方で、頬の赤みだけは暗闇の中ではきっと気づかれない。そんな仕方のない逃げ道が、わたしの心を少しだけ安心させてくれた。
「どんな表情にしよっか」
光に手を伸ばすように舞台下の明るい部分に出る一歩前で、わたしが一度立ち止まる。すると、彼は一度手を離し、楽しげに写真機の用意をしながら囁いた。
「あなたが決めてよ」
「うーん……じゃあ、君の笑顔を見せて」
その彼の呑気な横顔に(完全に自業自得で)振り回されてばかりの自分が少しだけ可哀想に思えて、思わず拗ねたように言葉を返してしまう。
けれど彼は、何故か時折自分にだけ見せてくれる意地悪そうな笑顔でそう言ってくるものだから、わたしとしては怪訝な視線を返す他なかった。
「舞台上の君の笑顔もとても素敵だけど、俺はもっと、君のいろんな表情が知りたいんだ」
正直彼の言いたいことは、よくわからなかった。だって舞台上での表情も舞台裏での表情も、わたしにとっては全て同じ、他人が求めるものをただ取り繕ったものだ。
しかしそうは言っても、私は役者の端くれだ。三流ではあっても、そこにはたくさんの感情を込めたし、彼らにはそれを殊更綺麗に見て欲しくて頑張ってきた自覚もある。
だというのに、彼は一体今更わたしになにを求めているんだろう?
「ね、笑って」
――どんなふうに?
「楽しい記憶を思い出して」
――こんなふう?
「ううん、それは見たことある」
――じゃあ、こう?
「それもあるかな」
――……わかんない。どうすればいいの?
「おいで」
役者として、あの人の弟子として、それなりに求められているものを演じてきた自負はあったのに、彼の願いには全く答えられる気がしなくて潔く白旗をあげる。
しかし、こうして役者としてのプライドを丸々放り投げているというのに、何故か自分の胸は悔しくも寂しくもなくて、穏やかな声音に促されるまま、彼に手を引かれて照明の下へ連れ出された。
「君はすごいね」
「なにが?」
ばっと眩い光に照らされて一瞬視界が眩む。無意識に閉じた視界は真っ暗で、彼の温かな指先は、いつの間にか手の届くところにはどこにもなかった。
「だって、最後なのに堂々としてる」
最後、というのはおそらく次の公演のこと。わたしが主役を演じられる、最初にして最後の演目。
竜巻に巻き込まれた小さな女の子が、仲間を得て魔女を撃ち倒し、故郷に帰る――そんな物語の主役。
「俺はその仲間にもなれなかったから、本当はとっても寂しかったんだ」
「……うん」
「でも、それで良かったんだろうね。だって多分、そこにいたら余計なものまで渡してしまうから」
ほんの一瞬の眩さから解放されると、目の前にはやはり綺麗な青空の瞳がある。
しかしその瞳は、言葉通りに寂しさを抱えつつも、さっきよりも尚一層穏やかに細められていて。
「今までありがとう。君がいてくれて、本当に良かった」
するとどうしてか、なんてこともないその視線と感謝の言葉に、わたしの瞳は勝手に熱いもので満たされていく。
やがてほろりと一筋流れ出したそれは、いつもだったら簡単に押し留められそうなのに、今だけは緩やかに溢れ出しては止まらない。
このままでは折角施してもらった化粧が落ちてしまうし、何より彼の前で見せる自分がこんなのなんて、恥ずかしくて堪らない。
「ううん……こちらこそ、ありがとう。リツカ」
けれど、ここで本当に視線を逸らしてしまったら、彼がたくさんの感情を使って伝えてくれた感謝すら蔑ろにしてしまいそうに思えて。
だからせめてと、目の前の美しいそれだけをまっすぐに見つめて、言葉を続ける。
「わたし、初めてだったの。他人の為、じゃない。自分の為、でもない。なのに心底から頑張ろうとしてる人に出会えたことが」
一つ一つ言葉を発するたびに、あぁ、こういうことかと自然と納得する。彼が求めていたものも、わたしがやろうとしていることも、結局最後までよく分からなかったけれど――
「あなたたちと居られて、本当に、とっても楽しかったの」
真っ直ぐ見つめる青い色の瞳の中に、星のような煌めきが映る度――こうしてあなたと笑えていることが、何よりも嬉しかったのだ。
▽ ▽ ▽ ▽ ▽
入場を終える最後のブザーが鳴らされてから、一体どれほどの時間が経ったろうか。
観客席には多くの観客が入っており、音は無くとも開幕を待ち望む人々の熱気を、厚いカーテン越しに感じ取れた。
「―――」
開演前の熱気をこうして感じる機会はこれでもう何度目になるかもわからないのに、不思議といつまでも慣れることはないし、当然緊張だって解けない。
そもこうして始めた演劇だって、生きていく上での自然な流れに身を任せた結果であって、本来わたしには向いていないように思うし、
――誰かの人生を演じるなんてそんな大それたこと、とても気が重くてやってられないのだ。
「あれ……」
だが、何故か今日この時だけは、身体の重みも、喉の引き攣りも、生き急ぐように早まる鼓動も、何もかもがゆったりと感じられて。
「まぁ最後、だもんね」
いつものようにスイッチを切り替える準備をする。自我を殺し、精神を薄め、あらすじに記された違う誰かを演じるために心を透明に――いや、たくさんの色が詰まった心をスパイスに、違う誰かを演じるのだ。
そして劇場に喝采が響くまでそれを演じ通して、――今回ばかりは、きっともう、後にはなにも残らない。
「でも、別にもういいかな」
今回の公演は、恐らくここにいる面々なら誰でもどんな役でも形を成せるぐらいに、素晴らしい役者達が揃っている。別に卑下するつもりもないが、その中ではわたしの存在なんて、本当にいても居なくても変わらないものだ。
だがそれでも、この役を求め、その通りに任された意味を、わたしは果たしたい。
「―――」
そんな自分勝手な決意を改めていると、いよいよ開演本番のブザーが鳴る。ゆったりと豪奢な幕が上がり、それが登り切ったとき、わたしの最初で最後の物語が始まる。
そんな中でわたしは一人、照らされた台上からその登っていく幕を見上げる。頭上のライトから眩く照らされる光の下では、その幕を最後まで見届けることは出来ないが――その時のわたしの胸中を占めていたのは、擦り切れるほど読み込んだ台本の台詞でも、一片の失敗の許されない大舞台への緊張感でもなく。
「行こう」
長いようで短かった役者人生を走馬灯のように振り返って、ただ『満更でもなかった』と自身の身を放り出したのだ。
▽ ▽ ▽ ▽ ▽
「………は、ぁ」
演劇の舞台裏。見慣れた小さい背中を追いかけるように、浅かったのかも深かったのかもわからない微睡から目を覚ます。さまざまな小道具に囲まれ、身動きするのすら難しいような狭い空間の中で上体を起こすと、硬い床で凝り固まった身体がバキバキと音を立てた。
「……これ」
起き抜けの頭でくるくると周囲を見渡そうとすると、一枚の見覚えのある意匠が施された厚い毛布が、はらりと上体から捲れ落ちていた。
「あ、おはよう、リツカ」
「っ……お、おはよう、アルトリア」
手元にその毛布を手繰り寄せ、その持ち主の温さを思い出した矢先、不意に声をかけられる。とくん、と一つ早まる鼓動に急かされてその声の方向へ振り向けば、正に脳裏に浮かんだ少女がいた。
「これ君の、だよね」
「うん。もう、ダメだよ?いくら重要な仕事を任されて張り切ってるからって、特異点に完全な安全なんてないんだから」
確認するように問いかけると、彼女は細く白い指先をぎゅっと握り、その翠玉の瞳に怒りを刻みながら訴えてくる。
だがそれもすぐに穏やかな笑みに変わると、自分が起き上がる為にその手を伸ばしてくれた。
「もうみんな集まっちゃってるよ」
「……」
「リツカ?」
未だ照明の少ない舞台裏の暗がりの中、間近で見える彼女の白い指先はあまりにもはっきり見えて、少ない光をきらきらと反射させる金の髪と翠玉の瞳は、とても眩しく思えて。
観客席から見た時あんなにも遠かったように思えた笑顔がこんなにも近くにあって、思わずその手を取るふりをして同じ場所に引き摺り込んだ。
「わ、ちょ、ちょっと!?」
「少し、温まるから待って……」
「ひ、ひとでいきなり暖をとるなぁ!?」
寒い空間で夜通し寝たことを言い訳にして、そんな衝動に抗うことなく彼女の小さな身体を抱き寄せる。
夢の中であんなにも大胆に他人を演じていたのに、腕の中に閉じ込めた彼女の身体は柔く温かくて、その感触にとても安心できた。
――とく、とく。
と、その一方で、自分の胸中などとは反対に、腕の中の彼女はもう見慣れてしまった赤い顔で、その鼓動だけを速めていた。
「……ごめん、びっくりさせちゃったよね」
「きゅ、急に冷静にならないでよ……」
自身の鼓動が落ち着いてくると、尚更彼女の様子が気になって、名残惜しくも彼女を解放する。
しかし、彼女はそのまま自身の背中に手を回し、胸に額を預けたまま――直に感じるその音に『どうしたの』と、視線を投げてきた。
「……ちょっと、怖い夢を見ちゃって」
その色にほんの少しだけ躊躇いを覚えるが、あの時甘えられなかった分、潔くもう一度彼女を抱き止める。すると、彼女は変わらず頰を赤くしながらも、回した腕に一層力を込めて、こつんと額を合わせてくれた。
そしてその隙に一瞬見えた表情には、あの登っていく幕を一人見上げていた時のような、ただ優しい笑みが浮かべられていて――
「でも、もう大丈夫」
「……ほんと?」
「……嘘。あと三分はこうしてたいかな」
再びとても身近に感じる彼女の存在に、既に落ち着きを取り戻した胸の内で強がりを言う。だが、そんなことは目の前の彼女の瞳の前では全くの意味を為さなくて、これまた潔く白旗をあげた。
「うん。あと三分だけ、ね?」
くすくすと笑ってもう一度胸の中に潜り込んでくる彼女は、やっぱりとてもどうしようもなく愛おしくて――あの時に無理矢理にでも手を引っ張れば、彼女はこうして自分の近くに留まってくれたのだろうかと、そんな益体もない想いがこぼれ落ちる。
「そしたら、みんなのところ行こう?」
「―――」
「リツカ」
「……二人で、行こう」
そんな思考を見透かすような有無を言わせぬ彼女の声音に、一つだけ深いため息を吐いて、その背中をより強く引き寄せる。
すると彼女の細い指先は、聞き分けのない友人を宥めるように頭を撫でて、言い聞かせるように囁いた。
「……今だけ、だよ」
ぽつりと囁かれたその言葉にこくりと頷く。この旅の間だけはもう手放さないように、今日の分もこれからの分も、このあたたかさを抱きしめていようと、そう思った。