きみとあなたの我儘な恋心⑨ 自分の気持ちを自覚してからというもの――スレッタは己の状況を再認識して、すっかり混乱していました。
まず、好きな人と同じ部屋で寝泊まりしています。寝間着姿も何度見せたことか。おまけに、洗面所には、エランの歯ブラシの隣に自分のものが並んでいるのです。
頼れる先輩と同室であることに浮かれていましたが、好きな人となれば話は別。二人の生活はほぼほぼ同棲しているようなものです。
しかも――先日は添い寝までしてもらいました。
「ひゃあああ……」
休日はとても幸せなぽやぽやした気分で一日過ごしていましたが、一夜を経ると落ち着いてくるもの。
翌日の登校日、洗面所に立ったスレッタは恥ずかしさのあまり顔を覆って蹲ってしまいました。お互いの距離の近さをようやく意識したのです。
おまけに、頭を抱えさせる本人はいつも通りの対応をしてくるから困ったものです。
顔を覆って蹲っていると、声が上から降ってきました。
「どうかしたの? スレッタ・マーキュリー」
「ひょ!??」
驚いて顔を上げると、オリーブ色の長い髪の向こうでイエローグリーンの瞳が不思議そうに見下ろしています。
「そこ、退いてくれる?」
その一言は、エランのことで頭がいっぱいだったスレッタを我に返らせるには充分でした。
今座り込んでいるのは洗面台の前。ここに居座られると他の人が使えなくなり、傍から見ても邪魔していました。
「あわわ、あの、あのあの――ご、ごめんなさい〜〜!!」
ただでさえ目も合わせられないのに、邪魔したどころかみっともない姿を見られてしまってますます真っ赤になったスレッタは、慌てて洗面台からどきました。そのままの勢いで脱兎の如く鞄を掴んで寮室を飛び出します。
一人残されたエランは、少女が立ち去った跡を静かな眼差しで見つめていました。
いつもより早く登校し、人気の少ない教室でぼんやりしていると、動転した気持ちも少しずつ落ち着いてきました。
ほっと安堵してくると、浮かび上がってきた疑問があります。エランは、自分のことをどう思っているのでしょうか。
(今は嫌らわれていない、と思う。むしろ、優しくて親切――)
しかし、その好意が必ずしも恋愛的な意味であるとは限りません。
いつも落ち着いていて、変わらない平常心。スレッタのように意識して気持ちが乱れる様子もありません。もしかしたら友情、親愛という好意なのかもしれませんが、いつか恋愛の好意に変わる可能性も秘めています。
もっと知りたい、その先で関係が変わることを期待したい反面、踏み込むことで望んでいない方向へ変わる可能性もあります。ですが、スレッタの中に、このままでもいいかもしれないという思いがあるのも事実でした。
(私はどうなりたいんだろう……エランさんと)
もっと仲良くなりたい。でも踏み込んで嫌われたくない。ならこのままでもいい。どれも偽りのない本心です。
先日の仲直り、今回の己の気持ちと、周囲との関係にずっと頭を悩ませている気がしてなりません。
(少女漫画のヒロインも、こんな風に悩んでたっけ)
故郷で読み耽った作品を思い返しても、自分のように一つ一つ小さなことまで気にしていなかったように思います。手探り状態なのは、動物ゆえなのか、他人と接するのが初めてだからなのか。理由は分かりません。
机に突っ伏して、頬から伝わる冷たさを感じながらぼんやりと宙を眺めます。
どうしたいのか、答えは出ませんでした。けれど、今すぐ決めなくてもいいと先送りにできる余裕もあります。
エランの側に自分がいるからです。おそらく、一番。
好きな人の最も近くにいて一番大事にされることは、何物にも代えがたい幸せなのです。愛されたかった両親には、常に姉の二の次だったスレッタにとっては特に。
思い返すと自然と頬が緩んでしまって、両手で押さえて噛み締めます。
けれども、これが初めて抱いた独占欲であること、そして自身のコントロール下ではなく薄氷の上に成り立っていることを、この時のスレッタが気付くことはありませんでした。
仲直りした女学生から昼食に誘われ、食堂に向かいます。
今日のおすすめメニューから選んだソーセージのパスタに、オニオンスープを付けることにしました。朝からバタバタしてしまった為、胃を温めることで一息つけると思ったからです。
職員から食事を受け取って二人で空席を探していると、見慣れた姿がさっと横切りました。
オリーブ色の長い髪を視認して、声を出すよりも早く横から声がかかります。
「エラン先輩! お一人ですか?」
ぴたりと動きを止めて、静謐な瞳が隣の女学生、続いてスレッタを捉えました。
手にはエナジードリンクとプロテインバーが握られています。食堂から出ようとしていたので、外で食べるつもりだったようです。
「せっかくだから一緒に食堂でどうですか。ね?」
エランに声をかけつつもスレッタにウインクを送るところから、気遣ってあえて誘ってくれたのでしょう。
食堂でエランと一緒に食事ができるのは初めてです。しかも友達も一緒で、楽しいはずなのに。
(どう、して……)
もやもやした気持ちが晴れないまま、曖昧に笑い返すことしかできません。
らしくないスレッタの様子が気になるのか、エランはじっと見据えながらこくりと小さく頷きました。
空いていた壁際のテーブルで囲む食事は、浮かない気持ちで迎えました。
女学生が話題を切り出し、エランが適当に相槌を打ちます。スレッタに話題を振ってくれましたが、空虚な返事になってしまいました。
「元気がないけど……体調悪い?」
「い、いえ! 大丈夫です!」
咄嗟に笑ってごまかすも、力ないものになります。
今も、二人の声は右から左へ流れていきました。パスタもスープも味がしません。
居辛い、肩身の狭い気持ちが心の中を渦巻いています。おそらく、自分はここにいたくないのでしょう。ですがなぜなのか、思い当たる理由はありません。
重く垂れこめる曇天の心境を持て余し、上目遣いに様子を伺います。ちょうど、女学生が「あ」と声を上げたところでした。
「以前お借りしていたこれ、お返しします。あの時はご迷惑おかけしました」
「どうも」
懐から取り出して渡そうとしているハンカチに、見覚えがあります。
体にかかった水を拭くようにと、エランが彼女に渡しているのを見ていました。入学式、あの事件の時に――。
「え?」
気づいたときは身を乗り出していました。
そして手に握られた布の感触、呆気に取られて自分を見つめる二人。
「スレッタ?」
戸惑いを隠せない様子で覗き込む女学生に、自分が何をしたのか、ようやく呑み込めてきました。
同時に胸につかえたわだかまりの理由も。
(嫉妬して、ハンカチを奪ったんだ……)
二人の視線が自身を責めているように見えます。
体が一気に冷えていきます。 視界が揺らいで、うまく呼吸ができません。
いよいよここに居られなくなって、椅子を蹴飛ばす勢いで立ち上がり、外へと駆け出しました。
二人と自分の醜さから隠れられる場所を求めて。
ハンカチを握っている限り現実を直視しなければならず、望みはあっさりと砕け散ります。
今も手の中にあることを再確認すると、段差に座り込んで大きく項垂れました。
困らせてしまいました。それどころか怒っているかも。どちらにも謝らなければなりませんが、戻る勇気はありません。
ようやく得た自分の立ち位置が揺るがされる衝撃でした。友人として、想いを秘める相手として、確かに踏み締めていた場所はとても不安定だったのです。
勝手に、エランの側には自分しかいないと思い込んでいました。親しげに会話をするのも、仲を深めるのも。
動揺した挙句に、一方的に感情をぶつけて逃げ出して。自己嫌悪で胸が潰れそうになります。恋する女の子はキラキラしていてずっと憧れていたのに、今あるのは自分本位の汚い感情だけ。
ますます自分に嫌気が刺して暗い顔で塞ぎ込んでいると、背後で草むらを踏む音がしました。
「……見つけた」
声色から誰かは察しましたが、それでも顔を見ずにはいられず、恐る恐る振り返ります。予想通り、オリーブ色の長髪を靡かせた少年が立っていました。
「ひいぃ! わ、私はこれで――」
「待って、行かないで」
のけ反って立ち去ろうとしましたが、手首をしっかり握られて、それ以上動けなくなってしまいました。
促されるままに、元の場所に座らされました。
いたたまれない気持ちで体を揺らすスレッタを、エランはじっと見つめています。
「どうして逃げたの?」
早速出た核心をつく質問に、一気に汗が吹き出ました。尋問されている感覚に緊張が走ります。
「え、ええと……な、何ででしょう。あはは……」
空虚な笑いでは誤魔化すことができず、怪訝そうに眉を顰められました。スレッタの握るハンカチに質問が変わります。
「それ、欲しかった?」
「そういう訳じゃないんです。衝動で、つい……」
品の良い滑らかな生地。皺一つ無く、洗濯して丁寧に整えて返そうとしていたことが窺えます。
「また自分の居場所が無くなる気がして……おかしいですよね、そんな筈ないのに」
自身によくしてくれる二人が仲を深めることで、追い出される筈がない。少し考えれば分かることですが、あの時は確かに恐怖に駆られたのです。
「ご迷惑おかけしてすみません。お返しします」
立ち上がって平身低頭で差し出すも、受け取られることはありませんでした。
「もっと素直になったほうがいい。欲しそうな顔してる」
「え!? な、なんで分かるんですか!?」
びっくりして自分の頬を抓ったり目を擦ったりしますが、よく分かりません。何故わかったのか説明を求めても一笑されるだけでした。
「でも使い古しを人に上げるのは気が引ける。後で新しいのをあげるよ」
「つ、使うわけじゃないので! ――戒めに、します」
「戒め?」
聞き返されて小さく首を縦に振ります。
「ここに来てから、たくさんのことが上手く行かなくて……少しでも反省していかないと、駄目なんです」
エランには色んなことを助けてもらって、仲直りの後押しまでしてもらったのに、当の自分はエランが他の誰かと仲良くすることに嫉妬しました。
恩を仇で返す、やってはいけないことをしたのです。友達が増えていけば、いじめも無くなり学校生活を楽しめるようになるかもしれないのに、妨害するような行為をしてしまいました。
胸に刻み込むように押し抱く彼女から目が逸らされて、唇が僅かに動きます。
「……僕より、遥かに上手くやっていると思うよ」
囁き声よりも小さい吐露は、スレッタの耳には殆ど届きません。
「何か言いましたか?」
「いや……それより、彼女が心配していたから戻ろう。ご飯も食べないと」
差し出された手を掴んで立ち上がると、最初に座り込んだときよりもずっと体が軽くなっていました。自己嫌悪で押し潰されそうになった時の体の重さが嘘のようです。
(エランさんの、おかげだ……)
話を聞いてもらって気持ちが楽になったのです。
この感謝をどう伝えたらいいのか――前を歩く背中にいきなり抱き着いたら、流石の彼もびっくりするでしょうか。
一緒にいたい。
――今だけではなく卒業した後も、これからずっと先も。もしかしたら嫌われるかもしれないですが、それでも自分の気持ちを伝えたい。
けれども、込み上げる想いを胸を抑えて沈めます。
叶えるのは今ではありません。その前に直面しなければならない問題があります。
相手が傷ついているにも関わらず都合が悪いからと目を逸らして付き合うのは、恋人どころか友達とも呼べない。後ろめたい気持ちなど無く、自信を持って隣に並んで手を取りたい。
――逃げれば一つ、進めば二つ。
スレッタは母の言葉を心の中で復唱すると、エランの後を追いかけました。