きみとあなたの我儘な恋心⑪ ――ジリリリリ。
けたたましくこだまする目覚ましの音で、スレッタはゆっくりを目を開きました。
とろんとした瞳で見つめる室内やカーテンの隙間から見える外は、まだ闇に包まれています。朝五時、太陽がまだ登っていない為です。
寝ぼけ眼のまま、慎重な足取りでそろりとベッドから降りました。頭の半分はいまだ眠気で占められており、体を動かしてもふわふわした感覚が抜けません。
昨日は全身びしょ濡れになってくしゃみも出ましたが、今は鼻や喉に異変はなく、幸いにも風邪には至らなかったようです。
隣を覗くと、すでに彼の姿はありませんでした。洗面所の明かりを見るに、自分より先に起き上がっているようです。
(エランさん、洗面所を使ってるんだ……)
霞がかった状況認識は、頭を一気に覚醒させるには充分でした。
「ね、寝癖……!」
ぱっと抑えた髪は、予想通り跳ねている感触がしました。
――いっしょに来てほしいところがあるんだ。
せっかくの休みだからと、昨夜エランに誘われた出発の時刻まですでに余裕はなく。走るようにして洗面所に駆け込みました。
中で歯磨きをしていた少年は、扉の開く音で振り返りました。寝間着姿の彼も眠気が残っているのか、どこかぼんやりした様子です。
「おはよう」
「お、おはよう、ございましゅ!」
お互いの気持ちを伝えあってから初の朝の挨拶なのに、ちっとも感傷に浸ることができません。紙を濡らしてドライヤーを当てて、寝癖を直していきます。
スレッタの慌てようにびっくりしたのでしょう、目を丸くして見つめていました。
「もう少し寝ていてもよかったのに」
「だ、ダメです! 女の子の朝支度は時間がかかるものなので!」
「……ふうん」
不思議そうに頷くと、口をすすいで歯ブラシをコップに立てかけます。
「先に着替えてるね。食堂からもらってきた朝食用のパン、置いておくから」
「あああ、ありがとうございます……!」
部屋に戻ると、朝食だけでなく持っていく荷物も用意してありました。レジャーシート、朝の寒さ対策の防寒具、白湯の入った水筒、軽食――。自分がやるべきことで残っているのは、朝食を済ませて着替えることくらいです。
「ひょ、おおおぉ……あ、ああ、ありがとうございます、何から何まで……」
「気にしないで。僕から誘ったんだから」
とはいえ、至れり尽くせりではないでしょうか。頭を下げて感謝を何度も伝えながら、次に自分から誘った際はお返ししようと決意したのでした。
まだ寝ている生徒が多いため、音を立てないよう静かに寮室を出ました。守衛に挨拶をして、エランと手をつないで向かったのは裏山です。
行く場所は事前に伝えられていなかったものの、スレッタはなんとなく察していました。
一人きりになりたいとき、人知れずどこかに行っている。最初は分かりませんでしたが、察してからは気づいていないふりを貫きました。言いたくないことを無理に聞き出す必要もない、話したくなる時を待つのがお互いにとって最善だろうと思ったからです。
この日がやってきたということは、それだけ心を許してくれた証左でしょう。嬉しくなってつなぐ手の力を強めると、エランはきょとんとした顔で見つめていました。その反応からしても、待っていてよかったと思わずはにかんでしまうほどです。
動物ゆえの身軽さを活かして、険しい道中を難なく越えていきました。荷物についてもお互いに協力しながら、頂上に登ります。
「わあ――」
開けた場所に出た開放感と澄み切った空気の美味しさに、思わず感嘆の声が漏れました。
眼下には、校舎や体育館などが広がっています。普段大きく見える女学校が視界に小さく映っていることからも、随分と高いところまで登ったことを実感できます。
「どうしても、ここできみと日の出を見たかった。間に合ったね」
見上げると、空は白みがかり、夜を橙色が染め始めていました。日の出までもうすぐのようです。
二人でレジャーシートを敷いて腰を下ろし、取り出したブランケットを膝にかけました。温かい飲み物をおなかに入れると、体全体がじんわりと温まっていく感覚がします。
「落ち着いた?」
「はい!」
両手でマグカップを持ったまま下をちらっと見ると、スレッタとエランの間に少しだけある隙間が気になりました。お尻を動かして隙間を埋めると、ぴったりと寄り添う格好になって、恥ずかしくも嬉しい気持ちになります。
すると伸びてきたエランの腕がスレッタの肩を抱き寄せて、さらに密着しました。手に込められた力強さ、体から伝わる暖かさによって、幸福感に満たされます。感謝の意を込めて、重心を傾けると頭をエランの肩に預けました。
(本当に、恋人になったんだ……)
少しずつ、空の橙色が深みを増してきました。
「学校を卒業したら、人間社会で生きていこうと思う」
見上げると、イエローグリーンの瞳が橙色に照らされていました。おそらく自分のブルーの瞳も。まるで二人の黎明が訪れるかのように。
「仕事を探して、家を借りて。君が卒業するまでに準備しておく」
本当はいやだけど、と心底嫌そうに顔をしかめて、前置きしてから続けます。
「困ったらペイル村に行ってみる。あそこを頼るのは癪だけど――縋ってでも掴みたいから。君との未来を」
語るエランを見つめたまま、スレッタは固まっています。ぱちり、ぱちりと二度瞬きをしてからようやく何を言われたか理解して、ぽかんと口を開けました。
答えがないことに、エランは首を傾げます。
「いや?」
の問いかけで、ようやく我を取り戻しました。
「わ、わわわたし、そこまで具体的なこと考えてなくて、卒業してもずっと一緒にいたいなって。でもどうしたら一緒にいられるか、考えたことなくて――」
夢物語のようにふわふわしていた感覚が、地に足のついたものになりつつあります。現実という確かな形が花開いていくよう。
「だ、だだだだ、だからあの、よ――よ、喜んで!」
真っ赤な顔でも、うまく呂律が回らなくても、沸騰しそうなほど心臓が脈打っていても、言葉にしなければならないときがあります。
必死な想いを受け取った少年は、顔をほころばせました。
「うん」
目を閉じて口角を上げた、はっきり笑顔だとわかるほどの表情でした。今までに見たことがない、あどけなさすら感じる破顔の笑顔に思わず見とれます。
(エランさんはこんな風にも笑うんだ。この笑顔にしたのは自分なんだ……)
うぬぼれてもいいかもしれない、とにやけが止まりません。こんなに嬉しいことは家族にも伝えないとと思ったところで、ふと思い出したことがあります。
「わたし、お母さんに恋人できましたって言わないと」
今度出す手紙に書くことがひとつ増えました。そもそも、女学校でなぜ彼氏ができたのかというところから説明しなくてはなりません。順番を間違えると、大変な誤解を招きそうです。
悶々と考え始めるスレッタの横で、そうか、とエランはぽそりと独り言を呟きました。
「ぼくもいつか君のお母さんに言わないといけないのか」
――あなたの娘さんをぼくにくださいって。
「!!???」
スレッタは勢いよくエランの腕をしがみつきました。仰け反る彼に詰め寄りながら、興奮を抑えきれずにまくしたてます。
「そ、そそそ、それはあの、けっこんのも、もうしこみ!?? では!??」
少女漫画の終盤でたまに見かける、相手の実家に行って直接許可をもらいに行く、あの。何ならスーツを着て、叩頭して頼み込む場面を描いた作品すらあります。
「もう一回、もう一回お願いします!」
小さな声ではなく、はっきりと言ってほしい。
無我夢中の彼女のお願いに、エランは含み笑いで応えます。
「その時になったらね」
「えぇーー!」
ショックを受けて残念がる少女と、くすくすと面白がる少年の姿を、ようやく顔を覗かせた朝陽がことほぐように照らし出します。
両親にしろ故郷にしろ、二人ともたくさんのことに目を逸らし、もしくは気づかずに過ごしています。これから先、新たな困難に直面することもあるでしょう。それでも、お互いに手を取り合って乗り越えられるはずです。
彼らはもう、ひとりではないのですから――。
<fin>