タイトル未定 私の身に何が起こったのだろうか。二百年も前の故郷で野犬に襲われて野垂れ死んだはずだったのに、言葉すら通じない異国の地で突然目が覚めた。夜なのに明るすぎる町を心細い思いでさまよい歩いていたら、紆余曲折を経て親切な人、いや高等吸血鬼のドラルクが保護してくれた。更にいろいろあって、今は柔らかいベッドに横たえられ、口髭を蓄えた見目のよい男に覆い被され、唇を彼の唇に塞がれ、口中を舌でまさぐられている。
こんなことは絶対にいけない。押しのけるべきなのはもちろんわかっていた。しかし体に力が入らなくて、私はどうしても抗うことができなかった。それどころか自分から舌を差し出して、彼の舌を舐め返している。唾液なので特に味はしないはずなのだが、何故か甘くて美味だと感じられて、快くてなんだかぼんやりとする。彼は押さえ込むように私の頭を抱えていた。圧迫感はあるのにそれが逆に安心できて、私もつい彼の首に腕を回してしまった。彼はいやがることもなく、私をますます強く抱きしめて深い接吻を続けた。
どれだけの時間が経っただろう。長く交えていた唇を放すと彼は私にこう告げた。
また来るからな、クラージィ。それがいやなら早く私の血を吸いなさい。
私は息も絶え絶えで、まだ私の上に覆い被さっている男をぼんやりと見上げていた。氷笑卿ノースディン。美しい男だ。彼の前髪が顔にかかるほど近い位置からしばらく見とれていたが、また眠気が襲ってきて私はそのまま目を閉じた。眠り始めた私の体を彼は横抱きにして、私の髪や背中を撫でさすりながら同じベッドで一緒に寝てくれた気がする。
目が覚めると、部屋には誰もいなかった。今の私は、ロナルド吸血鬼退治事務所の入っているビルの一室に住まわせてもらっていた。家具は最小限だが野宿に慣れていた私にとっては十分すぎるほどだし、食事は高等吸血鬼のドラルクが上の階からいそいそと運んできてくれる。
この新横浜で目覚めてから、しばらくはドラルクの厚意でヴリンスホテルに宿泊させてもらっていたのだが、ある時氷笑卿ノースディンが直接訪ねてきたので驚いた。私を吸血鬼にした張本人だったとはいえ二百年近く経っていたのに、私のことを覚えてくれていたとは。
その後、ロナルド吸血鬼退治事務所に私も同席し、ドラルクとノースディンの会話を聞かされた。日本語学習を始めたばかりなので、何を言っているのかはほぼ全くわからなかった。
「吸血鬼としての教育をするために、彼を私の屋敷に連れて帰りたいのだが……」
「はあ? 連れて帰る? あんたがスケコマシのくせに人間嫌いなの知ってたんだよ! なのに何でこの人だけ吸血鬼に転化させやがった? ぶっちゃけ心配でしかねえわ! ロリコン、いやショタコン野郎が! 今生で吸血鬼教育するんだったらおポンチ吸血鬼が蔓延るシンヨコが荒療治だが最適なんだよ! 二百年前の正統派吸血鬼なんか今時どこにもいねえぞ? 今までのホテル代払えとは言わんがこのビルの部屋を契約してやるから家賃はてめえが出せや! 家賃八千円だから安いもんだろうが! ヴリンスホテル一泊するより安いわ!」
「家賃が一日ではなく一月八千円!? ちょっと待て、ここ、一応新幹線が止まる駅だろう!? お前なんてとこに住んでるんだ! どう考えても事故物件だ! 今すぐ引っ越せ!」
「るっせーわ! 一度シンヨコに住んでから言えよ!」
彼らがとにかくいがみ合ってることだけは理解できた。私はアルマジロのジョンくんを膝に乗せて、提供された温かい牛乳をすするしかなかった。私と同じソファーに並んで座る人間のロナルドはおろおろしていた。
何が何だかよくわからないまま、数日後に私は新横浜ヴリンスホテルからロナルド吸血鬼退治事務所のあるビルの一室に移動させられた。
売り言葉に買い言葉だったんですが、確かにホテル住まいよりもこっちのほうが断然安いですねえ。私も顔を出しやすくなるしいろいろ持ち込めるし。何か困ったことがあったらすぐ事務所に来てくださいね。誰でも入れますから。不在だったとしてもしばらく待っていてください。できれば必要なものは直接言っていただきたいけれども、そのへんはまあのちほど。急がなくてもいいですよ。
ドラルクは、分厚いカーテンで閉ざされた窓、机に椅子、ベッド、棚などのある部屋に私を通した。棚には私でも読めるルーマニア語の本や、ルーマニア人用の日本語学習本が並んでいた。クローゼットの扉を開けると暖かそうな寝間着が何着も吊されている。エアコンやCDプレーヤーという器具の使い方も教えてくれた。
さすがにここまでしてもらうのは申し訳なかったものの、せっかくの厚意なのだから辞退するほうが失礼だろうと、そろそろ受け入れる余裕ができてきていた。それに、この地で暮らしていくなら日本語の勉強はもちろん必要だ。私はドラルクに教えてもらったとおり、机に置かれたCDプレーヤーという器具の蓋を開け、語学書についていた円盤を中に入れると、ゆっくりとした日本語の発声練習を聞きながら語学書を読みふけった。ドラルクとロナルドもしばしば部屋を訪れては私の日本語学習に付き合ってくれた。
しかし、まだほとんど聞き取れない異国語の音声を流しながら、初心者向けとはいえど文字からして違いすぎる語学書を読んでいると、たちまち眠気が押し寄せてくる。テーブルに突っ伏したり、寝台に倒れ込んだりして、すぐにまどろんでしまう。
うとうとと眠り続けていると、寝台の横に誰かの気配がする。
「……まだ弱っているな。ほら、早く私の血を吸え。」
ノースディンだ。私に被さってシャツをはだけ、首筋を私の口元に近づけていた。ああ、おいしそうだ。誘われるまま彼の首に口を寄せたが、吸血鬼としてこの新横浜で目覚めた時に得ていた牙を突き立てることはできなかった。しかし誘惑には勝てなくて、血が出ない程度にかぷかぷと甘噛みを続けてしまう。
ふふ、くすぐったいぞ。そう囁いて、彼は笑いながら私の頬に頬を寄せた。
人間から吸血鬼に転化させられた者は、吸血した相手と擬似的な親子関係を結ぶことになり、親の血を摂取しなければその関係は解消されない。私と再会したノースディンは、真っ先にそう説明し、シャツのボタンを外した。だが元人間であり聖職者だった私は、どうしても生き血を口にできなかった。
ノースディンの指先にいくつかの切り傷が見える。ドラルクが定期的に持ってきてくれる温かい牛乳だが、時折飲めないことがある。おそらくは、ノースディンが自分の血を牛乳に数滴垂らしているのだろう。私を吸血鬼にした彼の厚意であるのはわかるのだが、私にはとても飲めない。
ドラルクが差し入れてくれる牛乳やクラムチャウダーなどで日々をまかなっていたが、やはり栄養が足りなかったらしい。この現代に吸血鬼として甦った私は、いつまでも痩せ細ったままだった。
僅かではあるが血の匂いのする牛乳のカップをそっと押しのけた。ノースディンは溜息をついた。
「……仕方がないな。」
ノースディンは寝台に座っていた私の前に屈み込み、両手で私の顔を挟み込んだ。
「血液には劣るが、少しは糧となるだろう。」
そう言って、ノースディンは顔を近づけて私の唇に唇を重ねようとした。
待ってくれ。口と口を合わせる接吻など経験がない。私も彼の顔に手をあてがって押しのけようとはしたが、吐息が触れ合う距離でノースディンは言った。
「こら、暴れるんじゃない。」
ふっと全身から力が抜けた。もしかして、この男はチャームを私に使ったのだろうか。彼の言葉に私は抗えなかった。動けなくなった私は唇を塞がれてしまう。せめてもの抵抗で口を固く結んではみたが、ほんの少しだけ顔を離すとノースディンは囁いた。
「口を開けなさい。」
駄目だ。彼の甘い声が耳から溶け込んでくるようで、従わずにはいられなかった。恐る恐る口を開くと、舌を差し入れられた。
吸血鬼として今生に生まれ変わってから、口に入れたのはドラルクが持ってきてくれる牛乳や具の少ないクラムチャウダー、固形物も試してみましょうと言って差し入れられる粥、紅茶程度だった。
しかし口中に差し入れられた舌から伝わる彼の唾液が、これまでに口にした何よりもおいしいと感じてしまった。味などさしてしないはずなのに。私はどうしてしまったのか?
はしたないとは思ったが、自分から彼の首に腕を絡めてしまう。すると彼は、そのまま私をベッドに押し倒して、接吻を更に深めた。
彼は私の唇に唇をこすりつけ、差し入れた舌で私の口中をくすぐるように舐めて、舌を絡めた。気持ちがいい。とてもおいしい。私も夢中で彼の舌を吸い、唾液を味わいながら喉を鳴らす。
女性ともしたことがなかった深い接吻に頭の芯がぼうっとしてしまった。もう何も考えられなかった。
「少しは腹が満ちたか?」
ノースディンが顔を上げた。唇と唇のあいだに唾液の糸が引く。私達をつなぎ止めようとするかのようだ。意識がもうろうとしながらも、彼の首に回した腕をほどくことができず、さらさらと指通りのいい髪をついいじってしまう。そんな私を見下ろしながら彼は笑って、ベッドに横たえられた私を抱きかかえた。氷笑卿との二つ名を持つ彼の体は、今や冷たく冷え切った私には温かく感じられた。
吸血鬼は住人に招かれないと他者の家には入れない。今の時代では年若ければこの古風なしきたりに縛られない者もいるようだが、ノースディンを含む古い血の面々はおそらく全員が該当するだろう。いや、話にだけ聞いた竜の一族の祖である御真祖様なら、一切かまわず敷居をまたげそうな気もする。
新横浜ヴリンスホテルからロナルド吸血鬼退治事務所の階下の部屋に移された時、ドラルクは私に鍵を一本だけ与えた。
「もう一本は私が預かっておきますね。とはいえ無断で入ったりはしませんからご安心ください。あ、クソヒゲヒゲを招き入れちゃ駄目ですよ!? あいつ絶対通ってきますからね!」
ドラルクにはそう釘を刺されたが、新しい部屋で日本語の勉強をしていたら、ドアの外から呼び鈴が鳴った。インターフォンというらしい。二度三度と鳴らされる。
ドアに近づき、ダレデスカ?とおぼつかない日本語で訊ねる。
「クラージィ、開けてくれ。」
ノースディンの声だった。勝手に手が動いて、私は迷うことなくドアを開けてしまった。戸口の前に立つ彼の端正な顔立ちを見るだけで、何故か非常に心が落ち着く。ノースディンを招き入れるな、というドラルクの指示を覚えてはいたのだが、自然に口から言葉が出た。
「どうぞ、入ってください。ノースディン。」
ヴリンスホテルと違ってこの部屋にはベッドが一台しかないため、ノースディンとふたりで並んで座って話をした。ほとんど私が一方的に話すばかりだったが、彼は穏やかな表情で私を眺めながら耳を傾けてくれていた。
「不思議なものですねえ。あなたとこうしてのんびりとお話しできるとは。あの頃は夢にも思いませんでした。」
いつでもまた来てくださいね。私が言うと、彼はこう告げた。
「窓の鍵を開けておきなさい。」
それ以来、窓の鍵を閉めることができなくなった。ドラルクは訪ねてくるたび窓を確認し、「あ! また鍵が開いてる!」と小さく叫んで鍵をかけるのだが、彼が帰ると私はふらふらと窓に寄っていって鍵を開けてしまうのだ。窓の鍵を開けておきなさい、とノースディンが言ったせいだ。
わかっている。これは歪な関係だ。私は親となったノースディンの強い血に支配されて、彼の言葉に逆らうことができなくなっているのだ。解消する方法はただひとつ、私が彼の血を飲むしかないし、彼も自ら提供しようとしてくれているのに、踏ん切りがつかなくてためらい続ける私のもとに、彼はほぼ毎晩、夜明け近くに窓から訪ねてくる。
元は教会に仕える悪魔祓いだったので、多くの書物を読みさまざまな悪魔の生態について学んできた。悪魔、魔女、人間狼、黒魔術、そしてもちろん、吸血鬼のことも。
吸血鬼は必ずしも犠牲者の血を吸うわけではなく、犠牲者に何らかの形で祟るだけで満足することもある。亡くなった男が埋葬後三日目に息子の前に現れ、食べものをせがみ、食べ終えると消えた。二日後にまた現れて再び食べものをせがんだ。それからまもなく息子は死に、更に五人の村人が次々と患って五日以内に死んだという例がある。
当時の私が特に不快感を抱いた記述は以下のようなものだった。
「しばしば吸血鬼は血を吸う代わりに犠牲者にキスをしたり、あまつさえ性行為に及ぶこともある。血は霊魂の永生の象徴であるから、必ずしも本当に血を吸う必要はない。とある地域の吸血鬼は同性愛的で、狙った美少年の精液しか吸わない。」
なんと汚らわしい存在なのだ。聖職者ゆえに当然清廉潔白だった私は、読むだけで気分が悪くなった。修行を積んでとうとう悪魔祓いの杭を託された時、ついにこの手で醜悪な吸血鬼どもを滅することができるのだと奮い立ち、決意を新たにした。
ノースディンに初めて接吻された時、自覚していた以上に飢えていたらしい私はこらえきれずに彼の舌を吸いながら、頭の片隅でその書物の記述を思い出していた。口内の粘膜に彼の唾液が染み渡るようで、喉を鳴らして何度も飲み込んでしまう。なるほど、吸血鬼にとってはこれは食事なのだ。まだ血を飲むことができない私に、ノースディンが自分の体液を分け与えてくれている。