白河夜船 ついにこの日が来てしまった。珍しくドラルクから電話がかかってきたので即座に出たら、私に対しては徹底して険のある態度を貫く彼が、今までに聞いたこともないためらいがちな口調で開口一番こう言った。
「あの、その、クラージィさんが昨日から目覚めなくて……。」
だから新横浜だけはやめろと言い聞かせてきたんだ。二百年の時と海を越えてクラージィが甦った地ではあるし、親しい友人達とも巡り会えたし、現勤務先の猫カフェにも徒歩で行けて単純に便利なのはわかるのだが、居をかまえるならせめて隣駅あたりにしてほしかった。あの町は呪われている。絶対にいつか変態吸血鬼の餌食になるだろうと危惧していた。今すぐ行く、とだけ告げて、ドラルクとの通話を切ると私は屋敷の窓から飛び出した。
非常事態だからドラルクがひとまず保護したのだろう。クラージィは自宅ではなく、ロナルド吸血鬼退治事務所の居住スペースのソファーベッドに仰向けで横たえられて昏々と眠っていた。その回りではドラルクや人間のロナルド、アルマジロのジョン、そしてクラージィの友人である吉田と三木がたむろしており、クラージィの項には成人男性の手のひらくらいの大きい芋虫のような何かが張り付いている。何だこれ心底気色悪い。細長い口吻が深々と突き刺さっているようだし微かにうごめいているが、凍らせればすんなりと引き抜けるのではないか? いや、詳しい経緯や生態を確認せぬまま強引にことを運ぶのはいくら何でも危険すぎる。
話に聞いたことはあったが、実物を見るのは初めてだ。もしやこれは。
「夢吸い、ですな。」
ドラルクが言った。私は頭を抱えた。なんでお前はこんな下等吸血鬼に寄生されてしまうのだ。新入りとはいえお前だって竜の血族の一員なんだぞ?
「クラさんの能力のひとつは眠りだと聞きました。夢吸いの能力と変に波長が合ってしまったんでしょう。」
なだめるように解説してくる三木とやらに苛立ってしまう。彼の横に立つ吉田もおどおどと口を挟んできた。
「そばで眠れば彼の夢に入れるとのことなので、私達も試してはみましたが、どうしても起こせませんでした。ノースディンさん、ご迷惑でしたら申し訳ありません。ですがもう、あなたにお任せするしかないようで……」
自分達でクラージィを起こそうと試行錯誤していたから連絡が遅れたのか。迷惑どころかむしろ初日に教えてほしかった。しかしそれよりも聞き流せないことを吉田に言われて、私は顔を上げた。
「私しかいない?」
初見だったが夢吸いの習性はざっくりと知っていた。夢を見せることで人間を昏睡させ、吸血する下等吸血鬼である。その夢は付近の人間にも影響するので、近くで寝れば夢に介入できる。対象者が見させられている夢の中に誰かが入っていき、直接叩き起こすのが一番手っ取り早い対処法だ。吸血鬼退治事務所に籍を置いていて妙ちくりんな吸血鬼に対する経験も豊富なロナルドやドラルク、そしてクラージィの友人達がいるのなら、彼らだけで解決できたと思うのだが、それなのにどうして私が呼ばれたのだろう。
「彼は今、どんな夢を見ているんだ?」
クラージィの夢を垣間見たという吉田に詰め寄ろうとしたが、私の剣幕に怯み上がる彼とのあいだにドラルクが割って入った。
「ご自分の目で確認したほうが早いですよ、ノースディン。クラージィさんを起こせるのは、あんたしかいません。」
正直くっそ腹立つわ、と小声で吐き捨てられたが、今はドラルクと揉めている場合ではないので聞き流しておいた。私は昏睡したクラージィの死びとのような静かすぎる寝顔ではなく、ちゃんと目覚めていておっとり笑う彼が見たかった。
「……わかった。」
とはいえ、ロナルド吸血鬼退治事務所の面子とクラージィの友人達に取り囲まれた状況で自分が眠れるとは思えなかった。自身の屋敷、もしくはせめてヴリンスホテルあたりに場所を変えたかったが、よく眠っているクラージィを無理に移動させるのも忍びない。しばらく席を外してくれないか、と頼むと、ではよろしくお願いしますね、期待してますよ、と言って彼らは居住スペースから出て行った。いや、事務所内にとどまるのではなく、外出して時間を潰してきてほしかったのだが。
普段はロナルドが使っているのだろう、クラージィの眠るソファーベッドの背もたれは倒されていた。男性ふたりには無論狭かったし他人のベッドで寝るのは抵抗感が強かったが、私はクラージィと並んで横になり、目を閉じた。
気が付くと、私は吹きすさぶ吹雪のまっただ中でたたずんでいた。目の前には忘れようもない廃教会があった。そこは、目覚めないクラージィの体を納めた棺を私が安置した場所だった。