ちゅっ♡と半端なもの 最近、乱歩の様子がおかしい。
おかしいと云っても言動は普段通り自由奔放で天真爛漫、好きな時に菓子を食べ好きな時に眠り好きな時に遊戯をする。気になる事件があれば向かい、興味の無い事件は他者へと投げる。現場へ赴けば、普段通り自由に発言し周囲を翻弄しては事件解決へと導く。同行した社員が頭を下げ場を落ち着かせるのを横目にふらふらと駄菓子片手に帰ろうとするので、毎度同行者は慌てて其れを追うことになる。
至って普通で何時も通りの乱歩だ。
内容に関しては、福沢も諦めの境地な為触れないでおく。江戸川乱歩とは、そう云う人間である。
つまりは乱歩の言動がおかしいと感じているのは福沢だけで悩んでいるのも又、福沢ひとりなのだ。
そしておかしいとは云ったものの、実際は普段の乱歩の行動にひとつの動作が増えているだけだ。
然し、其の動作の意図するものが福沢には判断できなかった。
乱歩の奇妙な行動————其れは五日前まで遡る。
***
「あっ! 社長〜〜〜!!!!」
乱歩が福沢を呼び乍ら此方に駆け寄ってくる。其れは、探偵社に出社してから半刻後の廊下での出来事だ。乱歩の声に彼が社へと確り来られたことを確認して、心の内で安堵を浮かべる。事務員を疑う訳でも信用していない訳でも無いが、此れに関しては何時になっても気を揉むのだ。
「おはよう、社長!」
「嗚呼、おはよう」
朝の挨拶を返すついでに乱歩の様子を隈無く確認する。鳥打帽から見える髪は好き勝手に跳ね、寝癖なのかそうでないのか判らない。本人同様奔放な有り様だ。睫の長い切れ長の吊り目は何時も通り此方を見ているし、肌艶も顔色も善さそうだ。相変わらず吹けば飛ぶように軽い身体に纏った、仕事着でも特徴でもある探偵服から靱やかに伸びる手足も傷一つ無い。朝だと云うのに何時も通り元気良く自由気ままに居るらしかった。
「そんなに確認しなくてもなんともないってば。それより、僕今日は事務員さんが迎えに来る前に起きられたんだよ?」
「……そうか」
あの乱歩が一人で起床した事に感動する所ではあるが、本来一般的な成人男性ならば其れが普通である。相槌だけ打ち二言目に仕事をしろと伝える前に、乱歩の意思の強そうな眉が吊り上がり口がへの字に曲がる。
「もー! もっと他に云うべき事が在るでしょ!」
手を握り締めて此方に詰め寄り不服を露に抗議する姿に、つい頬が緩みそうになる。昔から変わらない乱歩の行動だ。
「……この調子で今後も励め」
近寄って来たが故に撫でやすい場所に頭がある。殆ど無意識的に其処に手を持って行き軽く動かすと、帽子が潰れるのも構わずもっと撫でろと手の方へ頭を押し付けてきた。乱歩は何時の間にやら踵を上げて爪先で立っていた。
「其れと、褒めて欲しければあと僅かでも自力で出来ることを増やせ」
撫でる心算は無かったが、そう成ってしまった事にきまりが悪くなり小言を挟むと、其れでもにんまりと口角を上げ首を傾げ乍ら此方を見上げてきた。
「それは僕の気分次第かな?」
其れもそうだ。
此れが他の人間ならばもう一言二言言葉を重ね自立へと働き掛けただろうが、相手は嵐の権化たる乱歩だ。乱歩の気が向かなければ其れは確実に達成されない。
所謂背伸びをした状態の乱歩の両肩に手を置き、床に足を着かせてやると抵抗も無く存外素直に背伸びを止めた。
「……お前も間も無く現場へ向かう時間だろう。そろそろ皆の方へ戻れ」
そう云って、肩に乗せていた手も離し社長室へと向かうべく踵を返そうとする。
そう、此処迄は何時も通り普段通りの変わらない遣り取りであったと福沢は記憶している。
「あっ、一寸待って福沢さん!」
そう、此処迄は。
呼び止める乱歩の声に振り返れば、同時に着物の袖を引かれた為少しだけ屈む。出会った当初から在る、乱歩が福沢に何かをしたい時の合図だったからだ。
其の儘顔を近付けてきた乱歩に何か秘密裏の話でもあるのかと屈んで待っていれば、ちゅっ、と控えめな音と共に頬に湿った気配と柔らかな感触が伝わる。
「えへっ」眉を下げ、にへらと笑って乱歩は福沢へ向かってきたのと同様小走りで横を擦り抜け行く。
「………………………………………………は?」
此の後、乱歩に落とされた置き土産に甘さと温かさと疑問とが福沢の心の内で混ざり合い、其の儘ぐるぐると渦を巻き続けた。
***
四日前。
此の日は福沢が始終外で警察側や得意先、連携先等各方面との会議や会合が有った日だ。一度探偵社に顔は出したが、直ぐに所定の場所へと移動した。其の為、乱歩が出社したかどうかは確認出来なかった。然し、あの時乱歩の机には人影が無かった為、未だ出社前だったのだろう。
福沢自身も余裕が在る日では無かった。
其の日の乱歩の業務は、現場へは赴かず安楽椅子探偵よろしく資料を用いて助言する手筈であった。
午刻の休憩中はどうであったかは判らぬが、外に出る用事は無かったと認識している。社が必ずしも安全とは言い切る事は出来ない。然し、外での業務よりは幾分か安全性も高いだろう。
福沢の心配を知ってか否か、黄昏時に事務所へと戻ってきた福沢を出迎えてくれたのは乱歩其の人であった。
「おっかえりーーー! 大分疲れてるねえー?」
「肩揉んであげようか?」等と云い乍らも乱歩は自身の机に足を乗せ、椅子を背もたれにしてふんぞり返り電子遊戯で遊んでいる。
出迎えと云えば聞こえは善いが、唯探偵社に入った瞬間最初に視界に入った者が乱歩だっただけだ。其れでも最初に声を掛けたのは乱歩であったし、彼の事だ。福沢の帰社時刻も見通していたのだろう。仮令、電子遊戯機から顔を上げなくても入室してくるのが福沢で、其の福沢が疲労を纏っている事も乱歩には判っていたのだ。
何度云っても止めない行儀の悪い格好をどう注意すべきか考え、先ずは何事も無かったかと、他社員の所在を聞こうと口を開く前に慣れた身体は乱歩の机に辿り着いていた。知らぬ間に乱歩はふんぞり返るのは其の儘に足は降ろして電子遊戯を止めて此方を見ていた。
目が合うと此方に向かって両の腕を伸ばされる。
引き揚げろ、と云う事か。
其のくらい一人でしろ、と云う感情も湧くが引き揚げるだけならば大した辛労でもない。伸ばされていた腕を掴み、此方に引いてやれば重さを伴わず乱歩はするりと立ち上がった。
確り自分の力で立ったことを確認してから手を離せば「ありがと」と、礼を云われる。
「社長と顔を合わせていなかったから、今日は凄く長い一日に感じたよ」
乱歩が話す言葉に、そうだなと自分の心意に気付き頷く。数年前から住居を離したと云っても一日の大半は社で過ごし共に仕事をしている福沢と乱歩からすればあまり変化はなかった。今の住処が別であろうが、乱歩は気まぐれに福沢の家へ戻って来るし、仕事の無い休日は高確率で福沢と共に過ごしていた。一方が出張等で横浜を離れている時も定期的に電話で会話をする。
今日が、と云う訳ではなく何時でも離れていれば乱歩は此の様に感じていたやも知れない。福沢の思考を遮るように乱歩が「社長の顔も見た事だし、僕帰るからー!」と、身一つで出入口へ進んで行こうとする。
返事をしてから、事務員を連れていないことに気付き引き留めようとする。
「乱歩」
声を掛ければ、振り返った乱歩はしたり顔で笑っていた。
態とか。
溜息を隠さず吐き出せば、余計に笑みを深くしてコテコテと近づいてくる。そうして目の前で止まれば背伸びをして頬に接吻を落とされる。
突然の事に云いたい事も全て抜け落ちてガチリと固まる福沢に「あはは!」と声を上げて笑う乱歩。
「今日は平和だったし残っても意味が無いから、事務員さんは皆返したよ。与謝野さんはやる事があるって云ってたから未だ医務室にいると思う。谷崎兄妹は一緒に軽い依頼に向かってそのまま直帰。賢治くんは見回り序に商店街の互助会を手伝って来るってさ。国木田は行方を眩ませた太宰の捜索。敦と鏡花ちゃんも一緒にね」
福沢が知りたがっていた事をぺらぺらと話し乍ら再び出入口へと進む。話自体は耳には入っているが、柔らかな感触と高めの口吸音が脳で反響してくらくらした。
「と云う訳で、僕は一人でも大丈夫! 流石に住んでる家の場所ぐらいわかるよ。社長は未だ残っている書類を片付けたりするんでしょう? 今日は此れでさよならだね。無理しないように!」
中途半端に伸ばした手を其の儘に固まる福沢に、云いたい事だけ伝えて「また明日」と、手を振りながら事務所の扉を閉める。
何なんだ……?
空を掴むように伸びた自分の手を見詰めて、侘しさの様なものを感じる。然し、其の感情を大いに上回る疑問が心に留まり続けていた。
***
三日前。
午刻の休憩で時間の合った乱歩と一緒に昼餉を食した。気晴らしに散歩でもしたい気分であったし、寡し歩いた先の食事処に決まった。
行きも帰りもご機嫌な様子の乱歩を傍目に、近頃の彼の様子について考える。素直に答えてくれるかはさて置き、一度聞いておいて損は無いだろう。
「近頃のお前のあれはなんだ……?」
「あれって?」
聞き方が抽象的過ぎたのか、乱歩は首を傾げる。乱歩の行動をどう云えば善いのか考え倦ねていると、福沢の表情から乱歩はちょいちょいと手招いて彼方を指差す。示した先は路地裏だった。
「どうした?」
「知りたいんでしょう?」
教えてくれるのか?
福沢を連れ立って入った路地裏で乱歩が全てを見通す目を歪ませ蠱惑的に笑うと、踵を上げてすっと腕を首に回される。反射的に片手で腰を抱いてから此処が外である事を思い出した。
「乱歩!」
路地裏には誰も居ないが、誰が入ってくるやも判らない。故に、離れる様に名前を呼べば其れを合図に顔を寄せて頬に接吻を落した乱歩。
——此れでは俺が催促した様に見えるだろうッ! 其の様な意味で名前を呼んだ訳では無い!
誰に見られている訳でも無いのに、弁解する福沢の云いたかった事が判らぬ乱歩では無い。
其れでも実行しようとする気力は何処から、どの様な経緯で生まれるのか。
「まだ秘密……」
吐息混じりな声が耳元で響く。
————心頭滅却ッ!!!!!
誘惑する様に笑う乱歩の腰をより強く引き寄せようとしてしまい、慌てて大声で叫ぶ。勿論心の中で。
先程迄離れようとしていたのが嘘の様な対応に自分でも呆れる。公然の面前で此の様な事……。谷崎兄妹の事を兎や角云う資格も無い。福沢自身が二人に直接云ったことは無かったが。
其れにしても乱歩は何処で此の様な振る舞いを覚えたのだ。若しや、本当に谷崎兄妹の仕草で学習を? ……乱歩ならば有りそうだ。
深く深呼吸をしてからそっと乱歩を離す。
「お前は俺の忍耐力を信頼し過ぎだ」
「そりゃあ信頼するよ、福沢さんだもの」
理由は判らないが、一先ず乱歩が接吻に熱心である事は何と無しに判ってきた。乱歩の中での流行なのだろう。
今まで接吻について、強請られる事は多くあっても乱歩自身から行う事は少なかった。本人曰く、有難みが無くなるからだそうだ。何だ其れは。私の接吻だって安くは無いぞ。
***
二日前。
此処迄来ればやっと身構える様になった。今までの反応から嫌がっている様に見えたのなら心外な為、此処で弁解しておくと別に私は嫌な訳では無い。乱歩が機を見て仕掛けてくるのが色々と身体に悪いのであって、乱歩から接吻される事は単純に喜ばしい。
其の日は午刻の休憩が終わる頃の事だ。
朝から現場へと赴いていた乱歩と昼過ぎに市警に呼ばれていた福沢。珍しく階段で出会った。肉体労働を嫌う乱歩の事だ。概ね、福沢が此処を通ることを予想していたのだろう。
「今帰りか?」
「うん」
「怪我は無いな?」
「心配性だなあ」
乱歩の様子から特に何も無かった事が伺えるが、念には念をだ。
福沢が隅々まで確認をしていた事に気付いて乱歩が口を尖らせたが気に留めない。
恐らく今日は此処だろうと当たりを付ける。毎回乱歩が接吻を仕掛ける際、乱歩なりに考えて行動している事が判った。
人の居ない場所、各個人の業務予定、不意を付ける機会。
乱歩も最後の項目はもう無理だと悟っているだろう。寧ろ善く三度も私の不意を付けたものだと福沢自身でも感心しているぐらいだ。素人同然の乱歩に何度も不意を付かれている自分の不甲斐なさにも。其れは偏に“乱歩だから”に他ならないのだが。
「いってらっしゃい」
「嗚呼」
擦れ違いざまに接吻をされる。福沢も顔を傾け、接吻し易い様に調節した。其れでも乱歩が上段に居た為、珍しく屈まずとも頬に当たる柔らかな祝福。乱歩も珍しいと思ったのか血色の善い頬で朗らかに笑った。非常に嬉しそうだ。
「これ善いね!」
「……そうだな」
相変わらず接吻の理由は判らないが、乱歩が愉しい様で何よりだ。手を振る乱歩を背に福沢は建築物を後にした。
***
一日前。
もう判っている、今日もだろう。そして今此処でだ。突然入った所用で外出しようと社長室を出た福沢と、図ったかの様な誰も居ない事務所。目が合うとにやりと笑った乱歩が其れを物語っていた。
事務員は事務室だろうか。
福沢は一度周囲へ人の気配を探るように見渡してから接吻しやすいように屈んでやる。
然し、乱歩からの接吻は無かった。
屈んだ福沢を眺める様にじっと見詰めてから、くふふと忍び笑いをされる。
今の機では無かったのか……!
顔には出なかったが、サッと羞恥の色で身体全体が染まる。心までもが其の色で強く彩られていた。忸怩たる思いで体勢を戻そうとすると勢い善く抱き付かれる。
「……意地悪してごめんね! 福沢さんが余りにも可愛かったからさあ」
「私は可愛くなど————」
「——僕からの接吻、心待ちにしてたでしょ」
「…………」
図星だった。
押し黙る福沢を肯定と見て嬉しそうに笑う乱歩を見ていると、先程迄あった恥の念も薄れていく。
————ちゅっ。
柔らかい肉の弾力性を唇に感じたと思えば、口吸音が耳に入ってきた。口吸音は消えても唇に感じる乱歩の唇は未だ離れず触れたまま福沢の上唇を柔く食んでいた。
少しして乱歩が遊ぶように食んでいた唇を離なすと、福沢の心を読んだかのように二人の唇は名残惜しげに境界を生み出した。
「……本当はね、今日も頬になんだけどお詫びだよ」
そう云い頬にも一つ接吻を落として「これはオマケ」と乱歩は笑った。
「……頬でなければならない理由もあるのか?」
満足そうに鼻息一つで落ち着く乱歩に問い掛けると、首を傾げて少し考えた後に「僕の気分!」と云い放った。
ならば頬では無く口を吸ってくれても……。
咄嗟に其の様な想いが脳裏に浮かんだが、直ぐに手を振って消し去った。少し眉間に力が入ったかもしれん。気付かれていないか乱歩の方を確認したが、彼は唯笑っているだけであった。
続く……?