トリマルという男は存外不器用だ。
高い戦闘センスとトリガーを使う腕を持ち、容量が良く後輩の指導能力にも長けている。料理も一級品で、「テレビで見たハンバーグが食べてみたい」と言えば、それがたとえ初めて作るレシピだったとしても店と遜色ない味に仕上げてしまう。求められた役割をそつなくこなす技量があるのに自身のことには鈍感で、身を削ってでも他者の世話を焼く癖がある。尚更たちが悪いのは、どれだけ内に抱え込んでいてもトリマルが他人に助けを求めることは滅多にない。そうしてつもりに積もった疲労がキャパシティを超えたとき、トリマルはねじが切れた人形のようにぷっつりと動かなくなる。
玉狛支部地下室。椅子代わりにベッドへ腰掛けるヒュースは、脚にのしかかる他人の体温を感じながら宙を仰ぐ。
数分前のことだった。昼間の訓練を終えて次への課題を整理しようと自室に戻ったヒュースの所に、突然烏丸が押し掛けたのだ。ノックも無しに開いたドアにヒュースは一瞬たじろぐも、入ってきた烏丸の憔悴しきった様子と片手にある可愛らしい紙袋を見て、おおよその状況とこの後の展開を理解した。
だからこれは双方の合意による膝枕だ。ヒュースの大腿には毛量の多いもさもさした頭が我が物顔で鎮座しており、夕焼けを溶かし込んだような目は仰向けでジッとこちらを見つめている。
「……人の顔をそんなに見るな」
「減るもんじゃないし、別にいいだろ」
そういう問題ではない、と言わんばかりに烏丸の両目を手で覆う。いきなり視界を奪われた琥珀はぱちぱちと瞬きを繰り返し、その度に手のひらから伝わる睫毛の動きがくすぐったい。ほんの悪戯を楽しんだところで手をパッと退かしてやれば、柔らかく細められた瞳と視線がかち合った。何がそんなにおかしいのか、普段のクールな表情を捨てた烏丸は薄い微笑みを浮かべている。その慈愛すら感じさせる甘い色気は、見た者全てが恋に落ちてしまいそうなくらいだった。
「また無茶をしたのか」
「バイトに急な欠員が出たから。あとは特に、いつも通り」
その「いつも」が駄目だというのに。
烏丸は疲労がピークに近くなるとヒュースに触れたがるようになっていた。彼曰く、人肌にはリラックス効果があるから誰かにくっついて休むのが一番効率がいいらしい。得意の出まかせかと一蹴しようとしたヒュースだったが、ふと幼い頃の記憶が脳内を駆け巡る。主に頭を撫でてもらうとどうしようもなく嬉しくて、触れられた箇所がじんわり溶け出すような多幸感があった。烏丸が言っているのはきっとそういうことなんだろう。何故その役目が自分なのかは全くわからなかったけれど、一緒に渡された菓子の紙袋を受け取ってしまったため、抱き枕にされることを了承した。
そんな経緯があって、ヒュースはときどき烏丸に肌を許している。最近は膝枕がお気に入りらしく、硬くて大して寝心地も良くないであろう大腿は烏丸専用の枕へと早変わりする。足の自由を奪われたヒュースはその間何もできなくなってしまうので、お返しにと犬っころみたいな黒髪を指でくるくる弄ぶ。
「休みたいなら家に帰ったらどうだ」
「家族にこんな姿見せられないだろ」
「オレはいいのか」
「……ヒュースには気を張らなくていいから」
幼子が隠し事を打ち明けるような、茶目っ気が混ざった顔で烏丸は言った。それが同い年からくる距離だからか、捕虜という立場を利用されてのことなのかは定かではないけれど、なぜだか不思議と嫌な気はしなかった。
面倒見の良い烏丸を慕う者は多い。ボーダー、学校、いくつものバイト先。そのどれにも属さないヒュースの前だけでは、烏丸はありのままの姿を曝け出してくつろいだ。制服を着たまま寝転んでシワが付いたり、夕食前に一緒にお菓子をこっそり食べても誰にも怒られない。二人で過ごせば過ごすほど、「良い子」を纏って大人びた鳥丸の輪郭がぺりぺりと剥がれ落ちて、いたずら好きな十六歳の男の子がここにいるよと顔を出す。玉狛の全員、もしかしたら彼の家族すら知らない一面を自分だけが知っている。そう思うたび特別感に胸の奥がちりちりざわついて、日々を演じる姿に少しだけ泣きたくなってしまう。
「あと十分もしたら陽太郎がくるから、それまでにはここを出ろ」
「ん……わかった」
気の抜けた返事と共に烏丸はごろりとこちらを向き、ヒュースの服へと顔をうずめた。下腹部に感じる人の熱さと、布越しに伝わる生命の吐息はどこかむず痒く、脳内がとろとろ溶け出すような心地よい感覚がする。もっと欲しい、もっと近くで触れたい。隔てるものなんて無いくらいに、布一枚ですら必要ない。
タイムリミットまで残り数分。その瞬間が訪れるまでは背負っているもの全てを下ろして、「先輩」でも「兄」でもないただの「烏丸京介」として自分だけを見ていてほしい。
傲慢にも似たこの感情の名をヒュースは知らない。知ろうとしない、といった方が正しいのかもしれない。ヒュースが捕らえられた組織に偶然在籍していて、こうして時たま寄り添うだけの男が烏丸だ。それ以上でも以下でもない、捕虜と隊員の言葉で片付く間柄が自分たちだ。
形を持ち始めた意識に蓋をする。今はまだ知らなくていい。純粋で無知なふりをして甘いお菓子と一緒に飲み込んでしまえばいい。
今は、まだ。