お呪いの輪
ヒュース、いいところにいた。渡したいものがあるからちょっと左手を出してくれ。手のひらを下にして……そのまま動くなよ。よし、いいぞ。うん、サイズもぴったりだな。
「……これは何だ」
即席のラーメンを啜る箸を止めたまま、何かが付けられた手を不思議そうに見つめた。本部から戻って遅い昼食を取っていたヒュースの指には、ふらりと現れた烏丸によって付けられたシルバーの輪っかが鈍い光を放っている。
「おまじないだ。左の薬指に指輪を付けると幸せが訪れると言われている」
「そんな話は聞いたことがない」
「こっちの世界では有名なんだ。学業や恋愛、いろんな願い事が叶うらしい」
付けっぱなしのテレビからは理想の結婚を語る女の声がする。ジューンブライド、六月の花嫁。聞きなれない単語の数々に興味はあれど広いリビングにはヒュースと烏丸以外誰もおらず、目の前の男に聞くのも何だか癪だった。
「まぁ、いらないなら外してくれ。飯の邪魔して悪かった」
指輪だけを渡して烏丸はさっさと出て行ってしまった。あっという間の出来事すぎて、未だ空腹の頭は上手に働いてくれない。
いかにも量産品な金属の輪に、烏丸が言ったような効果があるとは到底思えなかった。付けてやる義理もないが、貰ったものは大事にするよう子供の頃から教えられているので無碍にするのも気が引ける。
とりあえずはこのままにして、不都合が生じたら返せばいい。外では雨が降り続いている。考えるのをやめたヒュースが食事を再開すれば、温くなったスープと伸びた麺が身体にじんわり染み渡った。
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連日の雨模様も一旦止んで、露に濡れた草木がガラス越しにきらきらと眩い。貴重な晴れ日だというのに外に出る気にならなかったヒュースは、修に呼ばれた時間が来るまでリビングで暇を潰していた。
「悪い、待たせた。……あれ、ヒュースが指輪してるなんて珍しいな」
持ち前の観察眼をいかんなく発揮し、修はヒュースの薬指へと目を向けた。見られて恥ずかしいものではないが、何故付けているのかと訊かれると少々答えにくいものがある。
「トリマルに貰った。この位置に付けると良いことがあるらしい」
「……へっ?」
「修は知らないのか。こちらの世界では有名だとアイツは言っていたが」
「いや、知ってるけど。そうじゃないっていうか」
妙に歯切れの悪い修を横目にし、ヒュースはテーブルに置いてあったどら焼きの封を開ける。栞が選ぶおやつはセンスが良く、その大体がヒュースの口にも合うのでつい食べ過ぎてしまうのがたまにキズだった。
「二人揃ってどうしたんだ」
大きな鞄を肩にかけ、制服姿の烏丸が階段を降りてきた。今日はいないと思っていたので少しだけ驚くも、ヒュースはすぐにどら焼きへと興味を戻して大口でかぶりつく。
「烏丸先輩。戦術の相談がしたくてヒュースを呼んだんです。先輩はもう帰られるんですか?」
「俺はこの後バイトだ。……ヒュース、それ気に入ってくれたんだな」
いつの間にか後ろに来ていた烏丸の手がヒュースの左手へと重ねられる。指の腹をくすぐった後、するすると降りてきた人肌は指輪の上から薬指をぷにと摘む。その手つきがやさしくて、甘いどら焼きの味がなぜかだんだんとボヤけてしまう。
「外すのが面倒だっただけだ」
ぶっきらぼうに、吐き捨てるようにヒュースは冷たく言い放った。烏丸の言っていた「おまじない」とやらに興味はなかったが、ちらちらと輝く上品な指輪を気に入っているのは事実だった。
「シルバーにして正解だった。お前は肌が白くて綺麗だから、シンプルなリングがよく似合っている」
烏丸の顔がそっと近づく。男のヒュースから見ても烏丸は整った顔立ちをしており、端正な目元から覗く瞳が空間を支配する。瞬間、背筋をぞわりと悪寒が走った。被食者になったかのような焦燥感に烏丸へと顔を向けるも、甘い微笑みを浮かべたままの金の目を前にしたら、そんな考えなど全て溶け去って消えていった。
「青もいいな。今度一緒に選びに行くか」
良い店を知っているんだ、と付け加えられていよいよ逃げ場が無くなったヒュースは助けを求めて修を見たが、我関せずといった表情でフイと視線を逸されてしまった。
指輪は「おまじない」で、渡されたから仕方なく付けているだけだ。それだけの簡単なことなのに、理解に感情が追いついてこない。小さな輪っかが目に映るたび、呪いにかかったように嫌でも烏丸のことを思い出してしまう。
「修、オレは先に訓練室へ行く」
「わかった。ぼくもすぐ向かうから少しだけ待っててくれ」
場の空気に耐えきれなくなったヒュースは逃げるようにリビングを後にした。構う対象を失いつまらなさそうな烏丸に、半ば呆れ顔をした修が話しかける。
「本当のこと知ったらヒュース怒りますよ」
「あれは御守りなんだ。ヒュースは純粋だから、悪い人間が寄ってくるかもしれないだろ」
言いたいことはわからなくもないが、だからといって荒治療ではないのか。烏丸がヒュースに向けているどろっとした感情を薄めで感じつつ、面倒ごとを、できるだけ避けたい修はやんわりと釘を刺す。
「ほどほどにしといてくださいね。機嫌直すの大変なんですから」
「はは。そのときはあいつにキスの一つでもしてやるさ」
お得意の嘘か、はたまた本気か。弟子の修ですら計りかねるくらいの含みをもたせ、烏丸はバイトへと足を走らせた。