黒霧ノ迷ヒ子 走る、走る。女が走る。
月の無い夜の淵。無音の街中。
服の乱れを気にも留めず、助けを求めてひた走る。
「あっ─!」
石畳の欠けた其処へ足を捕られ、女は遂に転倒する。
立ち上がろうと力を込めるが、震える足は言う事を聞かない。
(動け、動け! お願い、動いて!!)
焦る気持ちを助長させるように、石畳を奏でて男が近付いてくる。
「いや…いや! 来ないで!!」
女の懇願も虚しく、ナイフを握った男が覆い被さってくる。
首にかけられた手に女は恐怖し、男を見上げ、そして息を止めた。
「みつけた、おかあさん」
暗黒の中で輝いた男の瞳は、満月の様な金色をしていた。
─────
銀座町と晴海町を繋ぐ大通りから一歩外れたとある路上。普段は人通りもそこそこの場所は現在、警察官たちによって通行止めされ厳重に目隠しがされていた。
どこか物々しい雰囲気が漂っており、それが今回の事件現場である事を物語っている。
遠巻きに様子を伺う野次馬たちを掻い潜って、そこへスーツ姿の男と書生が近付いて行った。
「おぉ。ようやく来たな、お二人さん」
規制線の中からこちらの姿を見つけて手招きする男性の元へ、スーツ姿の男と書生、鳴海とライドウがやって来る。
このハンチング帽にロングコートを羽織った男性は風間刑事で、どうやら今回の事件の担当になったようだった。
「どーも、刑事さん。相変わらず忙しそうね」
「全く嬉しくねぇがな…」
鳴海の挨拶代わりの軽口に、やや憔悴した声色で答える風間刑事。
普段と違うその様子から事件の凄惨さを感じ取った鳴海は、直ぐに真面目な顔つきになった。
「お前さんらも、新聞で大まかな内容は知ってるだろ?」
「えぇ。女性を狙った通り魔、ですよね?」
「そうだ。それもただの通り魔じゃない」
鳴海の回答に険しい表情で語り出す風間刑事を、固唾を飲んで見守る。
「猟奇的な通り魔だ」
そう前置きして、刑事は事件の概要を説明し始めた。
最初の事件は2週間前、萬年町近くの民家で起きた。
遊郭で働く遊女が、無惨な姿で発見されたのだ。
警察は遊女と客の揉め事による犯行と考え捜査を始めたが、その6日後、容疑者の事情聴取中に2人目の被害者が出た。
こちらもまた遊女であった為、怨恨の線が濃厚となったが、しかし4日後に出た3人目と、更に2日後に出た4人目によって捜査は難航する事となった。
「3人目は確か…舞治屋百貨店の売り子さんだったっけ」
「4人目は、晴海町に住む外国人女性でした」
鳴海とライドウがそれぞれ被害者の特徴を述べたのを、風間刑事が黙って首肯する。
2人の言う通り、3人目と4人目の被害者は遊女では無く、ごく普通の一般人だったのだ。
その関連性の無さも然る事乍ら、警察は事件の発生頻度に手を焼いていた。
「1人目の被害者から2週間以内に、5人目が出ちまったなんてな…」
チラリと目隠しの先を見て呟く風間刑事。被害者たちを目の当たりにし、やるせない気持ちになっているのだろう。
ひょうきんな性格だが、こういった所は実に警察官らしいと言うべきか。
「と、此処で立ち話も何だな」
そう言うと、風間刑事は捜査官が慌ただしく出入りする目隠しの元へ向かう。
暗幕を捲し上げて中へと誘導したので、鳴海とライドウがそれを潜ろうとした所、風間刑事がようやくソレに気付いた。
「おいおいおい、ライドウちゃん! その娘…何で…!?」
ライドウの一歩後ろ、外套の陰に女学生に擬態した人修羅が立っていたのだ。
「あ、そう言えば居たんだっけ」
銀楼閣を出てから一言も発さず着いて来ていたので、鳴海ですらその存在を半分忘れていたらしい。
苦笑しつつ「ごめんね」と謝る鳴海に対し、風間刑事は渋い顔をする。
「何だってあん時の嬢ちゃんが居るんだよ…」
「あの一件を機に、自分の助手になったんです」
「はっ、見習いの身分で助手かい」
ライドウの説明を鼻で笑って返す風間刑事だが、その表情は厳しいままだ。
「悪いがライドウちゃんの助手と言えど、この先の現場を見せる訳にはいかねぇな…」
「被害者が女性だからですか?」
「まぁ、それもあるんだが…」
言い難そうに言葉を濁す姿に、ライドウは平然と言ってのける。
「コレはそういった事に慣れているので、ご心配には及びません」
そうして暗幕の中へ入って行ったので、人修羅もその後を追った。
ライドウ達の目に映った事件現場は、風間刑事の言う通り凄惨だった。
石畳を染める血飛沫もそうだが、その紅い花の中心で横たわる少女は苦痛の表情を浮かべ、引き裂かれた下腹部から中身が溢れていたのだ。
「コイツは酷い…」
口元を手で抑えて、鳴海が被害者を見下ろす。事件発生時刻から数時間は経過しているとはいえ、周囲にはまだ血の匂いが残っていた。
「臙脂色の制服…桜爛女学院の生徒ですか」
「あぁ、まだ子供だってのによぉ…」
ライドウの指摘に、人修羅を一瞥して風間刑事が呟く。なるほど、先ほど渋っていたのは被害者を学友と思っていたからか。
遺体に近寄り、その姿を観察するライドウ。
恐怖に開かれ光を失った瞳から青白くなった首筋、血を吸って変色した制服を辿り、ぱっくり開いた傷口の中を伺う。
外気に晒された内側は中身が滅茶苦茶になっていたが、そこには確かな違和感があった。
「…子宮が無くなっている?」
ライドウの放った言葉に、鳴海は目を開き、風間刑事は眉を顰めた。
「チッ、その通りだよ。被害者は全員、腹をカッ捌かれて、子宮だけ抜き取られたんだ」
忌々しげに説明する風間刑事に、ライドウは淡々と問い掛ける。
「女性が狙われるのも、それが目的だからですか?」
「分からん。だが、悪趣味に違いはねぇ」
此処には居ない犯人を想像し、虚空を睨みつける風間刑事。
そこで、死体の状況を聞いた人修羅がポツリと呟いた。
「ジャック・ザ・リッパー?」
その名に、ライドウと鳴海の2人が反応を示す。どうやらヤタガラスに所属しているだけあって、外国の怪事件にも精通しているようだ。
「じゃっく・ざ・りぱー? 何だそりゃ?」
言い慣れない単語をぎこちなく発して、風間刑事が尋ねる。
「ジャック・ザ・リッパー。19世紀のエゲレス、倫敦で起きた殺人事件の犯人の通り名ですよ」
「あぁ、切り裂きジャックか! そういや帝都新報がそんな記事を出してたな…」
すかさず鳴海が解説し、ここ数日の新聞記事を思い出した刑事は眉間の皺を指で揉んだ。
遺体の状態は徹底的に秘匿していたが、被害者が女性ばかりであった事が、必然的に切り裂きジャックへと結び付いてしまったのだろう。
「それで今回の事件、風間刑事はどう考えているんです?」
鳴海の問いに、風間刑事が眉間から指を離す。
ライドウ達が呼び出されている時点で悪魔絡みの可能性が濃厚ではあるが、まだ断定は出来ない。
しかしこれ以上の被害者を出さない為にも、早急に動く必要があるのは間違いなかった。
「犯人らしき目撃情報が無い以上、怪異の仕業と考えるしかない。と、俺は思ってる」
「被害者に性別以外の…人間関係の共通点がある、とかは?」
「そこは3人目の段階で調査済みよ。だからコッチも容疑者が絞れてないんだ」
鳴海と刑事のやり取りを聞き、ライドウはある事を尋ねる。
「では、死亡直前の被害者に共通点はありますか?」
それに風間刑事が、やや怪訝な表情をした。
「全員、殺される少し前まで男性と一緒に居たって話だが…その男性も全員が別人の他人同士で、結託してる様子は無かったよ」
「なら、その人達が被害者と別れる前か後、何か変わった事は起きませんでしたか?」
ライドウの質問に、風間刑事は「あぁ、そう言えば…」と前置きして話し出す。
「新月でもないのに月が見えなくて、おまけに街が真っ暗だったって言ってたな」
その証言に首を傾げたのは、鳴海と人修羅だけだった。
─────
「それじゃあ俺は、本物の切り裂きジャックに関係があるのか調べてくるよ」
そう言うと、鳴海は片手をヒラヒラさせて去っていった。
おそらく、ヤタガラスで管理しているジャック・ザ・リッパーについての記録を漁るつもりなのだろう。
44年前の未解決事件ではあるが鳴海の事だ、何かしらのヒントは見つけるかもしれない。
何となくそんな気がした人修羅は、隣に佇むライドウへ視線を移した。
「………」
風間刑事の言っていた情報に、思い当たる所があるのだろうか。いつもの仕草で考える様子を静かに見守る。
「アリス、モー・ショボー…幼すぎるな…」
すると唐突に呟き出した名前に、人修羅は目を瞬かせた。
「アルラウネは、アレで中身は植物だったな。オシチも、身体が鳥では難しいか…」
「…うん?」
「そうなると、キュベレーかスカアハが適役か」
「ちょっと、ライドウ…?」
何となく嫌な予感がし、恐る恐る尋ねる。
「何だ?」
「もしかして、仲魔を囮にしようとしてる?」
「そうだが?」
即答され、人修羅は絶句した。
そもそも悪魔召喚師であるライドウと元は普通の人間だった人修羅では、悪魔に対する価値観が根本的に違う。
ピクシーを初め出会った悪魔たちから同族扱いされていた人修羅にとって、悪魔とは対話の出来る他生物という認識であり、仲魔はみな大切な友達なのだ。
たとえライドウの仲魔だろうとその感覚は同じだった為、躊躇いの無いその発想に驚愕させられたのだった。
(でも、悪魔召喚師だからこそ割り切る必要があるのかな…)
その辺は話し合ったことが無いので憶測しか出来ないが、それでも人修羅は仲魔を囮にするのは賛成出来なかった。
そんな想いが顔に出ていたらしく、ライドウが口を開く。
「時間がない今、他に確実な方法は無いだろう?」
「それは…そうだけど…」
納得いかないといった態度で、人修羅は他に良い案がないか考える。
相手の正体が分からない以上仲魔が危険な目に会うのは避けたかったが、いくら考えてもライドウの代案は思い浮かばなかった。
「…あぁ、そうか。お前が居たな」
その時なにかを思いついたライドウがそう呟いたが、人修羅は頭上に疑問符を浮かべ目を瞬かせるしか出来なかった。
───中略───
「随分、親しいのだな」
人修羅が消えた夜闇を見据えたまま、ライドウが言葉を述べる。
それは、先程の人修羅とアリスのやり取りの事を指していた。
『そうよ。王さまは優しいから、いつもアリスの遊び相手になってくれるの』
後ろ手を組んで、アリスは得意げにライドウを見上げる。
『アリスが悪い事をした時は「めっ」て叱ったりするけど、ごめんなさいしたら笑って赦してくれるし…』
しかし、学帽の影に覆われたその表情は窺い知ることが出来ない。
『独りぼっちで泣いていた時も、何も言わずに優しく抱き締めてくれたのよ』
そんな事は気にも留めず、アリスは目を閉じて自分の身体を抱擁する。
クルクルと左右に揺れたかと思えば、何かを思いつたようでパッと両腕を広げた。
『そうだ。今度、お兄ちゃんも一緒にアリスのお城に招待してあげましょうか?』
「何時ぞやの異界にか?」
『フフ、あそこよりもっと凄い所よ』
「…魔界か」
キラキラと輝く笑顔で、アリスはライドウの瞳を覗き込んだ。
「それじゃあ─」
そこで漸くライドウの纏う気配がおかしい事に気付いたが、時は既に遅く。
「僕も連れてって?」
金色の瞳で優美に微笑んだライドウが、アリスの首に手をかけた。
───続く───