迷子の子狐さん 空の色が紺から茜に変わる時間、少し肌寒い明け方の事。
身体に伸し掛る重さに、寝苦しさから目を開くと──
「朝だよ、おかあさん」
ベッドの上で横になっていた人修羅に、金の眼をしたライドウが馬乗りになっていた。
思考を放棄したがる頭を無理やり働かせてゴウトを叩き起した人修羅は、アリスも喚んでライドウの部屋のベッドに腰掛けていた。
『…して、小僧の状態は?』
話を聞いて文字通り飛び起きたゴウトが、寝巻き姿のライドウを凝視しつつ問い掛けてくる。
その声は、動揺のあまり若干ひっくり返っていた。
「魔術や呪術の形跡も、何かが憑依してる気配も無し。何度かライドウの意識に呼び掛けたりもしたけど、反応が無くて…」
説明しながらチラリとライドウへ向けた視線を、また直ぐにゴウトへと戻す。
そうでもしなければ、絶世の美丈夫に後ろから抱き竦められている現状に、耐えられる気がしなかったからだ。
なお当の本人は会話の内容を理解出来ていないらしく、ジッと此方を見つめ続けているのだが。
(コレってやっぱり、あの時の悪霊…だよな?)
視界の端に映る自分とよく似た黄金の瞳に、人修羅は以前携わった事件を思い出していた。
遊女の惨殺を皮切りに起こった、5人の女性殺害事件。
現代に蘇ったジャック・ザ・リッパー等と新聞で報道された犯人の正体は、出自不明の子供の悪霊だったのだ。
ターゲットとなった女性の近くに居た男性に次々と乗り移った彼は、ライドウに取り憑き人修羅へ襲いかかったのだが、悪魔故の頑丈さでそれを返り討ちにしたのである。
と言っても頭突きで気絶させただけで、実際は祓えていなかった訳だが。
『ううむ…ではアリスよ、お主の方で何か分かる事はあるか?』
原因が分からない事に渋い表情をするゴウトが、それならばと窓際の椅子に腰掛けたアリスに問う。
普段はライドウの仲魔に頼りたがらない彼だが、状況が状況なだけにそうも言っていられない様子らしい。
『んー、分かんなーい』
しかし素っ気無く返されたその一言に、ゴウトとそして人修羅は目を見開いた。
『にゃあ!? 分からんとはどう言う事だ!?』
『だってアリス、呪い以外の事はちんぷんかんぷんなんだもん。そういうのは黒叔父さまに聞かないと』
いつの間にか部屋にあったアンティークチェアの上で、両足をブラブラさせてそう答えるアリスに、ゴウトはまた『うむむ…』と唸る。
確かに今回の件は降霊術に長けたネビロスにこそ頼りたい所なのだが、彼の入った管は当のライドウでなければ開けない。
(だからって、本体を喚ぶ訳にはいかないし…)
そんな事をしようものなら帝都全域が死者の国と化すだろう光景を想像し、人修羅はブルブルと首を振った。
『そう言う事だから、もう戻るね』
「えっ」
そう言いながら椅子からぴょんと飛び降りたアリスに、人修羅は意表を突かれ驚きの声を上げる。
いつもの彼女であれば、ライドウ同様この手の状況を愉しむ所なのに、今回は素直に帰還しようとしているからだ。
『だってその子、アリスの手足を捥いだのよ? たとえ王さまのお願いでも、一緒になんて居たくないわ』
当時の事を思い出しているのか、両腕を組んで頬を膨らませるアリス。
執念深い彼女がこうなってしまっては、どう説得しても協力は仰げないだろう。
「…分かった。ありがとう」
呼び出しに応じてくれた事へ感謝を伝えると、アリスはマグネタイトの光に包まれて管へと戻っていった。
『はぁ…何はともあれ、一度ヤタガラスに報告せねばな』
残された静寂を破るようにゴウトが発した言葉に、今度は人修羅の心臓代わりのマガタマがドクンと跳ねる。
「…報告って?」
『無論、ライドウの事をだ。こうなってしまった以上、サマナーどころか帝都守護代としての任も熟せんだろう』
未だ眉間に深い皺を刻むお目付け役に、それ以上何も言えず口を噤む。
原因もそうだが、ライドウ本人に戻る方法も分からない状態では、下手に行動するより上の指示を仰いだ方が確かなのは間違いないからだ。
(でも、それで元に戻れなかったら…?)
ライドウ達の会話でしか聞いた事は無いが、ヤタガラスはかなり厳粛で実力を重視する組織らしい。
裏切り者や規律に反した者へ容赦なく制裁を加え、実力の無い者は慈悲なく見放す。
もし責務を果たせないと判断されれば、ライドウの名を剥奪され、葛葉一族から破門。
最悪、悪霊憑きとして処刑されてしまうかもしれない。
そんな未来を想像し、人修羅は恐怖した。
「い、一日!」
それだけは回避しなければと、焦るあまり裏返ってしまった声を上げ、驚いたゴウトが耳とヒゲをピンと立てる。
「一日だけ時間を下さい! その間に何とかするから!」
必死の様相で訴える姿に何を思ったのか、やがて年長者らしい微笑を浮かべて口を開く。
『…良かろう。だが今日中にライドウに戻れぬ様であれば、我はありのままを報告するからな』
その言葉に首の皮が一枚繋がった気分になった人修羅は、ホッと胸を撫で下ろしたのだった。
「お話、終わった?」
一先ず話し合いに決着がついた所で、ライドウに取り憑いた悪霊が話しかけて来た。
どうやら、此方の会話を邪魔しないよう大人しく待っていたらしい。
「えっ、あぁ、うん。終わったよ」
その意外な聞き分けの良さに人修羅が目を丸くする一方で、意識を向けられた悪霊は途端に不貞腐れた表情になる。
放ったらかしにしてた事に腹を立てているのかと相手の顔色を伺うと、日が昇った室内でなお輝く金の双眸が真っ直ぐにこう告げた。
「お腹すいた」
その余りにも子供らしい発言に、人修羅はさっきまでの緊張が解れると同時に笑みを零す。
「それじゃあ、何か食べに行こうか」
子供口調の悪魔を相手にする時みたく、身体を拘束していた腕をやんわりと退けてベッドから立ち上がる。
その勢いでつい頭を撫でようと手を出したが、以前子供っぽい扱いをして不機嫌になったライドウを思い出し、慌てて引っ込めた。
もはや朝のルーティンと化している着替えの手伝いを終えると、そこには見慣れた姿の『十四代目葛葉ライドウ』が現れる。
と言っても、武器や管は凶器になるので身に付けさせなかったが。
「それでは、外に出る前に幾つかお願いがあります」
普段では決して見る事の出来ない純粋な眼差しを向けてくるライドウに、少したじろぎそうになりながらも人修羅は正面から向かい合う。
「まず第一に、人や動物を殺さない事。傷付けるのもダメ」
人差し指を立てて言い聞かせる様に、それでいて高圧的にならない様に。
「それから、何があっても傍を離れない事。どうしても…例えば、トイレに行きたい時とかは、我慢しないで言ってね」
人間だった頃の癖でつい『約束』と言ってしまわない様、細心の注意を払って言葉を選んだ。
人修羅の話を素直に聞き入れたのか、ライドウはこくりと小さく頷く。
そんな仕草にすら愛おしさで胸が高鳴る自分に、内心で叱咤しつつ誤魔化す為にドアへと向かう。
「よし、行こう!」
語気まで強くなっている事に目を逸らし、ドアを開けると同時に女学生へと擬態する。
そうして部屋を出ようと一歩を踏み出した瞬間、伸ばした髪が後ろから思い切り引っ張られた。
「うわっ!」
仰け反った勢いで倒れそうになるのを、片足を後ろに出す事で何とか踏ん張る。
その体勢のまま目線を更に上へ向けると、上下逆さまになった視界に不機嫌な表情のライドウが。
「えっと…どうしたの?」
何か不味い事でもしてしまったのだろうか。と恐る恐る尋ねると、彼は綺麗な顔をこれでもかと歪ませて口を開いた。
「その格好、ヤダ」
そのセリフに、人修羅は愕然とした。
一先ず海老反り姿勢を戻して、髪を引かれたままライドウへ向き直る。
「ヤダって、女学生が?」
改めて尋ねると、こくん、と小さくもしっかりと頷かれてしまい頭を抱える。
たとえ嫌と言っているのが悪霊の意思でも、目の前に居るのがライドウ本人である以上、その言葉は《命令》として従わざるを得ないからだ。
悪魔ってホント不便だなぁ。と半ば他人事の様に捉えながら、人修羅は擬態を解く。
『お、おい人修羅!?』
それに驚いたゴウトが、驚愕の声を上げた。
傍から見れば、人修羅がライドウ以外の命令を聞き入れた事になるのだから無理もない。
とは言え、本来の姿では必要以上に目立ってしまう為、折衷案としていつもの半ズボンとシャツ姿に身体の模様と項の角を隠す。
「これならいいかな?」
また否定されたら、裏をかいて別の姿に成るしかない。そんな思いで伺うと──
「うん、おかあさん!」
屈託のない笑顔で抱きつかれ、人修羅はとうとう思考停止した。
─────
晴海町のイタリアンレストラン内。開店してまだ間もない時間帯。
「はぁ……」
お客の少ない静かなテーブル席で、人修羅は小さくため息を吐いた。
チラリと周りに目をやると、欧州と大正レトロが混じったオシャレな店内に、これまたオシャレな日本人と在日外国人が、自分たちと同じようにテーブルを囲んで食事を楽しんでいる。
こんな時でなければ人修羅もこの空気を楽しめたのだろうが、今は状況が状況なだけに彼らが少し恨めしい。
ただでさえ、悪魔の身であるため料理の味を感じられないというのに。
「おかあさん、食べないの?」
そんな時、ラウンドテーブルを挟んだ向かい側で、フォークを片手に此方を見つめていたライドウが問い掛けてきた。
公衆の面前で見た目10代の少年を『おかあさん』呼びする書生という異様な光景に、数人の客と従業員が視線を向けてくる。
「あぁ、うん…食べるよ」
そんな好奇の目には気付かないフリをしてフォークを手に取るが、矢張り呼び方だけは訂正しなければと、そのままライドウと向き合う。
「あのさ」
「うん?」
「その『おかあさん』って言うの…」
本音を言うなら『母親』扱いそのものを拒否したい所だが、彼が人修羅を『母』として慕い大人しくしている以上、訂正しない方が得策なのだろう。
「恥ずかしいから、やめてくれないかな?」
なので代わりに述べた意見もまた嘘ではない為、要望の眼差しでライドウを見つめ返した。
「…じゃあ、何て呼べばいいの?」
すると、こてん。なんて効果音が聞こえそうな仕草で首を傾げられ、人修羅は少しだけ逡巡する。
普段ライドウは、此方を人前で『人修羅』とは呼ばない。
それは何も知らない一般人に正体を隠す為の彼なりの気遣いであり、同時にトラブルを避ける為の最善策でもあるからだ。
だから葵鳥や依頼人の前では『助手』とだけ名乗り、会話も最小限に抑える事で上手くやり過ごしていた。
(本当は名前を言えば良いんだろうけど…)
ボルテクス界に居た頃から大半の者に『人修羅』と呼ばれ続けたせいか、本名に対する自覚が薄れてしまっているのもまた事実。
それに名前で呼ばれると、自分が人間だった事を嫌でも思い出してしまい鬱屈とした気分になってしまうのだ。
(…でも、今はそんなワガママ言ってる場合じゃないか)
そう気持ちを切り替えた人修羅は、ライドウの瞳を真っ直ぐに見て名前を告げた。
「【人修羅】」
それを聞いたライドウが、小さく唇を動かす。
「【人修羅】…【人修羅】……うん」
まるで宝物に触れるかのような優しさで反芻され、途端に気恥しくなってくる。
『おい、気安く真名を明かして良いのか?』
そんな中、人目に付かないようテーブルの足元に隠れていたゴウトが、不安そうな声で尋ねてきた。
悪霊もそうだが、人ならざるものに名前を教える事は本来、魂を曝け出す危険な行為とされている。
真名を掌握される事で呪いの対象にされたり、相手の意のままに操られてしまう可能性があるからだ。
だがそれも混沌王たる人修羅には意味が無く、逆に名を握った相手が、その存在の強大さに押し潰され自壊する可能性の方が高い。
「大丈夫、名前くらいじゃ縛られないよ」
だからこそ、これは単純に気分の問題であった。
───続く───