この暗がりのなかで いつから、そして何がきっかけで髪を伸ばし始めたのかはもう忘れてしまった。ただ、父様と同じ髪型にしたときは、何となく誇らしく感じたことを覚えている。「三つ編みなんて女みたいだ」と憎まれ口を叩いてきたトーマスが、「じゃあトーマスは私のことを母さんと呼ぶんだね」と父様にからかわれて、反論できず半泣きになったことも(あの子は昔から父様が大好きだったから)
研究所で働いていたときは、もはや願掛けのようなものだった。
この髪があのときの父様よりも長くなったら、父様は帰ってくる。背中まで伸びたら父様は帰ってくる。腰まで伸びたら父様は帰ってくる。膝まで伸びたら―
行方不明の科学者について何の情報もよこさないDゲイザーを握りしめながら、毎朝鏡の前で髪の長さを確認した。
「Ⅳ兄様のように格好良くまとまらないのなら、せめてⅤ兄様みたいなサラサラの髪になりたかったたです」と口を尖らせたのはⅢだ。私は第2希望なのかと思ったが、どちらかと言えば可愛らしい自分の巻き毛について末の弟が悩んでいたことは知っていたので、ただ苦笑するだけに留めておいた。
クリストファー・アークライトの名を捨て、Ⅴとして新しい洋服に袖を通しトロンの前に立ったとき、仮面の奥の目が満足そうに細められたのを見た。
「やっぱりね。君の服は青を基調にして正解だったよ。君のその銀髪によく映えると思ったんだ」
昔はよく一緒に星を見たよね。子どもの高い声が紡ぐその言葉に、思い出を懐かしむような声色を感じたのは私の気のせいだっただろうか。
「君の髪はどんな星よりも美しかった。月の光のようだったよ」
そこまで話したとき、さっきまで静かに話を聞いていたはずのカイトに強く髪を引っ張られた。
「カイト、痛い」
「あんた実の父親にそんなこと言われて喜んでたのか」
何が気に障ったのか、一日の終わりの寝物語に雑談を振ってきた弟子は随分とむくれている。
「君が言ったんじゃないか。私がいつから髪を伸ばしているのか、どうして切らないのか聞きたいと」
「理由を聞いただけだ。どんどん脱線していった挙げ句に父親との惚気話を聞かされるなんて思ってもいなかったぞ。あの三つ編みまで父親の真似だったのか」
好きだったのに、と小さな声が聞こえたような気がしたが、敢えてそれには触れないようにした。普段のカイトはからかうと楽しいが(我ながら良い性格をしていると思う)、機嫌を損ね始めている彼を刺激して良い結果になった試しがない。好きだったのは三つ編みのことか私のことか尋ねるのはまた今度にしよう。
「悪かったよ。懺悔の用意はできている」
あんた実は俺のこと馬鹿にしているだろう!と怒鳴りながらも私の髪から手を離さないカイトが可愛くてたまらない。他の研究員がいるときには決して見せない、年齢よりも幼い一面。ハルトには優しい兄で、遊馬と凌牙には頼もしい兄貴分のようだけれど、私にとってのカイトはやはり可愛い弟子のままだった。今後の研究について話し込んでいたら随分長引いてしまったなこんなに暗くなってからだと家に戻るのも大変だろう部屋は沢山あるんだ泊まっていけあぁでもこの時間ハルトはもう眠っているあちこち歩き回ってハルトを起こすのは可哀想だあんたはこのまま俺の部屋に泊まっていくといいベッドは1つしかないがそれとは別にちゃんとソファが―などという、およそスマートとはほど遠い誘い文句にもつい絆されてしまうというものだ(そして結局ソファは使わず、二人でベッドに入って尚横にならずにとりとめもない会話を続けている)
全く…とか何とか毒づきながら、私の髪を梳くカイトの手つきは穏やかだった。昔、まだカイトにデュエルを教えていた頃を思い出す。ハルトのことで気苦労が絶えなかったはずなのに、カイトは事あるごとに私の世話も焼きたがった。クリス疲れていませんか?クリスもホットチョコレート飲みますか?すみませんデュエル中にめちゃくちゃになってしまいましたね。クリスの髪、俺が結び直してみても良いですか?…まるで宝物に触れるかのようなカイトの手つきに、あぁ自分はこの少年に大切にされているのだと感じて、胸が暖かくなった記憶がある。あの日常が、再び手に入るとは思わなかった。
「トロンと同じだというのが気に食わないが…俺も、あんたの髪は月の光に似ていると思う」
緩やかに動いていたカイトの手が止まった。僅かに引っ張られる感覚と背中に降ってきた暖かさから、カイトが私の髪を指に絡ませたまま、もたれかかってきたのだとわかる。頼もしくなったのはいいが、同時に生意気な態度も目立つようになったかつての弟子からふと甘えられるのは悪くない。目を閉じながら緩やかな時間に身を委ねられたのも
「―――俺は月で死んだんだ」
カイトの次の言葉を聞くまでだった。
死んだ。
心臓が一気に早鐘を打つ。
誰が。カイト、カイトが。どうして。月に行って。月に眠るドラゴンを。ヌメロン・コードの力を。月で。私がカイトを月に送り出して。飛び立つロケットを見て安心して。カイトが。月で。
カイトが月で死んだ。
「月はとても寒かった」
背後から、カイトが静かに語りかけてくる。手は止まったままだ。カイト、どうして髪を梳いてくれない。どうして動いてくれないんだ。
こんなにも側にいるのに、どうして生きていることを私に伝えてくれない―
「目も殆ど見えなくて。俺たち以外には音もなくて。とても寒かった。風も音も、全てが凍りついた世界だった」
呼吸が浅くなる。カイトの声を聞きながら、自分の身こそゆっくりと凍てついていくようだった。
風も音も、全てが凍りついた暗い世界。そんな世界で、お前は、たった一人で―
「ここから見るとあんなにも落ち着く柔らかなあの星が…昔あんたと一所に何度も見上げたあの星は、凍えるほどに冷たかった」
「カイト、」
―でもここは、暖かい―
意のままにならない唇がやっとの思いで紡ぎ出した言葉は、信じられないほどに優しいカイトの声で遮られた。背中に預けられた重みが増し、吐息が首にかかるのを感じた。
それは、確かな生命の重みと息吹だった。
「あんたの髪が月の光なら、俺はあんたの髪の中で死んだんだな」
寒さで凍死したんじゃない。暖かな光に包まれて眠りについたんだ。
がくんと、こちらが思わずよろけるほどの体重が背中にかかった。
「…カイト?」
規則正しい呼吸が聞こえる。
「……眠ってしまったのか?」
返事がない。どうやらそうらしい。
「…突然妙なことを言い出したと思ったら…」
眠気混じりに支離滅裂なことを言い出したのか、それとも、眠気で誤魔化しながらずっと考えていたことを打ち明けてくれたのか。…恐らく後者である気がする。カイトは意外とロマンチストで、そして、私がカイトを月という死地に送り出した事実をずっと気にしていると知っていた。
髪に指を絡め且つ背中に密着したままという、微妙過ぎる位置で寝入ってしまったカイトを何とか起こさないよう苦心しながら姿勢を変える。
どうにか向き合うことができ、そっとシーツに横たえたカイトが微かに睫毛を震わせた。年齢にしては薄い胸が、呼吸に合わせて上下する。
生きている。
ここにいるカイトは生きている。
だが―
ゆっくりと、音を立てぬように、細心の注意を払って、カイトの上に覆い被さる。
月光のようと評された髪が、さらさらとカイトの周りに落ちる。月が、カイトを閉じ込める。
銀の檻。
カイトを一人で死なせてしまったことを、私はずっと後悔していた。青い空の下で弟たちを取り戻し、しかしまだひとつ失われたままの魂があると知ったときの絶望感も、生涯忘れることはないだろう。
だが――
―俺はあんたの髪のなかで死んだんだな―
カイトの最期の場所が私なら
カイトがずっと私のなかで眠り続けているというのなら
それはそう悪くない、とても甘美な想像のように思えた。