最後の星空 その人が穏やかに語る宇宙の話は、どんな本やプラネタリウムの解説よりも俺の心の中に入っていった。
クリスもといクリストファー・アークライトに初めて会った日のことは今でも覚えている。
あのときの俺にとって、世界は全て敵だった。ハルトに構わず研究に没頭している父さんも、碌な治療法も見つけられないくせにハルトのことを実験動物のように扱う周りの研究員も、そんなハルトを守ってやれない自分自身も。
それなのに
「はじめまして。Dr.フェイカーから話は聞いているよ。君が天城カイト…君、だね」
そう言って柔らかく微笑んだ彼の手を、何故とってしまったのか。優しく握られた手を、何故僅かにでも握り返してしまったのか。
思えばそこから、俺にとって彼は特別だったのかもしれない。
特別な、光。
クリスは優しいかと思えば厳しく、大人かと思えば子どものような人だった。
デュエルで徹底的に俺を叩きのめしたあとで「そう言えばハルトの具合はどうかな」と尋ねてきたり、難しい顔をして映像と向かい合っていたかと思えば「今夜は晴れるみたいだから一緒に星を見に行こうか。この前の星座の話の続きをしてあげるよ」と別に頼んでもいないことを声を弾ませて提案してきたり。……別に頼んではいないが、楽しくないわけでもなかった。
俺と代わる代わる天体望遠鏡を覗き込みながら宇宙について語るクリスは、とても楽しそうだった。
「父様から教えてもらったんだ」と前置きはしていたが驚くほどに博識で、恐らくただ教えてもらっただけではないのだろうと感じさせた。俺がクリスに伝えられたのは、せいぜい七夕伝説ぐらいだ(それだって、昔ハルトが「仲良しだったのに一年に一回しか会えないなんて可哀想だね…」と呟いたから覚えていたに過ぎない)
「そんな話があるんだね…でもねカイト、その話に登場するベガとアルタイルは、実は約15光年も離れているんだよ」
「15光年?じゃあ一晩で会うなんて無理ですね」
ハルトの優しさを見習いたいと思いつつもつい現実的な返事をしてしまった俺に、クリスは微笑んだ。
いつもとは違う笑みだった。
「そうだね………。でも、会えるといいなと思うよ私は」
会いたい人に、会えるといいなと。
その場を一瞬包んだ不思議な空気をかき消すように、クリスは明るい声をあげた。
「そうだカイト、北極星を探してみようか」
「北極星?」
「そう、えぇと、角度はこのぐらいでいいかな…確かこの方向に………あ、あった」
見てご覧カイト、と促されて天体望遠鏡を覗き込んだ先には、白く輝く星があった。
「北極星は動かない星と言われていて、まぁ厳密に言うと動いていないわけじゃないんだけど、その特徴から昔は旅人や船乗りの道標になっていたんだよ」
望遠鏡を覗き込む俺に、クリスが頬を寄せてくる。キラキラとした、それこそ星の光のような髪が当たって擽ったい。
「道標…ですか」
「昔は電気なんかないからね。いつも同じところにあって、たとえ周りが暗闇でも自分たちを正しい方向へ導いてくれる、力強い星だったんだろうね」
たとえ周りが暗闇でも自分を正しい方向へ導いてくれる力強い星。
道標の星。
ならば、俺にとっての北極星は、間違いなくクリスだった。
◇◇◇
「クリス!」
雨で濡れたワイシャツが肌に張り付く。水溜りを避けることもなく走り続けたせいで、靴の中まで濡れている。
「待ってくださいクリス!!」
激しい雨音が声をかき消す。もしかしたら、クリスには俺の声が届いていないのかもしれない。否、そうであってほしい。
クリスが、俺の声を無視するなんて、そんなことは―
「何処へ、何処へ行くのです?!」
やっと追いつき掴んだ腕は、しかし恐ろしいほどの勢いで振り払われた。はずみで尻餅をつく。
「クリス…?」
雷鳴。世界を砕き壊すような。
稲妻に照らされたクリスの顔は、かつて星空の下で柔らかく笑っていたそれと同一人物のものとは思えなかった。
「クリス…」
星空の下で柔らかく笑っていたクリス。満天の星空を見上げながら「こんなに星が多かったら、いつか空が埋め尽くされてしまいそうですね」なんて馬鹿なことを呟いた俺に「カイトは面白いことを考えるね」と微笑みかけてくれたクリス。
「でもね、星にも寿命があるから。勿論生まれる星もあるけれど星も死んでしまうんだよ」
憎悪を隠さず俺を睨みつけるクリスを見ながら、俺はクリスの話を思い出していた。
『大きな星は超新星爆発を起こして、ブラックホールになることもある』
クリスの中で爆発が起きた。俺の知らない、でも確実に俺にも関係のあることで。
『小さな星はゆっくりと冷却されてやがて消えていく』
クリスの中で冷却され消えていく。昨日までは確かに俺に向けられていた優しさが。
俺の星が、死んでいく。
こちらを振り返ることもなく遠ざかっていく背中を見つめながら、もう俺には立ち上がる気力も残っていなかった。
それが、俺の星空から北極星が消えた夜だった。