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    水無月

    @TJu2ni3

    手芸と小説のYGO二次創作
    小説…カイⅤカイ(ZEXAL)、了スペ(VRAINS)

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    水無月

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    カイト帰還後。
    前半クリス視点で後半カイト視点。

    願い       カイトが帰ってきた。

     それを聞いたとき、自分がどのような表情をしていたのかはわからない。ただ、ハートの塔に向かわねばという気持ちだけで動き出した。家族を何よりも大切に思う彼だ。そこにいるに決まっている。
     

     最後の決闘は、九十九遊馬が制した。ならばアストラルは、彼の望みを叶える筈だ。全てを諦めず、全てをその手に掬い取ろうと戦い抜いた、彼の半身の望みを。その優しい願いのなかに、あの子が入っていないわけがない。あの子が帰ってこないわけはなかった。

     それでも、ヌメロン・コードは未知の力だ。遊馬がどんなに願おうと、アストラルがどんなに力を尽くそうと、叶わない可能性はあった。科学者である私は、現実の無情さと祈りの無力さとを知っている。
     知りながら祈った。
     それが、今。



     初めて会ったときのカイトは、手負いの獣のようだった。トーマスより1つ年上だと聞いていたが、小柄で華奢な体。だが、意思の強そうな、自分を非力な子ども扱いする存在全てを拒絶するような、鋭い目つきをしていた。今思えばそれも当然だ。狂気に取り憑かれたかのような父親に背を向け、正気を失ったハルトをたったひとりで守ろうとしていたのだから。あの頃のカイトの世界には、敵とハルトしかいなかった。

     「貴方もデュエルをする、んですか」
    そんな態度が軟化したのは、些細なきっかけからだった。研究に行き詰まり、気分転換にデッキ構築を見直そうかとテーブルにカードを広げていたら感じた視線。まだ子どもの面影を残す高い声に振り返ってみると、僅かに熱を帯びた青灰色の瞳がこちらを見ていた。
     「する…というよりしていた、かな。以前はよく弟たちと遊んでいたのだけど」
     答えた瞬間しまった、と思った。弟。弟と遊ぶ。それはカイトの胸を抉る言葉だ。
     だが、こちらの焦りに反してカイトは更に問いかけてきた。
     「強い、ですか。…貴方は」
     「滅多に負けたことはないよ」
     それこそ滅多に見たことのない他人に話しかけるカイト、というものに興味を持ち、気づけば口が動いていた。
     「貴方も、ということは君もやっているということかな。どうだろう、一戦交えてみようか」
     その瞬間、氷河を思わせる静かな瞳が、確かな闘志を宿らせて煌めいた。
     
     結論から言えば、カイトは決して弱くはなかった。駆け引きを良しとせず、防御を考えない攻撃特化型デッキは、良くも悪くも真っ直ぐな彼自身を彷彿とさせた。やや向こう見ずで荒削りな戦法だが、洗練されればもっと強くなるだろう。
     悔しそうに膝をつくカイトに手を差し伸べれば、驚いたような顔をされた。なんだか今日は、彼の色々な表情を見られた気がする。
     「有難うカイト。久しぶりに手応えのあるデュエルが出来て楽しかったよ」
     そう言うとカイトは俯いてしまった。
     「いえ…。やっぱり俺なんかまだまだでした。早く強くならなくちゃいけないのに…」
     強く“ならなくちゃいけない”?空いている椅子を勧めると、一戦とはいえ白熱したデュエルに疲れていたのだろう、カイトは素直に腰をおろした。
     「ハルトを…弟を治すための鍵がデュエルにあるかもしれないんです。俺は弟のために強くならなくちゃいけない…」
     …医療にデュエルが必要だということがよくわからないが、ここはかの天才Dr.フェイカーの研究施設だ。私などでは理解できない実験結果や研究成果があるのかもしれない。それよりも私の気を惹いたのは「弟のために」という言葉だった。

     トーマス。
     ミハエル。
     私の大切な弟たち。
     私が不甲斐ないせいで、施設に預けざるを得なかった弟たち。私が守れなかった………

     「君さえ良ければ、私が君にデュエルを教えてあげようか」
     カイトは弾かれたように顔をあげた。
     「いいんですか?」
     白い頬が紅潮していく。弟を守れるかもしれないという希望が、憔悴していたカイトの声を弾ませていく。
     「そうしたら俺は強くなれますか?強くなれそうですか?」
     「なれると思うよ」
     矢継ぎ早に尋ねるカイトに微笑みを返す。
     私はカイトに自分を重ねていた。自分の願いを委ねていた。

     君を私より強くしよう。
     君に弟を守る力をあげよう。
     君に弟と一緒にいられる時間をあげよう。


     一度打ち解けてみれば、意外にもカイトは人懐っこくて可愛らしい少年だった。周りに人がいる時こそ張り詰めた態度を崩さなかったが、二人きりになればクリスクリスと私のあとを付いてまわり、色々なことを話したがったし知りたがった。ハルトにも改めて紹介され、その容態の重篤ぶりに私は言葉を失ったが、カイトは「ハルト、この人はクリスだよ。これから兄さんのデュエルの先生になるんだ。兄さん絶対強くなって、お前を治してやるからな」と優しく声をかけており、こんなに柔らかな表情も出来るのかと驚いたものだ。


     そう。
     カイトは優しい子だった。

     私がカイトと2歳しか離れていないと知ったとき、カイトはとても驚いていた。
     「クリスは凄いですね…俺と殆ど変わらないのに、大人に混じって立派に働いて研究して…」
     俺なんか、自分とハルトのことで精一杯なのに、と俯いて呟いた姿に、それは違うと言ってやりたかった。私は弟たちを守れなかった兄なのだと。父様を追いかけている子どもに過ぎないのだと。


     そう。
     立派だったのはカイトの方だ。
     私が父様を失って絶望している間、カイトは父親であるDr.フェイカーといずれ対峙する決心をしていた。私が離してしまった弟たちの手を、カイトは決して離さなかった。

     「クリスは大人だからコーヒーのほうがいいかと思って入れてたんですが…じゃあ今度からは、ハルトや俺と同じホットチョコレートでもいいですね!」
     だが、俯いていた顔をぱっとあげたカイトが明るく笑っていたので、その話は私が「そうだね、いつかお願いするよ」と答えることで終わった。


     カイトは私に様々なことを話してくれた。
     「俺とハルトが暮らしていたところは自然が豊かで、夜になったら星空が凄く綺麗に見えたんです。クリス、星お好きでしょう?だからいつか一緒に見に行けたらなぁって」
     「それでハルトが近くで見たいって言うから。でも俺もあんなに青い蝶は初めて見ました。クリス虫採りとかしたことありますか?楽しいですよ」


     ずっと続くと思われていた、確かに流れていた平和な時間の中で交わされた約束。
     それらは全て、果たされることなく潰えた。あの雨の夜に流され、雷に打たれて消えた。
     

     カイト。
     君が飲むのと同じホットチョコレートはどんな味がする?
     君が私に見せたいと言っていた星空はどこにある?
     あんなにひらひらと飛び回る蝶をどうやって捕まえるんだ?

     結局私は何も知らない。
     沢山の希望をカイトに与え、沢山の夢をカイトに思い描かせた挙げ句、あの雨の夜にカイトを捨てた私は。
     


     再開したカイトは、本当に強くなっていた。
     デュエルで私を負かすほどに。
     父親と決着をつけると明言するほどに。
     真実を知って尚臆せずトロンと向き合うほどに。
     そして



     「…だから俺は月に行く。俺が行かなければならない。この2匹のドラゴンの謎を解くために」
     そう告げたカイトに、私はそうかとだけ返した。
     「止めないのか」
     「止めてほしかったのか?」
     君の決心を、私なんかが覆せる筈ないだろうに。思わず苦笑がこぼれた。外は風が少しおさまってきたのだろうか。いつもより雪の降り方がおとなしいような気がする。
     「いや、そういうわけじゃないが…」
     そこでカイトは、子どもが悪戯を企んでいるような笑みを浮かべた。
     「…もしあんたが俺を止めようとしたときは、あんたが尻餅をつくぐらい思い切り振り払ってやろうと思ってた」
     生憎ここに降っているのは雨ではなく雪だがな、と面白そうに続ける。その意味が分からないほど私も冷徹ではない。
     「…っ」
     言葉に詰まった私を見て、カイトは今度は悪戯が成功したときの子どもの顔で笑った。
     「冗談だ。あのときのことは、もう全て片が付いているだろう。俺もあんたも。…父さんたちも」
     あのときの自分の行動については、後悔も反省もしたことがある。だが逆に、カイトに刻みつけてしまったであろう傷を思いながら、ああするしかなかったのだと正当化したことも一度や二度ではない。それを敢えて軽口にするカイトは、父様たちのことにも言及してくれるカイトは、やはり優しかった。

     「賛成してくれたのならクリス、やることは山積みだぞ。遺跡の更なる調査、距離速度の計算、ロケットの開発、宇宙服の用意、…オービタルにも手伝わせるか。バリアンのことも考えなければ」
     そう言って装置の方に向き直ったカイトは、もう私を見上げて瞳を輝かせていた子どもではなかった。自分の運命と向き合い、家族と仲間を守るために命すら賭けようとする、一人の戦士だった。

     「…たとえ一時でも、君の師であったことを誇りに思うよ」
     小さく呟いたつもりだったが、積もった雪が周りの音を吸収してしまうこの静かな土地では、十分カイトの耳に届く大きさになっていたらしい。カイトが振り向いた。

     その纏う雰囲気が、いつも苛烈なカイトに似合わずとても静謐で。
     「…カイト?」
     こんな姿も見せるようになったのだなと。  
     人懐っこくて可愛らしかった、あの少年が。クリスクリスと私の周りを付いてまわっていた―



     ふと、風がやんだ。
     雪は、音もなく下へ落ちてゆく。



     「クリス」
     カイトが微笑う。

     「あんたが俺を捨ててくれたから、俺は強くなれた」
     穏やかな表情で。

     「あんたが戻ってきてくれたから、俺は幸せになれた」
     柔らかな声で。

     「俺の魂はずっと、……貴方と共にあったんだ。」
     今までも。きっとこれからも。

     「だから」
     あたたかな手が頬に触れる。


     ―泣かないで―



     
     空が昏い血の色に染まっていく。時を操る黄金の竜が、私たちの“終わりの時”をも定める。
     カードの解析もロケットの開発もオービタル7の改造も、限られた時間の中で、カイトは全てやってのけた。大切な仲間にも愛する家族にも一切の詳細を告げず、しっかりと前だけを見据えて、己の為すべきことをやり遂げた。
     そんなカイトが決意して歩む道を照らす灯りになれるのなら、命など惜しくはなかった。トーマスも独りでは寂しいだろうし、今度こそミハエルの手を離すつもりもない。
     タキオンの放つ強力で眩い閃光に目を灼かれながら、それでもその向こうに冴え冴えとした月の光が見えるような気がした。


     
     次に目覚めたときには、全てが終わっていた。トーマスからの信号が戻っている。ミハエルが側にいる。空は明るい。
     数多の希望を背負わされたあの幼い少年が、それでも最後まで心折れることなく奇跡を起こしてみせたのだ。そしてその奇跡から繋がる願いは、もはや神にも等しい存在となった彼の半身が受け継いだ。

     ならば帰ってくる。帰ってくる筈だ。ヌメロン・コードでしか蘇らせることの出来なかった唯一の魂が。

     ふらつく足でなんとかハートの塔まで辿り着き、震える指でセキュリティを解除する。指先が冷たくなっていた。

     エネルギー体となり粒子化した私たちと違って、カイトは肉体的に完全な死を遂げた。そうでなくとも、元々フォトンの負荷で弱っていた体だ。
     彼は五体満足で帰ってくることが出来たのだろうか?もし積もりに積もったダメージが、彼の体を蝕んでいたとしたら?異世界から戻ってきたときの、体も心も変わり果てた父様を思い出す。もし、あの子の体や心に何かあったとしたら―


     「クリス?」
     ここまで来て何を逡巡することがある、と己を叱咤して進めようとした歩は、あどけない声によって止められた。
     「ハルト…?」
     思い出の中の痛々しい姿とはかけ離れた彼の弟が、目を丸くしてこちらを見ていた。
     「兄さんに会いに来てくれたの?!」
     無邪気な顔が輝いたかと思うと、瞬時に手を取られる。
     「ハル…!」
     「来て!こっちの方が早いから!!というかクリスは関係者なんだから、直接居住区の方に登って来れば良かったのに!」
     ハルトの弾んだ声と軽快な駆け足に、とりあえずカイトの無事を確信する。そして、ハルト自身の健康も。
     カイトが戦い抜き、守り続け、勝ち取ったその証だ。

     よく頑張ったな。カイト。



     「兄さん!クリスが会いに来てくれたよ!!」
     ハルトが勢いよく開いたドアの向こうに、懐かしい黒いコートが見えた。


     フォトンモードではないことを表す黒いコート。
     彼の戦いは漸く終わったのだ―


     「は?クリス…?」
     心底驚いたという顔でカイトがこちらに歩み寄ってくる。その姿に、かつての面影が重なった。

     「なんであんたがここに…?酷い顔してるぞ。おい、まさかここまで自力で来たんじゃないだろうな。あんた達が滞在していたホテルとここは随分離れていた筈だが」
     『クリス!わざわざ来てくださったんですか?俺のデッキ調整なんか明日でも良かったのに…。だってクリス疲れた顔してますよ。今研究大変なんでしょう?』

     「そのまさかか。とりあえず座れ。今何か持ってくる」
     『とにかく座ってください!いえ俺はどこでもいいですから。ちょっと待っててください、お茶入れてきますね』

     「…おいクリス。本当に大丈夫か」
     『クリス?大丈夫なんですか?』

     世界の命運をその傷だらけの肩に背負いながら、私に微笑んで別れを告げたカイト。
     家族の問題をその小さな肩に背負いながら、私のことも気遣って笑っていた幼い頃のカイト。
     黒いコートを纏った青年と、サスペンダー姿の少年がこちらに手を差し伸べる。

     「『クリス』」


        ああ―
          私のカイトが還ってきた― 


    ◇◇◇ 



     冷静沈着に見える自分の師が、その外見とは裏腹に激情家の熱血漢であることはよく知っているつもりだった。それでも、WDC終了後、あのデュエルをどこまで一般に流して良いものか判断するために録画映像を確認していたら、たかだかライフを400削られたぐらいで鬼の形相で怒り狂うクリスの姿を発見して椅子から転がり落ちそうになった。あれはアウトだ。画像は消してやったから感謝しろよクリス。昔“デュエリストの生存本能を高めるための実験”とやらで倒れた俺に「立てと言っているだろう!」はともかく、「ここで倒れるならカイトも所詮それまでの男!」と言い放ったのもしっかり聞こえていたし覚えているからな。あれもまだ謝ってもらってない。

     虫も殺さぬような穏やかな顔立ちをして、デュエルでは相手をこてんぱんに叩きのめす。大人顔負けの仕事ぶりを発揮しておきながら、夜になると俺以上の子どもに戻って星空を見上げながら凄いね凄いねカイト見えるかいと騒ぎ立てる。
     クリスの見せる意外な二面性には振り回されも呆れもしたが、それだけではなかった。 


     忘れもしない。
     あれは、初めて“銀河眼の光子竜”でクリスのライフに大ダメージを与えることが出来た日だ。
     俺の攻撃にクリスは一瞬呆けたような表情をして―そしてすぐさま態勢を切り替えて反撃してきた。銀河眼はあっという間に墓地に送られ、敗北を告げる耳障りな音が響く中、俺はいつも通りタイルの床に転がされた。
     「今のはちょっと危なかったよカイト…」
     Dゲイザーを外しながらクリスが近付いてくる。
     「うん、どんどん上達してる。強くなったね」
     俺を助け起こしながら褒めてくれるクリスの言葉が嬉しくて―
     
     その笑顔のぎこちなさに、そのときは気づくことが出来なかった。


     「…よし、これなら…!」
     クリスとの特訓を終え自室に戻った俺は、銀河眼を中心にデッキを組み直していた。クリスの反撃を思い返し、更にそれを躱す罠や銀河眼が有利になるような魔法を探す。気付けば随分時間が経っていたが、漸く満足のいくようなデッキを完成させることが出来た。
     これをクリスに見てもらいたい。
     やっとデュエルでクリスに一矢報いることが出来た喜びと褒められた嬉しさとデッキ完成の達成感と。興奮冷めやらぬままの浮わついた足取りで、俺はクリスの部屋へ向かった。

     だいぶ遅い時間だったが、宵っ張りのクリスなら多分起きているだろう。いつでも入っておいで、と優しい笑顔で教えられた暗証番号を押す。ドアの向こうは、思った通り灯りが付いていた。
     だが―
     「クリス!遅くにすみません、あの、俺…」 
     弾んだ気持ちで飛び込んだ俺を迎えたのは―



     「…ふ…っ うぅ…っ うぐ…っ」
     ―綺麗な銀髪を床に散らし、嗚咽を漏らしながら泣きじゃくる師の姿だった。 



     「クリス…?」
     泣いてる。どうして。
     いつも強くて優しくて落ち着いているクリスが、どうして。   
     「クリス、どうしたんですか…?具合でも悪いんですか?!」
     何があったのかはわからない。けれど、長身を小さく折って、自分で自分を抱きしめるようにして泣いているクリスの姿はとても痛ましく、思わずデッキも放り出して駆け寄っていた。

     「…カイト…?」
     今気が付いたというように、クリスが俺を見上げる。涙で濡れた瞳と光る睫毛が綺麗で、正直心臓が跳ねた。
     「どうしたカイト、私に何か用……」
     「俺のことはいいです!クリス、何があったんですか?大丈夫ですか…?」
     俺の姿を認めた途端師の顔になるクリスに、申し訳無さが募る。でも、俺が来なければこの人は一人で泣いていたんだ―

     「あぁ…情けないところを見られてしまったね…」
     指で涙を拭い、クリスは表情を軋ませるようにして笑った。
     …さっき、俺を助け起こしたときに浮かべていたのと同じ笑顔だった。
     クリスの目線が俺から、床に放り出されたデッキケースへと移動する。
     「デッキ調整の相談かな…?駄目だよカードは大切に扱わないと。せっかく強くなったんだか…」
     ら、と続けたかったのだろうが、その前にクリスの瞳から涙が溢れた。
     「…ひぐ…っ」
     「クリス、本当に俺のことなんかいいですから!」
     どうしようと思いながら、そっとクリスの背中を撫でる。細くて冷たくて震えている、クリスの背中。
     ―この人はこんなに小さかったのか―


     「………弟たちに、デュエルを教えてあげる約束をしていたんだ」
     何とかクリスを落ち着かせ、硬い床から立ち上がらせてベッドの上に座らせた。温かい飲み物でも入れてあげたいが今のクリスの傍を離れるのは心配で、結局ずっと背中に手を当てていた。
     「…弟さんですか…」
     クリスの弟の話は聞いたことがある。俺の1つ下が一人、3つ下が一人。二人ともデュエルが好きなんだよ、いつか会ったら仲良くしてあげてねとにこにこしながら話してくれた。
     「今までも私が教えていて…だんだん強くなって、二人とも楽しそうで…さっきの君みたいに、私を追い詰めるときもあったんだよ」
     
     今日の君を見ていたら、それを思い出してしまって。

     「私が弟たちを施設に預けたんだ。あんなに慕ってくれていたのに。私とのデュエルを、あんなに楽しんでくれていたのに」

     今、弟たちはどうしているだろうか。捨てられたと思ってはいないだろうか。
     迎えに行ったら、また私のことを「兄」と呼んでくれるだろうか。別れる前のように。

     ぽつりぽつりと言葉を紡いでいたクリスだが、そこまで話すと、もう耐えきれないというように俯いて顔を覆ってしまった。
     「……っ…ス………エル……っ…」
     微かに聞こえた涙声は、弟の名前を呼んでいたのだろうか。

     ハルト。
     変わり果てた弟の姿を思い出す。病弱でも、優しくて感受性豊かでよく笑っていた弟は、ここハートランドに来てからすっかり変貌してしまった。虚ろな眼差し。感情の欠落した声。時々、俺を覚えているかさえも不安になる。
     それでも、俺はハルトの傍にいることが出来ていた。ハルトを外に連れだし、話しかけ、昔の思い出話をすることが出来た。

     クリスはそれが出来ない。

     クリスは独りぼっちで、弟たちの様子を知ることすら出来ない―


     「…父様」
     ぽつんとクリスが呟いた。

     「何処に行っちゃったの父様………」


     それは、俺が初めて聞いた、幼な子のようなクリスの声だった。



     クリスは、ずっと我慢していたんだ。
     弟に会えない寂しさも。
     父親の安否がわからない不安も。
     ずっと我慢して、抑えて、大人に混じって働きながら、俺やハルトに優しくしてくれていたんだ。
     俺にデュエルを教えてくれていたんだ。

     一人で、泣きたいのをずっと我慢して。


     「クリス!」
     気付けば、俺はクリスを抱き締めていた。

     「大丈夫…大丈夫です。俺の父さんは帰ってきたんです!クリスのお父さんだってきっとどこかで助けられてます!無事に帰ってきます!!」
      2歳しか離れていないのに俺に比べて随分大人に見えていたクリスの体は、予想よりずっとか細かった。
     ―この人は

     「弟さんたちだって…クリスのことわかってくれてる筈です!だって家族じゃないですか!!離れてたって、クリスの兄弟はクリスの兄弟です!!家族です!!」
           
          こんなに小さかったのか―

     「家族の不安は俺にもわかります。いえ、俺のとクリスのとでは事情が違うけど…でも俺で良かったら、俺で少しでもクリスの気持ちが楽になるのなら、何でも話してください。我慢しないでください…!」
     偉そうなことを言っている自覚はあった。でも、細くて冷たくて震えている小さなこの人に、何とか安心してほしかった。
     「クリス、大丈夫ですから。きっと大丈夫…」
     どん、という衝撃があった。一瞬の狼狽のあとクリスに抱き着かれたのだとわかり、そして

     「ぅ…うわああぁぁ…………ん!!!」
     クリスが大声で泣き出した。

     「父様…父様ぁ…!うあぁぁぁ…!」
     子ども…いや、赤ん坊のようにクリスは泣いていた。いつもの理知的な顔も優しい笑みもかなぐり捨てて、ただただ家族の暖かさを求めて。
     寂しさを訴えて。

     クリスは、泣いていた。
     
     俺はその背中を擦りながら、小さな体を俺の出せる精一杯の力で抱きしめながら、大丈夫大丈夫と繰り返すことしか出来なかった。
     大丈夫です、家族なんだから。
     大丈夫です、きっと戻ってきます。
     大丈夫です、俺が傍にいます。
     だから

     ―泣かないで―







     …まぁ、真相がわかった今となっては、全てはとんだ茶番に過ぎなかったわけだが。

     それ以来クリスは、俺の前で時々泣くようになった。初めてのときのように、抱き締めて慰めたことも一度や二度ではない。
     冷静沈着に見える激情家の熱血漢は、同時に泣き虫でもあった。どこまでも外見のイメージを裏切る男だ。

     さて。
     何故そんなことを思い出したかというと。



     現在進行形で、クリスが俺の前で泣いているからだ。
     ハルトに連れられ死にそうな顔をして部屋に入ってきたかと思うと、何も言わず俺の顔を凝視し、そのまま床に崩折れて泣き出した。
     何なんだあんたは。ハルトが驚いているだろう。
     「ク、クリスどうしたの?僕、手引っ張り過ぎちゃった?痛かった?」
     おろおろしながらクリスの様子をうかがうハルトをそっと押し止める。
     「大丈夫だよハルト。向こうでオービタルとおやつの準備をしておいで」
     「え、でも…」
     「クリスの分も用意するようにと、オービタルに伝えてほしいんだ」
     ハルトの笑顔が輝いた。
     「皆でおやつ?!わかった!僕準備してくる!!」
     クリス元気出して!痛いのなんか飛んでくぐらい美味しいの用意するからね!と、張り切ってパタパタ走っていくハルトを見送り、未だ泣き止まない師に視線を戻す。いつも見上げている存在を見下ろすのは、何だか不思議な気分だった。
     いつかの気持ちを思い出す。

     ―この人は、こんなに―


     「クリス」
     嗚咽に合わせて震える銀髪の前に膝を付く。
     「俺に、会いに来てくれたのか」
     クリスが何度も頷く。その度に涙が床を叩く音がする。
     「…心配をかけたな」
     俺とクリスの関係や年齢を考えると、昔のように抱きしめるのは些か憚られる。さりとて泣きじゃくるのを放っておくわけにもいかず迷いながら伸ばした手は



     凄い勢いで掴まれた。



     「ッ!」
     正直痛い。この細腕のどこにこんな力が。
     伸ばした右腕だけでなく左腕まで爪が食い込む勢いで握りしめられ、さすがにこれはちょっと抗議をしても許されるかと思ったところで、胸元に頭突きされた。

     いや、縋りつかれた…?

     「―君だけが、いなかった」
     俺の左胸に顔を押し付けたまま、クリスがぽつりと呟く。まだ泣いているのか、体温とは異なるしっとりとしたあたたかさが左胸に広がっていく。ちょうど、心臓の上に。
     「トーマスが戻ってきて、ミハエルが傍にいて、空は明るくて、トロンがもう大丈夫だと笑って」
     トーマスとミハエルとは誰のことだと思ったが、恐らくあの生意気なⅣとⅢの本名だろう。
     「なのに…君だけがいなかった……っ」
     死んだからな、とは言えなかった。そういう覚悟は決めていた筈だろう、とも。さすがに俺にだって、それぐらいの人の心はある。
     代わりに、自分の手を、未だ爪を立ててしがみついてくるクリスの手にそっと重ねた。

     かつて、何度も俺に差し出された手。
     弱かった俺を、何度も助け起こしてくれた手。
     実はとても細く、傷だらけだった手。

     興奮しているせいか、クリスの手は温かいを通り越して熱いぐらいだった。
     それじゃあわからないんじゃないかクリス。俺の手だって、今はあんたと同じで温かいことに。

     「…ちゃんと還ってきただろう」
     「自主的に還ってこられたような言い方をするな。連絡も寄越さないで。父様から聞くまで私がいったいどんな気持ちで…」
     宥めたつもりが間髪入れずに反論を喰らった。元気そうで何よりだ。それよりも 
     「父様、ということはトロンが気付いたのか」
     戻ってきたばかりでまだろくに情報収集もできていないが、どうやら異世界とこの世界とは完全に切り離されてはいないようだった。そもそも父さんは実際に異世界への扉を開いたし、トロンに至っては全身をバリアンの力で作り変えられたようなものだ。俺が蘇生したことを、何らかの方法で察したのだろう。
     もしトロンが異変を察し、父さんに確認したのだとしたら。そして俺の父さんが事実を伝えたのだとしたら。そしてトロンがそれを、クリスに教えたのだとしたら。

     …二人の確執は、家族の軋轢はもう消えたと考えて良いのだろうか。
     だとしたら。


     良かったなクリス。あんたの“父様”戻ってきそうじゃないか。
     

     「父親も弟も………俺も還ってきて、何をそんなに泣くことがあるんだか」
     「だからそんな結果論ばかりを…!本当に生意気になったなお前は!!」
     残念だが、涙声で怒鳴られた所で怖くも何ともない。そもそも俺は、あんたに怒って欲しいわけでも泣いて欲しいわけでもないんだが。





     泣かないで、と何度も伝えなかったか俺は。


     正直に言えば、泣きたかったのは俺の方なのに。
     あの嵐の夜も。
     WDCの宇宙フィールドでも。
     七皇との戦いでも。
     いつもいつも、あんたに置いていかれたのは俺の方なのに。

     俺は泣かなかった。だからあんたも泣き止むべきなんじゃないのか。



     今は、俺もあんたも、二人一緒にいるんだから。



     「クリス」
     漸く落ち着いてきたらしい、見かけよりも立ち場よりも実はずっと幼い師に声をかける。
     「あんたせっかく俺に会えたのに、そうやってずっとヒステリー起こしてるだけのつもりか」
     「生意気なうえに自信過剰で失礼だ」
     「恐らく師匠に似たんだろうな」
     今度は間違いなく頭突きされた。痛い。本当に元気そうで何よりだよ。
     全く…とか何とか呟いている小言をかき消すように「兄さん!」というハルトの可愛らしい呼び声が聞こえた。
     「ハルトが呼んでいる。その身なりをどうにかしてから行くぞ」
     ひと息ついた後にやっと俺から離れ、目元を拭いたり手櫛で髪を調えたりと、ジタバタするクリスを眺める。髪が長くて大変そうだなと思うが、切れとは言わない。
     クリスの髪は俺と会ったときからずっと長くて、そしてずっと、綺麗だった。 

     こっちだ、とさり気なく手を引くと、クリスは驚いたような顔をした。
     「どうした」
     「いや…温かいなと思って」

     なんだ、今ごろ気付いたのか。

     「当たり前だろう、生きてるんだから」
     俺はちゃんと還ってきた。
     あんたが俺の隣に戻ってきてくれたように、俺だってあんたの元に還ってきた。
     
     握った手に、力を込める。

     「あんたと一緒に、生きてるからだ」

     クリスの顔を見る。



        ああ―
          クリスがやっと泣き止んだ―

     




     
     
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