こどもたちの王国1
昨日は楽しい夜だった。
週の始まり、月曜日。長い入院期間を経てようやく学校に復帰した桜木花道は、その日の放課後から体育館に顔を出し部活動に参加した。
もちろん体育を含む運動のほとんどはまだ禁止されているため、その日彼がしたことといえば挨拶とストレッチのみで後は見学ばかりであったが、それでも芯から焦がれた場所に立ち仲間たちの練習に打ち込む姿を見られるというのはそれだけで楽しく、また有意義な時間であった。
彼は医者から許可されていた数少ない運動のひとつとしてボールの感触を手のひらに刷り込ませながら、安西と彩子の間で正しいフォームを目に焼き付け、ルールを憶え、戦略を学んだ。
部活の終了後は、部員たちの呼び掛けで退院祝いの食事会が催された。
当初部員たちだけで行われる筈だったそれは、桜木の不在の間にマネージャーとして部に加わった赤木晴子が、彼らがいなくちゃ始まらない、と桜木軍団に声を掛けたことからより大掛かりなものとなった。
軍団は、俺らが参加するなら、と藤井と松井に声を掛け、また別口で三井寿から店選びの相談を受けていた堀田徳男が親戚の経営する店を紹介した関係で堀田一味も輪に加わり、貸し切りにしたお好み焼き屋は皆で肩が触れ合うほどくっついて座らなければならないほどの賑わいぶりだった。
その楽しさがいつまでも胸に残っていたものだから、翌朝桜木は普段よりはやい時間に目を覚ましてしまった。
日ごと冬に近付きつつあるこの時期、朝五時過ぎの空は未だ薄暗い。
細く開いたカーテンの隙間から見える群青色の窓を眺め、彼はもう一度寝た方がいいと分かっていながらそうすることができず、布団を畳んで押し入れにしまい、干しっ放しの洗濯物を取り込み畳んでタンスに収め、親友の家族が差し入れてくれた煮物のタッパーを洗い、朝食と夕食の支度をしてから食事をし、片付けをしてからようやく明るくなってきた空を眺め、そうして制服を掴んで家を飛び出し体育館に向かったのだった。
早朝練習のない体育館は人の気配もなく、まどろんでいるように静かだった。
桜木は大きな窓から差し込む光が照らすゴール下に立ちリングを見上げた。意識せずに立ったその場所はちょうどゴールから右四五度。最もシュートの成功率の高い位置だ。
彼はしばらくそのまま対話するようにリングを見上げ、それからふと思い立って、その床に寝そべってみた。
よく磨かれた床は表面に光を乗せるように輝いている、ように見える。
静かな興奮で熱を持った頬を光に寄せると、木の冷たさが肌に馴染んで心地よかった。
とくとくと緩やかな脈動を感じるのは自分の血が身体を巡る音だったが、それが体育館の鼓動のようで、彼は誰もいないのをいいことにしばらくの間そうしていた。
どのくらいの間そうしていただろう。
もういいか、と気の済んだ彼がくっついた頬を床から剥がしかけたのと同じタイミングで、床についている身体の表面に微かな振動を感じた。
教員か、守衛か、さもなくば朝練のある他の部活の部員かもしれない。そろそろ起きて、教室か部室で時間を潰していよう、と彼が思い床に両手をついたとき、ぼすん、と何か質量のあるものが床に落ちるような音がし、それからドスドスという重い足音が近付いてきた。足音は桜木目掛けて一直線に向かってくる。と、彼の背中から顔の辺りに影が差し、遅れて息を呑む微かな音が聞こえてきた。桜木は咄嗟に首を上げた。
が、それよりはやく誰かの手が桜木の肩を押し留め、もう片方の手で彼の白いシャツを捲り上げる。バッと、音が空気を切り裂くような勢いだった。
「なっ……⁉」
桜木は驚いて身体を硬直させた。誰か――恐らく男だろう――の冷えた手が桜木の背中の表面を確かめるような手つきで触れている。恐るおそる、傷つけないよう細心の注意を払って。その触れ方に彼は、これはきっと部員の誰かに違いない、と確信した。
「お、おい、だいじょーぶだよ。ただ寝っ転がってただけだからよ、……」
桜木はその誰かを安心させるためにあえて明るい声を立てた。声はひっそりとした体育館の空気を伝って広く響く。
部員は手を離し、曲げていた膝を伸ばし立ち上がった。桜木はようやく首を上げ両手をついて身体を起こした。
「…………」
寝そべっていた床に胡坐をかいて見上げた先にいたのは、桜木のライバルである流川楓だった。
彼はその真っ黒く澄んだ瞳で桜木を見下ろし、言葉なく突っ立っている。
桜木は思いがけない人物が自分に触れていたのだと気付き、彼の瞳を呆然と眺めた。と、その目に心配の色が滲んでいることに気付く。――それはそうだろう。今しがたの彼の慌て様。地面を震わせ一目散に駆け寄る音は、視覚など必要ないほど雄弁に彼の気の動転を桜木に教えてくれた。
流川は男雛人形のように整った顔をバツの悪そうな形に歪め、桜木から目を逸らした。
あ、こいつ、恥ずかしがってるんでやんの。そう気付いてしまえば桜木の胸に湧くのは触れられた怒りや嫌悪ではなく優越感や嬉しさだ。
「へへ、心配させちまったみてーだな」
流川は答えない。答えないがそれでもよかった。桜木は再び体育館の床に横になった。
今度は仰向けになって天井を見上げる。普段より低い位置で見上げる分、天井が高く、広く感じる。息を吸い込むと朝の清冽な空気が胸に広がり、身の内にある余計なものが洗われてゆくような気がした。ふっと胸に浮かんだ言葉が息を吐いた拍子に唇をついて出る。
「ありがとよ」
「……あ?」
低い声が喉でいらえる。不機嫌ではなく照れからくる気まずさだろうと桜木は決めつけ、気にすることなく言葉を返した。
「おめー、一度も見舞いに来なかったろ? 意地張るみてーによ。おめーが来ねーから俺、治療とリハビリに集中できた」
「…………」
「それに、おめーが来ねーから、他の奴らも肚決めて来なくなってよ。ふふ、クワなんか、『コートで待ってる』ってよ……でも、おめーが言わなかったのも、そういうことだろ?」
だから、ありがとよ。そう言って目を伏せた桜木を流川はしばらくの間黙って見下ろし、それからようやく返す言葉を見付けたのかゆっくりとしゃがみこみ、
「テーピング、まだしてんのか?」
と桜木の首筋辺りに声を落とした。それが何となくくすぐったくて、桜木はころんと寝返りを打ち、流川に背中を向ける。と、彼はその背に右手を当てた。桜木は驚き背を震わせたが、気にしていないという声で、おうよ、と答えた。
「一応な」
「……歪んでる」
言いながら、流川の手が桜木のシャツを捲る。彼は背中に貼られたテーピングを剥がして直しシャツを下ろすと、最後にその背の中心に右手のひらを添わせた。ちょうど先ほど、桜木が体育館の鼓動を頬で聞いたように。
「へたくそ」
「うっせ。しょーがねーだろ、背中なんだから」
これでも上手くなったんだ、と返す。わざと尖らせた唇は流川からは見えない。
「つまんねー見栄張らねーで、誰かにやってもらえ」
「は? 誰にだよ」
「家族がいんだろ?」
「いねーよ、俺ひとりだもん」
「…………」
口にした言葉を自分の耳で聞いて、桜木はそれが失言であったと気付いた。背に触れている流川の手が硬直したように感じた。
「ひとり暮らしなの、俺」
〝ひとり〟と〝ひとり暮らし〟は意味が違うから、より正しい言葉を使おうと言い直した桜木の言葉は、彼の意図から外れより重い意味を持って体育館の床に落ちる。彼が高校生の身の上でひとり暮らしをしていることは監督である安西や主将であった赤木には伝えていたことで、彼としても隠していることではなかったが、それでも積極的に口にしたことはなかった。同情を寄せられるのは彼にとって決して気持ちのいいことではなかったし、伝えることで誰かに苦しい思いをさせるのも、桜木は嫌だった。
「……悪ィ」
ぽつり、流川が言った。その音の響きこそ、桜木が聞きたくなかったものだ。
「知らなかったんだからしょーがねえ。俺こそ悪かった。突然変なこと言って」
「変なことじゃねえ」
言葉は短く、声は小さく、しかし決然とした意志を感じた。背中に触れる手、細心の注意を持って触れている手に微かな力が加わる。その手の熱が言葉と共に背中から胸に伝わり、彼の胸も熱くなった。
「ん…………」
桜木は喉でいらえ、それから黙った。流川も同じように黙った。
ふたりの静かな時間は、朝練禁止の約束を破る不届き者がいないかを確かめに来た宮城リョータが姿を現すまで続いた。
2
桜木の身体の向こう、開いた扉の奥にぽっかりとした闇が続いているのが見えて、流川は瞬間緊張した。
桜木は彼のらしくない動揺をどう見たのか、顰めていた眉を左右でうねらせ、
「何だその顔は。勝手に押しかけといて」
とわざと不機嫌な声を出した。
駅から家までの一〇分と少しの距離。横に並んで歩く流川の顔を困惑の目で見ていた彼は、今もやはり苛立ちや不機嫌というより、戸惑いや不安という目で流川の白い片頬を見つめている。然もありなん。部活終了後珍しく居残りもせず他の部員と一緒に駅まで自転車を曳いてきた流川が突然、理由を尋ねる同級生たちに向かって〝今日こいつんち行くから〟などと宣言したのだから、困惑しない筈がない。
家までの道のりを歩きながら何度となく、何しに来んだ、何で来んだ、と追及してきた桜木は、ドアを開けてもなお真意の見えない流川をこのまま家に上げてもいいものか、考えあぐねているようだった。
流川は明かりの灯らない玄関の影の方に向かって歩を進めた。
たった今口を開いていた闇は、近付いて目を凝らしても闇のままだ。こちらを向いている桜木の制服の肩半分がその闇に溶け込んでいる。流川は半ば開いた扉をより大きくこじ開け、闇の向こうまで響かせる声で、
「おじゃまします」
と宣言した。そのくっきりとした声量に桜木は目を見開き、それから思わずの苦笑いをにじませた声で
「招いてねーけどな」
と答えた。これがこの日、彼のただいまの代わりとなった。
桜木の家は駅から少し離れた住宅地にある、2DKの木造アパートの一室だった。
重いドアが閉じるバタンという音が静寂に響いて消える。直後、パチンと小さな音が立ち、橙色の明かりがタイル貼りの床を照らした。ようやく見通せるようになった家の奥。低い上がり框の先には何の変哲もない床の板目が続いている。
手前右側には木造のドア――恐らく洗面所かトイレだろう。左側にひとつ、突き当たり右手にもうひとつドアがあり、左手の硝子戸が部屋に続く方だと分かった。
桜木は狭い家の上から下までを眺めている流川に構うことなく、恐らく普段と同じ様子で靴を脱いで奥へと向かった。
流川も靴を脱ぎ彼の背中を追いかける。古い家は廊下も天井も低く、前を歩く黒い背中は窮屈そうに見えた。
硝子戸の向こうには台所と、ふた間続きの和室があった。
古い畳の藺草の匂いが寒気と共に鼻を抜ける。流川は母方の祖父母の家を思い出した。畳は祖父母の家よりも日に焼けていて、そのせいか香りも柔らかい。
桜木は台所側の六畳間の壁際に鞄を置いて、制服の上着を脱ぐとハンガーにそれを掛けた。普段からそうしているだろうと分かる、何気ない自然な動作だったが、学校での彼しか知らない流川にとってそれは違和感のある姿だった。彼は脱いだものをベッドや椅子の背に掛けるような無精はしないのか。
「何だよ?」
流川の視線に気付いたのか、薄いシャツ姿の桜木は訝しげな目を返しながら台所に向かう。押し掛けたはいいが居場所の定まらない流川は雛鳥のように彼の背を追い、真似るようにして手を洗った。木製のタオル掛けに掛けられたタオルを借りて手を拭く。色褪せた黄色やピンクはよく見ると何かのキャラクターのようだったが、テレビを見ないこどもだった流川にはそれが何のキャラクターかは分からなかった。
彼は振り返り、緑色の冷蔵庫を背景に突っ立っている家主に向かって口を開いた。
「風呂」
「……は?」
「風呂、入ってこい」
――テーピングするから。
と、そこまで口にしてようやく合点がいったのか、桜木が今日いちばんの呆れ声を返す。
「おめー……まさかそのためにわざわざ来たんか?」
「そう」
「おっ……、マジか~……」
何か言いかけた――恐らく憎まれ口の類だろう――桜木は、切った言葉を口の中で丸くするように唇をもごもごさせると、
「ったくよぉ、それならそうと先に言えってんだ……」
と、視線を泳がせながらひとりごとのように呟いた。先に言ったらきっと断られるだろうと思っていた流川は彼の言葉に何も返さず、どうやら自分の作戦勝ちだったようだ、とひとりひっそり頷いた。
「おい、」桜木が振り返り、やはりわざと不機嫌な顔をつくって言う。「風呂、準備すんのに時間かかるけど、いーんだな?」
「ん」
念を押す桜木に流川は頷く。彼だってさすがに一瞬で湯が沸くとは思っていない。
「よし。そら、茶ぁでも飲んで、座って待ってろ」
桜木が冷蔵庫から麦茶のボトルを取り出して、水切りに伏せていたコップに注ぐ。
帰宅したばかりの家の空気は秋の夜に冷え切っていたが、彼に熱い茶を淹れるという発想はないようだった。流川も特に構わず、彼の手からコップを受け取り、六畳間の真ん中に置かれたちゃぶ台に向かった。敷かれた座布団はひとつ。ならば座る場所もひとつだ。
「マンガ置いてあっから。それ読んでろ。『日本の歴史』。おめーもバカなんだから、こういうの読んで勉強した方がいーぜ」
言われるがまま、机の上に積まれた本に視線を向ける。ちゃぶ台の半分ほどのスペースを占有する山はふたつ。足元にも積み切れない本がひと山をつくっていた。
その内の手前の山の頂上に置かれた一冊を手に取ってみる。表紙には太文字で、少年少女 日本の歴史と書かれている。中央には丸く親しみやすい絵柄で描かれた長髪の女性の姿。大昔に歴史の授業で習った覚えがある。恐らく、誰それという巫女だろう。
「少年少女、」
「あ? 一五歳は立派な少年だろ。ササのヤツがよ、入院中持って来たんだ。ぜってー留年すんなってさ。読んでみたけど結構いいぜ。絵があるとイメージしやすいのな」
読み上げた声に言葉を返した桜木が台所を出ていく。ふたつの内のどちらかのドアが開く音がして、彼が風呂を沸かしに行ったのだと分かった。どどど、と流れた水が風呂釜を打つ音が微かに聞こえる。その音を片方の耳で聞きながら流川は本を開いた。
パラパラとめくってみると、数ページのカラーページの後は白黒や赤と黒の二色刷りのページが続いている。どうやら漫画だけでなくコラムや年表も掲載しているようだ。確かに漫画の割に文字は多いが注釈も多く、流川の目にも教科書よりかは読みやすいように思えた。
「ふふん」
戻ってきた桜木が流川の姿を見て息だけで笑う。彼は冷蔵庫に貼り付けたキッチンタイマーに時間をセットして、そのまま冷蔵庫を開けると中からいくつかの食材を取り出し換気扇の紐を引いた。
その姿に流川は前髪と本の陰で目を瞠った。てっきり自分の分の麦茶を用意して、風呂の支度ができるまで隣で漫画の続きでも読んで待っているのかと思っていたのだ。
今朝桜木の口から直接ひとり暮らしだと聞いていた筈なのに、それがどういう行為を含むのかの具体的なイメージを流川は持っていなかった。風呂上がりのテーピングだけではない。風呂の支度も食事の支度も、或いは脱いだ制服をハンガーに掛け整えることだって、ひとり暮らしの生活の中でやるべきことのひとつひとつだったのだ。
桜木が鍋に水を張って火にかけて、シンクの下から金ザルを取り出す。葉物野菜を細かくちぎってザルに落とし、硬い野菜はまな板に置いて包丁で切ってゆく。トントントン、リズミカルな軽い音。今度は戸棚から新聞紙に包んだねぎを取り出し、土を落として水で洗い切ってゆく。
この時間に家に帰ると見かける母の後ろ姿とよく似た姿。高さの合わない調理台で身体を縮めて調理する様は、家の広々としたカウンターキッチンに比べても窮屈そうに見える。流川は本に視線を戻すことも忘れて彼を見つめた。
冷蔵庫から茶色い小瓶を取り出して湯の沸いた鍋に振る。ふわりと香る出汁の匂いに無性に胸がざわついた。
「それ、ササのじーちゃんばーちゃんがくれたんだってよ。中学入学ンとき、クリスマスプレゼントに、って。全巻セット。でっけーし赤い紙で包んであっから期待してたのに、開けてみたら勉強の本でがっかりしたって言ってたな。へへ」
「…………」
「で、いざ読んでみたら意外と面白いってんで、あいつ、それから歴史は得意なんだって。じーちゃんばーちゃんサマサマだよなあ。俺もそのゴショーバンにあずかってるワケだが」
流川は何も答えなかったが、桜木は特に気にする様子もない。或いは流川がいつの間にか石か何かに変わっていても、彼は気にしなかったかもしれない、というのは卑屈が過ぎるだろうか。
振り返らない彼の背中越しに湯気が上り、換気扇に吸い込まれてゆく。ふっと香る青い葱の匂い。
と、キッチンタイマーが時間を告げて、桜木の言葉はそこで途切れた。彼は慌てて火を止め風呂場に走るとどたどたと戻り、タンスから着替えを取り出して再び風呂場に向かっていった。
「いーか、キツネ、大人しくソレ読んで待ってろよ」
ひとり部屋に取り残された流川は麦茶のグラスに口を付け、それから改めて家の中を見渡した。
賑やかな家主のいない家はしんと静まり返り、まるで登場人物の去った舞台のようだ。硝子戸の枠と長押の四角が台所と和室を舞台と客席のように切り分ける。
流川は空にしたグラスを手にして立ち上がり、そのまま舞台の方へ向かった。たった今まで桜木の立っていた場所に立つ。彼の止めていった換気扇がゆっくりと速度を落としてゆくのが見えた。
視線を台所の入り口側に向ける。
硝子戸の脇に置かれた電話台、隣の棚には使い込まれた電子レンジやオーブントースターが置かれている。壁には小さな窓ひとつ。シンクの中には千切られ切られたばかりの野菜が金ザルの中で水滴を纏わせている。
コンロの上、湯気の上がった雪平鍋。換気扇の下には流川の家の物とは形の違う炊飯器。水切りに伏せられた茶碗や箸は今朝の名残だろうか。目線の高さほどの冷蔵庫と食器棚。背の高いそれらは家の広さにはふさわしかったが、桜木ひとりで使うには持て余す大きさに思えた。
この家で、彼はあんなにも窮屈そうなのに。
デザイン硝子の向こうで藍色の平皿が重なって眠っている――眠っているように静かな彼の家。
遠くから微かに聞こえる水の音。流川はその音に重ねるように蛇口を捻ってグラスを洗い、水切りの茶碗の横にそれを伏せた。
手を拭いて、今度は部屋の方に視線を向ける。先ほどまで自分が座っていた六畳間。真ん中に置かれたちゃぶ台、上に積まれた大量の本と、一枚きりの座布団。
部屋の奥、窓側の角に置かれたテレビとテレビ台。中には数本のビデオとビデオデッキ。窓枠に細かい洗濯物が掛かっているのが見える。淡いピンク色のカーテン。
そして、部屋に足を踏み入れて初めて見える、壁際のタンスと仏壇。
流川はその正面に向かって立った。
祖父母の家にあるような細工の見事な立派なものではない、無垢材の淡い木の色をした仏壇はタンスの上に腰掛けるように小ぢんまりと置かれていて、なのにどうしてか存在感があった。
小さな二段造りの仏壇の下段には香炉やりんなどの仏具が置かれている。上段の中央にはふたつの位牌。両脇に小さな写真立てが添えられていて、そのモノクロの写真二枚からふたりは恐らく桜木の両親なのだろうと想像できた。
年若い女性の全身写真と、それより一〇以上は年嵩だろう中年男性の顔写真。
流川はそれら人物と目が合う間に写真から顔を逸らした。ただ何となく、言い様のない気まずさがあった。
彼は視線の先、元いたちゃぶ台の辺りに戻り腰を下ろした。見ていた本を再び手に取る。すると、ちゃぶ台の奥、本の山と山の間にカセットウォークマンが置いてあるのに気が付いた。
シンプルな黒い機械は口が開いていて、カセットテープの頭が僅かに飛び出している。白いカセットのラベルに書かれた文字は、〝Are You Lonesome Tonight ――Elvis Presley〟。古い歌手の名前を流川は名前だけ知っていたが、どんな声、どんな曲を歌うのかは知らなかった。
Are You Lonesome Tonight ――あなたは今夜さみしいですか?
それはこの部屋で目にするにはあまりに皮肉なタイトルだった。
沈んだ部屋の遠くから、扉の開く音が聞こえる。桜木が風呂から出たようだった。
流川は手にした本を膝に乗せ適当なページを開いて視線を落とした。誰それという巫女の名前は卑弥呼といって、かつてこの国の政治を行っていた女王とのことだった。
「おう、寝ちゃいねーようだな、キツネ」
硝子戸が開いて上半身裸の桜木が顔を出す。手には着替えのシャツとタオルが握られている。濡れた頭も含め、部活のときと変わらない格好だ。
流川は懐かしさを覚え、開いたばかりの本から顔を上げた。
「ギシワジンデン」
見掛けた文字に書かれていたふりがなを諳んじる。桜木は彼のぎこちない声を笑って、
「こりゃ読んでねーな」
と言った。図星を当てられ流川は胸をどきりとさせたが、後に続いたおねむりギツネといういつもの悪口に先ほどまでのことを気取られたわけではないと察し、そっと胸を撫で下ろした。
桜木は彼の内心の緊張や弛緩になど気付きもせず、
「古代中国の歴史書なんだってよ。魏志倭人伝。当時まだ日本には文字がなかったんだぜ、おめー知らねーだろ?」
と正解を自慢げに披露した。
「……」
流川は紙面に視線を落とした。解説の四角い枠の中に同じことがそっくりそのまま書いてある。
「へへ。俺もこれ読んで初めて知った」
サササマサマ、と呪文を唱えるように言う桜木のいつにない照れ笑い。自分に向けられたことなど一度もない気安い表情に、流川はまたしても気まずさを感じる。さっき感じた窮屈さとは種類の異なるそれに、彼は普段より更にぶっきらぼうな声で、
「テーピング」
とだけ返した。桜木はやはり彼の逡巡になど気付きもせず、
「ん?」
と首を傾げた。
「……テーピングするから、テープ」
「あ、そーだそーだ、」
上半身裸のまま台所に向かった桜木が、電話台のペン立てと引き出しから鋏とテープを持って来る。
流川は桜木を座らせるために座布団から腰を上げたが、桜木は何を思ったのか譲られたそれを二つ折りにして流川の前にうつ伏せになって横たわった。
テーピングは横にならなくてもできる。そう言おうと思ったが、ふと今朝のあの清冽な空気と光を思い出して彼は口を噤んだ。
「ほいよ」
「ん」
手渡されたものを受け取る。指先が触れるより先に風呂上がりの熱を感じた。
流川は片膝を立てて移動し、今朝方見たのと同じ場所から桜木の背中を見下ろした。
「…………」
相変わらずの見事な身体だ。バスケットと出逢うまでろくにスポーツの経験がなかったとは信じられない、筋肉の均整の取れた大きな背中。
暑がりですぐ上半身裸になる彼の身体を見る機会は今まで少なくなかったが、それでもこれだけの至近距離で誰の邪魔もなくじっくり見られる機会はなかった。
「…………」
風呂上がりの水気を纏った背中が蛍光灯の光を受けて仄かな陰影をつくっている。流川は光と陰の流れを目で追った。
光の下で見てみると、彼の身体には随分とたくさんの傷跡があるのが分かった。恐らく喧嘩によるものだろう。真新しい手術痕とそう変わらない大きさの切り傷の痕さえある。
お前、傷だらけだな。とはさすがの流川も言えなかった。この家で言うとそれが何か別の意味を持ってしまうような気がした。代わりに別の言葉が口をついて出る。
「俺も頭にでっけー傷ある」
「あん? あ、ミッチーにやられたヤツ?」
「ちげー。チャリで事故った」
「ぶっ、おめー、どーせ寝ながら運転してたんだろ?」
「頭、マジで血ぃ止まんねー。焦った」
「はっはっは、しかし顔じゃなくてよかったじゃねーか。歯抜けになんねーで」
歯の治療ってかなり金掛かるらしいぜ、と言う桜木の言葉に流川は先輩ふたりの顔を思い出しながらテープを伸ばす。肩甲骨の下から臀部までの長さに合わせて切り、背骨に沿わせ皺にならないよう丁寧に貼っていく。
「おとぼけギツネとは違って、天才のは名誉の負傷」
「ズボンちょっと下ろす。……ケンカ?」
「バカ、ちげーよ。ケンカに名誉もクソもねーだろ」
桜木にとって喧嘩とはそういうものらしい。流川は黙った。
「背中のでっけーの。これは木ぃ登って下りられなくなった猫助けたときのヤツ……猫はハクジョーでさっさとどっか行っちまって、でも名誉の負傷だろ?」
笑い混じりで話す桜木の声を聞きながらもう一枚を切って貼る。やはりまだあたたかい背中の熱をテープ越しに感じ、流川は指先に意識を集中させた。
「頭にもあるぜ。木の枝で切ったヤツ。たしかにめっちゃ血ぃ出て、俺より周りがビビってたっけなあ」
桜木の懐かしい思い出話を聞きながら、流川は彼の少年時代に想いを馳せる。
真っ青になった誰かのこと。それはいつも桜木の傍らにいて彼をからかい見守る悪友たちか、それとも流川の知らない誰かか。或いはフレームの向こうで眦を下げて微笑む女性か、カメラから視線を外して照れ臭そうにはにかむ男性か。
背骨沿いに貼った縦のラインの後はそれを繋ぐように横にテープを渡してゆく。その間にも桜木は幼少時代の華々しい馬鹿話を続けている。
壁を駆け上ろうとして転んだ話、戦隊ヒーローに憧れバク転をして頭から床に落っこちた話、登った木から飛び降りようとしたら洋服が引っ掛かって逆さ吊りになった話。冒険の度に刻まれた大小様々な傷の由縁。
「こうした経験がアイアン・ボディ桜木の肉体をつくったのだよ」
しみじみと言ってみせる彼の言葉に、流川はテープを貼る手を思わず止めた。
「……かてぇだけじゃダメだ」
「おん?」
言葉は流川の意思とは関わりなく唇から飛び出した。その音を聞いた桜木が聞き返す。彼はきっと、どあほう、といつもの四文字が返ってくるのを期待していたのだろう。けれど流川は答えなかった。望む言葉も返さなかった。固く口を閉ざし、続く言葉を閉じ込める。飛び出てしまった言葉の続きを伝える資格が果たして自分にあるものか。彼にはそれが分からなかった。――しかし、
「おめーもセンセーみてぇなコト言うなぁ」
口を閉ざした流川の代わりに、桜木が言葉を返した。
「?」
「『硬いだけじゃ駄目だよ、桜木君。怪我の防止にはしなやかな筋肉と十分なストレッチが必要なんだ』ってさ。診察の度に口酸っぱく言ってくんだよ」
「……」
「まあよぉ、バスケを続けたいなら守りなさい、なんて言われちゃ聞かないワケにもいかねえかんなあ」
だからこれからはアイアンだけでなく、しなやか……しなやかって英語で何てゆーんだ? とひとりごつ桜木の言葉を聞いて、流川は閉じた唇を少し緩めて息をついた。
〝バスケを続けるために〟。流川が何より望むこの一点が叶うのならば、これ以上の言葉を続ける必要はない。彼はテープの最後の一枚を貼り、手術の痕を避けその背中にそっと手のひらを当てた。薄い皮膚の向こうから血の巡るとくとくという脈動が伝わってくる。
桜木は気にしていないのか、それとも気付いていないのか何も言わず、ソフト、マイルド……、と代わりの言葉を探している。流川は少しの間それに甘え、熱の音を手のひらで聞いた。
来た道のりと待つ時間に対し、テーピングはあっという間に終わった。目的を果たした流川は立ち上がって鞄を手に取った。
桜木はパジャマ代わりのTシャツを着て、テーピングの具合を確かめている。うんうんと頷いているから、どうやら問題はないようだ。
「礼を言うのはシャクだが、あんがとよ」
「……別に」
ドアの向こうとこちらに立って、形ばかりの憎まれ口を交わす。誰も見ていないというのにパフォーマンスだなんて律儀なものだが、今朝のような素直なやり取りを繰り返すのは少しばかり照れ臭かった。
「じゃあな、キツネ」
タイルについた片足の爪先がきゅっと縮んで、桜木が重い扉を手前に引いた。別れの挨拶。流川はそれが完全に口を閉じる前に、
「明日も来るから」
とドアの向こうに言葉をすべり込ませた。バタン、語尾に扉の閉じる音が重なる。狙った通りのタイミング。閉じる瞬間、隙間から見えた桜木のポカンとした表情が小気味良かった。おじゃましましたの代わりの言葉を伝えた彼は、ひとり駅に向かって歩き出した。テーピングを毎日貼り換える必要がないことはもちろん知っていた。
群青色の夜の中来た道を戻り、電車と自転車を乗り継いで家に帰る。明日から通う自転車のルートを考えながらの道のりはあっという間で、玄関に灯る家の明かりが見えたとき、彼はまさか自分は寝ていたのではあるまいな、と思わず疑った。
門扉の奥に自転車を入れ玄関の鍵を開ける。ドアを開け、家のあたたかな空気と玄関灯の橙色が頬に触れたとき、流川はあの家の真っ暗な闇は闇ではなく、孤独であったのだと気が付いた。
3
数日が過ぎた。流川の思い付きのように始まった桜木家への来訪は、その日から毎日続いている。最初の晩こそ電車に乗ってやってきた彼だが、道のりがさほど複雑でないと知った翌日からは直接自転車で桜木の家まで通っている。
他の部員たちに詮索されたり気遣われたりするのを嫌がった桜木も、電車ではなく彼の自転車の後ろに乗って帰路を共にしている。
とはいえこの数日、まだ練習への完全復帰が許されない桜木に合わせて流川も部活終了後すぐに帰っているため、居残り練習をする部員たちのほとんどが彼らを体育館から見送っているのだが。ふたりのいなくなった後、何らかの話題には上がっていることだろう。が、今のところ直接何か言われたことはない。流川の方はどうだろうか?
流川も、自分より重い桜木を後ろに乗せて走ることに特に文句は言わなかった。最初の日だけ、背中は? とぶっきらぼうに問われはしたが特に問題がないと分かるとそれきりで、彼は桜木をトレーニングのための砂袋か何かと考えることにしたらしかった。
秋だというのに詰襟の首筋にうっすらと汗をかいている流川は相変わらず無口で、それは運転中も、家に着いてからも変わらなかった。
彼は最初のときと同じように桜木の後ろにくっついて手を洗い、座布団に腰を下ろして麦茶を飲みながら漫画を読み、桜木が風呂から上がるとテーピングをして、漫画の続きに未練を残すことなくあっさりと帰っていった。それはまるで新しい習慣を作るかのようだった。一昨日など、桜木が通院のために部活に参加しなかったというのに、同じ時間に家にやってきて同じようにして待ち、テーピングをするとさっさと帰っていった。これにはさすがの桜木も笑ってしまった。
その不可思議奇妙は今日も同じだった。
平日最終日である土曜日。半ドンの授業を終え通院のため部活を休んだ桜木の家に、彼は同じ時間にやってきた。
二度目ともなれば桜木も流川の来訪は予想できたので、彼が訪れるのを音楽を聴きながら家のことをして待った。
流川はやはり何も言わず、日本の歴史を手に取って開いた。巻数は三巻の半ば――時代でいえば奈良時代だ。一日三十分程度の時間でこの進行速度はおねむりギツネとしてははやいのだろうか。
「読み終わったヤツ、ササに返すけどいーか?」
黒々とした目で本に目を落としている流川に問う。
「ン、」
流川も素直に言葉を返した。彼は家で家族に何か言われたときもこんな返事をしているんだろうな、と予想ができるような返事だった。桜木はちゃぶ台の上に麦茶を置いて、着替えを取り出し風呂場に向かった。
三〇分ほどの時間を掛けて桜木が風呂から上がったときも、流川は同じ姿勢で本を読んでいた。丁寧に、読み終わった一巻から三巻までが別の山に分けてある。その小さな気遣いに彼の唇は自然と微笑みの形をつくった。
「ん」
「ン」
テープを渡す。流川が受け取る。彼は読んでいた本を閉じて腰を上げた。相変わらず動作に一切の未練がない。
膝立ちになった流川に背中を向けて、桜木は座布団の上に正座する。初日は横になってテーピングしてもらったが、二日目以降はこのやり方で落ち着いている。
テープを切った彼の手が桜木の背中、背骨に沿うようにして触れなぞってゆく。テープ越しに触れる指先の微かな圧。時折小指の先が裸の肌に触れて、彼はその指先の冷たさに季節の移ろいを感じた。
風呂上がりの桜木に比べて低い流川の体温。
いつもの手つきでテープを貼るこの指に、手に、あの夏の日桜木の手が触れた。あたたかくもなく冷たくもなかった流川の肌。皮膚。――あれは本当に皮膚だったか? 身の内の熱に耐え切れず融け、剝き出しになった魂ではなかったか?
「……終わり」
左耳の後ろを流川の声が掠め、桜木は意識を浮上させた。俯いた視線の先に、いつの間にか握り締めていたらしい自分の手が見える。爪が当たったのか、両の太腿の辺りに薄く赤い線ができていた。
「サンキュ」
何てことない風を装い返事をして立ち上がる。流川も同じように――そしてそれはいつもと同じように――立ち上がろうとした。
その小さな旋毛に向かって桜木は言葉を続ける。
「おめー、明日は来なくていいからな」
「?」
何で? と聞き返すような真っ直ぐな丸い目とぶつかる。
「日曜。部活休みなんだし、休むなり遊ぶなり親コーコーするなりしろよ。あと勉強。俺だってテーピングくれーできるし、ってゆーかやってたんだから。だから、わざわざウチに来ることねーかんな」
重ねすぎて念を押すようになった言葉を流川は黙って聞いている。
「な?」
ダメ押しの疑問符を聞いて彼は、
「わかった」
と本当に理解し納得しているのか疑わしい声で返事をした。
「おう」
桜木も返事をした。流川の返答がお粗末なのは何も今に始まったことではない。真面目に取り合うより、分かったと本人が言うのなら分かったということにしておいた方が都合がいい。
「じゃあな、また来週」
「……ン」
玄関ドアを隔てて掛けた桜木の言葉に、流川は今度こそ素直な返事をして帰っていった。
日曜日。学校も部活も通院もない貴重な丸一日の休日を、桜木は家事に費やすことにしていた。
桜木ひとりきりの暮らしはコンパクトでシンプルで、その分掛かる手間やコストも小さいが、代わりに身の回りのことを全て自分でこなす必要がある。散らかっても汚れても自分の責任、とはなかなかに気が抜けない。とはいえ、退院したばかりの家の中は大家が時折風を通してくれていたこともあってきれいでさっぱりとしている。
既に昨日服や上靴の洗濯を済ませていた彼は、掃除や買い物など日々の家事を済ませた後、余った午後の時間を衣更えに使うことに決めた。
入院中に親友が譲ってくれたカセットウォークマンで音楽を聴きながら、季節の服をタンスに入れ替えてゆく。中のカセットはそのままだから、流れる音楽はもうすっかり耳に馴染んだ〝Are You Lonesome Tonight〟だ。
ゆったりとしたテンポやムーディーな甘い歌声は午後のすっきりとした空気には合わなかったが歌詞を聞き取るにはちょうどいい。次に続く〝It's Now or Never〟や〝I Need Your Love Tonight〟は明るくテンポのいい楽曲で単語も聞き取りやすいのだが、桜木はそれらの曲よりも、語り掛ける声の優しい一曲目が好みだった。
〝アーユーロンサムトゥナイト? ――君は今夜、さみしくはないのかい?〟
昨日までカタカナだった文字の羅列が意味を持った言葉になる。その喜びは桜木の胸をむずむずとさせた。
服や布団の入れ替えや着られない服の選別を終え、ついでに分からない単語ふたつみっつを辞書で引き終えた頃。ふと視線を向けた窓の外はもうすっかりと暗くなっていた。途中夕飯の下ごしらえと新聞の勧誘対応を挟んだとはいえ、随分時間を掛けていたようだ。
夕刻を告げる放送も聞こえないほど夢中になっていたのかと、彼はイヤホンを外し壁掛けの時計を見上げた。時刻は午後六時四五分。普段の帰宅時刻とそう変わらない。彼は風呂の支度をしようと立ち上がった。――すると、
「え?」
台所と廊下を区切る硝子戸の向こうから、家のチャイムを鳴らす音が聞こえた。時刻でいえば夕刻だろうが、窓の外はもうすっかり夜だ。新聞の勧誘や訪問販売が来る時間には遅いだろう。ならば大家か隣人か。それとも……。期待するのは愚かだろうか?
立ったまま思考を巡らせる桜木を急かすようにもう一度チャイムが鳴る。桜木は騒ぐ胸に急き立てられるように硝子戸を開け、ドタドタと足音を荒立てながら玄関に向かった。
「どちらサマで――、」
玄関の靴を裸足で踏んで、形式ばかりの声と共にドアを開ける。きっと大家かお隣さんが頂き物のお裾分けでも持ってきてくれたのだろう。そうだ、そうに違いない。そう決めてかかるのは、より大きく膨らむ期待をしぼませたいから。開いたドアの隙間から冷たい風が流れ込む。玄関先を照らす明かりの下に立っていたのは、
「……ランニングしてたから」
挨拶より先に言い訳を口にした流川が、気恥ずかしそうに目を細めて桜木の前に立っていた。言葉は嘘ではないのだろう。見慣れた青と白のジャージ姿。頬と鼻は微かに赤く、髪も汗で僅かに湿っているように見える。
「おめー……、」
おめー、わざわざここまで走って来たんかよ? テーピングのためだけに。親コーコーしろって言ったろ、この馬鹿ギツネ。
胸に湧いた憎まれ口は言葉にならずその場に留まり、桜木の心を甘くくすぐる。流川の下手くそな言い訳がたまらなく嬉しかった。思わず笑ってしまうほどに。
「ふ……、おめー、」
桜木はドアを大きく開けて彼を招いた。流川は前髪をこしょこしょといじってから、ン、と小さく頷いて、寒さに肩を竦めながら部屋に上がった。
4
笑顔が、吐き出した息の温度が胸に残っている。
一一月も半ばを過ぎて、季節は秋の終わりに差し掛かっている。移ろう季節と同じように、流川と桜木の身にもささやかな変化が起こっていた。
そのひとつが学校での授業の様子だ。
それぞれ日本史の授業で教師に回答を求められた際に正しい答えを返したとき、クラス全体が騒然となった。ざわめきに包まれた教室の中で教師は驚きの余り体調不良を疑い、保健室に行くか? と恐るおそる尋ねてきたほどだ。桜木の親友である水戸でさえ驚きに目を丸くしていたというのだからその度合いは相当だろう。流川もクラスメイトの石井に休み時間、何があったのかと追求と心配をされた。
もちろん教師の質問のひとつふたつに答えたくらいでは期末テストの成績にどの程度影響があるかは分からない。けれど授業で分かるところが増えれば居眠りの機会も減る。
日本史教師の流川と桜木を見る目の変化は鮮やかで、それは通知表の評価には多少の変化があるのではないかという期待をそれぞれに抱かせた。
このささやかな、けれど大きな変化に加え、流川にはもうひとつの変化があった。
【続】