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    遅ればせながら、イベントではスペースにお越しくださりありがとうございました。当日配布したペーパーをこちらに掲載します。短編二本。いずれも本編の後の話になりますので、冊子をご覧になってからご覧ください。

    パレードへようこそ…本編から数年後のキスカム話。第三者視点。
    ありふれた愛のひとつ…老年流花。ジュエリーのモデルになる。

    #流花
    flowering

    2023/11/23無配ペーパー(『My Dear Lifelong』関連2本)パレードへようこそありふれた愛のひとつパレードへようこそ
     リア自身はスポーツにこれといって興味がある訳ではないのだが、配偶者であるグレッグが高校時代バスケットボールに熱中していたおかげで、The Ordinaryはバスケットボール贔屓の店と見なされている。特にNBAのレギュラーシーズンの間は、カウンターと客席の奥に置いたテレビのチャンネルが固定されるためバスケット好きが店に集まり、店内はスポーツバーのような様相になる。厨房にいる彼はテレビなんか見られないだろうに、試合を見つめる客の一喜一憂する表情をいつも楽しそうな顔で眺めている。音楽好きなリアとしてはGloria GaynorやMadonnaの情熱的な歌声とビートに包まれながら仕事をしたいと思うのだが、あの顔を見てしまったら、まあ半年の期間だけだし、と大らかな気持ちになってしまう。それに、この数年は彼女にもテレビを見る理由ができた。もうこの地を離れてしまった馴染みの顔。オフシーズンにデザートのクリームパイを食べに顔を出す日本人カップルの様子を見るのに、NBAの中継番組はうってつけなのだ。
     元より客足の鈍い月曜日。加え天気もあいにくの雨模様で、夜のピークの時間を過ぎても店内は落ち着いている。
     リアは夫がスパゲッティを出すタイミングに合わせ馴染みの客のテーブルに新しいビールと取り皿を置いた。もうふた組のテーブルは既に料理の提供を終え、食後のデザートとコーヒーの提供を残すのみだ。カウンターの常連カップルとひとり客は食事というよりおしゃべりや試合観戦がメインだから、今日の仕事はもうほとんど終わりだろう。リアは客たちと一緒になってテレビを眺めた。
     画面はハーフタイム直前、たった今豪快なダンクシュートを決めたらしい選手の顔を映している。会場の眩しいライトに照らされた旧友は、相変わらずの白と黒の静かな色彩を纏い、けれど目だけをぎらぎらと燃え上がらせている。伸ばした前髪を後ろに流しハーフアップにしてまとめている姿は、彼のその静と動の矛盾の調和を際立たせ、より魅力的に見せることに貢献していた。
    「あら、またウエイト増やしたのね、あの子」
     彼女の何気ない風の言葉に、画面を見ていたカップルのうちのひとりが問う。
    「知り合い?」
    「ええ。ほら彼、こっちのチームにいたから」
    「お客さん? え、じゃあお仲間ってコト?」
    「個人情報にはお答えできません」
     鼻をツンと上に向けあえて芝居がかった風で返すリアに、ブルネットの髪を短く刈り上げた年若い彼女は舌を出す。
    「ごめん。詮索はよくないね。まあ、彼が何でもあたしらには関係ないから」
     ね、と隣でチーズをつまんでいる恋人に同意を求める。彼女は本当に興味ない、という様子で首を傾けて小皿のチーズをふたりに勧めた。
     そのまま女三人でさえずっているとカメラが切り替わり、旧友・流川楓の顔のアップからコートに立つ人の流れを映した。ひとり客曰く、目にも止まらぬ速さで相手チームに速攻を仕掛け相手のファウルを誘いながらのダンクシュートを決めたらしい彼は、すれ違うチームメイトたちに肩や背中を叩かれながらフリースローラインに向かっている。うん、やっぱりあの子、大きくなったわ。と、今度は胸の中だけで呟いて、リアは親鳥のような気持ちで画面を眺めた。
     審判からボールを受け取った流川が両手を高く掲げて構えをとる。再びカメラが切り替わり、会場全体の緊張と熱気を伝えた。――収容人数二万人。色とりどりの豆粒の視線の真ん中に立つ流川は、遠目から見てもプレッシャーを感じているような様子はない。彼以外の誰もが息を呑みコートを見つめる。と、その手からボールが離れ、きれいな放物線を描いた。シュッ、とボールがネットをくぐる気持ちのいい音。一点だ。画面の向こうのモニターが観客たちの興奮とは対照的な無表情を映す。そのときリアは流川の片耳にピアスの穴が開いていることに気が付いた。が、やはりそれは口に出さずにおいた。
     二度のフリースローを経てゲーム再開。しかし残り時間はわずか四秒。コンマ数秒で相手チームが投げたロングボールが沈むのを見て、第二クォーターは終了した。スコアは五点差で流川のチームが優勢だが、余裕のある戦いではないだろう。だからこそ会場は画面を超える程の熱気に包まれている。
    『いやぁ、凄いダンクでしたね』
    『〝ルカワの覚醒〟どころかこっちの目も醒めるようなダンクでした』
     画面が切り替わり男性キャスターふたりを映す。ルカワの覚醒とは、コート以外ではほとんど寝ている彼を揶揄する意味合いでマスコミが言い出した言葉だが、最近ではもっぱら彼のオフェンシブなプレイを称賛するために使われている。会場の空気を塗り替える彼のプレイは世間の評判さえひっくり返してしまった。
    「すごいね、彼。日本人ってもっと控えめだと思ってた」
    「それは人によるでしょ」
    「まあ、控えめじゃスポーツなんてできないか」
     彼はどうやら日本人そのもののイメージさえ覆してしまったらしい。
     画面は今しがたの流川のダンクを映し、それから試合前半のベストプレイや選手たちのデータを映した。実際の会場では歌手のライブパフォーマンスや手品のショーが行われていることだろう。リアはこのタイミングでひと仕事しようかと客席の方へと視線を向けた。――と、
     選手の写真と昨シーズンの成績が表示されていた画面が切り替わり、照明を落とした会場の暗い天井から吊り下げられた四面のモニターを映した。珍しい。彼女はカウンターから半分出た身体を引っ込めて、画面の向こうに映る画面を見つめた。
     画面は鮮やかな赤い色を全面に映している。そこに中心から大きな白いハートが浮かび、キラキラとした効果と共にひとつの文字列が流れ出てくる。ロマンティックな筆記体で書かれた七文字が記す言葉は、
    「げっ、キスカムだ」
    「あんたこれ嫌いだよねえ」
     キスカム(Kiss Cam)とは主にスポーツイベントの試合の切れ目に行われる観客を巻き込んだ余興のひとつで、専用のカメラで切り抜かれたふたり組はカメラに向かってキスを披露しなければならない。陽気で開けっ広げなところのあるリアにとってキスカムは楽しい娯楽だが、中には外野からの囃し立てやブーイング、そもそもキスを迫られること自体を不快に感じる人もいて、目の前のカップルの片割れはどうやらそういうタイプのようだった。なるべく画面を見ないことに決めたらしい彼女は、胸元まで伸ばしたソバージュの毛先をつまんで眉を顰めている。
    「だってさぁ、あたしたちがあそこでキスしたとして、それは親愛のキスってことになる訳でしょ?」
     それって何か冷めるよね。
     そう言った彼女の肩に、ブルネットの彼女が肩を寄せる。それは同性愛者である彼女たちにしか分からない疎外感だ。女性として生活し男性のパートナーと暮らしているリアに彼女らの気持ちは分からず、想像することしかできない。彼女は複雑な視線を画面に投げた。
     カメラは選手の両親のキスを映した後、たまたま試合を観に来ていたらしい州知事一家のキスを映している。小さな男の子と女の子のきょうだいふたりが、母親の頬に同じタイミングで唇を寄せる。除け者にされた父親、州知事がカメラに向かって肩を竦める。ハイハイ、俺はお呼びでないってワケね? そういうポーズだ。
    「あら、今日のは仕込みばっかみたいよ。知事のネクタイ、あれを見たらすぐ分かるわ。気合い入りまくりだもの。仕込み入れなきゃならないくらい、世界には愛情で結ばれたカップルが少ないのよ。愛はもはや絶滅危惧種ってワケ」
     リアはわざとおどけてみせた。カップルふたりも知事と同じポーズを返し、
    「Pay it no mind(気にすることないね)」
     と敬愛する先人の言葉を真似た。三人が同じタイミングで噴き出す。すると、そのタイミングで画面が切り替わり、次のターゲットを映した。――が、
     次いで画面に映ったのはカップルではなくひとりだった。危険信号のように赤い髪。情熱の色を身に纏った体格のいいアジア系の青年、カジュアルなフランネル生地の生成りのシャツにデニムを合わせ、関係者席の端に座っている彼の名は、
    「ハナミチ・サクラギ!」
     カウンターの端に座っていたひとり客が驚きの声を上げる。かつての店の常連、旧友のひとりである桜木花道が画面の向こうで目を見開いていた。
     桜木は、俺? とでも言うように親指を自分の方に向けている。そのぎこちない仕草と表情に、リアは今日のキスカムが本当に仕込みであることを察した。何よりカメラにひとりしか映らないなんてキスカムのルールに反している。――何が行われるのか。彼女は期待と不安に高鳴る自分の胸の鼓動を聞いた。
     桜木が右の女性を指さす。カメラが首を横に振る。ノー。じゃあ上? ノー。下? ノー。肩を竦めた桜木が立ち上がり、キスすべき相手を客席を見渡し探している。そこに正解などある筈もないことを知っているのはこの場ではリアとグレッグのふたりだけだ。恐らく画面の向こうの会場でも。世間は彼らアジア人NBAプレイヤーのプライベートにほとんど興味はないらしく、彼らが画面や紙面に取り上げられるのは専ら専門のチャンネルや雑誌ばかりだった。それが何故今……? リアの心臓の音が速く、大きくなる。
     会場の誰をさしてもカメラはノーと首を振る。焦れた桜木がカメラに向かって指をさす。だったらお前とキスしてやろうか、という悪戯好きなこどもの表情にカメラは一瞬頷き掛けるが、それでもやっぱり答えはノーだ。観客席は大きな笑いに包まれて、さあ次のターゲットは誰かな? とそれぞれ周りを見回した。
     するとそこに笑いを区切るようなカッという音が立ち、パフォーマンスのために照明を落としていたアリーナにひと筋の光が差した。細い光が天から下りて人ひとりが入れる程の円をコートに描く。その中心に立っていたのは……、
    「カエデ⁈」
     光の中にいたのは、先程までそこで鬼気迫るプレイを見せていた旧友・流川楓だった。さっきと同じユニフォーム姿で汗を拭い髪を整えた彼が装飾されたキスカムのカメラではない普通のカメラの画面に映る。笑いに包まれていた館内は一転、動揺の声にさざめき立った。
     流川が階段に向かって歩き始める。闇を切り抜く照明も彼を追い階段を照らした。普段より僅かばかりゆったりとした足取り。桜木も歩き始めて、照明とカメラと人々の視線がふたりを追った。
     そして遂に、キスカムのカメラがひとりではなくカップルの姿を映した。階段の中ほど、一段の距離を開けて正面に立ち顔を見合わせるふたりの姿。ユニフォームの背番号しか見えない流川の頭越しに桜木の顔が見える。普段の陽気で大胆な、太陽のような笑顔ではない。緊張と期待と気恥ずかしさ、そして僅かな恐怖を滲ませて立つ彼の、その瞳に宿る決意の光をカメラは捉えた。リアは彼の瞳にふと、数年前この店で見た流川の瞳を思い出した。
     その流川が右の膝をつき桜木の足元に跪く。桜木の視線がそれを追い、引き結んでいた唇が小さく開いて息をついた。後ろ姿の流川が顔を上げ、カメラは彼の黒髪の旋毛を映す。彼はその大きく分厚い手の中から小さな箱を取り出して、桜木の目の前に掲げてみせた。
     角の丸い四角形の布張りのケース。紫色のそれは誰が見てもそうと分かるリングケースだ。流川の筋張った手、短い爪の長い指が蓋を掴んで中身を見せる。そして、
    『――――』
     カメラは声を拾わず、背中から口元は見えず。テレビの向こうでは流川が何を言っているかは分からなかった。けれど、桜木の表情が、彼らの周りでふたりを見つめる観衆たちの視線が、割れんばかりの歓声が、彼が何を伝えたのか教えてくれる。そして桜木が首の後ろに回した両手が、きつく抱き合ったふたりの身体が、首を傾け寄せ合い触れた唇が。
    「Amazing」
     それは正しくリアの心からの叫びであったが、言葉はリアの口からではなく、配偶者であるグレッグの口から発せられていた。客のテーブルから不要な皿を下げていたそのままの姿勢の彼が、目と口をあんぐりと開けてリアを見ている。リアも恐らく同じ顔で彼の顔を見つめ返した。
     テレビの向こうからは絶え間ない歓声が響いている。あんまり声が大きすぎて音が割れ、音声スタッフが音量の調整をしたほどの大歓声だ。
    「信じらんない……」
     テレビを見ていたカップルたちも、突然のプロポーズとキスにテレビ画面に目を釘付けにしていた。〝それって何か冷めるよね〟。そう言っていた彼女の目には薄い涙の膜が張り、頬は真っ赤に染まっている。ブルネットの髪の彼女も恋人の震える肩に肩を寄せて、ハートで切り抜かれた赤い画面を瞬きもせず見つめている。その眼差しの強さは、たった今目の前で繰り広げられた光景が嘘ではないことを、夢ではないことを、疑い確かめているようだった。
     親愛じゃない。友愛じゃない。紛うことなき恋人同士のキスが今、二万人を収容するアリーナの観客席で行われ、祝福を受けていることを。
    「…………」
     リアは自分の爪が手の中に食い込む痛みで自分がいつの間にか拳を強く握り締めていたことに気が付いた。腹の底から湧き上がってきたエネルギーが身体の内に留めきれずに解放を叫んでいる。そんな類の痛みだった。
     流川と桜木の唇が離れる。いつもと同じ、大胆不敵の太陽のような笑顔が真っ黒い頭越しに見える。もうその瞳の中に緊張も恐怖も見えなかった。流川も笑ったのだろうか? 眼下の恋人に応えるような柔らかい微笑みを見せた後に桜木が叫ぶ。聞かせるために張り上げた声がスピーカーを震わせた。
    『おいオメーら聞こえっか⁈ 今日いちばんの歓声だぜ‼』
     彼の呼び掛けに、画面の向こうで更なる歓声が上がる。店内でも同じか、それ以上の興奮を伴う大歓声が上がった。リアもいつの間にか握った拳を天井に向けて突き上げていた。桜木の言葉は自分たちに、いいや、自分に向けられているのだと思ったのだ。きっと声を上げた誰もがそう錯覚したのかもしれないけれど。
     店内を見渡すと、ひとり客は画面に向かってグラスを掲げ、カップルはキスを交わしていた。テーブルの客もキスや声援で画面の声に応えている。涙をこらえて怖い顔になっているグレッグをテーブル客のふたり組が慰めていた。
     再びテレビに視線を向ける。抱き合うふたりの身体越し、席を立つ観客たちの姿がちらほらと見えた。それでいい。出て行くのはお前たちの方だ! とリアは思う。
     去年アメリカでは同性同士での婚姻がようやく認められた。それはたったひとつの州、マサチューセッツだけでのできごとだ。他の州はまだ二の足を踏んでいて、この広いアメリカ全土でそれが実現するまでどれだけの時間が掛かるのかと考えると途方に暮れることもある。ましてや世界規模で考えれば、なおさら。けれど動き出した足は、進み始めた歩みはもう止まることはないだろう。
     カメラの向こうで歓声を上げているあなたたちへ。私たちのパレードへようこそ。一緒に歩いていきましょう。
    「いかん! こうしちゃいられない‼」
     客の差し出したナプキンで鼻をかんだグレッグが、涙で濡れた目もそのままに声を上げて、客席の視線が彼に集中した。彼の真剣な目がリアを見る。
    「ハニー、ボーっとしてちゃダメだ! 今にきっとそこの電話が鳴って、常連たちが『今から向かうから席の予約お願い。あ、一〇人で向かうから』なんて言い出すに違いない。電話線も店もパンクだ!」
     彼の余りの慌て様に周りの客たちは皆笑ったが、リアは彼が本気で言っているのだと分かった。生真面目で冗談のそう上手くないペンシルベニア州フィラデルフィア出身の彼、人類史上初の信仰の自由が保障された街の生まれであることを誇りにしているような愛すべきこの男は、本気で慌て、客たちを受け入れる準備を始めようとしているのだ。
     リアの側、カウンターのレジの脇に置いた電話が鳴る。
    「えっ⁉ ウソ、ほんとに電話だ‼」
     そらきたぞ! グレッグが叫んで、テーブルの客たちが、今日はこれから朝までパーティーだね、と答えた。その声に苦笑をこぼしながらリアは受話器を持ち上げる。
    「ハイ、The Ordinary」
    『あ、リア! テレビ見た⁉ あたしもー感激しちゃった! 今から向かうから席の予約お願いね!』
     受話器の向こうでまくし立てられ、口を挟む間もなく通話が切れる。何名なのかと問う暇もなかったが、その後すぐ鳴り響いた次の電話に、それを問うことにあまり意味はないことを彼女は察した。グレッグが厨房に戻り支度を始める。客たちもいそいそと、空になった皿をテーブルの端にまとめたり、飲みかけのグラスを空にしたりしてこれから始まるパーティーの準備を始めた。
     きっとあと一〇分もすれば、雨音をかき消すような足音が店の外から聞こえるだろう。

    【了】




    ありふれた愛のひとつ
     現役を引退しておよそ三〇年。今更ジュエリーのモデルなんてと渋るふたりを、失礼ですが、だからこそいいんですよ! と言って半ば強引に説得したプロジェクト責任者は、撮影当日も早朝からふたりの暮らす鎌倉の家にまで車でやってきて撮影現場までの送迎を買って出た。既に免許証の返納を済ませていた老年の身に彼の厚意は有難かったが、車窓を流れる朝の景色を眺めていると、駅まで歩いて行くのでもよかったな、と思う。秋の空は雲ひとつなく、すっきりと晴れ渡っている。
     桜木花道は、隣に座って腕を組みうつらうつらとしているパートナーを肩で小突き、おめー、そんなんだと死んでても誰も気付かねーぞ、と笑えない冗談を言った。プロジェクト責任者兼運転手はからからと、この空のように笑っている。彼は微笑んだ口の形のままふたりに言った。
    「睡眠は長生きの秘訣といいますから。それに、撮影前は準備で忙しいでしょうからね。休めるときには休んでください」
     きっとコートに立ったら起きるでしょうし、という彼の言葉に配偶者である桜木もつい笑ってしまう。コートを出たらほぼ寝ている、というのが現役時代……というか出会ったときからの流川楓の評判だが、ふた回り以上年下だろう男にもその評判は当たり前に知られているらしい。
    「おねむりギツネめ……」声にも思わず呆れが滲む。
    「はは。桜木さんも、ご無理はなさらないでくださいね」
    「俺は朝は得意だから。一時間くらいだっけ?」
    「ええ。横浜の運動公園にあるバスケットコート、あそこで撮影します」
    「へえ。きれいな公園だよな。緑も多くて。バスケコートも増えたよなあ」
    「そうですね。今や国民的スポーツですから」
     そう言っている間にも、流れてゆく景色の中、公園のフェンスと植木の向こうにバスケットゴールが見える。足元で揺れる背の高い人型のシルエットがゴールに向かってシュートを放つ。登校前の朝練習だろうか。桜木はパートナーの眉間から使う用向きのない眼鏡を外し、胸ポケットのケースにしまいながら、懐かしい気持ちでそれを眺めた。
    「企画書に何か不足はありましたか? ご不安な点など」
    「ん? いーや、平気だよ。モデルっつっても俺らはおまけみてーなもんだろ?」
    「いやいや、おまけだなんて。どの方々も、コンセプトを体現してくださる大切なモデルの皆さんです」
     責任者が言う。今回の仕事は先述の通りとある宝飾品ブランドのブライダルラインの広告モデルの仕事だ。企画は桜木と流川のふたりだけでなく各年代、あらゆる属性のカップルをモデルに起用しており、ふたりはその内のひと組ということだった。だからこその桜木の軽口である。
    「そう思わせてくれってこと。俺らはただバスケして、それを写真に撮ってもらえばいい。現役ンときとおんなじ、って具合によう」
    「なるほど、それは失礼しました」
    「な? まあ、指輪があるのは妙な感じだけど」
    「指輪がメインですからね。ふふ。現役のときと同じ……とはいえ多少は演技というか、設定に則っていただく部分はありますよ」
    「演技なあ。台本までよこしてきたもんなあ。この天才はまだいいとして、おねむりギツネがどうなることやら」
    「へーき」
     と、呼ばれたキツネが目を閉じ腕を組んだままの姿で答える。瞬間揺れた桜木の肩に、彼は眉間に皺を寄せちょうどいい置き所を探しながら言った。その眉間に眼鏡がないことには気付いた様子もない。
    「演技経験ならあるから」
    「はあ?」
     自信満々な口ぶりに桜木は眉を顰める。そして気付く。
    「おめー、キスカムのこと言ってんならぶっ飛ばすぞ」
    「観客二万人。立派な大舞台」
    「あはは。全米放送でしたしね」
    「同調すんな、調子に乗るから」
    「すみません。でも二万人の前でプロポーズするよりは楽な仕事ですよ。あの頃とは時代も違いますし。ですからどうかリラックスして、自然体でお願いします」
    「ん、」
     いらえた流川はようやく収まりのいい場所を見つけたらしい。長い睫毛を伴侶が着ているグリーンのセーターの肩に埋める。目的地に着くまでもうひと眠りすることにした彼の額の皺をぐいぐい押して、桜木は、ったく、と息をついた。バックミラー越しに男と目が合い、ふたりは同じタイミングで小さく笑った。



     車は一時間弱で目的の場所に到着した。公園そばの駐車場には既にメイクと衣装合わせ用のバスが停車している。中から年若い男女ふたり組のメイクスタッフと、それより少しばかり年長のカメラを持った男性スタッフが現れ、ちょうど車を降りたふたりを歓迎した。責任者が彼らの隣に立って言う。
    「メインは広告写真の撮影ですが、宣伝の動画配信用にビデオの撮影もさせていただきます」
    「そりゃ聞いてたけどよ、まさかメイクからとは思わなかったぜ。おい、毛玉ついてねーよな、セーター」
    「……たぶん」
    「おめー全然見てねーじゃねぇか。眼鏡くらい掛けろぃ」
    「あ、」
    「気付いてなかったんか。……ったくよう。……なあ、こんなジジイふたりのメイクと撮影担当ってことは、若くても相当な腕ってことだろう? 今日はよろしく頼むぜ」
     来て早々の勢いに気圧され気味の若者たちに、年長者から頭を下げる。三人は慌てた様子でより深々と礼を返した。
    「こちらこそ、本日はどうぞよろしくお願いいたします!」
     恐縮しきりの三人は、桜木たちの孫といっても差し支えないような年齢だ。選手としての現役時代の頃には生まれてさえいないような年代の子らに衣装やらメイクやらを施してもらうのは何となく照れ臭い。しかもそれを撮影して動画に残すだなんて。桜木は肩を竦めながら挨拶と自己紹介をした。
    「もちろん存じ上げてますよ! 選手時代のこともですが、おふたり共ブランドの広告のお仕事なんかもされてましたよね? 私たちにはそっちのが身近で、」
     女性スタッフの声に続いて男性スタッフが答える。
    「専門学校の教材にも載ってるんですよ、おふたりのCM。ですから、」
    「ってわけじゃないですけど、メイクも衣装も張り切ってご用意しました」
     立ち話も何ですし、続きは中でと促され、ふたりは車に乗り込む。カメラスタッフが後ろから追い、プロジェクト責任者は撮影の準備に向かうためその場を離れた。
    「うおっ、すっげぇなあ」
     案内された車内を見渡す。ふたりだけで占有するには勿体ない広々とした空間には、今日のために用意された衣装や小道具が整然と並んでいる。丸い電球の明かりに照らされた鏡前にもこまごまとしたメイク道具が並んでいて、桜木は懐かしい当時のことを思い出した。
    「アイライナーと口紅、とても挑発的な……と言っていいのか分からないですけど、挑戦的な色で、おふたりのイメージにぴったりだと思いました。実際当時としては革新的だったと聞いています。スポーツ選手、それも男性のスポーツ選手が女性向けの化粧品のモデルになるなんて、って」
     今じゃ当たり前のことですけどねえ、と言いながら、女性スタッフがふたりを衣装の掛けられたハンガーラックの前に案内する。
    「おー、だからヒヤヒヤしたぜ、当時はよ。オファーしてきた方もガチガチでよ、絶対に失敗できない、って言って」
    「それでこいつも緊張しまくり」
    「おめーがしな過ぎなんだよ! どんだけ毛が生えてんだ、テメーの心臓はよう」
     肘で小突くとスタッフふたりは慌てた様子で桜木を制止した。これがふたりのコミュニケーションだということはさすがに教科書や資料には記載されていないようだった。
     スタッフふたりに促され、カーテンで区切られた更衣スペースに移動し、ひと通りの説明を受けてから衣装を受け取った。デザインや着方に癖のある衣装であったらスタッフが掛かり切りで面倒をみるのだろうが、今回は日常風景風の撮影ということで、衣装は着てきた服とそう変わらない。桜木はホッと胸を撫で下ろし、カーテンをシャッと閉めた。
     渡された衣装は大きな縄状の編み目が特徴的な臙脂色のニットとオフホワイトのスラックスだった。靴は事前に送っておいた自前のもので、履きなれたナイキのスニーカーだ。悩む間もなく着替えを終え、カーテンを開けて傍の鏡に全身を映す。と、背後でもうひとつの更衣スペースのカーテンが開き、中から着替えを終えた流川が現れた。
     彼の衣装は黒色のタートルネックと同系色のジャケット、細身のブラックデニムだった。足元は同じくナイキのスニーカーで、桜木の白に対しこちらは黒。一色でまとめた服装は彼のすっかり色の抜けたシルバーヘアをよく引き立てていて、見惚れたスタッフたちがほうと息をつくのが分かった。長い前髪を後ろに流した姿はただの無精なのに知的に見え、胸ポケットに突っ込んだ老眼鏡さえ彼の姿を意味ありげに演出している。老いても枯れても美形は美形、ということだろう。付き合い始めの若い頃は苛立ちもしたが、古希を過ぎればどうということはない。むしろ自慢だ。
    「へへ、キミたち残念だったな。あと五〇年はやく生まれてたらよかったのになあ。残念、俺の夫だ」
     と若い頃にはしなかったのろけを言ってみせる。隣に立つ流川もどこか誇らしげな目配せをしてみせ、スタッフたちを笑わせた。
     メイクを終える頃合いを見て顔を出した責任者に連れられ、一行は集合場所のバスケットコートに向かった。広々とした空間には既に今日の撮影スタッフが勢ぞろいしていて、現場監督らしい女性が周囲に集合の声を掛けている。機能的な格好のスタッフの他にスーツを着た年嵩の社員たちの姿も見え、恐らく重役だろうと桜木は思った。
    「元プロバスケットプレイヤーの桜木花道さんと流川楓さんです」
     責任者が一同に向かってふたりを紹介する。テレビでよく見るお決まりの光景だ。ふたりにも遠い昔に経験がある。桜木は軽く頭を下げ、流川も少し遅れて同じ動作をした。そのまま促され、簡単な挨拶をする。どの顔を見てもやはり皆若く、現役時代を知っているスタッフはいないだろうと思ったが、脇に控えていたスーツ姿の女性――どうやら取締役のようだった――は両親がかなりのバスケット好きであったらしく、そのお陰で本人も筋金入りのバスケファンだという。ふたりのプロポーズもリアルタイムで放送を見たというから驚きだ。その辺りも今回の起用に一役買っているのかもしれない。
    「台本をお渡しした通り、今日の撮影は簡単なストーリー仕立てになっています。もちろん写真なので音はありませんが、静止画から過去や未来が想像できるような、イメージを喚起させるような画にしたいと思っています。どうぞよろしくお願いします」
     台本を書いたというスタッフの挨拶に、桜木は思わず隣の流川に、
    「だってよ、大丈夫かよ?」
     と耳打ちする。流川は普段と変わらぬ様子で
    「まかせろい」
     と答えた。あまりに自信満々過ぎて桜木は呆れてしまう。
    「どこからそんな余裕が出るんだ」
    「本読んだ。大体普段どーり」
    「ふ、たしかに。てか自覚ありかよ」
     渡された台本はふたりのインタビューや映像からイメージを膨らませて書いたというが、公園そばの大通りを歩く二人のト書きなど、正しく普段のふたりそのものだった。
    『朝の通りを桜木と流川が歩いている。先を歩く桜木の後ろを流川はふらふらとして覚束ない足取りでほとんど眠っている様子。桜木、流川を叱りつけながら隣に並ばせる。流川、特に気にした様子もなく、公園のフェンスの向こうを見る。』
     これが台本の一ページ一行目に書かれている文章だ。
    「尾行でもされたんかと思った」
     夫の神妙な声と様子に、桜木は思わず噴き出した。
    「モデルのおふたりは何か気になる点や不調があったらすぐに中断の声を出してください。逆に、撮影側が進行を止めることはまずありません。物事の流れを大切に。よろしくお願いします」
     責任者がそう告げて、撮影が始まった。



     通勤通学時間のピークを終え、通りにはゆったりとした時間が流れている。降りそそぐ朝の光もどこかのどかで、アスファルトに描く木漏れ日の陰はまるでこどもが手を振っているようだ。
     冬を迎える少し前、小さな祝福のような小春日和の大通りをふたりは歩く。長い脚でかくしゃくと歩く桜木と、その後ろをのそのそと黙ってついていく流川と。ちょっとそこまで買い物に、という身軽な装いだが、背の高いふたりが横浜の整備された通りを歩いていると、まるでアメリカかどこかのアベニューを散歩しているかのようだ。こんなにも秋が美しいなら、なおさら。
     桜木が振り返る。いつも半分寝ているような夫は、亀よりもゆっくり動く上にとてつもなくマイペースな男なのだ。いつの間にか開いた距離を大股で縮める桜木に、彼が首を横に振ってから、ついと右手の人差し指を上に向け立てた。今日は別に寝てないぞ、という仕草と表情に桜木は目線で指の先を追う。今正に枝を離れた黄色いいちょうの一枚がひらりと彼らの足元を泳いで落ちた。流川も同じように空を見て、ふたりの目いっぱいに黄色と青の秋が広がる。風が木々を揺らすさざめきの向こうから、遠くクラクションの音が聞こえた。
     ふたりが再び歩き始める。今度は足並みを揃え、ゆったりと。足元で乾いた落ち葉がクシャクシャと音を立てる。と、音と共にふたりの散策する足が止まった。並んだ視線の向こう、公園のフェンスの奥に植えられた木々と植栽の隙間から、馴染み深い赤茶色が覗いていた。――バスケットボールだ。
    「…………」
     コートに人の姿は見えず、ボールは誰かが置き忘れたか、少なくともその場を離れているようだった。ふたりは向こうに投げていた視線をそっと合わせる。カシャッ、彼らの足元で葉の潰れる音が立つ。
    「あっ、てめぇっ!」
     桜木の上げた声も伸ばした手も流川の背を捕まえるには僅かに足りず、彼は風のような速さで駆け公園の入り口を抜けていった。桜木も後を追う。侵入防止の石を避けて急カーブを切り、木陰と遊具を抜けて一直線にコートへ!
     シュッ! ボールが風を切る音が立つ。軽やかなジャンプシュートにシルバーグレイの髪が揺れる様子は、大きな鳥が羽ばたくように美しい。何百万と打ったシュートは難なくゴールネットをくぐる。――が、流川はそれを見ていなかった。彼の視線は桜木花道ただひとりを捉えていた。
     流川は笑った。硬い頬の右の口端だけを上げた特徴的な笑い方。挑発的なその表情に桜木も好戦的な笑顔を返す。合図もなく、同じタイミングでふたりは駆け出した。落ちたボールが小さく跳ねる、その後を追って試合は始まる。
    「クソッ!」
     ボールを取ったのは流川だったが、桜木は猛スピードで彼とゴールの間に割り込んで進路を塞いだ。右か、左か、流川の目がより隙のある場所を探す。切れ長の目が動物のように鋭く輝く。ボールを胸の辺りに構えた彼の右肩の筋肉が僅かに揺れて、桜木は重心を右に移した。――が、
    「甘いっ‼」
     叫んだ彼が、左から抜けようとした流川のボールを奪おうと左手を出す。指はボールを掠め、流川の手から離れて転がる。フェイント失敗。
    「はっはっは! 残念だったなキツネくん‼ そう簡単には騙されんぞ‼」
    「チッ」
    「舌打ちすんな行儀ワリーぞ‼」
     じゃれ合うようなやり取りに観衆が笑い、カメラマンはシャッターを切る。笑い声、ボールが地面を打つ張りのある音、日差しにあたためられた風の温度、乾いた土と砂の匂い。切り取り残すことの叶わないそれらひとつひとつ。けれど色と光しか切り取れない写真を見て、人々はきっと想像してくれるだろう。切り取られた枠線の向こうにどんな世界が広がっているのか。そこには何が存在するのか。どんな日々がふたりをここまで運んできたのか。写真にはその力があるのだと、この場にいる全員が信じている。
     折角用意してくれた衣装も脱いで、ふたりはシャツ一枚になって遊んでいる。腕まくりした裸の腕で汗を拭うと左手の指輪が日差しを受けてチラリと光り、カメラマンはその輝きもカメラに収めた。遊びに夢中のふたりはそれを気にするどころか気付いた様子もない。
     ふたりが周囲の様子に気が付いたのはもう少し後、いよいよ疲れ果て地面にへたり込んだとき、スタッフたちの向こうにいつの間にか集まっていたギャラリーたちが拍手を寄越した、その音によってだった。


     それからしばらくが経った。
     街頭や雑誌を飾った例の広告は企画規模の大きさもあり幅広い年代の話題を呼んだ。桜木と流川の広告も、特に現役時代を知る世代からはキスカムでのプロポーズ騒動や、それが騒動とされた当時の世相も含めて大きな話題となり、そのせいでふたりの身辺もしばらくの間少々騒がしかった。
     その他の年代――特に若い世代の子らは同年代や近い年代のモデルへの関心が主で、それはそうだろうと桜木は思う。自分だって若い頃は結婚といえばプロポーズや結婚式の晴れやかな日を想像していた。可愛いおじいちゃんおばあちゃん、なんていうのはその先のことだ。
    「いやあ、さすがの天才の魅力も一〇代二〇代には通用しなかったか……」
    「どあほう」
     老夫夫ふたりで背中を丸め、こたつで足をあたためながらの雑談。色違いの半纏姿は先日の衣装姿のエレガントさからは程遠い。流川に至っては室内だというのに首にマフラーまで巻いてもこもこになっている。
     ちょうどテレビ画面の向こうでは、例の広告について街頭でインタビューを行っている。どの年代の広告に一番憧れるか、というようなワイドショーらしい内容だ。広告を縮小コピーして一枚のパネルに貼り付けたものに、銘々が投票のシールを貼っていく。異性カップルの広告もあれば、男性同士、女性同士、性別を定めていない人と男性或いは女性、定めていない人同士など、並べてみると本当にたくさんのカップルたちの姿があった。年代もばらばらだ。
     桜木は彼ら彼女らのはばかりない意見を見聞きしながら、全てのカップルが等しく並列されたパネルを見て、プロジェクト責任者のある言葉を思い出した。今更自分たちのような老人がジュエリーの広告など、と思わず謙遜したときのことだ。
    『失礼ですが、だからこそいいんですよ! だってこのジュエリーのコンセプトはThe Ordinaryなんですから!』
     The Ordinary ――〝今ここで私たちが生きているのは普通のこと〟。そう言った人の強く朗らかな笑顔を思い出す。なるほど、あれはこういうことだったのか。
     桜木と流川の愛も、この世界にありふれた愛のひとつだ。

    【了】
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    nozomu_cql

    DONE遅ればせながら、イベントではスペースにお越しくださりありがとうございました。当日配布したペーパーをこちらに掲載します。短編二本。いずれも本編の後の話になりますので、冊子をご覧になってからご覧ください。

    パレードへようこそ…本編から数年後のキスカム話。第三者視点。
    ありふれた愛のひとつ…老年流花。ジュエリーのモデルになる。
    2023/11/23無配ペーパー(『My Dear Lifelong』関連2本)パレードへようこそ
     リア自身はスポーツにこれといって興味がある訳ではないのだが、配偶者であるグレッグが高校時代バスケットボールに熱中していたおかげで、The Ordinaryはバスケットボール贔屓の店と見なされている。特にNBAのレギュラーシーズンの間は、カウンターと客席の奥に置いたテレビのチャンネルが固定されるためバスケット好きが店に集まり、店内はスポーツバーのような様相になる。厨房にいる彼はテレビなんか見られないだろうに、試合を見つめる客の一喜一憂する表情をいつも楽しそうな顔で眺めている。音楽好きなリアとしてはGloria GaynorやMadonnaの情熱的な歌声とビートに包まれながら仕事をしたいと思うのだが、あの顔を見てしまったら、まあ半年の期間だけだし、と大らかな気持ちになってしまう。それに、この数年は彼女にもテレビを見る理由ができた。もうこの地を離れてしまった馴染みの顔。オフシーズンにデザートのクリームパイを食べに顔を出す日本人カップルの様子を見るのに、NBAの中継番組はうってつけなのだ。
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