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    閲覧ありがとうございます。
    大学一年生の牧藤小説です。風邪をひいた藤真さんと、看病に来てくれるスパダリの牧さん。

    ※以下のことにご注意下さい
    ・牧×藤真です
    ・スマートフォンがあります
    ・土地や大学、独り暮らしなど捏造設定だらけです
    ・何でも許せる方向け

    ✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎




    酷い倦怠感と全身の震え、悪寒に頭痛。

    四限の講義を受けている最中から急激に身体が重くなり、終わる頃には周りから口々に「藤真、顔色悪いぞ」と指摘をされてしまった。
    突然の体調不良に少々戸惑いつつも、家まで送ってやろうかと言う友人らの提案を取り繕った笑顔で断り、とりあえず部活を休む事だけを伝える。悪化する前に…と早々と帰路についたのだが、電車を降りた頃には膝が震え出してしまっていた。
    吐き気が無い事だけが救いだ、と思いながらさほど遠く無いはずの自分の家までを泥沼を掻く様に懸命に歩き続ける。そしてやっとの思いで辿り着いた部屋のドアノブを掴むと、全身の体重を使ってドアを引いた。

    鉛の様に重い足を必死に上げて玄関を越え、キッチンにしがみ付きながら廊下を歩く。B級映画のゾンビよろしく顔面と平手を扉にぶつけながら漸く寝室に踏み込んだ瞬間、手に持っていた鞄を落とす様にして手放し、そのまま床にへたり込んでしまった。

    (体温計…どこだっけ)

    風邪なんて滅多に引かないので、今の自分にどの程度の熱があってどのくらい危険な状況なのかがいまいち分からない。
    四つん這いになりながらベッドのサイドチェストまで腕を伸ばし、その引き出しの中から新品の体温計を見つける。電源が入る事に安堵しながら、それを右脇に突っ込んだ。
    とりあえず水と…あと、風邪薬はあっただろうか…
    やや朦朧としながらも服の中からピピ、と小さく電子音が計測完了を報せてくるのが聞こえて、怠さに耐えながらそれを覗き込む。
    38度7分。数字で見ると途端に気分が滅入った。…成程、これはなかなかしんどい。
    家族に連絡をして来て貰った方が良いだろうか。誰かに助けを求めるべきか。

    (…寒い)

    震えながらもベッドへ乗り上げて、足元に畳んでおいた布団を自分の身体に巻きつけ、少しでも寒さを和らげようと縮こまった。
    これから新人戦予選に向けて、他校との強化試合が組まれる連休が始まる。そしてそこからレギュラーの選抜が行われる、一番大切なこんな時に…。
    唾を飲み込もうとすると、鼓膜に響く程に喉が痛んだので思わず呻いてしまった。

    とりあえず少し休んで、そうしたら適当に何か腹に入れて、薬を飲んで、しっかり寝れば少しは動けるようになるかもしれない。
    頭の中で浅はかな段取りを組みながら、自分の吐く息の熱さに目を顰める。徐々に瞼を上げている事すらも億劫になってきて、諦めてオレはゆっくりと泥濘の様な暗闇に身を委ねていった。




    - spring Lovesick -




    次に意識が戻ったのは、深夜三時半過ぎ。
    小一時間寝るくらいのつもりだったのに、何時間眠ってしまっていたのだろう。そもそも帰宅したのが何時だったか。まだ痛む頭を左手で押さえながら、オレはゆっくりとベッドから降りた。
    脚に力が入らなくて歩行がおぼつかず、地面がゆらと揺れた様に錯覚してしまう。酷く喉が渇いていて、それなのに身体は震えが断続的に続く程に寒い。
    もしや悪化している…?やはり家族に連絡するべきか…
    なんとか部屋の入り口に落としたままの鞄からスマートフォンを取り出し、画面にトンと親指を落とす。すぐに通知の履歴が表示されて、オレは目を細めながらそれを眺めた。

    メッセージが3件、不在着信が2件。
    相手の名前は全て、牧紳一。

    「…まき、」

    何か、約束をしていただろうか。
    眉間に力が入ってしまい、その瞬間に頭痛が後頭部から額の方まで走ったのが分かる。痛みに耐えて歯軋りをしながら、再び親指を画面に滑らせて用件の確認をした。

    19:16『明日何か予定はあるか?時間があれば会いたい』
    23:01『すまん、忙しいようなら無理にとは言わない』
    00:35『藤真、大丈夫か?疲れて寝ているだけなら良いが』

    たかが数時間連絡が付かなくなっているだけで、えらい心配を掛けてしまったらしい。このたった三通のメッセージに牧の焦り様が痛い程に現れている。着信はどちらもメッセージの間の時刻を表示していた。

    「過保護かよ…」

    普段なら「大袈裟だな」と言ったと思う。
    だが今、こんな状況での牧からのこの連絡はどうしようもない程にオレの心を弱くした。独り暮らしの心細さを初めて実感してしている所に、孤独を和らげるこのお節介は狡い。
    項垂れながらベッドへ戻り、とりあえずこんな時刻だが返事をしなければと思う。
    悪い、寝てた、体調が悪い、熱がある。色気の無い単語を打ち込みながら、あまりにも業務的な自分のボキャブラリーに指が止まってしまった。画面がぼやりと暗く沈み、送信ボタンが押せない。
    …どこまで伝えれば良いのだろう。

    恋人の距離とは、どこまでが正しいのだろう。



    牧紳一は、オレの恋人だ。
    とは言えその期間はまだ二ヶ月にも満たない。少し苦味を残していた友人関係の延長から、僅かに甘く円やかなものへと形を変えただけの、まだ擽ったい存在。

    冬の香りと春の気配が混じった三月の始まり、翔陽高校の卒業式の日の午後。
    式典を終え、担任教師から餞の言葉を贈られ、教室でクラスメイト達と最後の写真撮影をしていた時。手に持っていたスマホに突然牧からの連絡が入った。
    『今から会いたい』
    初めて来たそのメッセージにも、内容にも、オレは表情だけは冷静なまま内心とてつもなく動揺していた。
    確か高校二年の練習試合の後に、先輩達の交流に混じって牧と連絡先を交換していた。それなのに特に個人的な連絡を一切取っていなくて、いつしかその名前は項目の一番下へと追いやられてしまっていたから。
    今、牧の名前が一番新しい場所にある。そんな事だけで心がむず痒くなって落ち着かない。

    手元の小さなスマホ画面と、教室の窓から見える校門付近に集まった他校の女子生徒の集団とを見比べて、オレは直ぐに返事をした。
    『良いよ、何処に行けば良い?』
    一瞬でその返信を目にしてくれた事が分かる文字が、オレのメッセージの横に付く。そして僅か十秒後、オレの心臓を跳ねさせる返事が届いた。

    『翔陽高校の裏門』

    愛しき翔陽の仲間達と校舎に一言で別れを告げて、オレは何の迷いも無く走り出していた。廊下にレッドカーペットが敷かれているかの様に見える。校舎裏の桜はまだ蕾を膨らませるばかりで花弁はおろか開花の様子すら無いと言うのに、空からはフラワーシャワーが舞っている気がするし、オレの気分は既にセレモニー真っ只中の花嫁だ。

    正門と真逆の位置に聳える裏門は、まるで城門の様な両開き型の分厚い鉄扉で、いつだったか不審者の侵入があった事から常に固く閉ざされている。高さはざっと二メートル強。南京錠の付いた厳つい閂にローファーの爪先を掛け、強く踏み込んで門の天辺を掴んだ。
    本当に?本当にこの向こう側に、牧がいるのか?
    半信半疑で勢い良く伸び上がって門の外へと顔を出すと、其処には春風に短い前髪を揺らされながら、此方を見て穏やかに笑う男の姿があった。

    「藤真」

    嬉しそうな笑顔と声で名を呼ばれて、きゅ、と胸が苦しくなる。

    「正門を見て驚いたぞ、あの集団はお前のファンか」
    「多分な」
    「行かなくて良いのか?」
    「何だよ、攫いに来てくれたんじゃないのか?」
    「ああ、そうだ」

    迷いの無いその返事を聞いてオレはすぐに門の上に足を乗せ、強くそれを蹴って二メートルの空中から地面へ飛び降りた。牧が流石に驚いた顔をしながら、オレの着地点に駆け寄って少しよろけた上半身を両腕で抱き留めてくれる。

    「…意外と破天荒だな、お前」
    「知らなかったか?」
    「ああ、知らなかった」

    県内有数の進学校である翔陽は皆優等生揃いで、上品な生徒が多い。特にお前はその模範たる象徴なのだろうと思っていた、と言われ、可笑しくて笑ってしまった。

    「そんな良い子じゃねえよ」
    「そうか」
    「理想と違ったか」
    「いや、その方が好きだな」

    そのまま「こっちだ」と腕を引かれて、裏道や田舎道を抜けて誰の目に捕まる事も無く高校の敷地から離れ、少し先にある都市公園まで連れて行かれた。
    丘陵を生かし森と一体化した形の巨大公園には野球場やテニスコートがあり、その更に奥にはバスケットコートもある。早速1on1の相手をしろと言われるのだろうか、と楽しくなりながら牧の後を付いて歩いたが、牧はのんびりと小さな池の周りを散歩する様に進み、そしてそのまま「少し休もう」と言って木漏れ日が光る東屋に腰を掛けてしまった。
    まぁ、ボールも持っていないしな、と納得しながら隣に座ると、ゆっくりと牧がこちらを見る。

    (あ…)

    その視線の強さに、今度は胸よりも喉の奥が苦しくなった。
    抑えられないものがずっと其処で眠っていたのを、まるで一瞬で見つけられてしまったかの様に。無理矢理呼び起こされてしまったかの様に。

    「好きだ、藤真。付き合って欲しい」

    理解しきれない動揺をしている内に真っ直ぐな告白をされて、情けない程に視線を泳がせた。必死で考えた。
    何だこれは、高校生活最後の悪戯?誰かが何処かに潜んでいて、ドッキリ映像の撮影でもしている?ああ、罰ゲームか?何処かにお前の友人が潜んでいて、この後大笑いしながら出てくるのだろうか?
    だが「冗談だろ、バレバレだ」なんて、そんな嗤笑を目の前の男にぶつけられる隙は何処にも無かった。
    柔らかな春風が牧の背後からこちらを襲うように撫でてきて、その真剣な眼差しと融けて五感も呼吸も心臓も、全てを奪われてしまった。
    ああ、苦しい───。

    「オレがお前を好きな事、知ってたのか…?」

    そう聞き返すと牧は、ヒュ、と音が鳴る程に鋭く息を吸い込んで、それからその強い力で目一杯オレの身体を抱き締めてきた。

    好きだった。
    牧紳一の存在を知った高校一年の時から。公式戦での直接対決を終えた夏の終わり頃から。ずっと、ずっと。
    バスケットボールプレイヤーとしてだけでは無い、その存在力の強さと真っ直ぐな意志に、惹かれずにいられなかった。
    ずっと、好きだった。


    それから約二ヶ月。
    オレ達は互いの進路すら知らなかったというのに、どちらも神奈川を出て都内の大学へと進学を決めていて、蓋を開けてみれば二人の学舎は直線距離にしてたったの約五キロ。
    牧の大学はバスケ部のリーグ成績と学業偏差値を鑑みて自分も進学先候補として考えていた大学だったし、牧にとってはオレの大学がそれに当たるそうだ。なるほど、神奈川の双璧などと呼ばれはしたが差があると思っていた、しかしどうやら二人には同じ推薦が来ていたらしい。
    そして更に、大学から二十分程度で通える理想の距離での独り暮らしとなると居住区も被る可能性があるだろう。
    既に内見を済ませ引っ越しを次週に控えていた互いの部屋は、なんと地下鉄でたった二駅の場所だった。

    春休みのうちに順に部屋を訪れ、引っ越し作業を手伝ったり家具や家電を調達したり、調理器具を揃えたり。何が無くとも一緒に過ごして、だが特別な事は一切せずに夜には解散をして。そんな平坦な日々を過ごしながら、特に進展を迎える事も無く大学生活の一ヶ月目を終えようとしている今。

    オレは、恋人の距離が分からずにいた。




    親指を乗せたままのスマートフォンが、暗闇の部屋で煌々と光る。
    恋人とは、どこまでを伝えるものなのだろうか。例えば今「熱がある」と送って、それは牧にどう受け取られるのだろう。
    心配、迷惑、負担?
    自力で何とかしなくてはならない事ならば、弱音など他者に吐くべきでは無い。それは選手兼監督をしていた時に幾度も自分の心に放った言葉。

    悩んだ末結局『悪い、寝てた』とだけ返信をして、再び倦怠感に負けて瞼を下ろす。するとそのすぐ十秒後、手の中の機器が断続的に震え出した。…電話?
    思わず顎を上げて、サイドチェストの上の時計を見る。三時四十分だぞ…?まさかずっと起きていたのか?
    そっと指を滑らせて通話を許すと、低く優しい声がすぐにオレの名を呼んだ。

    『藤真?大丈夫か』
    「お前…何でこんな時間に起きてんだよ」
    『お前から連絡が無いから心配していた』
    「……悪い」

    やはりオレのせいか。正直に伝えようが伝えまいが結局牧に負担を掛けていた、という事実に落胆する。再び布団の中で蹲り、枕に顔を埋めて唸ってしまった。

    『どうした、体調が悪いのか?』
    「ん…」

    何故分かるのだろう。寝ていた、としか送っていないのに。厳しい部活の練習に疲れ果てて寝落ちていただけ、と捉えてくれない、察しの良すぎるその温かい声に涙腺が絆されてしまいそうだ。

    『大丈夫か?熱は?吐き気はあるか?』
    「熱が…少し」
    『何度だ』
    「38…くらい」

    オレの返答の直後に、電波の向こう側でガサガサと衣擦れの音やカチャリと金属の鳴る音がした。

    『今からそっちへ行く、何か欲しいものはあるか?』

    え?

    「今……から?」
    『ああ、飲み物はあるか?薬は?』
    「お前、今何時だと思っ…」

    驚きで思わず上半身を起こしてしまった。ズル、と掛布団が肩から落ちてゆく。
    街はまだ寝静まっているし、当然バスも電車も動いていない。車…は実家だったよな?もしやこんな時間にタクシーを呼ぶつもりか?いやそれとも、まさか…

    『三十分くらいで着く、待ってろ』

    オレの部屋とお前の部屋は地下鉄で僅か七分の距離だ、そうだなお前の脚でそれなりのスピードで走ったらその位だろうな。いやだから待て、本気で言ってるのか…!?

    『途中コンビニに寄るから、欲しいものがあれば言ってくれ』
    「いや、ええと…」
    『無ければ、勝手に何か用意していく』

    呆気に取られつつも、いや冗談だよな?とまだオレは混乱の最中だ。だというのに電話の向こうからは既に、ガチャ、とドアに鍵を掛ける音がしている。

    『じゃあ、切るぞ』

    良い子で寝ていろよ、と最後に囁かれ、微かに耳の端が熱くなったのを感じている間に静かに通話が切れた。

    何の音もしない部屋で、オレは呆然としながらひとりで「え?」と今度は音にして零す。だが闇に吸われたその問いに応える声は、もう既に無い。
    牧はこういう奴なのか?困っている人を助けずにはいられない性分?いや、こんな深夜に駆け付けてくれるのはオレが牧の恋人だから?恋人というものはこれが普通なのか?それともやはり、牧が特別そういう奴なのか?
    …経験が無さすぎて何も分からない。
    一気に全身から力が抜けてしまい、再びズルズルとベッドに倒れ込む。耳だけで無く顔がとてつもなく熱くて、枕に顔面を擦り付けた。熱が上がったのだろうか。先程より明らかにガンガンと強く暴れ出したこの頭痛は、何が原因だ?



    中学、高校時代と、名前も知らない女子から呼び出しをされては「好きです、付き合って欲しいです」と幾度と無く告白を受けてきた。
    青春の全てをバスケットボールに捧げて、全ての時間を勝利の為に費やしていたかったオレは一度もそれに良い返事をした事が無かったし、特に強制した覚えは無かったのだが何故か周りのチームメイト達も同様にしていた。
    つまりずっと、恋愛とは縁遠く過ごしていた。

    だが、己の恋愛対象が可愛らしい女性で無い事にはどうしてか早々に気付いていた。
    常に自分の前に立ちはだかる様に居た、強く大きく、いっその事誇らしいとまで思えたライバル。其奴の事を想う時間が、一番幸せで苦しかったのだ。

    牧は何故オレを恋人に選んだのだろう。
    あまり特別な事を望まれている気はしない。手も繋いでいないし、キスもしてない、愛してると囁き合う事もしていない。あの東屋で抱き締められたのが最初で最後だ。…意外と奥手?
    いやもしかして牧は、ただオレと疎遠になりたく無くて、これからも友であり競い高め合うライバルでありたいと考えて「好きだ」という言葉を使ったのではないか?
    果たしてこれから先、手を繋いで、キスをして、一緒に眠りたいと願っている?それ以上の事は?身体を触れ合わせる事は?セックスはしたいか?
    牧はオレに、どこまでを望んでいるのだろう。

    『好きだ、藤真。付き合って欲しい』

    「………」

    春風の吹く公園の、あの東屋で抱き締められた時の牧の身体の温かさを…思い出せない───




    再び意識が薄くなり、浅瀬の波に揺られる様な心地の良い夢に身体が浸かり始めた頃。カチャ、と、寝室の向こう、廊下の方からドアの鍵が回る音がした。
    ──ああ、合鍵…使ったんだ。
    恋人の儀式だろうと言って互いの部屋の鍵を渡し合ってはいたが、部屋の主が居ない時に其処を訪れる事が無いものだから、正直持っている意味あるか?と思っていたのだけれど。…初めて役に立ったな。
    それから配慮を感じる静かさで扉が閉まり、トン、トン、と大きな足の控えめな足音がこちらへ向かってくる。
    本当に来てくれたんだと漸く実感し、なるべく平然としなくては、と慌てて己を奮い立たせる。力の入らない腕で懸命にベッドから上半身を起こしたのと同時に、部屋のドアが開いた。

    「!、起きていたのか」

    真っ暗な部屋に戸惑う様子も無く、片手に下げていたビニール袋をローテーブルの中央に置きながら、牧は真っ直ぐにベッドへと向かって来た。そしてオレの両肩を支える様に掴んでから、額に触れ、頸を撫で、最後に優しく後頭部を叩く。

    「大丈夫か?」

    意識を確認する様にオレの顔を覗き込んで来たその表情に、怒りや呆れは見られない。むしろ、あまりにも優しい。その事に酷く安心して、弱った心が思わず「まき…」と掠れた声を漏らしてしまった。
    ───何だこれ。知らない、こんな牧。
    …脳が溶けてしまいそうだ。

    「辛そうだな…とりあえず水分を摂れ」

    酷い汗だ、と言いながらビニール袋の中から取り出した経口補水液のペットボトルを、丁寧にキャップを外してから渡される。
    汗…ああ、本当だ、気付いていなかった。首周りから胸元までベッタリと、明らかに良くない汗にまみれている。服は大学から帰ってきた時のままでベルトまで締めているし、平然など演出するには余りにも違和感だらけだった。自分の限界状態と散々な現状に、今になって情けなさが募る。

    「咳は出ないか?」
    「平気…喉は少し痛いけれど」
    「あとは?」
    「……寒い」
    「分かった」

    とにかく早く汗を拭きたい、着替えたい、というオレの願望は言葉にするよりも早く牧に叶えられた。迷う事無く風呂場へ向かい、棚からバスタオルとパジャマ代わりに着ているスウェットを一式持ってきてくれて、既に半分以上を飲み干したペットボトルと交換で渡される。汗を拭いたタオルも脱ぎ捨てた服も纏めて拾い上げ、手早く洗濯機へと持って行ってくれた。シーツも替えるか?と訊かれて、オレはゆるゆると顔を横に振る。
    手際…良いな。ダウンライトだけを点けたやや薄暗い部屋の中で、無駄無く動き回っている姿にぼやけた頭で感心しながら、オレはその背中に見惚れていた。

    胸の奥がヒリヒリして落ち着かない。自分の為にわざわざこんな時間に部屋まで来て、労ってくれる事が有り難く、嬉しく、そして何故か苦しくて仕方が無い。こんなに世話焼きだった事も初めて知ったけれど、何よりもこの蕩けそうな優しい顔を知らなかった。
    知らない姿に、顔に、惹きつけられて苦しいのか…?

    まだ焼ける様に熱く痛む喉が、また無意識に「まき…」と小さく鳴いてしまう。牧は頷きながら、汗で少し重くなっているオレの髪をよしよしと二度撫でてから、再びテーブルの上のビニール袋に手を入れ、今度は風邪薬と冷却シートを取り出した。

    「流石に薬はこの時間じゃ手に入らないだろうから、オレの部屋から持ってきたんだが」
    「…悪い、助かる」
    「普段から飲んでる薬はあるか?あるならそっちの方が良いだろう」
    「痛み止めなら有る、けど…」

    風邪薬として使って良いのか分からない、とオレが呟くと、牧は目だけで「何処だ?」と訊いてきた。高校一年の頃から、互いの視線でコート上の攻防を読み合ってきた仲だ。オレが少し部屋の外の方を見つめただけで、牧はウンと頷いて立ち上がった。
    寝室を出てすぐ左手側のシンクの隣、冷蔵庫の横。ほんの少しの調味料と一緒にポリプロピレンのケースに入れられた薬を、牧はすぐに見つけてくる。

    「処方箋か、これ」
    「頭痛が酷い時に、たまに」
    「……ああ」

    察しの良い男は一瞬、オレの目より少し左上に視線をずらしてすぐに納得をして、その錠剤のシートに書かれた名前を確認した。スマホでそれを入力してじっと黙ったので、わざわざ効力を調べてくれているらしい。

    「解熱効果もあるみたいだな」
    「…知らなかった」
    「だが風邪薬としては少し弱いかもな」
    「とりあえず、熱が下がれば良い…」

    薬を受け取ろうとオレが手を伸ばすと、何故か牧はその手に持っていた薬をテーブルに置き、自分の部屋から持ってきたと言う市販薬の方をオレに示した。

    「こっちを飲め」
    「…でも、」
    「良いから、言う事を聞け」

    牧の声が穏やかに諭してくるので、強く反抗する事も出来ずに唇を結ぶ。そしてまた頭を撫でられると、その手で術か何か掛けられたかの様にオレは素直に頷いてしまった。まただ…また脳がじんと痺れて、溶けてしまいそうになる。

    「飯は何か食ったか?」
    「いや…」
    「食欲は?」

    どうかな…、吐き気は無いが食欲も無い。
    髪に触れていた牧の手が、するり、と丁寧にオレの左額の辺りを撫でた。コート上でのプレイはあんなに強引なくせに、二人きりだとこんなに優しく扱ってくるんだな。これも全然知らない。…本当に狡い男だと思った。
    硬い指が柔く肌を撫でてくれるのが心地良くて、無意識の内に瞼を閉じてしまう。それと同時に太い親指が意図的に額の傷痕をなぞってから、ゆっくりと目尻まで降りてきた。そして頬骨を辿って、口元で遊ぶ様に小さく円を描いて、薄い皮膚の上をスルスルと滑っている。

    こんなに優しい手に逆らえるはずが無い、やめろとも言えない。ようやく止まった、と思いきや最後に牧の指は、そっとオレの唇に触れた。
    ───え…?
    思わず重たくなり始めていた瞼を大きく開いて、目を瞠ってしまう。

    「……!」

    薄暗い部屋でも良く分かる、綺麗に焼けた黒の肌。男らしく力強い眉、日本人離れした彫りの深い瞼、厚くて形の良い唇。何処を切り取っても自分より遥か歳上の様に見える、落ち着いたその風貌は全てがオレの理想。
    さっきよりもずっと近く、すぐ目の前に牧の顔があった。
    それに驚いて、苦しくなったり痛んだりしていた左胸の奥が殊更大きく痛みを持って揺れる。

    「……っ、すまん」
    「あ、いや…」

    すぐに牧はオレの顔から手を離して、慌てた様に顔を横へと逸らした。何が起こったのか、熱に浮かされたふやけた脳では処理をしきれない。

    「…レトルトだが食べ易い物を買ってきた。少しで良いから腹に入れて、薬を飲め」

    ビニール袋の中から雑炊のパウチを手に取り、牧は顔をオレから背けたまま立ち上がって廊下のキッチンへと逃げる様に去ってしまう。

    キスをされるのかと、…思った。

    唇に触れてくれた指のその奥から、淡く柔い吐息を感じた。口付けられる程近くに居た?いや、そんなまさか、こんな時に何を。熱のせいで感覚がおかしくなっているだけだきっと。
    体調不良の割に元気な脳だと小さく己に嘲って、浅く俯いて深く息を吐く。熱いと思っていたはずの顔が、手を離されてしまってから急に何だか、とても寒い。

    少し底の深い皿に温めた雑炊を入れて戻ってきた牧は、ついでにとオレの額に冷却シートを叩く様にして貼り付ける。少しだけ前髪が挟まったのが気持ち悪い、とオレが不機嫌な目をすると、目尻を下げて「すまん」と笑いながらシートの上から優しく額を撫で直してきた。
    心地が良くて、またうっとりと瞼を閉じてしまった。



    食事は少量しか摂れなかったが薬は胃に入れられた。腹の中が温まって少しだけ寒気が和らいだのが、身体的に随分と楽になった気がする。

    「少し落ち着いたか?」
    「ああ…こんな時間に、本当に悪かった」
    「気にするな」

    疲れが溜まっていたんだろう、と牧はまた優しくオレの髪を撫でた。こんなに情けない姿を晒す事を許してくれるんだな…。それがまたどうしようもなく苦しく、切なくて、胸の芯が痛む。
    さっきからどうしてこうも、オレはぎこちないままなのだろう。慣れないな…他者に面倒を見られるというのは。

    「明日お前に移ってたらどうしよう…」
    「移してお前が治るならそれで構わん」

    なんて事を言うんだお前は。思わずオレが眉をひそめると、牧は笑いながらもう一度オレの髪に指を通して前髪の毛先を摘んで遊び、最後に指先でオレの左目尻を優しく拭った。

    「これくらい強引にしないと、お前は頼ってくれないだろうと思ってな」
    「………」
    「迷惑だと言われるのも覚悟の上だったが」
    「そんな訳…」

    そんな訳が無い。ここまでして貰っておいて、そんな捻くれた事を言えるほど無慈悲では無い。むしろ自分を情けなく思っているくらいだというのに。

    「すぐ連絡すれば良かったな…どこまで頼って良いか分からなかった」
    「そうだろうな」

    今度はまるで分かっていたかの様に言われ、オレは二度瞼を瞬かせた。薄明かりの部屋で、あくまでも穏やかに細められた牧の黒い瞳が、じっとオレを見つめる。

    「自覚があるか分からないが、藤真、お前他人に頼るのが上手く無いだろう」
    「……、」

    突然心の中の、自分でも守れない脆い部分を掴まれた気がした。何も、返す言葉が思い浮かばない。
    頼るのが上手くない、これまでそんな事を言われた事があっただろうか。人から頼られる事が多かった自覚はあれど、その逆は…どうだったか。

    「そうか…?」
    「ああ、少なくともオレはこの二ヶ月でそう思った」
    「…どうして、思った?」
    「こんな時でもお前は「助けてくれ」と言わないだろ」

    ───助けて、なんて。
    きゅう、と気管が狭まった気がして徐に左手で喉を撫でた。決して嫌な感覚では無かったが、まるで自分が罪を犯してしまったかの様な、姿の分からない後ろめたさが肺を満たしてくる。

    「…そう、だな」

    …言った事が無い。きっと牧にだけでは無い、誰にもそんな事。
    ついさっき“慣れないな”と思ったのは確かだが、そんな話じゃ無い。まるで誰の事も信頼してい無いかの様に。もしかしてオレは恋人を相手に、何も信じていないと言っている様な事をしている───?

    牧はオレに恋人としてどこまでを望んでいるのだろうと、ずっとそればかり考えていた。
    オレは…?オレは恋人として、牧にどこまで求める事が出来ている?
    頼りもしない、助けてくれと言う事もしない。恋人と思っていないと、牧に感じさせている?だとしたら…

    「これからはちゃんと連絡する、すまん…」
    「さっきからずっとそうやって、悪い、すまん、と謝ってばかりだしな」
    「……!」

    ありがとうすら言えていない。
    それに気付き愕然としてしまい、また反射的にごめんと言いかけ、だが今度は喉に痛みが詰まってそのまま絶句してしまった。
    知識も教養も礼儀も、それなりに弁えて生きているつもりだった。だが恋人を相手にこんな簡単な気も配れない、欠陥だらけな己を今更ながら知って恐怖の様な感覚が生まれる。

    「牧、その…そんなつもりじゃ無くて、」

    身体を横たえたままではいられなくて、オレは両腕の精一杯の力を使って上半身を起こした。その瞬間に、ぶわ、と額から脂汗が噴き出したのを感じ、それに焦って顔を俯けながら左右に強く振ってしまう。三半規管が乱れ、ぐわんと視界が歪んで、身体を支えていた二の腕から力が抜けた。
    倒れる、と思ったが、自分よりもずっと太く逞しい腕が目の前に伸びてきて優しく支えられてしまう。…そしてオレはそのまま硬直した。

    「勘違いをするな、オレはお前のそんな所も好きだ」
    「………、」

    こんなオレを、好き?
    視界が揺れる気持ちの悪さと、恋人の優しい囁きに、心臓がおかしな速度でバクバクと暴れ出す。指先が震えて、次第にそれは顎にまで伝染して息まで乱れ出してしまった。
    それに気付いたからなのか、牧はゆっくりとオレの肩に手を回してから、全ての不安を宥める様にして優しく抱き締めてくれる。

    「好きだ、藤真」
    「……っ」

    …どうしたら良いのだろう。
    目の前に広い肩があって、そこに頭を乗せる事が出来るだろう事は分かるのに、どうしてか首の筋肉が強張ったまま動かせない。

    「お前がずっと頼られる側の環境に在った事は知っているし、容易に弱みを見せられなかったのも分かっているつもりだ」
    「……まき、」
    「だが我慢をしているだけなら、もうそれは辞めて良いんじゃないか」

    我慢?オレが?…ああ、今が正にそうなのか。
    寄り掛かりたいのに、縋ってしまいたいのに、抱き締められて嬉しいはずなのに。
    オレの身体はまだそれを許せずに、張り詰めたままだ。
    それを分かっているかの様に、肩に触れていた牧の手がゆっくりと肩甲骨を伝って頸に移動してくる。そして硬直したままのそこを、優しく撫でた。熱で火照った肌を大きな手で包まれると、何故か胸の奥がキュッと切なく泣いた。

    「いつ…から、そう思っていた?」
    「二ヶ月ずっとだ」
    「…ずっとか」
    「ああ。だがまだ、お前の性格を漸く少し分かってきた程度だな」

    穏やかに笑うその言葉と共にもう一度強く上半身を抱き締められると、二ヶ月前の事を鮮明に思い出してくる。

    「何でもひとりでこなしてきたお前だからこそ、難しいんだろうが」

    そうだ、あの時オレは
    牧に抱き締められた時…

    「オレにくらいは、もう少し頼れ」

    嬉しかったはずなのに、抱き締め返せなかった。
    愛しい人の身体に寄りかかる事すら、出来なかった───。

    漸く少しなどと言うが、牧はずっとオレを分かっていたのだろう。
    頼らず、縋れず、距離が分からないと思い常に数歩引いて我慢していたオレを、ずっと知っていた。

    「…ごめん」

    牧はずっと待ってくれていた。
    そんな事も知らないで、オレは…

    「謝るな」
    「…うん」

    柔く抱き締めてくれている腕の下から、恐る恐る手を伸ばした。初めて触れるその背中は、厚くて想像以上に頼り甲斐がある。
    ああ…凄いな、牧の身体は。憎たらしい程にオレよりずっと大きい。
    好きだな。とても、好きだ。

    「ありがとう…」

    知らなかった。
    抱き締め合うとこんなにも暖かい事を。
    過保護で優しい牧の事も、躊躇いと我慢ばかりの自分も。
    まだ全然、知らなかった。

    「オレも好きだよ、牧…」

    オレは精一杯牧の背中に腕を回し、寄り掛かって、指に力を込めて縋った。


    まだ二ヶ月。これからもっと、オレもお前も互いの事を知っていかなければいけない。オレはきっといつか、力を抜いてお前の胸に寄り掛かる事を覚える。それから一歩ずつ、ふたりで距離を縮めてゆくのだろう。
    恋人とはきっとそういうものなんだ。

    ゆっくりと身体を離されてから左手を握られ、牧はオレの指先に優しく唇で触れてくれた。…狡いな。口付けられた場所よりも何故か顔が熱くなって、部屋自体がぐらぐらと揺れていると錯覚する。
    それを心地良いと思うくらいには、また、この男に恋をした。





    食器もゴミも綺麗に片付けてひと段落してから、枕元に座ってじっとオレの顔を観察している牧は、表情に少し疲労が見え始めていた。当然だ、さっきまで平然と病人の世話をしてくれていたが、全く寝ていないはずなのだから。

    「重ね重ね本当に…悪い、絶対風邪移したと思う」
    「疲れから来る発熱だろうから、そんなに心配をするな。大丈夫だ」

    熱が下がらないようならまた明日来て病院まで連れて行ってやるから、とそれでも平気な振りをして笑いながら頬を撫でてくれる。コート上でボールを自在に操るこの強い手が、今オレだけをこんなにも深切に愛してくれているのだと思うと、とても離れ難い。

    「牧、…もう帰る、のか?」
    「いや、始発が出たらにする」

    時刻は深夜四時半を回った所だ。つまりあと三十分弱でこの部屋を出て行ってしまう。いなくなってしまう。

    「お前、一睡もしてないんだろ」
    「帰ったらゆっくり寝るさ」
    「………」

    恋人、とは、どんな距離までを許されるのだろう。まだたった二ヶ月の恋しかしていないオレ達には、どんな。

    「まき」
    「何だ?」
    「そこ、…クローゼットの中の、下の」
    「ん?」
    「下の、奥」

    オレが布団の中から手を出して指差す先を、牧は一度首を傾げてから視線で追って、それから立ち上がった。音を立てない様にそっと、だが遠慮無くスライド式の扉を一気に引く。

    「それ、客用の布団一式…」
    「……!」

    春休みの間、互いの家に行っても夜には解散していた理由の一つは、眠る場所の確保が出来なかったから。どちらも恋人がいる事を家族に打ち明けられず、寝具をもう一セット用意する事が出来ていなかったからだ。
    いつの間に買った?と聞かれたと同時に布団の中へ顔を隠したオレに、ふ、と牧は少し大きめに息を吐いて笑った。

    「用意が良いな」
    「……悪いかよ」
    「いや、全く」
    「シングルベッドにお前と二人は無理があるから、仕方なくだ」
    「ああ、嬉しいぞ」

    ベッドまで戻ってきた牧は、先程までの甲斐甲斐しさを何処へ捨ててしまったのか、無理矢理オレの上半身を起こして渾身の力で抱き締めてきた。肺が潰れて思わずうぇ、と情けない声を漏らしそうになったが、何とか踏みとどまる。

    「泊まらせて貰う」
    「……ああ」

    薬を飲んだはずなのに、どんどん熱が上がっている。熱くて頭が割れそうだ、どうしてくれるんだよ。
    触れ合わせた頬と頬が気持ち良くて、緩く擦りながら「まき、」と名前を呼ぶと、また力強く肩を掴まれてしまい、

    「───…!」

    そして深く、激しく、唇を奪われた。

    「…っ、バスケ以外でも、…強引なんだな」
    「知らなかったか?」
    「ああ、知らなかった…」

    理想と違ったか、とわざとらしい声で訊かれ、恥ずかしくなってオレはそっと牧の厚い胸に額を乗せた。


    「…その方が好きだ」




    またこれからもっと
    ひとつずつお前を、知ってゆく。

    きっと全てを 好きになる。





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