交わる線と遠い星 その日、仕事終わりの夕暮れ時、九龍城砦の路地にバイクのエンジン音が響き渡った。聞き慣れたその音で、振り返らずともすぐに信一だと分かった。色男とよく称される幼なじみは、緩くパーマのかかった髪を風になびかせ、ニヤニヤしながら私の前にバイクを停めてサングラスを外した。
「お前、このあとどうせ暇だろ。今から十二と四仔と飲むから着いて来いよ」
「どうせって何よ、どうせって。わざわざよそに行くの?そのまま夜遊びにでも行くわけ?」
「ちげえよバカ。行きたい店があるとかなんとかで珍しくこっちじゃなくて廟街の方まで呼び出されてるんだよ」
「へえ。色々あるもんね」
「お前の分は十二の奢りだってよ」
「じゃあ行く!」
信一が放り投げたヘルメットをキャッチし、私は慣れた動きでバイクの後ろに跨った。昔からこうやって連れ回されてきたから、もう手慣れたものだ。ちなみに、ヘルメットを信一がちゃんと被っているところは一度も見たことがない。以前アンタはヘルメット被らないの?と聞いたら、「そりゃあお前が後ろから殴られでもしたらヤバいから被らせてるんだ」と言われ、なんなのコイツとドン引きした覚えがある。信一は角材で頭をぶん殴られてもへらへらしてるような男なのだ。
「ちゃんと掴まっとけ。振り落とされんなよ」
「分かってるって」
信一のシャツを握っていると、違うだろと私の手を引っ張り、腰に回させて抱き着く形にされてしまった。
「アイツらもう先に始めてるから飛ばすぜ」
「あ、ちょっと!」
抗議してみたけど信一は聞こえないふりをしているのか笑いながらスロットルを勢いよく回した。ネオンサインが灯りはじめた雑踏を抜け、廟街の路地裏へ向かう風が私の髪を乱す。信一の背中の熱とバイクの振動が肌に響き、胸がざわついたて仕方なかった。
「一緒に行かなくてよかったの?信一は今日忙しかった?」
「お前を待ってた」
「あ、そうなんだ⋯」
信一が振り返り、ニヤッと笑う。
「顔赤いぞ。照れてんのか?」
気のせいだと返して彼の背中に顔を押し付けるようにして隠してしまうと「へぇ、そうか」と満足げな声が風に混ざって聞こえた。普段はおちゃらけてたり龍捲風の隣で怖い顔してるくせ私には時々こんなありのままの姿を見せてくる。
ずっと気になり合ってるこの距離感は、昔から交わることなく平行線のままだ。
路地裏のお目当ての飲み屋に着くと、十二と四仔が手を振って出迎えてくれた。卓上にはすでに青島ビールとコカコーラの瓶と飲茶が所狭しと並んでいる。信一は当然のように私を横に座らせ、肩を寄せてくる。鬱陶しいと肘で軽く突いてみたものの全く気に止めていないようだ。
グラスや瓶が空になるたび喧騒と笑い声が響き、蒸し暑い空気に信一のタバコの煙が漂っている。信一は明らかに飲みすぎで、顔が赤く染まり表情が緩んでいた。
「ちょっと信一、さっきから邪魔だって」
「いいだろ別に減るもんじゃねえし」
文句を言うと、信一は私の肩に手を回し、「お前といると落ち着く」と耳元で囁いた。騒がしい店内で私にだけ聞こえるその声。
「それおいしい?一口くれ」
「はいはい」
「親鳥に餌付けされてる雛みたいだ」
顔を近づけてきた信一の口に春巻きを突っ込んでいると向かいにいる四仔が呆れたと言わんばかりの溜息をついた。
「いや、うまいぞこれ」
「四仔もいる?」
「なんでお前の分を四仔にやろうとしてんだ。追加で頼めばいいだろ」
四仔にも、と箸を伸ばそうとしたら信一に腕を掴まれ阻止された。自分で食えと言いたいのか顎で信一は春巻きを指し示すと四仔はさっきよりあからさまに大きな溜息をつきながらいちばん大きな春巻きを頬張った。
「冗談だったのに。なあ?」
すっかり出来上がった信一が笑いながら私の髪を軽く引っ張るので十二が「信一、酒入ると絡みすぎだろ。ほどほどにしとけよ」と珍しくまともな事を言っている。
さほど信一は全く気にしていないようで私にまた寄りかかってきた。酔うと時々こうなるのでタチが悪いったらありゃしない。
お互い特定の相手を作らず、もどかしい距離感のままの私たち。精悍な信一の横顔を盗み見ながら、どうするのが正解なのか分からなかった。胸が熱を帯び、不思議な疼きが広がっていく。
お腹もいっぱいになり、帰り支度を整える頃、十二が妙な提案をしてきた。
「なあ、その状態の信一連れて帰んの大変だろ。近くのホテルに泊まらせるからお前も手伝って」
思い返せば急なことなのにやたらと手際が良かった。てっきり十二と信一は一晩中遊んで回るものだと思っていたので私は四仔とのんびり九龍城砦まで帰るつもりだったのだが。
運ぶのは四仔に頼めばいいじゃん、私がバイクを押すから⋯と辺りを見回すが四仔の姿はどこにもなかった。十二曰く、いつの間にか先に帰ってしまったらしい。さっきまですぐ横にいたはずなのに。
「バイクと一緒にその辺に転がしてたら朝には戻ってくるでしょ」
「ウチの系列がすぐ近くにあるからさ」
「ふーん。手広くやってんのね」
「よし決まった。おい、信一!起きろ〜」
どこか胡散臭さのある笑顔にもっと警戒心を持つべきだった。いくら気の置けない仲と言えども十二は黒社会で若頭の地位まで上り詰めた侮れない男なのだとこのあと私は実感することになる。
十二は私と信一を上手いこと雑居ビルの中のホテルの一室に押し込むと、ドアを閉めて外から鍵をかけた。内側にいるのは私たちであるはずなのに、なぜかドアは微動だにしない。ガチャガチャとノブを動かして押したり引いたりしてみるが無駄で、外から十二の無責任な声が響く。
「朝になったら出してやるよ」
「ねえ!ちょっと!どういうことなの十二!?」
「それじゃ、楽しんで〜」
遠ざかっていく声に呆れと高鳴る鼓動が混じり、私は立ち尽くした。十二がよからぬことを企んでるのは明らかだった。あまり信じたくないがこの調子だと姿を消した四仔もおそらくグルなのだろう。
置かれた状況の意味がわからないほど純粋な年頃じゃない。
振り返れば狭い部屋の中央に、けばけばしい装飾の大きなベッドが鎮座している。信一はネクタイを緩め、ベッドに腰を下ろしてボーッとしている。眠そうに目を擦る姿には無自覚な色気と、一緒になって九龍城砦で凧を追いかけて走り回っていたあの頃の面影があった。
欠伸をしながら信一がポケットの中身を探っているのを見て、寝タバコでもされたら大変だと咄嗟にタバコのパッケージとライターを奪い取った。
「なにすんだよ」
「アンタ自分が酔っ払ってる自覚ないでしょ。外に出られないってのに火事にでもなったらどうすんのよ」
「大丈夫だって。俺がそんなヘマするとでも思ってんのか」
「思ってるから回収してるの」
それにしても、タダでふかふかのベッドがある部屋に泊まれるのは嬉しいけど⋯と独り言を呟くのは、自分を落ち着かせるための言い訳にすぎない。心の奥深いところで期待とも呼べる感情が蠢いている。二人きりになってしまった湿気と熱気に満ちたこの部屋で、長年変わらない距離が近づくかもしれないなんて、考えたくないのに考えてしまう。
そんな時、信一の酒癖の悪さが顔を出した。
「なあ、これ夢だろ?夢なら許されるよな」
信一はフラフラと立ち上がると私に近づき、肩に手を伸ばした。
「ちょっと、何するつもり?」
「お前、いつもより可愛く見える」
呂律の回らない信一に、私は壁際に追い詰められた。あっという間に背が高い彼に強い力で腕を掴まれ、逃げ場がない。
「最近俺に素っ気ないよな。どっかに想い人でもいるのか」
見下ろすような視線に、恐怖と期待が混じった感情が胸を締め付ける。まさかその想い人は信一ですだなんて馬鹿正直にこのタイミングで本人に言えるわけがない。信一の酒癖の悪さは、彼が酒を嗜むようになってから知ってたけれど、いつもはテンションが高くなったり笑い上戸になったり、今日の飲み会の時みたいに子どもっぽくなるくらいで、こんな風に私を追い詰めてくるなんてことは今まで一度もなかった。
九龍城砦の薄暗い路地で何度も見た喧嘩っ早い姿や、龍捲風を慕う姿とも違う、夜を纏った見知らぬ雰囲気が私を混乱させた。
「なんで嫌がるんだよ」
至近距離で見下ろされ、酒とタバコ、それに香水の匂いが混じった熱い吐息が頬に触れる。
「当たり前でしょ。こんな、信一、飲みすぎだってば⋯」
胸を押して突き放そうとするが信一の身体はビクともせず、私の腰に手を回して壁に押し付けるように固定した。逃げるなと耳元で囁かれ、指先が私の腰を軽く撫でるたびに熱い感触が肌に染み込む。
やめて、と掠れた声で抗ってみたものの信一の指が私の背中を這い、布越しに背骨をなぞると、ゾクッとした未知の感覚が全身を走る。心の中で混乱が広がるが、信一の行動にどう応えていいか分からない。
「良くないって、ね?早く部屋から出て帰ろう。どうせ十二と四仔が面白がって賭けでも──」
必死に訴えたが、信一は夢ならいいだろと私の言葉を遮り、すこし屈むようにして私の唇にそっと触れてきた。
はじめはただ唇が重なるだけだった。
柔らかく熱い感触が私の唇に伝わり、心臓がドクンと跳ねる。避けなきゃ、と顔を逸らすが代わりに顕になった首筋に信一の唇が押し付けられる。柔らかく湿った感触が肌に吸い付く。脈打つ部分に軽く歯を立てられ、吸うようにゆっくりと這う感触に身体の震えが止まらない。
汗と信一の吐息が混じり合い、首筋をしっとりと濡らしていく。信一の唇がさらに強く吸い付き、首筋にいくつか痕跡を残した。
執拗な愛撫に甘い痺れが背筋を駆け抜ける。
私はもう、まともに立っていられなくて信一の名前を喘ぐように漏らしながら彼の肩に爪を立てて縋りつくしかなかった。驚きと期待が混じり合い、頭の中が真っ白になる。
信一の右手が私の左手を掴んで指を絡めて握り締めた。まるで拘束するかのような力強い感触に、逃げ場のない壁際で彼の身体に押さえつけられる感覚が全身を支配する。
再び唇が重ねられ、信一の舌先が私の下唇をつつき、こじ開け、私の口内に滑り込んだ。ゆっくりと口内を這うように動き、私のことを追い詰めるように。私は信一にしがみつきながら、吐息が混じり合う感覚に息が乱れてしまっていた。信一が舌先を吸ったり、深く探るように動きを強めると甘い痺れが喉の奥まで響く。キスはさらに深まり、彼の舌が私の舌を貪るように絡みつき、熱い唾液が混ざり合う感触に頭がクラリと眩む。
───これはダメだ、でも、欲しい。
自覚したその瞬間、胸が締め付けられるようにズキンと痛んで私は急に現実に引き戻された。
私たちはただの幼なじみで、信一は酒を飲みすぎて酔っているだけだ。それにいつもこんな風に他の女の人と夜を過ごしてるんじゃないか──そんな考えが頭をよぎった。
「信一⋯もうやめようこんなの」
幼なじみだからこそ知ってる彼の真っ直ぐさが、このキスに混ざって私を揺さぶった。まだ少し理性の残った頭で信一のことを力いっぱい突き飛ばすが、彼はふらつきながらも私の腕を決して離すことはしなかった。
「お前昔からこうやって逃げるよな」
それから私の輪郭を両手でつかまえて、再び唇を重ねてきた。息ができないほどの深く激しいキスに信一の身体を叩いたりつねったりして抵抗するが徒労に終わった。
「お願い、ッ、離して」
「離すわけないだろ。やっと捕まえたのに」
息継ぎの合間にようやく絞り出した私の声は震えていた。信一は確かめるようにお前には俺しかいないよな、と首筋だけでなく鎖骨のあたりにもキスを落としていく。
「信一⋯っ」
観念して目を閉じて、受け入れようと彼の背に手を回しそうになった瞬間、う゛っ!というこの甘ったるい空気に似つかわしくない呻き声が正面から聞こえた。
「え?」
「⋯やばい、間に合わ──」
一歩引いた信一が慌てて自分の口を手で覆ったが遅かった。床に盛大にぶちまけられた胃の内容物。
「うそでしょ!!」
間一髪で横に飛び退いたので直撃は免れたがついさっきまでの甘さと緊張は一瞬で空の彼方へと消え去り、部屋にじんわりと独特の匂いが漂う。ほとんど酒しか飲んでなかったのは不幸中の幸いとでも言うべきか。当事者の信一は床にへたり込み、あーとかうーとかマヌケな声で呻きながら口元を押さえ、酷い顔をしている。
「クソ、いいとこだったのに⋯なんだこれ夢のくせにしっかり気持ち悪ぃんだな」
「夢じゃないって」
「おえっ⋯また吐きそう」
「何!?ほんとあり得ない!嘘でしょ!」
普段使わないような行儀の悪い言葉を浴びせつつも、どうにも幼なじみの情がわいてしまい放ってはおけなかった。どうせ朝まで閉じ込められてる状況は変わらない。
「ちょっともう、立てる?」
「あんまり揺らさないでくれ!」
肩を貸すと、信一はふらつきながら立ち上がり私にしがみついてきた。ついさっきまで私のことをあんなに惑わせた、惚れた男のあまりにも情けない姿に苦笑いするしかない。
「夢だと優しいんだなお前。キスもしてくれるし」
「さっきから夢じゃないって言ってるでしょ。ほんとバカなんだから」
猫撫で声で甘えてくるゲロまみれの信一を、なんとかバスルームまで連れていく。
「兄貴とお前だけは昔からずっとそばにいてくれたよな」
「汚いから、お願いだから、くっつかないで!」
半狂乱で拒否したが、調子のいいことを言いながらベタベタまとわりついてくる。濡らしたタオルで信一の顔をゴシゴシ擦り、口をゆすいでとコップを渡すが、信一は未だに私の腕に抱きついたまま、手伝ってくれよと駄々をこねている。
私は文句を言いながらも仕方なく口元に水を差し出した。こっちは介抱しようとしているのに信一は肩に顔を擦り寄せてきて埒が明かない。引き剥がそうと努力はしているもののもうちょっとだけ、あ、待て、気持ち悪いかも、と信一は百面相だ。
汚れてしまったネクタイをなんとか解いてシャツのボタンを上から順に外していってやると積極的だなと茶化してきたので私は黙ってお腹にグーでパンチを一発お見舞いしてやった。すると当たりどころが良くて⋯いや、悪くて信一は呻き声をあげてまた吐いた。最悪!
数分後、人前に出せるくらい小綺麗になった信一は、私の背中にぎゅっと抱きつくのをやめない。
「いい加減離してって」
「やだ」
私の抵抗を無視して、信一はうなじにキスを落とした。なんだかもう、今夜は色んなことが起こりすぎてが感覚が麻痺してしまいちょっとやそっとの信一の行動にいちいち反応していられなくなってきた気もする。
「お前が欲しい。お前以外いらねえ」
ついに、信一の甘すぎる言葉に耐えきれず酔ってるだけでしょ!と振りほどき、ベッドに誘導してひっくり返しておいた。
二人分の服を手洗いしてベランダに干し、私はシャワーを浴びることにした。汗と混乱を丸ごと洗い流しながら、鏡に映った自分の首筋を見て動きが止まった。そこには、薄桃色に染まったキスマークがくっきりと浮かんでいた。
「服で隠せないところにこんなの残して⋯!」
バスローブを引っ掴んで部屋に戻ると、信一はベッドのど真ん中で大の字で寝息を立てている。クッションで何回か叩いたが、信一は「兄貴⋯痛いよぉ⋯」と寝言を言うだけで爆睡中だ。
呑気すぎるその寝顔に苛立ちながらも、汗ばんだ肌と緩んだ表情が妙に色っぽくて目が離せない。こういうところもやはり腹が立つ。
仕返しでもしてやるかと出来心で私はそっと忍び寄り、寝ている信一の無駄に高い鼻を摘んで起きないことを確認してからこっそりキスでもしてやろうと顔を寄せる。彼の吐息が近くで感じられ、ドキドキしてたまらない。
でも、やっぱりそんなことをする大胆さは持ち合わせておらず唇が触れる寸前で我に返り慌てて顔を引く。結局、復讐は諦めて彼の隣でそっと横になって、指先で顔にかかったふわふわの髪を避けてやる。
「信一は酔ったら誰にでもああいうことするの」
頭を巡る疑問に、胸が締め付けられる。さっきの甘い言葉や激しいキスが頭をよぎり、もしかしたらと淡い期待が湧く。子どもの頃からずっと私が信一を想う気持ちは変わらないのに。そんな思いがぐるぐる回り、蒸し暑い夜と疲れに負け、眠りに落ちた。
翌朝、外のクラクションで目が覚めた。
もう外はだいぶ明るい。隣で同じように飛び起きた信一は状況が掴めていないのか、キョロキョロと辺りを見回している。
「え、俺、服⋯?うわっ!!」
バスローブ姿で同じベッドにいる私に気づき、信一の顔が一瞬で青ざめた。
「よ、よりによって⋯」
「悪かったわね、私で」
信一が枕を抱えて顔を埋める。思わず口走った本音、としか思えない言葉が胸に深く突き刺さり切なくて涙が滲みそうになった。悟られないように私は反対を向いて二度寝をしようとすると、彼がベッドから降りてきて、そういう意味じゃない!と真剣な顔で私の肩を掴んで揺さぶった。
「⋯本命だから焦ってんだよ、察してくれ」
その言葉に、心が揺らいだ。信一が私を「本命」と呼んだ瞬間、ずっと秘めてきた想いが溢れそうになる。私は目を丸くして彼を見つめた。
「アンタ、私に何したか覚えてるの?」
「都合のいい夢を見てた気はするけど、肝心なとこが⋯」
「私に色々させといて自分だけ先に寝たくせに」
「嘘だろおい!まさかそんな⋯」
「酔っ払ってべろんべろんになって面倒くさく絡んできて、しかも吐いて」
「ん?」
「人の服汚して、後始末と介抱させて」
「ちょっと待て待て待て。なんかおかしい!」
「服も洗濯しといたから。あとできっちり迷惑料もらうから覚悟しといてよ」
「払う!もちろん払うから!でもちょっと待て、俺たちって結局⋯え、ありゃ夢か?洗濯って俺そんな激しく⋯」
信一はまだ混乱してるのか頭を抱えてブツブツ呟きながら勘違いモードに突入していた。
「まったくもう。まだ酔ってるの?」
「ごめん、昨日はちょっと浮かれていつもより変な飲み方した。ダサすぎんだろ⋯」
「別に私なんかにカッコつけなくったっていいのに」
なんだかしょげてる大型犬みたいだとベッドの脇で項垂れている信一に手を伸ばして寝癖を整えてやっていると彼は私の手を引っ張り、お前も確かめてくれと私の手を自分の胸に当ててきた。驚きつつ、彼の胸に触れると、信一の心臓がドキドキと速く脈打っているのに気づく。
「もうバレちゃってると思うけど俺⋯」
信一の声が低く響き、真剣な目で私を見つめる。彼の体温と鼓動に釣られて自分の心臓も高鳴るのを感じた。彼の指が私の手を握り締め、そっと唇を寄せて指先にキスを落とす。
「おっはよう!昨夜はどうだっ⋯お?」
その時、勢いよくドアがガチャリと開き、十二が飛び込んできた。私と信一は反射的に不自然にお互い距離を取って視線を逸らすが十二にはバレバレだろう。十二は裸に近い信一とバスローブ姿の私を見て何かを確信したらしくニヤニヤと笑いながら拍手をはじめた。
「いやあ、やっとくっついたか!ほんとに長かった、一、二、三、四⋯苦節何年だ?とにかく俺や四仔はお前らのこと応援してたぜ」
「十二テメェ⋯余計なことしやがって」
信一が助走をつけて十二に飛びかかったが、僅かばかり距離が足りなかった。
「うわっ、あっぶねえ!」
「まだなんにもしてねえんだよバカ!」
間一髪、十二はドアを閉めてガチャンと再び鍵をかけてしまった。ドアをナイフの柄でドンドン叩き、こっち来いこの野郎と信一が叫ぶとあちら側から十二の声が響く。
「どういうことだよ。まさか信一⋯使いモンにならなかったのか!?一度四仔の診療所で見てもらったらどうだ?」
「っ、物事には順序ってもんがあるって話をしてるんだ!俺のプランを台無しにすんな!」
「そりゃあ何年がかりの計画だ。チンタラしてると他の男に持ってかれちまうぞ」
「させる訳ねえだろンなこと」
信一は反論しながらドアをめいっぱい蹴っている。私はもうまともに聞いていられなくなって布団を被り耳を塞いだ。十二の笑い声と信一の怒鳴り声が部屋中に響き、まるで子どもの喧嘩のような騒ぎが続いた。
もういいよと私が布団から顔を出すと、信一はドアを叩く手を止めて振り返った。お前も笑うなと赤い顔で私を睨んでくるのでアンタたちがうるさいからと返すけど、二人で顔を見合わせると、結局笑いが止まらなくなった。残された私と信一の間は、気まずさと笑いと、もどかしさが漂う。
「とりあえず服が乾くまではどちらにせよ帰れないってことだよな」
ベッドに戻ってきた信一はタバコを咥えて窓の外を指さした。信一の群青色のシャツと私の白いTシャツが並んで風に揺れている。
「別に生乾きでも私は構わないけど」
「俺はやだ。頭も痛いし、九龍城砦まで帰れねえ」
「私は休みだけどアンタはやること沢山あるでしょ」
「十二がご丁寧に龍兄貴まで抱き込んでるんだとよ」
「それはまた⋯ご愁傷さま」
まどろみの中、ふと信一は私の首筋に目をやると髪を払いのけて眉をひそめた。まだ火を付けたばかりだというのにタバコを灰皿に押し付けると信一はベッドに腰を下ろし、私のことをじっと見つめている。
「どうしたの?」
「なぁ、お前⋯昨日の俺はどうだった」
急に不機嫌になった信一の視線の先を辿ってみると酔った信一が残したキスマークがくっきりと浮かんでいた。
「どうもこうも何もないって!」
慌てて手で隠して誤魔化すが、信一の手が私の顎を掴んで顔を近づけてきた。
「こんなの昨日は無かったはずだ。ってことは俺がつけたキスマークってことになるよな?本当は俺と何かあったんだろう」
信一の声に嫉妬と意地の悪さが混じり、私は必死に否定するが、彼の目は鋭くなるばかりだった。
「へぇ、覚えてない俺がもちろん悪いが自分でやったって思ってもムカつくんだよそれ。言えよ、何された?」
首筋を撫でられキスマークを親指の先で押されると、封印しようと思っていた昨夜の記憶が鮮やかに蘇った。信一の唇が私の唇を奪い、首筋に吸い付き、鎖骨に熱を残した感触。あの甘い疼きと、私の肌を求める彼の手の感触の記憶が頭を埋め尽くして顔が熱くなってしまった。言えるはずなどない。嫉妬深い視線に心が翻弄されながらも私は繰り返し何にもなかったと誤魔化すが、彼の手が私の肩を押し、バスローブの襟を軽くずらして苦い顔をした。
「お前⋯こんなになるまで俺、昨日の俺が許せねえかも」
信一の唇が昨夜のキスマークに重ねるように吸い付き、熱い息が肌を濡らす。
「お前が白状しないってのなら俺がこうやって触れて思い出すしかないよな?」
私は信一の名前を呼んで抗うが、声が震えて掠れ、彼の嫉妬と欲望が入り混じった眼差しに身体が反応してしまう。
「手は繋いだ?」
「⋯うん」
「抱きしめられた?」
「なんか、ぎゅって⋯背中触られて、」
「それじゃあキスは?」
至近距離で見つめられ、言葉にするのが耐えきれなくなった私は信一の首に手を回し、自分から軽く唇を重ねた。信一の目が一瞬驚きで揺れて、すぐに覆いかぶり舌を絡めて応えてきた。
信一の唇が私の舌を吸い、熱い吐息が絡み合うたび、こんな風に求められているのかと昂ぶりが抑えきれず、彼の首に爪を立ててさらに深いキスを素直に欲しがった。信一の舌が私の口内を深く探り、唇が私の下唇を軽く噛むと、全身が熱くなり、甘い震えが止まらない。
「お前、こんなことして⋯俺、もう本当に我慢できねえかも」
信一は私を引っ張り込んで、ぎゅっと腕の中に抱き寄せた。酔いの抜けた彼の体温は穏やかで、昨晩の熱を静かに思い起こさせる。
「お前がそんな顔するから悪いんだ。俺、お前がいないとほんと駄目だから」
幼なじみの境界を超えた何かが始まる予感に胸が騒ぐのを感じた。信一は私の耳の裏に顔を寄せ、そっと唇を押し当てる。柔らかい唇が耳の裏の敏感な肌に触れ、かすかに湿った感触が残った。
彼の唇が軽く吸い付く感触に、心が揺れてたまらず、声が漏れそうになるのを必死でシーツを握って堪える。唇は次に鎖骨のくぼみに触れ、温かな息が肌を撫でた。信一の唇が際どい場所に触れるたびに、抑えていた想いが一気に溢れ出していくのを感じた。頭が混乱しつつ、私の様子を伺う彼の真剣な眼差しに心が締まるような感覚が広がり、抗う力が抜けていく。
「ずるいよ、もう」
「ずるくてもなんでもいい。お前が好きなだけだ」
信一の腕の中で、ついに私は降参して体重を預けた。窓の外で風に揺れる二枚のシャツが乾くまでの間、信一の温もりに身を預けながら、私たちの平行線が少しだけ交ったことを実感していた。
街の喧騒が遠くに響く中、この部屋の中だけは静かで、甘い空気が漂っていた。