召喚師から、預かってきたのです。
扉を開けた先のシグルドが、そう言って書類を差し出した。冬の午後、触れ合った指が赤く冷えていた。後生大事に抱え込まれた書類は無事だったが、男の髪からは、少し雫が垂れている。それがぽたりとアルヴィスの指に落ちたものだから、シグルドは慌てて手を拭った。
「失礼。あいにくと、雪に降られてしまいまして」
間が悪いことで。そう言ってシグルドがはにかむものだから、アルヴィスは苦虫を噛み潰して自室に招き入れた。帰れと言いかねた。アルヴィスの部屋には、すでに火がいれてある。しかしこの男が部屋に帰ってから火を入れたのでは、やはり凍えてしまうだろう。おのれへの用件で訪ねてきたものを、濡れ鼠のまま帰すのも気が引ける。そんなことを考えた結果であった。少なくとも、表面上は。
アルヴィスは手巾を渡して、暖炉の側を高慢に指し示した。そうしてシグルドが温まるのを尻目に、召喚師からの書類を確認し始めた。この間の視察がよかったものだから、また二人で行ってほしいとは聞いている。その行き先について記載されてあったものだから、アルヴィスは丹念に読み込んだ。公爵、皇帝を歴任ーー後者については色々あったもののーーしたにも関わらず、こんな異邦でこんなことを頼まれるのは不本意ではあったが、しかし呼ばれて世話になっている以上、知らぬとも言いきれない。結局彼は、真面目な男だった。ーー損をする類の。
しかし、
ーーまたこの男とか。
と思えば、流石に辟易するものである。だが、では誰と行くと言われれば、答えあぐねるのも事実だった。いっそ異界の英雄というものなくはないが、この歳になって一から知り合うのもまた面倒なものである。まして、旅の空のこととなると。なら、もういっそこの男でいいだろう。そう考えて、アルヴィスはその思考を打ち切った。あるいは、打ち切れるくらいには馴染んできた。それを、どう考えていいかわからない。
「しかしこの季節だと、向かう先によっては面倒なことになりそうですね」
十分に暖まったのか、いつの間にか近くに来ていたシグルドが、書面を覗き込みながらそう言った。男の体からは、品のいい香水と、薪のはぜた後の匂いがした。
「聞いておらぬのか。次は砂漠だ」
なんとなくそれが気まずくて、アルヴィスは視線を窓に向けた。天候を確かめるふりをして、逃れるように窓辺に寄る。この男の言う通りに、雪が音もなく降り始めていた。
「ヴェルトマーは、北の上に内陸でしょう。シレジアまでとはいかずとも、冬は厳しいのでは?」
シグルドに言われて、アルヴィスは驚いたように相手の顔を見つめた。それからわずかに口の端を曲げると、
「ーー私は、自領のことはほとんど知らぬ」
と、自嘲するように言った。シグルドはシアルフィ育ちで、士官学校の間はバーハラに起居していたものの、しかし卒業後は生国で父の薫陶を受けていた。だが一方のアルヴィスは、母親とともにバーハラにあるヴェルトマー家の屋敷で育った。そうしてくだんの事件の結果、幼くして当主になってしばらくはクルトの後見を受けており、また爵位の相続のために、ヴェルトマーに帰ることなくそのまま士官学校へと入学している。そうして卒業して程なく近衛騎士団に入団し、長じて騎士団長となった。だからヴェルトマーに帰ることは、ほとんどなかった。アルヴィスはヴェルトマーに対し責任感を持ってはいたし、実際有能な領主ではあったが、しかし親しみは持ちかねた。彼が首都を移動することなくバーハラに置きづつけたのは、グランベル王国の正当な継承者であることを主張するためであったが、しかしそれ以上に、この”父の領国”に対し、ついに折り合いをつけることができなかったからでもあった。だから彼は、彼にとっての”異国”で暮らし、彼にとっての”異国”で死んだ。
「ヴェルトマーの冬も、こんな景色だったのだろうか」
鉛色の空とそこから落ちる結晶を見つめながら、アルヴィスはつぶやいた。ヴェルトマーに視察に行く時、アルヴィスはいつも春から秋を選んだ。冬の移動は困難が多く、また事故の起きる可能性も高い。責任のある立場としては、避けざるを得なかった。子どもの頃だったとしても、わざわざ王都育ちの幼児を、寒冷なところに連れて行くこともない。まして、聖痕を宿す体なのだから。だからアルヴィスは、冬のヴェルトマーを知らなかった。そんなことに、今さらになってアルヴィスは気づいた。
窓枠に触れる指は冷たく、放射される冷気が熱を奪った。雪は勢いを増しており、宿から見おろす石畳にも、人の足跡を沈めるように重なってゆく。そうして、人々の痕跡を、異国の気配をぼやかしていく。降れ。何もかも白く埋めてしまえ。見えなくなるくらいに。その下が、何であるか、どこの国か、わからなくなるくらいに。しかし幻想でもそう思い切るには、アルヴィスの精神は常道にいすぎた。彼はその雪に埋もれる人間が見える類の男だった。そうしてそのようなとき、もっとも弱いものたちが、犠牲になっていくことも。だから彼は立ちあがった。そうだったはずだった。
「お顔の色が白い」
シグルドが、そっとアルヴィスの頬に触れた。そうしてそのまま引き寄せようとするのに、放せ、とアルヴィスはにべもなくはねつけた。
「どうせ、貴様が寒いのだろう」
ぴしゃりとつめたく言い放ったから、シグルドは照れ臭そうに頬を掻いた。アルヴィスはそれに冷ややかな視線を送ったが、実のところこの男が不快なのではなかった。こういう時に頼れば、もう一人では立てなくなる。そんなことを咄嗟に思ってしまったおのれの方が不快だった。だからアルヴィスはシグルドをはねつけたのだが、しかしもしそう思わなかった場合、おのれがどうしたのかについては、明確に意思を持って思考を取りやめた。
「ホットワインくらいなら馳走してやる。温まったら帰れ」
そんなことを言ってしまったのは、わずかに生じた罪悪感のようなものだろう。だいたいにして、この男に対する罪悪感であるならば、それこそ腐るほど所持している。だからほんの些細なことで、妙に何かが疼くことがあった。そうしてアルヴィスはそれを罪悪感だといつもおのれに言い聞かせていたが、そろそろそれだけであると言い難くなってきていることを、自覚していないわけではなかった。
アルヴィスは酒を常飲しないが、しかし眠れない夜や凍える夜に、わずかばかり嗜むことはある。だから部屋の隅に一本だけ保管しておいたのを、不承不承引っ張り出してきた。おのれが飲みたいのだ。ついでに一人分、多く作ってやってもいい。そうやってなんとかおのれを納得させると、アルヴィスは引き出しを開けて、香料を取り出した。
「おや、珍しい」
シグルドが引き出しを覗き込んで、わずかに目を丸くした。
「私とて、酒を温めるくらいのことはできる」
アルヴィスが不服そうに口の端を下げるのに、シグルドは苦笑して、
「いえ、そうではなく、香料が」
と指をさした。イザークのものではないですか。シグルドの言葉に、アルヴィスはあらためて引き出しを眺めた。アニス、シナモン、クローブ、ジンジャー。蜜漬けのオレンジやレモンを除けば、確かに東の香料ばかりである。グランベルの南であるシアルフィに生まれ、そうしてその後ヴェルダンアグストリアシレジアと、西方ばかりを回っていたシグルドには、馴染みのうすいものに違いない。一方でヴェルトマーはグランベルの東の要であったので、東国のものはめずらしくなかった。だから料理人が、郷里から仕入れてきていたのだろう。館の住人の、ヴェルトマーの生まれの人間のために、彼らに馴染みの深いものを。そうして、いつの間にか生国をろくに知らぬアルヴィスの舌を育て上げていった。その積み重ねが、こんな異国でも、自然とそれを彼に買い求めさせていた。
「アスクはこういうところが、よくわからないですね。ーーどこから来ているのだか」
私もシレジアにいた時は、まれにご馳走になることがありましたが。しかしあそこは、どちらかというと蒸留酒が主流でした。寒すぎるから、ワインは色々と難しいのでしょうね。ラーナ王妃から頂いた良いワインを誤って凍らせてしまった時には、思わず涙が出そうになったものです。そんなことを徒然とシグルドはしゃべっていたが、アルヴィスが引き出しを覗き込んだまま固まっていたのに気づき、いかがなさいました、と、おのれよりもやや低い位置にある顔を覗き込んだ。
「なにも」
アルヴィスは弾かれたように顔をあげ、詰めていた息を解いた。何もない、と言った様子ではなったが、シグルドはあえて問わなかった。この面倒な男にはおのれの預かり知らぬところで、いろいろあるのだと思っていた。そう言ったところを鈍感だのいい加減だのとアルヴィスはよく詰ったが、しかしアルヴィスのような男には、かえってそういうところが助かる時もあった。ーー認めはしないものの。
「何もない」
そう言ってアルヴィスは、ワインの小鍋を火にかけた。そうして温まるにつれて立ち上る蒸気と香りが、少し彼の心を慰めた。少しだけ緩んだ口もとにシグルドが妙に慈愛のような視線を向けてくるのが、今度は明確に不愉快だった。
「繰り返すが、飲んだら帰るのだぞ」
シグルドが軽く頷くのを横目で眺め、アルヴィスは鍋に、シナモンとクローブ、レモンとオレンジを放り込んだ。それから、香料に慣れぬらしい男のために、アニスは減らしてやろうとふと思った。