引き据えられてきた竜の赤い瞳と目があった時、彼はかすかに息を呑んだ。その青光りする黒い鱗には、王の竜に相応しい威容がある。長い時を生きた証だった。歴戦を乗り越えた証だった。だから彼は、不覚にもごくりと喉を鳴らした。それから、何を怯んでいるのかと自嘲して、ゆっくりと手を伸ばした。幼いころ、何度も乗せてもらった竜である。しかし父は、この竜を人手に任せることは、ほとんどなかった。彼がこうやって手を伸ばすのも、本当に久しぶりのことである。だから竜は不思議そうに、すんとわずかに、何かを嗅ぎとるような素振りをした。それから伸ばした手に、あっさりと首を擦り寄せた。
そうして、拍子抜けするほど簡単に、おのれを背に乗せた。
夕暮れのトラキアは、おそろしく物悲しい。その赤々と燃える岩肌を眼下に見下ろしながら、トラバントは高く高く竜を昇らせていった。風は季節が一足飛びできたかのようにつめたく、彼のまだ柔らかい頬を打ち、髪を乱れさせた。
これでもかと高度をあげてから、ようやくトラバントは滑空に移った。そうしてしばらく茫洋と空を漂ったのち、なあ、と声をかけた。
「おまえの主人な。死んだよ。昨日の朝、早くに」
ぽつりと、トラバントはつぶやいた。飛竜は分かっているのかいないのか、小さく喉を鳴らして、それきりだった。だからトラバントは、静かに首筋を撫でた。
「一月まえに、急に倒れてな。どうも、少し前から悪かったらしい。しばらく寝たり起きたりを繰り返していたが、とうとう起き上がれなくなった。そのままだ。あっけないものだったわ。あんなに、力強かったと言うのにな。やはり病には勝てなんだ」
まあ、若くもなかった。おかしくもないことだな。トラバントはひとりで頷いて、そのまま続けた。あたりまえだが、答えなど必要としていなかった。
「侍医が、ちょっと所用で目を離した隙にだ。まったく、おかげで朝から自害騒ぎだ。仕方なしに殴って止めたのだが、不覚にも力加減を誤った。だから司祭を呼んだのだが、何をどう間違ったかーーいや、まあ間違ってはいないのだがーー向こうはてっきり臨終だと思って来たようでな、粛々歩いてきたのだが、慌ててライブを取りに走る羽目になった。結局終油まで済んだのは、それからさらに後だ」
肩をすくめて笑い、それから、その無理が祟ったかのように、トラバントは長々と息をついた。トラキアの山中に沈もうとする夕日が、その顔に深い影を作った。
「一人になりたかったのだろうかな」
その影に隠すように、かすかにトラバントはつぶやいた。父は、いつも誰かに囲まれていた。それはそうだろう。王というものはそうなのだ。いつも、誰かに見られているものなのだ。誰かの視線の先の父は、何があっても、いつも堂々としていた。トラキアの城を支える巌のように。そうしてそのぴしりと伸びた背を、いつも複雑な思いでトラバントは見つめていた。いつかおのれも、あんなふうになることができるのか。あんなふうにならなくてはならないのか。そう思えば、その威容は頼もしさよりもむしろ、畏怖でもって彼を圧迫した。
ーーおまえが背筋を折るたびに、民はひとりずつ死んでいくと思え。
餓死者の数に、戦死の知らせに、災害の報告に俯きかける息子の顔をしっかりと見据え、父はよくそう言った。目を逸らすな。顔を上げろ。胸を張れ。口の端を吊り上げろ。それ以外の姿をけして見せるな。皆が、王の顔を見ているのだ。王が弱気になれば、民はみな、貧しさに負けてしまうのだ。そう何度も繰り返し、父は息子の背を叩いた。そうして息子の前を歩く父は実際に、いつもそのような王の姿だった。ーー息子の前ですら。しかし実際にその内実がどうであるのかについては、トラバントは考えはしなかった。父はそのような王なのだと、ずっと思い込んでいた。
「最期まで、トラキアを頼むと。ーーこんな国ですまないと。こんな国のまま渡してすまない、何もできなくてすまない、豊かにできなくてすまないと」
人払いをした病床で、そう息子に詫びる父の姿を、トラバントは忘れることができなかった。あれだけ力強く堂々としていた父親が、すっかり萎んでしまい、震える声で謝罪し、懇願する姿を。なにも心配いりません、俺がいます、俺がトラキアを豊かにしますと言いながら、息子は今さらながらに、父も人間であったことを理解した。それを無理をして、王であり続けていただけなのだ。だからきっとあの朝の父は、誰の視線からも逃れた瞬間、ついに保てなくなったのだろう。
王の飛竜は気難しい。そんな俗説を、トラバントは反芻した。それはトラキアが建国されて以来、何代にもわたって噂されていることだった。実際どの王のどの竜も、他者から最低限の世話こそ受けるものの、やはり肝心なところは乗り手である王でなくては駄目だった。だから多忙な王たちは、自らの調練も兼ねてとよく遠乗りに出かけていた。そうしてそんなとき、護衛は不要、これが拗ねるゆえ皆ついてくるなと、王は必ず言い置いた。
この竜もそうだった。やはりトラキア王の例に漏れず多忙だった父が、必死に時間を捻出して遠乗りに行くと言うとき、トラバントは首を傾げていた。父上がいかずとも、よろしいではありませんか。俺も何度か乗せてもらっていますから、いけそうなら俺が飛ばしてきますよ。そうトラバントが提案した時、父はほんの少しはにかむような顔をした。それから、あやつはわしでなくては駄目なのだ、と、気恥ずかしそうに口にした。それは、竜のあまえを許すことの照れくささだと思っていた。
ーーやはり、わかるものなのでしょうか。
気難しいはずの父の竜がその息子を背に乗せたときの厩番の感極まったようなつぶやきを思い出して、トラバントは苦笑した。違う。そうじゃない。そんな、小難しいいきものではない。よくも、悪くも。
ーーうそつき。
うまい言い訳だな、と、トラバントは思った。ひとりになりたかったのだ。誰からの目も逃れて、たったひとりに。「竜が気難しい」と言うのは、誰も傷つけない、ちょうどいい塩梅だったのだろう。そうして王たちは、上空遥か彼方で、ようやくひとりになった。泣くことも、うつむくことすら許されない王たちがここで、どのような顔をしたのか。どのような想いを吐いたのか。それは、竜だけが知ることである。竜だけに見せたことである。そうして彼らは、いつもの姿で帰ってきた。ーー何ひとつ不安など抱えたこともないような、堂々たる王の顔で。
夕日が目に沁みて、トラバントは不意に目を細めた。だから過剰に存在していた水分が留める力を失って、ほろりと彼の目尻から溢れ、風に飛ばされていった。青年は慌てて止めようとしたが、しかし止まりはしなかった。ぼろぼろぼろぼろと泣きながら、くそ、くそとトラバントはひたすらに罵った。涙を止めることのできないおのれの情けなさか、最後の最後になるまで必死に意地を通し続けた父の悲しさか、それに気づくこともなかったおのれの至らなさか、そんな彼らを嘲笑うような、国の無情なまでの貧しさか、もはや何を罵っているのだかおのれでもわからなかった。ただ、涙だけがひたすらにこぼれ、風に流されていった。その場にとどまることすら許されないかのように。
「畜生…」
泣くな。泣けば、その跡がつく。目が赤くなる。目もとが腫れる。だからトラバントは、意地になって歯を剥き出すほどに食いしめた。
喉の奥から、引き絞るような声が上がった。彼の決意の、立ち上がらんとする意思の声だった。顔を上げろ。胸を張れ。口の端を釣り上げろ。明日から、誰もが父でなく、お前を見るのだから。ーートラキアの王を。
「よし!」
音高く両手で頬を叩いて、トラバントは顔を上げた。眼裂の長い目で太陽をしっかり捉え、大きく息を吸い、少し止めて、できる限りの時間をかけてゆるゆると吐く。それから、背筋を伸ばし、唇を釣り上げた。
「帰るぞ。ーー”俺の”城へ」
トラバントは城の方向に手綱を引いた。そうしてふと、いずれ気難しいと言われるであろうおのれの竜を思い、小さく笑った。