氷上ピアンジェ タイミングが、悪かっただけ。
大粒の涙を流しながら、それでも無理に笑ったケイトのことをよく覚えている。ミドルスクールのときだ。胸にあったのはシルバーメダル。だから、オレをトレイくんのパートナーにしてください。これがトレイがケイトとペアを組んだ経緯だった。それから何年経ったか、学生向けの大会では向かうところ敵なし。いつだってゴールドメダル。大学を卒業した次の大会は国際大会であった。
ここで、トレイとケイトの国籍の違いが初めて問題になった。
「そっかぁ。学生のうちは気にしてなかったけど、国際大会は国籍も条件に入ってくるんだ。そういえばオレ、国籍は輝石の国だったね」
ケイトは父親の仕事の関係で引っ越しを繰り返しており、トレイと出会ったのもたまたまそのときの転勤先が薔薇の王国だったからだ。当時はシングル選手。愛らしさと表現力の高さは昔から評判だった。
ただ、薔薇の王国には同じシングルの選手にリドルがいた。リドルはトレイの幼馴染で、両親は世界大会優勝者。英才教育による圧倒的技術力は、ジュニア選手の中でもトップどころか、シニア選手にすら届くと言われた。
そして大会でケイトはリドルに負けて二位。一度だけの対決だったにも関わらず、ケイトはシングルを諦めると言った。
――環境だけじゃないよ。リドルくんには才能もあるし、努力も惜しまない。勝てるわけがない。そう、オレがリドルくんと同じ時代に生まれちゃったのが悪かっただけ。タイミングが、悪かっただけ。
そうしてトレイとペアを組んだケイトは、次の父親の転勤にはついて行かなかった。薔薇の王国に残り、ハイスクールも大学もトレイと同じところを選んだ。
このままずっと二人でペアを組んでいくつもりだった。
「……もう一回言って」
「次の大会は、リドルと出ることになった」
「なんで……。ねえ、オレとのペアは……!」
ガチャンと揺れる二つのティーカップ。ケイトがテーブルを叩いたのだ。リーフグリーンの瞳にここまで怒りを露わにしたケイトを見るのは初めてだった。
「……ケイト、お前が薔薇の王国の国籍を取るには時間がかかる。今度の大会には間に合わない」
「……それで?」
「リドルはもうプロになる予定だ。だから最後に、ペアをやってみたかったんだと。お前が出られないなら、自分と出ないかって。そう言われたんだ」
「それで!?そんな理由でオレを置いてリドルくんと組む!?」
徐々に声を荒げるケイトに、カフェの店員の視線が飛んでくる。落ち着け。癖のようにケイトの頭に手を伸ばそうとして、トレイはその手を止めた。ケイトの目が真っ赤に充血していたからだ。
「もういい!トレイくんなんて知らない!どうせオレがリドルくんに負けてペアに転向したことすら忘れてるんでしょ!?よりにもよってリドルくんと組むなんて!」
オレにだってプライドはあるよ、と叫んだケイトは、そのままコートを取ってカフェから出ていった。猫舌だからすぐには飲めないんだよね。そう、いつも冷めるまで残されるティーカップは、今日は一度も手をつけられていない。それなのに転々と水滴が落ちている。
ケイトの涙だ。そう思った瞬間、トレイはようやく己の失態に気づいた。
泣かせた?俺が?ケイトを?
あの日。本当は言いたくなかっただろうに、「オレをトレイくんのパートナーにしてください」と言われたあの日から。
絶対に泣かさないと決めていた。ケイトには笑顔が似合う。ケイトにはずっと笑っていてほしかった。それなのにどうだ。ケイトが大会に出られないなら、どんなものか先に経験しておこう。そんな安直な気持ちで、ケイトを傷つけた。
――リドルくんに負けたときは生まれたタイミングが悪かったって思ってたけど。今はあの日が、トレイくんとペアを組めた最高のタイミングだったと思うよ。
初めて二人で優勝したときのケイトの言葉が。笑顔が。ずっと頭から離れなかった。
***
それから一か月。ケイトの来なくなったスケートリンクで、トレイはストレッチをしていた。
聞きたいことは山ほどあった。今何をしているのか。練習には来なくていいのか。どうしたら許してくれるのか。謝罪のメールは何十回も送っているが、未だに返事は一度もなし。SNSは更新されているが、『最近ここのコーヒーにハマってるんだ』なんてショップロゴの入ったカップを持つケイトの写真など、ただ可愛いだけだ。何を考えているかまでは読み取れない。
悶々としているうちに、スケートシューズの紐を結び終えたリドルが話しかけてきた。
「そういえば、結局ケイトも今度の大会に出るみたいだね」
え、と漏れた声はあまりに間抜けだったと思う。それでも大きな衝撃だった。トレイは力の加減も忘れてリドルの肩を掴んだ。
――何だって?
ケイトと違うスレートグレーの瞳が、「痛いよ、トレイ」と苛立ったようにトレイを見上げた。
「あ、すまん、リドル……。ケイトが、出る……?ペアで、か……?」
「ケイトがペアの選手であることなんて、キミがよく知っているだろう?とは言っても、確かに輝石の国にケイトと組めるいい相手がいたとは思えないけど」
首を傾げるリドルに、トレイは知らず奥歯を噛み締めていた。過ったのは最低な考えだ。あれほど怒らせ、泣かせてもなお。ケイトには自分しかいないと思っていた。
ケイトはシングルならともかく、ペアを組むには身長が高い。必然とリドルのような小柄な選手より体重があるということになる。それはそのまま、リフトをする男側への負担となる。
自慢ではないが、トレイは他の選手よりも体格に恵まれていた。上背も筋力もあった。だから。どれほどケイトがトレイを無視していても、最終的には自分を選ぶしかないと思っていた。
「……相手、は」
「それが、この情報をくれたヴィル先輩も知らないらしい。ケイトは意外と秘密主義だからね。大会が近づくまでは教えてくれないだろう」
さあ、ボクたちも練習をしないと。鋭いエッジの音を立てて、リドルがリンクの上を滑る。トレイもすぐにリドルを追うべきだったが、体はベンチのスマホを取っていた。
――出るのか。
ケイトでなければ意味不明であろう一文を、それ以上考えられないまま送る。
この一か月、どんな切実なメールを送ってもすべて無視されてきたというのに、今回はすぐに返事があった。出るよ。アルファベットをただ並べたようなそっけない文章は、最後にこう締めくくられていた。
――最後に、トレイくんに話したいことがある。
***
指定されたのは一か月前と同じカフェ。同じ時間。憔悴感から待ち合わせの二時間も前に来てしまったトレイは、ステンドグラス風の扉の向こうにケイトの影が映った瞬間、いても立ってもいられなくなり席を立った。そしてケイトの後ろにもう一人の影が見えて、その足を止めた。
トレイと変わらないくらいの身長。燃えるように鮮やかな青い髪。イデア、と呟いていた。シングルの選手のはずだ。
「早かったね、トレイくん……って言いたいところだけど、どうせトレイくんのことだから何時間も前から来てるんでしょ。そういうところ、重いから直したほうがいいよ」
「ケイト氏、初手から辛辣すぎでは……?さすがの拙者もトレイ氏に同情……ってめっちゃガン見されてる!」
「喧嘩別れした元パートナーが新しい男連れてきたら誰だって見ちゃうでしょ。だから言ったじゃん。一人でも大丈夫だって」
「……まぁそれは、オルトの試合も終わって暇だったんで」
先にケイトを座らせ、二人分の飲み物の注文をしているイデアは、やたらケイトの隣に慣れた様子であった。試合――とはいってもペアの選手であるトレイとシングルの選手であるイデアは部門が違うが、それでもすれ違った印象ではもっと人を寄せ付けない雰囲気があったはずだ。
明らかにイデアを意識しているトレイに、ケイトが「気になる?」と声をかける。分かっているだろうに。当たり前だと答えると、ケイトは口元だけで笑みを作った。完全にこちらを試している顔だ。
「イデアくんに頼んだ」
「……頼んだ?何をだ?」
「オレの新しいパートナー。だから、今度の大会はイデアくんと出る」
ハ、と吐いた息が、思いのほか大きく響く。注文を終えたイデアが「もう言っちゃいます?トレイ氏の顔怖すぎなんですが」と頬を引き攣らせているが、愛想でも笑えるわけがない。
「……イデアが新しいパートナー?そんな分かりきった嘘が通るとでも思っているのか?イデアはそもそもシングルの選手だし、たとえペアに転向しても出身は嘆きの島だったはずだ。俺と同じく、お前とは国籍が違う。ケイト、いくらお前でも冗談が過ぎるぞ」
「結婚した」
「……は?」
「だから、イデアくんと結婚した。嘘だと思うならそれでもいいけど、国籍なんてとっくに変わってるよ。だからもう、オレのことなんて気にしないで。謝罪もいらない。トレイくん、気になることがあると練習中もうわの空になっちゃうじゃん。あのリドルくんとペアを組むんだから、しっかりしないと」
リドルくんのお母さんの厳しさは、トレイくんもよく知ってるでしょ、とちょうど運ばれて来たティーカップを受け取りながら、ケイトが続ける。イデアは甘党なのかアインシュペナー。ケイトはいつも飲んでいるお気に入りのハーブティーだ。それをイデアが知っていることに苛立ちはあったが、今はそれどころではなかった。
「……本当なのか」
一際低くなった声に、答えたのはイデアだった。
「あ~、規則伝統厳格の三拍子揃った薔薇の王国では国籍の取得にもやたら時間がかかるみたいだけど、嘆きの島は超合理主義なんで。書類さえ揃えれば即時付与。まして婚姻届なんてお互いの合意で出すわけでしょ?審査なんてあるわけないじゃん。つまり大会の申し込みにも余裕で間に合……、ヒッ!なんで拙者が睨まれるの!?拙者をペアに誘ったのも結婚を申し込んできたのも、全部ケイト氏からですぞ!」
「……つまり、ケイト。お前はたかが大会に出るためだけにイデアと結婚したのか?」
熱いのだろう。ティーカップにふうふうと息を吹きかけていたケイトが表情を険しくした。イデアが「トレイ氏、真正面からケイト氏の地雷踏み抜くじゃん」とよく分からないことを言っているが、先にケイトに黙ってリドルとのペアを了承してしまったとはいえ、当てつけにしては嫌がらせがすぎる。
そんなトレイにケイトは声を震わせた。
「……たかがじゃない」
しまった、となぜ、が同時に頭を過った。一か月前の涙が、鮮明に瞼に浮かんだ。
「オレには、あの氷の上が唯一の居場所なんだよ」
小さな声であったのに、はっきりと耳に届いた。アプリコットの唇にチャームポイントだと笑っていた八重歯が食い込んで赤くなっている。
また泣かせてしまうのか。呆然としているうちに、イデアがケイトの肩を抱いた。トレイと似た、いや、トレイよりも鮮やかなイエローアンバーの目が鋭くトレイを映した。
「――ケイト氏、フライトの時間。行こう」
「え……?」
「先に出てタクシー拾っといて。僕もすぐに行くから」
イデアは視線だけで店員を呼ぶと、まだ湯気の出ているケイトのハーブティーをテイクアウトに変えるよう頼んだ。ついでにショーケースを指してパニーノを三つ包ませ、え、え、と困惑しているケイトに持たせる。
「オルトに夕食買っといたって伝えてて」
そしてケイトが店の外に出たのを確認してから、「あのさぁ」と乱暴に足を組んだ。突き刺すような視線だ。ああ、そうだ。トレイが抱いていたイデアの印象そのものだ。
「トレイ氏は自分をケイト氏の何だと思ってるわけ?パートナー?彼氏?あれだけ地雷踏んどいて?自分は誰と組んでもよくてケイト氏には許さないとか、傲慢だって気づいてる?」
呆れたような言い方だが、ざらついた声には怒りが滲んでいる。分かりやすく態度を変えたイデアに、トレイも不快さを表すように眉間に皺を寄せた。
「傲慢……?まぁ、そうだな。そう見えただろうな。だが一か月も音信不通で、ようやく会えたと思ったら国籍のために結婚したなんて言われたんだ。多少言葉が強くなるのも仕方な……」
「はあ~、出た出た。言った側の仕方ないアピール。じゃあケイト氏が僕を選んだのも仕方ないと思うけど?たまたま婚姻届にサインするだけで国籍が取れる嘆きの島の出身で、ペアを組める男。僕しかいないでしょ」
「ペアを組めるって簡単に言うが、シングルと違ってペアはリフトがあるんだぞ。お前はケイトを持ち上げられるのか?」
「トレイ氏って眼鏡キャラのくせに全っ然見えてないんですなぁ。ようやく会えたって言うわりに元パートナーを見て痩せたとか思わなかったわけ?君と組んでたときより五キロは落としてるんですぞ。あの細さで、さらに」
カチ、カチ、とスプーンとグラスがぶつかる耳障りな音がする。わざと音を立てるように生クリームを掻き混ぜたイデアは、「まあ、さすがにふらつくことがあるから今は食べさせてるけど」と言って残りのアインシュペナーを一気に呷った。エスプレッソの苦い香りが、感情を抑えるようにテーブルの上で両手を組むトレイのもとまで届く。
「……そもそも、お前とケイトにはほとんど接点はなかったはずだ。何のメリットがあって、お前はケイトの頼みを聞いたんだ?お前にはデメリットしかないはずだろう?」
「へえ、トレイ氏って結婚に損得求めるタイプだったんだ。氷上のガチ恋生産機って呼ばれるトレイ氏なら、自分にメリットのある相手を探すのも簡単でしょうなぁ」
「からかうな。確かにケイトはサイン一つで国籍が取れる。大会にも出られる。じゃあイデア、お前には何がある。ケイトとペアを組めば今シーズンはシングルの大会には出られない。結婚なんて、いきなり言われたって普通はできないだろう。なぜお前は受け入れた。わざわざケイトに席を外させたんだ、それくらいは聞いてもいいだろう?」
「は?嫌ですけど?……って言いたいところだけど、これでトレイ氏が練習中もうわの空になって怪我でもしたら、それこそケイト氏が今日君と会うことにした意味もなくなるし、いいよ。この国(君のもと)から連れ去る前に教えてあげる」
イデアは器用に片目だけを細めると、青みがかった唇を大きく歪ませた。演技中、よく見せる表情だ。特に難易度の高い四回転を飛んだ後に。
知らず構えるように両手に力が入ったトレイに、イデアが低く喉を鳴らした。嘲笑の中に歓喜が含まれていた。
「ねえ、僕がいつ”仕方なくケイト氏と結婚した”なんて言った?僕は彼女が好きだった。君たちがペアを組んでいた年月と同じだけ。これ以上、どんな理由が必要?」