蜃気楼は罪の形をして 夏季休暇を利用して、今年も実家に帰ってきた。
勘違いして欲しくないのが、俺は「毎年一回は帰省して、親に顔を見せてやろう」だとか──そんな立派なことを考える、できた人間ではないということだ。この時期にいつもここへ来るのは、体裁と「あれ」の様子を見に来るため。
親は放任主義、と言えばまだいくらか聞こえが良いが、双方俺に興味が薄い。幼心に「こんな親にはならないようにしよう」と思ったことを覚えている。その周りの、田舎特有の閉じた濃いコミュニティも嫌いだった。どこもかしこも暇を持て余した年寄り達が目を光らせていて、話のタネになりそうな事柄はあっという間に広がる。それはだいたい、誰々が恥をかいたとか、あいつが裏で何してたとか。そんな後暗い話題ばかりだった。
こんな故郷を俺は好きになれず、高校卒業後は都会の方にある大学へ進学した。
「あらあ、今年も来てたのね。元気そうで何よりだわ」
「はは……おかげさまで」
「相変わらずなーんにもない所だけど、ゆっくりしてってちょうだいね。帰れる故郷があるって、素敵なことなんだから」
「……ありがとうございます」
悪意はないであろう、善意でくるまれた毒玉を会釈で避ける。早足ですれ違い、向けられた笑顔を視界から消した。この人も閉塞した繋がりの中にいて、その異常性に気付いていないんだ──と思い聞かせることで、後ろめたさを正当化する。
足元は舗装されていない、土が剥き出しのでこぼこした道。それでも、俺は振り向かずに走った。
行先はもう、決まっている。
☆
真夏の陽射しも届かない程に鬱蒼と茂った林、その奥。汚れた「立ち入り禁止」のパーテーションの横をすり抜け、蝉の大合唱に包まれながら進む。
「あった……ここだ」
木の幹の中に一本、根元に傷が付いた物を見つけた。毎年、傷は来る度に新しく付けている。これがいざという時の手がかりになってしまうかもしれない、なんてことは分かってはいる。それでも、確認せずにはいられないのだ。
リュックから折りたたみ式のシャベルを取り出し、木の下の地面を掘る。去年はどれくらい掘ったんだったか。
いつしか蝉の鳴き声は消え失せ、自身の呼吸音とどくどく波打つ鼓動だけが俺の中に響いていた。心拍数が上がっているのは、この暑さの中に穴掘りなんて重労働をしているから、だけではないだろう。
数十分か、あるいは数時間か。掘り進めていくと、緑色の寝袋が見えた。
見えた、のだが。
「……は? なん、で……」
毎年、閉じたままでそこにあったはずの寝袋の口が開いていた。そして、その中身もきれいさっぱり消え失せている。どばり、と冷や汗が溢れ出てきた。これはいつから? 誰が持ち出したのだろうか? いや、あんな物を見つけたのなら大きな話題になっているはず。そもそも、あそこに掘り起こした跡は見られなかった。様々な疑問が無秩序に湧き上がり、端から消えていく。あれもこれも、ここでいくら考えても解が出ないものばかりだった。
とにかく、俺の知らないところで何かあったのは確かだ。これが消えてしまったのなら、俺がここに帰ってくる理由の大部分はもうない。事が事だけに、誰かに探りを入れることもできない。それならばいっそこんな故郷は捨てて、何もなかったことにして生きていけはしないだろうか。全てが明らかになって、俺に声がかかるその時まで。
「お、落ち着け……あの人は何も言ってなかったし、バレてるわけじゃない……よな? なら、帰った方がいいんじゃ、ねえか? 何か騒ぎになる前に、知らないふりをして……それで、もうここには──」
「マネージャー」
背後から聞こえた声に、悲鳴が出そうになった。俺をそんな風に呼ぶ奴は、一人しか思い当たらない。だが、あいつが俺を呼ぶはずがないのだ。だって、あいつは、俺が。
空気をいくら吸い込んでも足りないような気がして、自然と過呼吸になる。身体が芯まで冷えて、震えが止まらない。今すぐこの場を逃げ出したいのに、木偶になったかのように足は動かなかった。
理性が警鐘を鳴らしている。本能が恐怖を叫んでいる。それでも俺は、後ろを振り向いてしまった。絶対に後悔すると分かっていたのに。
「会いに来てくれねえな。全然嬉しくなんかねえ」
そこには、ロキが立っていた。あの日俺が殺した時と、寸分違わぬ姿で。
☆
人が人を忘れる時、最初に記憶から消えていくのは声らしい。けれど、俺はロキの声を忘れた日なんて一日たりともない。あの、ロキを殺した日からずっと。
だが、また聞くことになるなんて思ってもいなかった。隣に立つのが気後れするぐらいに整った容姿、そこから放たれる気怠げな響きのある言葉。目眩がする程懐かしくて、恐ろしい。
そんな懐かしさが俺の脳に突き刺さって、あいつと過ごした日々が、走馬灯のように脳裏を駆け抜けていった。
☆
高校一年生の夏、夏休み直前のこと。俺の住むド田舎に、移住者がやってきた。
遠くから引っ越してきたらしい、変な奴。それが新しい住人、ロキの第一印象だった。俺より二つか三つ程度年下に見えたが、そのどこか超然としたその雰囲気は、山と田んぼしかないここだと浮きに浮きまくっていたし、口を開けばひねくれた言葉ばかり。話すと面倒なことになるし、正直近寄りたくない、とも思っていた。
そんな認識が変わったのは、ロキが来てしばらく経ってから。夏休みに入って、暇を持て余していた八月の昼間のことだった。
──心を奪われるって、まさにああいうことを言うんだろう。ロキが外に出て、歌っていた。たったそれだけなのだが、その歌を聞いた俺は一歩たりとも動けなかった。俺の足音も、身体が風を切る音も、あいつの歌を聞くのに邪魔になってしまいそうだったから。
ひとしきり歌った後、ロキが一呼吸置こうと野に座り込んだ時、俺は走り出していた。今まで突っ立っていた、その反動のように。
「すげえな。歌、好きなのか?」
「ふん、別に」
「あ……そうかよ」
思わず声をかけてしまったが、返ってきたのはいつもと同じ拗ねた言葉だった。せっかく褒めてやったのに、と苛立ちが心の奥から顔を出す。もういいと顔を背けようとした瞬間、ロキが喋るように歌い出した。いや、歌うように喋り出した、の方が正しいか。
「いや……違う♪ 俺は歌が好きだ♪」
「うおっ!? な、なんだよ、いきなり……」
「俺は、こうしないと本当のことを言えねえんだ♪ ただ喋るだけだと、全部嘘になっちまう♪」
「はぁ? ……あー、そういう『設定』なのか? そう……んん……そうか……」
ロキの言葉を受け取り、考えてみる。そうすると、今までの跳ねっ返りは演技で──思春期特有のあれ、いわゆる厨二病ってやつだったのだろうか。それはつまり、俺は子供のお遊びに振り回されて、いちいち腹を立てていた、ということになる。ため息が抑えられない。そういうのは、やりすぎない程度にしてくれないものか。
「せっ……? そうだ、お前にずっと頼みたいことがあったんだ♪ 俺に、色んな歌を教えてくれないか♪」
「えー……なんでまた俺に」
「お前が、この辺りで一番若い奴みたいだから♪ 若いってことは、新しくて俺がまだ知らないものをたくさん知ってるってことだろ?♪」
「それは偏見じゃ……ってか、どうして俺がそこまでしなきゃ──」
ロキの言葉を突き返そうとして、ふと口を閉じる。さっき聞いたこいつの歌は、とんでもなく上手い。その方向の造詣に深くない──俺の興味があったのは、演技だとか舞台だとか、そういう方面だ──俺でも確信できる程に。
きっと然るべき場所に出れば、間違いなくロキはでかくなる。この才能を、眠らせておくのは惜しい。我ながら柄ではないけれど、本当に、心からそう思った。
「──いや、分かった。俺が色々教えてやるよ」
「いいのか♪ 嘘じゃねえよな♪」
「自分から聞いといて不安がるなって。まあ、あんまり期待すんなよ。元々詳しいわけでもねえし……」
「なんでもいい♪ 俺は歌手になりてえんだ♪」
お前が歌手なら、じゃあ俺はさしずめマネージャーか、なんて冗談めかして言ってみる。それは大層楽しげに聞こえたようで、「マネージャー♪」と跳ねた声が俺を呼んだ。
☆
「マネージャー」
「ん、どうした?」
夏休みが終わっても、季節が変わっても、年が移っても。俺はマネージャーのままだった。
途中でこちらがやめるつもりはなかったのだが、どこかでロキが飽きてこの関係は終わってしまうかもしれない、と思うところはあった。それを恐れていたと自覚したのは、ずいぶん後のことだが。
「なあ、そろそろお前の歌を他の奴らにも聞かせてみないか? ここにな、色んな人が色んな動画を投稿してて。そん中には、流行りの歌を歌ってみた〜ってのもあるんだよ」
「へえ……全然やりたくねえな。絶対やるなよ」
その年の冬頃、動画投稿を始めた。流行りの曲の中からロキが気に入ったものを歌う、ただそれだけの。無名である俺達が誰かの目に留まるには、流行り物の力に頼るしかない。現に、投稿を始めてからしばらくは、全くと言っていい程見てもらえなかった。けれど、ロキは歌のトレーニングを重ね、俺は流行を研究したり歌を聞きやすくする加工を学んだり。腐らず、二人で少しずつ進歩していった。
今までの俺なら途中で投げ出していただろうが、ロキと一緒ならきっとどうにかなる。そんな、根拠のない気力が俺を突き動かしていた。
すると、俺が高校二年生に上がる頃。とある一曲が今までにない伸びを見せ、全体の再生数も登録者数も尋常ではない程に増えた。コメントも滝のように寄せられ、山盛りのリクエストに頭を抱えてしまった。ロキは「リクエストなんて興味ない。全部なんてやってられねえ」なんて言っていたが、さすがに全部は無理がある。ここはいつもの投稿スタンスを崩さないでいこう、ということで、結局やることは変わらなかった。
「ふ……ん、ロキ、口開けろ」
「ぅあ、は、っふ……」
──俺とロキが恋人になったのも、その辺りだ。言葉のからくりが分かってしまえば、こいつはびっくりするぐらいに素直な奴だ。おまけに、ドが付く程の世間知らず。なのに、時々無性に蠱惑的で。それが俺の根っこの部分を揺さぶって、壊してしまった。おかしく、されてしまった。
一線を越えてしまったことも、ある。初めてがこの歳で相手は年下、しかも男だなんて思いもしていなかったが。インターネットで男同士のそういう事を調べて、どぎまぎしながら行為に至った。初めては夏の日で、汗をだらだら流しながらしたことは、多分一生忘れないだろう。
しかし。そこまで進んでも、俺はロキの事をよく知らなかった。どこから来たのか、どうして来たのか。学校に通っている様子もない。俺より年下に見えるのに親や保護者、そういう存在の影が見えないのも不自然だと前々から感じてはいて、距離は近くなったはずなのに相変わらず謎だらけの存在だった。
☆
そして、高校最後の夏。俺がマネージャーになってから二年。ロキも最初に会った時から背が伸びて、前よりは子供、という印象は受けなくなった。
夏休み前の放課後、がら空きになった家にロキを呼んで、何をするでもなくただ駄弁る。学校で理不尽に叱られて、心底むしゃくしゃしていた。話し相手が欲しかった。それを顔の皮の下に隠して、笑顔で会話に徹する。愚痴りたい気持ちもあったが、それをロキに話してもしょうがない。
「──っはは、この前投稿したやつもうこんないってるぞ。コメントもいっぱいだし。やっぱこれ、始めて良かったよ、な」
「俺は、歌うことしかできねえから……♪」
「しかって……んな事言うなって。お前の歌、めちゃくちゃすげえよ。音楽はそんなだった俺が、一発で惚れ込むくらいに……」
「でも……」
珍しく弱気なロキ。大方、動画に付いた嫌なコメントでも見たのだろう。こういう時は、そんなことない気にするな、と声をかけてやるのが普通で、普段の俺でもきっとそうする。
だが、今の俺は。頭は暑さで湯だり、耳の奥には不合理なダミ声が響いている。
腹が立ち、おかしくなっていた。
「……お前が、お前の歌を否定するな。じゃあなんだよ……俺が見つけたのは、大したもんじゃないってか? ここまでの数年、俺がやってきたことは無駄だってか?」
「っ!? は、や、違……!」
「違わねえだろ!?」
心にもないことが、だばだばと口から溢れてくる。心にもないと、思いたいようなことが。
「俺は本気で! お前なら天下取れるって思ってんだよ! だから、ずっと、お前のために……!!」
「な──」
ロキを押し倒し、その白い喉に手をかける。ぐうっと力を込めれば、その瞳が苦しそうに細められた。はっはっと必死に息を吸おうとする口から、涎がてろりと垂れる。
奇麗な目だと、思っていたはずなのに。今は、何よりも見たくない。
「お前はいいよな……面が良くて、歌も上手くてさ……!! どこに行ってもチヤホヤされるんだろ、これからも!? でもなあ、俺は、俺は、何も! ずっと、お前しか……!!」
「がっ、……ひゅ、っ──」
ロキのばたつく手足がくたりと弛緩し、それでも首を絞め続けた。こちらも呼吸を忘れそうな程、力を込めて。理性より先に感情が飛び出していって、何も考えられなくなっていた。全てが遠い場所で起こっているような、そんな錯覚すら覚えていた。
「────」
「はっ、はぁ、は……っ」
首から手を離す。時間にすれば十分程だろうが、俺からするとその十倍も二十倍も絞めていたような気がしていた。
だらりと投げ出された手足、聞こえない呼吸音、散大した瞳孔。
目の前の、相棒で歌手で恋人だった人間は、ただの肉塊になり果てていた。
「っ、ぶ……! ぐぇ、う……」
せり上げて来た吐き気を飲み干す。自分の犯した罪の重さが、心臓を押し潰してくる。そんなつもりじゃない、殺す気はなかった。そんな、ドラマでもニュースでも聞き飽きたフレーズが脳を埋め尽くした。
「……あ、え? 俺、なんで、これ……」
ふと、自分の股座に意識が行く。そこに見えたのは、明らかに体積の増した自身。下履きを盛り上げ、強く主張していた。こうなっているということはつまり、俺は、ロキの首を絞めることに興奮、していた。
「ああ、あ……あああぁ……俺、俺って、最悪だ……はは……」
こうなったらもう、とことん最低最悪まで堕ちてやろう。そう思い立ってしまった俺は、その場で制服を下ろし、そのまま──
☆
「ロキ……」
「また、名前呼んでくれねえな。嬉しくねえ」
眼前に現れては消えていく思い出、あるいは走馬灯か。それがすっかり立ち消えた時、喉から漏れ出たのは名前だった。何度も呼んだ、俺の青春と過ちを象徴する名前。
あの後は、とにかくただただ必死だった。とりあえず物置までロキを運び、寝袋で包んで、夜遅くになってから埋めた──はずだ。明かりを点けることすら怖くて、わずかに差す月明かりの下、汗だくになりながら穴を掘ったことを覚えている。その時、近くの樹幹へ目印を残して。
「っあ──あああああぁっ!!」
正気がにわかに戻り、今目の前に見えているものが、見えるはずはないと思い当たってしまった。恐怖が俺の中を埋め尽くして、がさついた悲鳴が飛び出る。これが夢でもそうでなくても、俺にとってはこの上ない悪夢だ。
俺はその場から逃げ出した。みっともなく、それでも全速力で走る。固まっていた身体は、動くようになっていた。
走る方向なんて気にしていられなくて、ただあそこから遠ざかりたくて。自分の体力が持つまま、めちゃくちゃに走った。追いかける足音は聞こえなかったが、後ろを振り向くことはできなかった。
「は、っす、はぁっ……ぐ……」
「そこ、崖じゃねえぜ」
「ひっ!?」
呼吸を整えようと崖際で一瞬立ち止まったところで、背後から聞こえた声。振り向くまいとしていたのに、反射的に顔が後ろを向いてしまう。相当走ったはずなのに、何でもないような顔をしてロキがそこにいた。息も切らさず、じっと俺を見つめている。
「……お前は、何だ? ロキ、なのか……?」
「違えよ。身体、どこかおかしい場所あるか?」
「い、や……」
「なら最悪だ」
ずっと考えていた、当たり前で信じられなかった問いを投げかける。返ってきた答えはNO、すなわちYES。
ロキの身体は、あの日とそっくりそのまま同じ作りをしているように見えた。ただ一点、白い首に赤い痕が残っていることを除けば。その痕が、目の前のそれを「俺の知るロキ」だとはっきり証明していた。
これが俺の幻聴や幻覚なら、どれだけいいかと思う。それであれば、まだ俺の頭がおかしくなっているだけで済むからだ。
足音もなく、ロキが近づいてくる。
「……お、俺に何をしに来た? 復讐か? 俺が、お前を……殺したから……」
声の震えが抑えられない。疲労と恐怖で、いよいよ身体に力が入らなくなってくる。膝から崩れ落ち、四つん這いになった俺の頬をロキが撫でた。その指の文字通りぞっとするような冷たさに、背筋が粟立つ。
「俺は、お前が悪いって思ってる。マネージャーのことなんか、ずっと嫌いだ」
「は……?」
予想だにしていなかった柔らかい言葉に、思わず顔を上げた。眼前のロキは、穏やかな笑みを浮かべていた。
「だって、毎年会いに来てくれてねえだろ。俺は、忘れられるのなんてちっとも怖くねえ。今年も多分来るだろうって……毎年考えてる」
「会うって、んな……」
「お前がここに来る度に、不安になるし。今年は、こうやってお前と直接話せてもねえ。だから……今、すげえ幸せだぜ♪ 来てくれて、ありがとな♪」
に、と鋭い歯を見せて笑うロキ。その笑顔の眩しさに、目を覆いたくなる。自分がいかに自己中心的で汚れているか、思い知らされてしまう。
そんな言葉を、人殺しに向けて言わないでくれ。
「……っ! そんなんじゃ……そんなんじゃ、ねえ……!! 違うんだ、ロキ……俺は、そんな言葉を受け取っていい奴じゃねえ……!」
「マネージャー……?」
頬の指を払い除ける。俺の視線は再び地へと面し、瞼を固く閉じた。できれば、耳も塞ぎたかった。
きっとこれから、俺はとんでもなく情けなくなるだろうから。
「お前がっ! 羨ましかった、妬ましかったんだ……!! お前のそばにいると、ロキの才能のでかさが……俺がいかに持たざる者か! 嫌でも、分かっちまう!! だけど、お前を支えられるのは俺だけだからって、取り繕って……横に並んだ気になって……っ」
魂を揺さぶられる歌を聞いて、それがもっと遠くまで広がればいいと尽力した日々。それが嫉妬に変わったのは、いつからだったか──もう、思い出せない。
腹の底から、ずっと認めたくなかった感情が漏れ出てくる。唇が、贖罪の言葉を形作る。
「俺が始めたくせに、勝手に終わらせて……ああ、ロキ、ごめん、俺、俺……!! 悪、かった……お前を、殺した日から……ずっと後悔してる……あん時の俺、本当にどうかしてて……!」
「……」
「教えてくれ、ロキ……お前は、俺をどう思ってる……? こんな、醜くて見苦しい人殺しを……」
聞くのが怖くてたまらないのに、訊かずにはいられなかった。ロキの顔を見ることができない。
「マネージャーは、俺に色んなことを教えてくれた恩人だ♪ 音楽のことも……それ以外のことも♪ 俺の気持ちは、ずっと変わらねえ♪」
「……俺は、お前を殺したんだぞ? 自分勝手な、許されないことを……」
「お前がそうしたかったってんなら……それで良いと思ってるぜ♪ 離れ離れになんのは寂しいけど……♪」
「な……」
憐れみの欠片もない、無垢で健気な愛情。それを向けられ、ぐしゃりと胸が苦しくなる──と同時に、寒気がした。その、死を何とも思わぬような口振りに。
ズレを感じる。決定的で、致命的な。価値観の相違、と言っていいのだろうか。
いや、もっと大きな何か。根本的に違う物差しで世界を見ている、ような。そんな、底知れないものを感じる。
「それじゃあ、お前はどうなんだ? 俺のこと……嫌いなのか?」
「俺は……」
予想できていた質問なのに、口ごもってしまう。
……本音を言えば。ロキのそばにいて、守ってやりたい。あの日に途絶えてしまったその続きを、歩んでいきたい。
だが、それを終わらせたのは間違いなく俺自身なのだ。
「……あんなことしといて、何をって自分でも思う。けどな……やっぱ好き、だ……好きなんだ。妬ましさも感じてたよ、でもお前と一緒にいると安心して、お前の歌を聞くと心が弾んで、お前と繋がってると……満たされて。幸せだったんだよ、確実に。でもあの日、全部……俺が……」
「マネージャーも、俺と一緒にいたいのか? それって、そういうことじゃねえのか?」
ロキの縋るような問いかけに、頷きそうになってしまう。そんなことは許されない。俺が、許せない。
「……いや。今更ロキの隣に立つなんて、できやしない。こんな奴、お前のそばにいるべきじゃねえんだ……」
「すべきとか、しないべきとかじゃねえ♪ お前が心で、どう思ってるかを聞いてんだ♪」
「う……」
なおも諦めないロキの口撃──そう言うにはささやかだが──を受け、呻き声が出てしまった。こいつは、昔から変なところで頑固だった。きっと俺が口を割るまで、この口撃は続くだろう。ため息を吐き、エゴの一片を口から漏らした。
「……いられるもんなら、いてやりたい。そんで、もしそれが叶ったら……どんな償いでもするつもりだ」
「償いなんて必要ねえ♪ お前は俺のそばにいるだけでいい♪」
「……お前は優しすぎるよ、本当に」
真っ直ぐな言葉が耳に、心に突き立てられる。
光を受け、自分の影がさらに濃く、淀んでいくのを感じた。
「やっぱりマネージャーも俺と一緒にいたくないんだろ。それで全然良くねえぜ」
「お前が俺のしたことを気にしてないってなら、俺を憎んで罰せられるのは、俺だけになるんだ。あれだけのことをして、またあの時と同じように……なんて、さすがに虫が良すぎる──」
「……この分からず屋!♪」
「んあっ!?」
ロキが声を張り上げたかと思えば、耳に痛みが走った。氷のように冷たい指で、俺の耳が思いっきり引っ張られている。痛い。ロキは細いが、存外力は強かったことを思い出した。
ぎぎぎと耳を上へ引かれるまま、かすかに震えが残る身体を引き上げられる。ロキを間近で見下ろす形となり、その奇麗な顔がよく見えた。
「俺は良いって言ってんだ!♪ つべこべ言わずに観念しやがれ!♪」
「わ、ったたたた! 待て、痛い痛い痛い! 分かった、分かったからっ!」
「本当に分かったのか?♪」
「っ、ああ……! 俺は……ロキと一緒にいた、い……! 許されないことをしたと思うし、それを忘れて生きろってのも無理な話だ! けどなあ、ずっと、お前が……お前だけが、俺の光だったから……!」
「……へ、嬉しいぜ♪」
「あ〜……くそ……」
勢いに任せて、言ってしまった。言ってから、自分がいかに小っ恥ずかしいことを口走ってしまったのかを理解し、意識してしまう。顔がひとりでに熱くなっていくのを感じる。
「ふ……マネージャー、頭下げろ♪」
「んん、なんだ……こうか?」
言われるがまま、背中を曲げて頭部を下げる。すると、瞬きの間に首の後ろに手が回され──唇に冷たく柔らかい物が触れた。
それが何なのか考えようとした瞬間、首の手に力を感じた。唇の感触が離れていく。
ロキの、崖際の方へ強く引かれている、と分かった時にはもう遅かった。俺の足は地面から遠ざかり、ロキと一緒に崖の外へ投げ出されていた。
「は──」
「一人は辛いし、寂しいんだ♪ でも、マネージャーと二人なら、怖くねえ♪ ありがとな、マネージャー♪ 今年もここに来てくれて♪ ずっと一緒にいような♪」
目の前のロキは、満面の笑みを浮かべていた。屈託のない、純粋な。そこに憎悪や怒りは感じられなかった。今日一番の恐怖が、ぞわぞわと俺を包む。それは不可解とは違う、未知への恐れだ。「理解できない」ではなく、そもそもその埒外にあるものへの。
俺は、勘違いをしていたのかもしれない。今日──いや、もしかすると出会ってからずっと。
身体は空を切り、重力に従って下へと落ちていく。
「(……ひょっとしたら、こいつは、最初の最初から──)」
その思考が繋がる前に、俺の意識は地に叩き伏せられた。