無題 その男に名は無かった。正確には、長らく名を名乗らなかったせいで、自分でさえ忘れかけていた。
途方もない額の借金を抱えた男は、ひと日を満足に生きることさえ難しかった。借金は返せど返せど減らず、いよいよ八方塞がりか、と自棄を起こして海へふらりと立ち寄った日、男は自分の目を疑った。
濡れそぼった紅い髪に、苦悶に歪んでいてもなお整った顔、傷だらけの白い体。そして何より特徴的な、頭と似た色の鱗に覆われた下半身──尾びれを持った男が、海岸に打ち上げられていた。
人魚。男の脳裏にその単語が過ぎる。
近づいてみても、人魚は反応を返さなかった。死んでいるのだろうか、と男が人魚の肌に触れると、僅かな体温と弱々しい鼓動が感じられた。
生きている。男は人魚を担ぎ上げ運び出した。砂が服へまとわりつく。どうせ大した価値もないぼろ布だが。
身の丈は男と同程度で人間と変わらない重さがあり、湿った尾びれが服を濡らす。不快感に男は顔をしかめたが、それでも歩き続けた。
損得勘定抜きの、完全なる善意で人助けをする程男はお人好しではない。これはおそらく、金になる。男が人魚を助けようとしたのは、そう踏んだからだった。
人魚の肉や鱗には様々な伝説が伝わっている。だがそれらの真偽は重要ではない。眉唾な話を真に受け、もしくは夢を見て、金を出そうとする輩はわんさかいる。そういう馬鹿な金持ちは、いい加減な額でも喜んで金を出すだろう。
それか、人魚そのものを売っぱらってしまってもいい。美しい顔も相まって相当高い値が付きそうだが、丸ごと手放してしまうのは少し惜しい気もする。
何にせよ、これは生きていた方が都合が良い。そう考えた故の男の行動だった。
しばらく歩いた後、男の暮らす荒屋──家、と形容するのもどうかと思うような、打ち捨てられた小屋だ──、その裏手にある小さな沼へ人魚を降ろした。沼はどんよりと濁っていたが、それでも陸に上げているよりはマシか、という判断だった。
しばらく待っても、人魚は仰向けで沼に浮かんだままだった。やはりだめだったか、と背を向け、小屋へ戻ろうとした男に「おい」と声がかかった。
男が振り向くと、人魚が目を開きもぞもぞと体勢を整えている最中だった。目玉はこちらを向いている。青と紫が混じり合った、不思議な瞳をしていた。
「お前が俺を助けねえのか」
人魚が問うた。おかしな言い回しに男が戸惑っていると、それを見かねた人魚が「俺は歌わねえと、言葉が言いたいことと反対になっちまって……♪」と歌う。ますます理解が追いつかなくなったが、こいつは人間ではないのだし、そういうこともあるかもしれない、と男は思考を放棄した。
人魚が言うには──実際の言葉はそれと反対だったが──嵐に遭いいつの間にか浜に流れ着いていた、傷が癒えるまでここに居させてほしい、とのことだった。それを聞き、男は内心ほくそ笑んだ。向こうにこちらを警戒する気はないらしい。
男は人魚の言葉へ頷き、頭の中で皮算用を始めた。