碧い食堂の時は止まる出航、という掛け声とともに、ちいさな船はバラティエを出て波をかき分けて進んだ。サンジの船が遠くなるのを、ゼフはいつまでも見ている。
その船から、こちらを見つめる二つの目があった。ゴールド・ロジャーの面影を感じる、海賊王を目指す少年、モンキー・D・ルフィだ。
彼は、意志の強い目でこちらを眺めていた。まんまるの、黒い瞳はバラティエの全てを記憶しようとするように、動かず、船の進行方向の後方にある、魚を模した船ばかりを見ていた。彼の目を見ていると、まだ諦めきれていないのだとゼフは感じ取ることができた。その実感は、ゼフには強い罪悪感を植え付ける。今からでも遅くないとわかっているのに、心が、身体が、取るべき選択を拒絶し続けていた。
「また、飯食いにこいよ!」
そんなゼフの気持ちに寄り添うように、隣にいるサンジは声を張って、それからルフィに向けて手を振った。
「おまえなら、いつでも歓迎だ!」
そうして、振っていないゼフに近い方の手を、そっとゼフの手に絡ませたのであった。
ゼフはその手を振り解けない。二人はそのまま手を繋いでいる。
「おれはここで、いつまでも待ってるから」
サンジは最後にそう言った。その声は先ほどまでとは違って大きいものではなく、ルフィに聞かせるためのものではないのだとゼフはわかっていた。
サンジはそれを、ゼフに向けて言っていたのだ。サンジにここから離れて欲しくなかった、寂しくなってしまった、ただ一人の父親に向けて。
ゼフは後悔していた。後悔の中には、それでも、サンジが自分を選んだことへのわずかな喜びがあった。
襲撃した船に乗っていた、コック見習いのような格好をした子供のことを助けたのは、その子供が自分と同じ夢を持っていたからだった。奇跡の海、オールブルー。夢物語の中にしかないと言われているその海にゼフはずっと憧れていて、探し、求めていた。そして嵐の日に目の前に、同じ夢をもつ少年が現れたのだ。
波に飲まれた少年を助けるために泳ぎ始めたとき、何をしているのだろうとゼフ自身思った。見ず知らずの、どうでも良いはずの子供のために命をかけてまで助けようとしていることに呆れてもいた。けれど、どこかで、彼なら、彼とならオールブルーが見られるような気がしたのだ。
それに、このままあの子供を死なせるのは忍びないという気持ちもあった。かつてのゼフがそうであったように、普通に生きて、自分の居場所があるような人間は、オールブルーなど夢を見ないからである。あるはずもない、天国みたいな場所に憧れる人間は、この世に居場所のない人間ばかりだ。だから、ゼフはその子をこのまま死なせたくなかった。せめて、オールブルーではない海の上でも生きていく意味はあるのだと、教えてやりたくなった。ゼフはきっと、幼少期の自分とサンジを、いつのまにか重ねてしまっていたのだ。
結果、ゼフはサンジを救い切ることができなかった。自分の足を犠牲にし、その罪悪感でサンジを自らに縛り付ける形でしか、彼の命を救えなかった。
そうやって始まった、二人だった。
くだらないものを助けてしまったと思い、悪いことをしたとも思っていた。自分に対して彼が恩義を感じていることは知っていたが、そんなのはさっさと忘れて自分の前からいなくなってくれればいいとおもっていた。
けれども、ゼフの思惑は外れ、サンジは彼の作ったレストランを何より大切にした。自分の夢より、命よりも。二人きりで流れ着いたついた岩山で言った、おれもそれ手伝うよ、の約束も、強くだってなるさ、の約束も守ってくれた。
ここに至るまでの道のりは、単純なものではなかった。ゼフの手にしていた宝では、バラティエの建設に全て使っても少し足りなくて、貧しい生活を余儀なくされた。衰弱した肉体へのリハビリテーションが必要だった。サンジには心的外傷ストレス障害が、ゼフは幻肢痛を抱えていた。それを、寄り添いながら、時に喧嘩しながら二人は乗り越えてきた。どんな時でも、二人だった。サンジが辛い時はゼフが、ゼフが辛い時はサンジがその隣に寄り添い、苦難が去るまでそばに居た。
そんなふうに、二人は九年も過ごしてきたのだ。
ゼフにとってサンジは、いつの間にか何処の馬の骨ともわからないチビナスから、息子同然の存在へと変わっていた。そして、それに止まらなかった。
ゼフとサンジの関係性を大きく変えてしまった言葉が何であるかを、ゼフは認識していた。それは、普段から反抗的なサンジが、本物の反抗期を迎えた17歳の時に言ってしまった言葉だった。
サンジは幼い頃からずっとバラティエで働いていて、休みを取らせようとしても勝手に厨房に入ってくる程度には、料理ばかりしている子供だった。それが、副料理長に任命する直前になると、やりたいことが出てきたのか、バラティエの外で勉強するためなのか、きちんと休みを取ることが増えてきた。その際にゼフは、言ったのだ。どこか出かけてくるなら、行き先を伝えてから出かけるように、と。
そうすると、絶賛反抗期であったサンジはゼフに噛み付いてきた。やれ、門限までには帰っているんだから言う必要ないだろやら、何かあったとしても助けて欲しいだなんて思わないやら、自分の行動の責任は自分で取れるからジジイには関係ないやら、散々言われてゼフは正直ムカついていた。こんな風に反抗的なガキは一回ぶん殴ってわからせてやればいいと思いはしたが、それではこの子の反抗期を更に酷いものにするだけだなとも思い、一旦、ゼフは対話を試みることにした。
その際、言ってしまったのだ。
「なんでそんなこと言わなきゃならねェんだよ」
と喚くサンジが言い放った、
「おまえなんか、どうせおれがいなくなったってなんとも思わねェんだろ」
という言葉に。
「寂しい」
と、ゼフは、言ってしまった。
言ってから、後悔した。目の前にあるサンジの顔が驚きの表情に変わっていき、それが真っ赤になるのを目にしながら。自らの顔もまた赤くなっていることを知覚したゼフは、言葉選びを間違えたことに狼狽えている。
本心を言う必要はなかったのに、漏れたのは心からの言葉だった。自分自身自覚したくないとずっと思っていた、いつの間にか芽生えた感情は、言葉にするとその輪郭が途端に濃くなった。
「おまえが居ねェと、おれは寂しい」
それはまさに、呪いの言葉だった。表面的な感情で放った言葉ではないからこその重さがあった。ゼフに、自らの最も醜い感情を再認識させる力があった。そして、それは、自分のもとにサンジを縛り付けるだけの理由となり得る言葉だった。
それにも関わらず、ゼフは言ってしまった。息子以上の感情を抱くようになってしまったサンジに向けて。寂しい、と言わなければならない気がした。
だって、あまりにも。
「そっか」
寂しい、と零したときのサンジの表情が嬉しそうだったから。
「ジジイは、おれが居ねェと、寂しいんだな」
どうしても、言ってしまいたくなったのだ。
「だったら、安心しろよ」
まだだったの十七歳だった少年が、ゼフの顔に手を伸ばした。
そして、
「おれはもう、どこにも行かねェ」
そう言ってゼフにキスをした時。二人の関係は、二度と他人にも、友人にも、親子にも戻れなくなってしまった。
こうして、サンジの反抗期はひっそりと終わり、二人の間違った関係が始まってしまったのであった。
「いいのか」
ゼフは言う。どんどん離れていくルフィを見ながら。傷だらけになったバラティエのヒレを目下に、冷たい手を自分の手の中で包むようにしながら。再度、サンジに尋ねる。
「今ならまだ、」
「行かねェ」
サンジは言う。
「どこにも行かねェって、言っただろ」
いつもみたいに煙草を咥えたサンジが、船から視線を外してゼフを見た。サンジの目の中にはゼフしか映っていなかった。もう、ずっとそうだったのだ、とゼフは思う。彼はそれが、苦しくて、そして何より嬉しい。
「おれの居場所は、ここだから」
そしてサンジは、あの日、ゼフに初めてキスをした時と、同じ笑顔を浮かべるのであった。
小さくなっていく二人の男の姿を、ルフィはいつまでも見ていた。後悔をするような選択をしたつもりはなかったが、それでも、無理矢理にでも彼を引っ張ってきても良かったのだという気もしていた。そうでもしないときっと、サンジはあの場所を離れようとはしないだろうから。
ルフィがサンジを誘ったとき、サンジは嬉しそうだった。だから、てっきり一緒に冒険ができるものだと思ったのに。
「悪いな、おれは行けねェよ」
と、断られてしまった。ルフィは、それで諦める男ではなかった。おれの船のコックになってくれ、お前はいいコックだ、お前がいてくれたらきっと……、話すルフィの口に、サンジが人差し指を当てる。
「お前はおれたちの恩人だ。そんなお前が、おれを必要としてくれることは嬉しい。いいコックって言ってくれたのも、スゲェ嬉しいよ。
でも、おれはお前とは行けねェんだ。ここを離れることはできない。命の恩人を、寂しがりやで、老いていくジジイを一人にすることは出来ないんだ」
言おうとしていることはわかるし、その気持ちもわかる。けれど、お前にも自分の人生があるだろ、と。ルフィは言いたかったけれど、なおも唇はサンジに塞がれており、言葉を発することはできなかった。
「おれはさ、あいつの友達で、子供で、母親で、恋人で、毎日心配で幸福で忙しくて……」
同列にならないはずの言葉が並んでいたが、ルフィは、サンジが嘘をついていないことがわかった。じっと自分を見るルフィの表情に、満足したようにサンジはやっと手を下ろした。
「他の誰かのものになっている暇なんて、ないんだ」
ルフィにはまだ知らないものがたくさんあったが、誰かが一番大切な人のことを語る時の表情も、一人であることの寂しさも、分かり合える人間がいることの幸福も知っていた。だから、ここが彼の居場所であり、彼はここにいるべきなのだと思ったのであった。
「お前さ……オールブルーって知ってるか?」
「いや」
「何だ知らねぇのかよ! 奇跡の海の話さ……」
先ほどまでの、誰かのものであるような顔から一変。子供のように瞳を輝かせてサンジが語る、彼の憧れの海のはなしにルフィは聞き入った。四つの海の魚が全ている、奇跡の、料理人にとって夢のような海。サンジの口から語られるオールブルーは、眩しい、この世の場所とは思えない輝きを放っているように、ルフィは感じた。
「スゲェな!」
「スゲェだろ。いつか、その海を見つけるのがおれのあのジジイの……」
サンジは言う。遠い目をして。縛り付けられている人間の目だ、とルフィは思う。けれど、サンジを縛りつけてるのはきっと、サンジ自身で。彼はそれを、幸福に感じていたから。ルフィはもう、その手を取って、彼を連れて行くことはできなかった。
「なあ、ルフィ。お前がいつか、あの海を……」
その代わり、今度はルフィが人差し指でサンジの唇を塞いだ。約束なんて、したくなかったのだ。自分がオールブルーを見つけたら、なんて約束をしてしまったら。オールブルーの夢を他人に託すような真似をしてしまえば。サンジはもう二度と、海に出ることも、夢に向かって進むこともしなくなりそうだから。
「いつか、一緒に見つけよう。お前の夢の、オールブルー。また、迎えにくるから」
ルフィはそう言って、悪戯っぽく笑うのであった。サンジはその言葉に諦めたように笑って、それから、
「いつか、な」
と言って、ルフィの人差し指にキスをしたのであった。
サンジの姿が小さくなっていくのを、ルフィは見ている。ルフィが手を振れば、向こうにいるサンジも手を振りかえした。その隣にはゼフがいて、彼もまたルフィのことを見送ってくれていた。
ふと、思いついたようにルフィは、自らの人差し指を唇の前に置いた。
引用元/市川春子『星の恋人』
「そうよ 私 朝はパパの母親で 昼は娘で 夜は恋人で 毎日心配で幸福で忙しくて 彼の体が懐かしいなんて感じるヒマないの」