やさしいいきもの それは、ゼフが生きてきて触れた様々なもののなかで、最もやわらかくて、あたたかいものだった。
なにか、ぬるいものが自分に触れていると思って、ゼフは目を覚ました。浅い眠りをうろうろしていた彼の目覚めは悪いものではなかったが、睡眠を妨害されて、決して気分はいいものではなかった。
「なにしてンだ、チビナス……」
電気を消したはずなのに、なぜか明るい部屋の中で。ゼフが見たのは、自分の頬をつつく、にこやかな男の顔だった。
「久しぶりに、一緒に寝てやろうかと思って」
「おれのベッドを壊すつもりか」
「そこまでデカくはねェだろ。
それとも、なんだ? 今夜はとびきり激しくするっていう、そういう、宣言のおつもりで?」
「クソガキが……てめえがおれに冗談を言うなんざ、百年早ェんだよ」
口の中であくびを噛んで、ゼフは言った。それから、手を払ってサンジに出ていけ、というジェスチャーをしたが、彼の身体はそれとほぼ同時に、少し、壁の方へと動いていた。まるで、ベッドにサンジが座るための場所を作るかのように。
それを見たサンジは微笑んで、早速、自分のためにあけられた場所へと腰かけたのであった。
傍に座ったサンジから、ゼフは海の香りを感じ取った。彼はそれが、本当の海のにおいではないことを知っている。
散々、海の上で暮らしてきたのだ。塩っぽくてべたつく、多くの生命が混ざり合ったように生っぽい海のにおいがゼフは好きで、そして飽き飽きしていた。
一方で、サンジは違った。彼は何か、ゼフは想像する、彼の中にある理想の海の、その香りがしたのだ。
出会った時から、いままで、ずっと。
風呂上がりのシャンプーの香りをまとっているときは、微かに、ついへばってしまうような仕事の後は、僅かに濃く。どことなく香る、そのにおいが、ゼフは好きだった。
「昼間のあいつ、おもしろかったな。ほら、宝払いする、とか言って飯代踏み倒して雑用させられてた、麦わら帽子の」
ゼフの指先に自分の指先を絡めて、サンジが話す。
「モンキー・D・ルフィって小僧か」
「よく覚えてんな!」
「こっちはずっと客商売やってんだ、顔と名前くらいならすぐに覚える。……それに、あんなやつ、なかなかいねェからな」
ゼフが静かにそう言うと、じっとその話を聞いていたサンジが口角をあげて、
「言えてる」
と答えた。
ゼフと二人であるときのサンジは、基本的に笑顔でいることが多いが、今日はとりわけ上機嫌そうで。なにか、どうしても自分に話したことがあるのだろうな、とゼフは気づいていた。
気づいていながら、じっと、彼が切り出すのを待っていた。指先だけを器用に、そっと繋いだままで。
「アイツも、その仲間も、面白そうなやつらだった」
「まだまだ駆け出しってところだがな」
「じゃあ、この先の海に、飲まれてくのかな」
「……どうだろうな。ただ、ほとんどの海賊がそうだ。夢を持って海に出ても、それを叶えられる奴は一割もいねェ。
誰も彼も、海の広大さと厳しさを呪う。
グランドラインに入ると、もっと酷ェ。人間が太刀打ちできない、自然、現象、生き物、そして同じとも思えねェような人間に、打ちのめされ続ける」
「ジジイも、そうだったのか?」
「おれの航海は、厳しかったが……けど、楽しいモンだった。かけがえが無いと思えるほどに」
お前の旅もそうなるといい、と思って。けれど、ゼフはその言葉を敢えて口にはしなかった。
サンジは幼いころ、ゼフから、彼の昔の航海の話を聞くことが好きだった。
宝箱に閉じ込められてしまった不思議なおとこのはなし、すべての動物がとても長い可笑しな島、一つの木から多様なフルーツが成る美しい果樹園、美しい人魚たちの暮らす入江、島と見紛う大きさを誇る、青い魚たち。遠くの、でも確実にこの世界に存在する、おとぎ話のような物語を聞くことが大好きで、夜になるたびに新しい話をせがんだものだった。
けれど、その習慣はいつからか消えてなくなってしまった。
ゼフは、成長したサンジが物語を求めなくなったことに対して、もう彼にはおとぎ話が不要になったのだと思った。
サンジは成長し、料理の腕もあがり、戦うこともできるようになった。そんな彼は、きっといつか海に出ていくのだから、これからは自分の目で見るのであろう世界の話を、わざわざ聞かなくてもいいと思うようになったと。そう、彼は考えていたのだ。
けれども、サンジの気持ちは違った。
彼は成長したことで、分かるようになってしまったのだ。ゼフの話す、楽しかった航海の話が有限であり、もう増えることはないことに。そしてその理由が、自分を助けるために足を失ったからであるということに、気づいてしまった。
否、サンジは幼いころから、ずっとそのことに気づいてはいたのだ。
ただ、それが、どれほど寂しい事であるかということを、実感できないでいた。彼にとって、ずっと強くて、たくましくて、怖いものなどないと思える存在だったゼフが、レストランを仕切るだけの老人であることに気づいた瞬間から、どこにも行けなくなった。
この人を置いて、夢を追うことなどできないと思ってしまった。
細い義足でゆっくりと歩くあの足音を聞くごとに、いつからか、自分が、彼とこの店を支えなくてはいけないと思うようになっていたのだ。
他でもない自分が、彼からすべてを、奪ってしまったのだから。
だからサンジはもう、ゼフの昔話を聞くことはできなかった。その日々は、物語は、昔話は、記憶は、間違いなく。彼がゼフから奪った無数のもののうちのなかでも、とびきり大切なものであったのだから。
「……タバコを吸ったのか」
沈黙に耐えかねて、ゼフが呟く。そうするとサンジは、指先でゼフの爪を軽くたたいてから、
「ああ。それに、酒も呑んだ。すこしだけ」
と、答えた。
「それなら、あの雑用係と会っただろう」
「そうだな。まだ、皿洗ってたっけ」
「払う金を持ち合わせてねェのは話にならんが、逃げ出さないところは、それなりに評価できるな」
「……どうかね」
サンジは未だ言いたいことを言い出せずにいるのか、遠く、なにもない天井を眺めていた。そういう癖が彼にはあると、ゼフは思っている。
まるで、なにもない場所に長く居て、遠くを見つめることしかやることがなかったようだ、と。海賊行為の結果、しばらく檻の中にいたことがあるからこそ、サンジの癖を目にするたびに、ゼフはそんなことを思うのだった。
「モンキー・D・ルフィ……アイツな、海賊王になるんだって言ってた」
「それは、随分でけェ夢だな」
「……それで、おれの仲間にならないかって、誘われた。おまえはいいコックで、いい奴だからって」
本題だ、とゼフは思う。
そして、いつかこんな日が来ることは分かっていたはずだ、と。彼は動揺しかける自らに言い聞かせた。
「そうかい」
「でも、断った。ここを出ていくことは、おれには出来ないからな」
「出ていけばいいんだろ」
「行けねェよ」
サンジは少し強い口調でそう言いながらも、薄く、微笑んでいた。
「おれはまだ、あんたになんにも、返せちゃいねェんだから」
遭難のこと。右足のこと。過去の冒険のこと。そして、オールブルーのこと。
二人が一緒に居る時間が長くなったからこそ、話せなくなってしまった、様々なもの。
「おれは、お前にはなにも与えていない」
「確かに、与えられてはねェのかもな。おれからしたら、奪ったも同然だから」
「そうじゃない」
サンジはゼフからなにも奪っていない。ゼフはサンジに恩返しなど求めていない。
サンジの認識のなにもかもが間違いなのだとゼフはサンジに伝えたくて、けれど彼はそれを、この約十年間ずっと失敗してきていた。だからサンジは、未だに彼の傍にいて、離れるそぶりをみせないのだ。
もう、彼の本当の夢を追って、広い海に出てもいいはずなのに。
「つまりあの小僧は、おまえのお眼鏡には叶わなかったってわけか」
「……そうは言ってねェだろ」
「じゃあ、どんな奴とだったら、お前は海に出ようと思うんだ。この出会いを逃したら、もう二度と機会はないと思えるような奴は。
チビナス、お前にとっては、どんな人間なんだ?」
いつになったら、だったり、何ができるようになれば、だったり。そういう前提で、ゼフは何度かサンジの旅たちへの気持ちを聞いたことがあった。それらはどれもはぐらかされてきたわけであるが。
どうしてなのだろうか。ゼフは、この、誰と、という質問であれば。サンジが、彼の本心を語ってくれるような気がしたのだ。
「なんだよ、その質問」
呆れたように言いながらも、サンジが考える素振りをしていることを、ゼフは見逃さない。
だから、彼が落ち着くように、という思いを込めて、白い手を静かに擦ったのであった。
「どうかな……んなこと、今まで考えたこともねェけど。多分……強くて、それでたくましくて、」
「ああ」
「怖いものなんて、なにもなさそうな奴がいい、かもな」
「そうか」
「それで……おれを、このままで良いって言ってくれるやつが、いい」
サンジはゼフを見る。ゼフもまた、サンジを見ていた。
そしてサンジは、ゼフのその瞳の奥に、若いころの彼の姿を思い描いていた。
サンジに出会うずっと前の、赫足と呼ばれ恐れられていたころの彼を想像していたのに。そのサンジを見つめるゼフは、全く別のことを考えていた。
ゼフが思い描くのは、麦わら帽子をかぶった少年で。
そして、思い出すのは、ふわふわした金の髪を生やした、小さなこどものことであった。
☆
ゼフと一緒に遭難を生き延びた少年は、ほかに行くところがないのか、ゼフと一緒に暮らすことを決めたようだった。
二人長い入院ののち、一緒にレストランを開業し、様々なトラブルと予想不能な事態に見舞われながらも、なんとか日々をやり過ごしていた。
子供との暮らしはゼフにとってはじめてのことで、どうも勝手のわからないことばかりだった。
距離感から物事の伝え方、なにをいつ教えるべきか、なにを教えないべきなのか、など、ゼフは実に様々なことに頭を悩ませながらサンジと向き合った。それこそ、お互いの関係性もよくわからない二人であったから、毎日悩みは尽きなかったが、それでもどうにか二人の暮らしは続いていた。
時折、ゼフはサンジに対して、強く言いすぎてしまったり、怒りすぎてしまうこともあったのだが、サンジはその場では泣いたり怒ったりしても、数時間もすると
「ジジイ、見ろよこれ!」
などと言ってはゼフの足元に引っ付きだすので、そのたびに彼は安心していた。
そして、徐々に思うようになっていたのだ。
このこどもはもしかしたら、自分の人生で触れてきた様々なもののなかで、最もやわらかくて、あたたかいものなのではないか、と。
そんなサンジが、一度だけ、深く傷つけられたことがあった。
それは、長い冬がようやく去った、まだ少し肌寒い春先の出来事だった。
短い昼休憩をとっていたゼフは、バラティエの甲板で、不審な動きをする男を見つけた。
その男が、数日前にバラティエでディナーを楽しんだ海賊団のひとりであることをゼフは記憶していた。
しばらくこのあたりに停泊をするとは言っていたが、なぜこんなところにいるのだろうか、という疑問と、そして。彼がなにやら大きな麻袋を肩に背負い、こそこそと自分の船に向かおうとするその様子に大きな違和感を覚え、ゼフはその男に声をかけることにした。
どうせ、盗みでも働いたのだろうとその時のゼフは思っていた。海上レストランなどという特異なものをやっている手前、食料を狙われることは決して珍しくなかった。
一発蹴り飛ばして、事情が事情なら賄の飯でも分けてやらんこともない。そんなことを思い、ゼフは男に声をかけ、彼の背負う麻袋に手をかける。
「おい。てめぇ、うちのモン盗もうだなんて、いい度胸じゃ……」
その、袋の、中。
厚い繊維越しでもわかる、やわらかさ、熱さに、ゼフの全身が瞬く間に冷えていった。
気づけば、ゼフは男を蹴り飛ばし、麻袋を抱きかかえていた。
ゼフに蹴られた男は柵にぶつかって身を丸め、立ち上がろうとするもうまくできずに嘔吐した。
それすらも、その時のゼフにはとってはどうでもいいことだった。
震える手で、袋をあける。そしてゼフは、自分の嫌な予感が当たったことを知ってしまった。
袋の中にはこどもがいた。
彼の知る中で一番やわかくて、あたたかいこどもが。汚れた袋の中に、まるめて、詰め込まれていた。まるで、ただの物でもあるかのように。
ゼフは、サンジが死んでいたらどうしようと思った。そんなことは耐えられないと、思った。思って、思考が真っ白になる中で。
「だめ」
彼はサンジの声を聞いた。
「ころしちゃ、だめ」
サンジは生きていた。
呼吸もあり、心肺も動いていたが、弱っているのは明白だった。
とりあえずの安寧を手に入れたゼフは、彼をそこから解放する。向こうで、男がせき込む音がした。サンジを抱き上げたゼフは、今度は怒りで我を失いそうになった。
彼の腕の中のこどもは、傷だらけだったのだ。
ゼフは男を、殺そうとした。
殺そうと思うよりも先に、身体が動いていた。
それを、止めたのはサンジだった。起きているのもやっとだという様子なのに、傷だらけなのに。彼は、男の方に向かおうとしたゼフの足を掴んで、もう一度、
「殺しちゃだめだ」
と、そんなことを言ったのだ。
「だめだ。こいつは、おれがここで殺す」
「だめ、」
「天も、神も、ほかのなにが許しても、おれはこの男を許さねェ」
「殺したら、」
弱い力で、それでもまだゼフの義足に抱き着いて、サンジは言った。
「おれ、ジジイのこと、嫌いになる」
その言葉でようやく、ゼフは我に返ったのだった。
もしサンジに、恨むと言われても、許さないと言われても、きっとゼフは聞き入れなかっただろう。
しかし、嫌いになると言われたのだ。それは、ゼフにとって、多分、一番つらいことだったから。理由はわからなかったが、こみ上げる怒りを鎮めることが出来た。
「……こいつは、海軍に突き出す。自分たちは賞金首だとでかい声で言い放っていた連中だ、まず捕まるだろうが、場合によってはそのまま処刑される。……それでも、いいか」
ゼフの問いかけに、サンジは頷いた。そして、その言葉を聞いて安心したように、眠ってしまった。
力の入っていない身体はゼフの想像よりもずっと軽くて、こんなに繊細な生き物を傷つけた男のことが、また許せなくなった。
けれども、もう約束を交わしてしまったから。
ゼフは、胃液を垂らす男にもう一度蹴りを入れてから、海軍に出動要請の連絡をしたのであった。
☆
少ししてバラティエに海軍が到着した時、ゼフはもうそこにはいなかった。
ウェイターたちには今いる客が帰り次第しばらく店を閉めてほしいということを告げ、信頼できるコックたちに経緯を軽く伝えたあと。彼は買い出し用の船にサンジだけのせて、一番近いコノミ諸島に向けて出航した。
サンジの負った傷は酷かったが、命に別状はないであろうことくらいゼフには判っていた。
人を殺めたことも、救ったこともゼフにはあった。
それなのに、人間のその脆さと逞しさを誰よりもわかっていながら、船を出したのは。彼にとってなによりもその子供が大切なものになってしまっていたからだった。
いつかきっと、分かれる日が来ることは分かっていても。こんな、どうしようもない別れ方だけはしたくないと思って。ゼフはサンジに傷跡一つ残らないような治療を受けさせるために、一睡もせずに三日、船を進め続けたのであった。
病院についた後、医者はサンジを見るなり、すぐに彼のために病院のベッドをあけさせた。それから、しばらく入院が必要になることや、傷を縫う手術をしなければならないことがゼフに告げられた。
彼はそれをすべて医者の言うとおりに受け入れ、書類にサインをし、一通りの手続きをした。その後、すぐに開始された手術が問題なく成功したことを伝えられたころには、数日の疲れがどっと押し寄せて、すっかり疲弊してしまっていた。
横になればすぐに寝てしまえるような疲労状態であったが、ゼフは、病院の近くの宿屋のベッドに寝転んでもなかなか眠れなかった。
「嫌いになる」とゼフに言ってから、今まで、一度も目を開けない子供のことが心配で仕方がなかった。
医者すらも数日入院すれば問題ない、全身に怪我こそしているが見た目より深刻ではない、と言っていたものの、目を閉じるとすぐに、どうしたって悪い想像をしてしまうのだ。
結局ゼフはその日、外が明るくなるまで寝ることが出来ず、やっと眠ってもすぐに起きて、病院が開く時間には子どものところにたどり着いていた。
ゼフがようやく眠れたのは、病室でサンジの顔を見てからだった。
サンジは、まだ目覚めてはいなかったが、それでも彼の寝顔は穏やかなものになっており、それがゼフを安心させた。
少年がすぐそばにいること。もうずっと、ほとんど寝ていないこと。この瞬間まで、気を張り続けていたこと。
それらを原因として、ゼフは急激な眠気を覚え。結果、サンジの病室で緩やかな眠りに落ちていった。
☆
なにか、ぬるいものが自分に触れていると思って、ゼフは目を覚ました。
頭がぼんやりと重く、寝起きのゼフはすぐに、自分がかなり長いこと眠っていたのだと気づいた。
眠るつもりなんてなかったのに、と。病室のベッドから慌てて顔をあげた彼が真っ先に見たのは。
「起きた」
自分の頬をつつく、不安そうな子どもの顔だった。
「……それは、こっちのセリフだ、チビナス」
ゼフは安堵から、目の奥が熱くなった。サンジは元気そうだった。
目に映る様々なところにガーゼが貼られ、痛ましい傷だらけなのは見て取れたが、それでも。動く彼は、これまでとなにも変わりのないものであるように、ゼフの目には映っていた。
「店はどうしたんだよ」
「しばらく休みだ」
「……そっか」
きっと、その答えを予想していたのだろう。
サンジは、本当に僅かな時間だけ驚いた顔をして、それから、俯いた。
「ごめんなさい」
「なんで、てめぇが謝るんだ」
「……おれのせいで、ジジイの大事な店を、休ませることに
なったから」
「チビナス。これは、お前のせいじゃない。
どうせ、そろそろ大掃除をしたいと思っていたんだ。ちょうどよかった」
ゼフがそう言っても、サンジは俯いたままだった。その、見るからに落ち込んだちいさな身体を前に。どうしたらいいのか、ゼフはわからないでいる。
これが、かつての船員や、バラティエのコックであれば簡単だった。飽きるまで酒をのみ、話尽きるまで言葉を交わし、それでも気を持ち直さないようなら蹴って気合を入れる。
けれど、相手は子どもだった。そして、その子どもはゼフにとっては息子のような存在で。だからこそ、なにをすればいいのか、まったく分からなかったのだ。
ゼフは彼がどう生まれ、どのように育ち、どうやって自分の元に辿り着いたのかを知らない。
サンジは決して、誰にも、自分の生い立ちを話そうとはしなかった。
「どうして、おれに助けを求めなかった」
サンジに寄り添いたいとは思うけれど、どうしたらいいのかわからないゼフは。結局、サンジの小さな手を握って、俯く彼に、そう尋ねた。
「助け?」
「あの日、おれたちの昼休憩の時間は重なっていた。お前があの野郎に最初に手を出されたのは、自分の部屋に居るときだろう」
「……ああ」
そこで、ようやくサンジはゼフを見た。
「おれたちの部屋は、壁一枚挟んだ、すぐ隣だ。でかい声を出せば、すぐに気がづく」
青い、南の海のような瞳がゼフを見つめる。その奥にはいつだって、深くて黒い、影があった。
「どうして、泣いて、喚いて、叫んで、怒って、おれに知らせようとしなかったんだ」
「そうしたら、ジジイはアイツを殺しただろ?」
ゼフは黙ってしまう。
サンジの、言うとおりだと思った。
きっとゼフは、その現場を目撃したならば、サンジの制止も聞き入れることなく男を殺していた。
今だって、彼の行いを思うと怒りに震えるのだ。
海軍に突き出すだけでは、その結末が処刑であったとしても、行いに対して罰が足りないように感じていた。
「あんな奴でも殺したら、今度こそジジイが捕まっちまうと思った。そうしたら、きっと、あの店がなくなるから。ジジイに迷惑をかけたくない、って思うと、声がでなかった。
それにアイツ、騒いだら殺す、とも言っていたんだ。死ぬのもダメだなって思った。一緒に海上レストランをやっていくって約束が、守れなくなるだろ?」
繋いだ手が震えている、とゼフは思った。そして、暫くしてからようやく、彼は、震えているのがサンジではなく、自分の手であることに気づいたのだった。
「死んだらダメと、お前は言ったな。けれどそれは、心も同じなんだとおれは思う。
……サンジ、いいか。心だって、死ぬんだ。身体が生きていたって、心が死ねば生きていないのと同じだ。
だから、おれたちは心を、身体と同じかそれ以上に、必死に守んなきゃならねェ」
どうすれば自分の気持ちが、思いが、願いがこの子どもに伝わるのか、ゼフには分からない。ゼフは必死だった。
何も知らないこの子どもに、それでもずっと生きていて欲しくて。彼は、彼が教えられる大切なことを、祈るような気持ちで子どもに伝えようとする。
「……いいんだ。おれ、知っている。おれが、ぜんぶ悪いんだ」
けれど、サンジの目の奥は、ずっと暗いままで。
「おれが弱くて、愚鈍で、のろまで、どうしようもないやつだからこんな目に合う。知っているんだ。一番弱い奴が、こうなるべきなんだって。
おれは知っているし、おれの人生は、ずっと、こうだった」
ゼフは苦しくなる。けれど、自分よりもずっとこの子どもの方が苦しくて、これまで苦しんできたのだということがわかって。あふれる気持ちは、彼の身体を動かした。
気づけば、ゼフはサンジのことを抱きしめていた。
「ちがう。お前が苦しい思いをしてきたのは、お前が弱いからじゃない。お前のまわりの奴らが、こぞって自分の弱さをお前に押し付けていたんだ」
その言葉を聞いて、サンジが何を思ったのか、ゼフはわからない。けれど、じんわりと胸元があつく濡れていく感触で、サンジが泣いていることに気が付いた。
「おれ、つよくなるから。もう、こんなことが起きないように、ちゃんと……つよくなるから。だから……おねが、い。おれのこと、き、嫌いに、ならないで……」
しゃくりで消えていく声を聞いて、ゼフの腕に力がこもった。
「ちがうんだ、チビナス。歪みっていうのは、一番弱い奴のところにいくんじゃない。人間が集まった時、歪みは、いつだって、その中でいちばんやさしい奴のところにいくんだ」
もう何にも触れさせないくらいつよく、ゼフはサンジのことを、抱きしめている。
「だから、もう、だれにも優しくなんてするな。そうすれば、お前はこんな風に、誰かの勝手で傷つけられなくて済む」
サンジが泣いている。どこにも行けない、居場所をもたない迷子のように。俯いて、涙を流している。
「それができねェなら、ずっと、おれを頼れ」
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平庫ワカ/マイ・ブロークン・マリコ
「ううんマリコ あんた何も悪かない あんたの周りの奴らがこぞってあんたに自分の弱さを押し付けたんだよ…」