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    愛は呪い
    zfsn / 新刊の進捗報告(サンプル公開) / 短編集82ページまで書けました脱稿です

    愛は呪い その人がバラティエに現れたのは、よく晴れた三月二日のことだった。
    その日、いつものようにウェイターが不足していたことを理由にサンジは朝からスーツ姿でホールに立っていた。そして、コックとウェイターの仕事を交互にこなしながら、閉店の二時間前になった頃。彼は、なかなかに珍しい一名での予約客を出迎えた。
    バラティエに一人で訪れる客はいないわけではないが、極端に少なかった。いわゆるおひとり様をお断りしているわけはないのに、一人での来店が少ないその理由は、海上レストランという立地上(地の上にあるわけではないが)一人きりで行くには些かハードルが高いからであった。
    そのため、わざわざ一名でバラティエの予約を取る客は一風変わっている人間が多い。他店の視察だったり美食家を名乗る人間の道楽に付き合わされたりと、正直サンジにはあまり良い記憶がなかった。
    そんなこともあり、サンジは、件の一人客を受け持つことに少しだけ抵抗があった。食事を目的としている以上、客として歓迎はするが、道理に反するような言動があればすぐに蹴りだしてやろうと思っていた。その予約客に、実際に対面するまでは。
    「ごめんください。この時間に予約をさせていただいた者ですけれど……」
    扉を開けて入店した女性に気づき、いらっしゃいませ、とサンジは声をかける。コートもワンピースも靴も、鍔の大きい帽子まで身に着けているものがすべて黒一色で統一されている、上品な仕草が目立つ女性だった。
    「ご来店いただきまして、誠にありがとうございます。ご予約の名前を伺ってもよろしいですか?」
     女性が名前を告げる。帽子の陰から見えたその瞳までもが真っ黒で、妖艶だ、と仕事中ながらもサンジはそんなことを考えてしまった。
    「ありがとうございます」
     聞き取った名前を、予約のリストから手早く探す。そうして見つけた彼女の名前の横には、予約の時間の他に一名、と予約の人数が記されていた。念のためサンジは周囲を見渡し、彼女に同伴者がいないか確認が、それらしい人物は見当たらなかった。
    「お待たせいたしました。それでは、ご案内させていただきます」
     予想していたのとは随分違うタイプの一人客の来店に、サンジは当然同様する素振りなど見せなかった。どんな無理難題を突きつける客が来るかと身構えていたから、肩透かしこそあったが、三十代、あるいは四十代ほどに見えるマダムの来店は嬉しいものであった。女性が、一人でも遙々足を運んでこの店で食事をしたいと考えてくれたことは、従業員として心から喜べることだった。サンジの場合は、そこに、相手が女性だということも相まって尚更であった。だから、彼はこの店の一番見晴らしがいい席が空いていることを確認すると、そこに彼女の席にすることにしたのだ。
    女性のコートと帽子を預かり、クロークに仕舞ってからサンジは彼女を席まで案内する。椅子を引き、彼女が腰かけたことを確認してからメニューを差し出して今日のメニューを案内した。女性はサンジの言葉を頷きながら聞き、最後に、魚をメインとしたコース料理に合う、イーストブルー産のワインについて尋ねた。そしてサンジから食前酒としても相応しいブリュット・レゼルヴを勧められると、
    「じゃあ、そのワインと、こちらのメニューをお願い。ワインは、すぐに持ってきていただける?」
    と言って、すぐにオーダーを決めたのだった。
    「かしこまりました」
     サンジは頭を下げて、彼女の席から離れる。そして厨房に戻った時、ちょうどソムリエの手があいているのを見つけて、一先ず彼に、テーブルの担当を引き継いだ。レディのテーブルを担当した以上は最後まで自分で対応をしたかったが、ソムリエである彼の方がワインには詳しかった。そしてなにより、厨房でなにやらトラブルが起きているようだったので、サンジはそのサポートに入るために、着ていたジャケットを脱いで厨房の奥へと踏み込んだのであった。
    毎日、問題ばかりが起こる海上レストランで、その日は珍しく穏やかに時間が流れていた。厨房がなにやら慌ただしい様子であったが、サンジが加わってオペレーションをしたらあっさりと滞りは解消した。食事よりも争い事が好きそうな無法者の来店はなく、海軍が一般客を威嚇するようなこともなかった。従業員が不足している感は否めなかったが、そこは経験と知恵でなんとかまわしきった。
    そんな、よく出来た日のことだった。
    無事ラストオーダーも聞き取り終わり、ウェイターたちが各々、最後の配膳を済ませていく。この頃になるとウェイターの方に人手が足りていなかったので、サンジはまたジャケットを羽織ってホールに戻っていた。皿の空き具合を見ながら、頃合いを見計らってデザートを運び、空いた皿やグラスを下げる。そんな繰り返しの中で、やがてサンジは、例のマダムの席にデザートを運ぶこととなった。
    「ごゆっくりお楽しみください」
    「ありがとう、コックさん。……ねぇ、ひとつ聞いてもいいかしら」
    プレートの説明をしてから下がろうとしたサンジを、女性は小さな声で呼び止めた。一目見たときに、三十代くらいのような印象を受けたマダムの話し声は深く低く、それだけで彼女に抱いていたイメージが、サンジの中で少し変わった。
    「なんでしょう、マダム?」
    「貴方の声、どうしたの?」
    瞳の奥を覗くように、じっ、とその目に見つめられて、サンジは一瞬、口籠もってしまった。
    「声……ですか?」
    「そう。素敵な声だけれど、なんだか無理をしているようだったから」
    女性の言葉を聞いて、サンジはつい目を丸くしてしまった。初対面の人間に声のことを指摘されたのは、はじめてだった。
    彼は内心、狼狽える。どこか取り付く島がないかというように女性のことを見たが、見れば見るほどに年齢がわからない人だ、ということしか分からなかった。
    「ねぇ、お願い。少しで良いの。貴方の本当の声を、聞かせてくれないかしら」
    最初に姿を見たときには三十代程に思えた女性は、近づくとどこか二十代にも見えた。肌は艶やかで引き締まっており、腰まで伸ばした髪も毛先まで艶がかかっていた。赤紫の口紅を塗った薄い唇も瑞々しく、彼女が話すたびに繊細に揺れていた。容姿は若々しく見えるが、纏う独特の雰囲気や気品から、彼女が四十代や五十代でも不思議ではないという重厚さも感じ取ることもまた出来て。その人生においてあまり女性との接点を持ってこなかったサンジは、不思議だ、と息を吐きそうになった。僅かに、気圧されてもいた。
    「申し訳ないのですが……」
    そうやって、心が乱れていたからだろうか。サンジは一瞬、声を作るのを忘れて発声してしまった。
    彼の喉から出てきたのは、子どものような、いや、子どもというよりも、もっと、少女のような可愛らしい声だった。少なくともスーツを着た、スラリとした印象のある青年には似つかわしくない、高く響く声。
    それが口から出た時、サンジは思わず口元を手で覆っていた。
    「あら、素敵な声ね」
    その様子に、うっとりと目を細めて女性は呟く。
    「鈴の音みたいな、美しい声」
    「これは、失礼しました」
    すぐに気を取り直して、サンジはいつもの自分を取り繕って女性の前で軽く頭を下げた。喉仏を下げるイメージで、声を低くして話すことには、もう、ずっと前から慣れていた。
    今の自分の見た目に、声が似合わないことをサンジは理解していた。
    十八歳の男に相応しくない、少女の様な声。はじめて会う人間を必ず驚かせる、高い声。まだ子どもなのだという印象を、どうしたって他人に与える、よく響く声。
    そういう要素がに重なって、幼い頃よく女だと間違われてきた原因である自分の声が、ますます、サンジにとってはコンプレックスになっていった。
    「どうして、普段は声色を変えているの? 折角、素晴らしい声をしているのに」
    「このような場には、相応しくないかと思いまして」
    「こちらのレストランに、貴方の声が相応しくない、と。貴方はそう、言っているの?」
    「その通りです」
    「そんなことないわ。どんな貴方だって素敵よ」
    優しく話す女性の、その優しさを無駄にしたくなくて。ありがとうございます、とサンジは返す。本来のものではない、低い声で。
    「それに、相応しいか相応しくないかなんて、そもそもおかしいわ。だってここは、貴方のためのレストランなのでしょう?」
     驚いた、とサンジは思った。正確にはバラティエはサンジのためのレストランなんかではないのだが、彼はオープン前からゼフと二人でこの店に関わっていた。店内のレイアウトや調度品で、サンジの意見が取り入れられたものもあった。彼女が言いたいのが、そういう意味であるのなら彼女は正しかった。
     しかし、どうして彼女がそのことを知っているのだろう、と。温和に微笑みながら、サンジはそんなことを考えていた。
    「よく、ご存じですね」
    「私はね、人よりも色んなものが見えるのよ。……ああ、ごめんなさいね。声のこと、言われるのは嫌だったかしら」
    「いいえ。素敵な方に褒められて、嬉しくないはずがありません」
    もうずっと、そういうふうにやってきていたのだ。ゼフに貰ったスーツを着るようになってから、ずっと、ずっと。早く本当にこの声になればいいと思って、声色を変えて過ごしていた。だから、今更元の声を褒められたところで切り替えようとは思わなかったが、レディに対して失礼がないように、讃辞のだけはそのまま受け取ることにした。
    「お優しいのね。お詫びに、少し貴方のことを見てあげるわ」
    女性はそう言って、また、サンジのことをじっと見た。目の奥、心の中まで覗く様な視線に、サンジはつい目を逸らしたくなる。しかし、女性を前にそんな振る舞いをすることができない彼は、ただ立ち尽くして女性のことを見つめ返していた。
    少し見るとは、なんのことだろう。人より色んなものが見えるとは、どういう意味なのだろう。そんな疑問が浮かぶが、女性の纏う雰囲気は厳か過ぎて、とてもなにかを聞けそうな様子ではなかった。
    そうして、少しだけ時間が経過した後で。
    「呪いね」
    と、女性は呟いたのだった。
    「のろい?」
    「そう。強い、愛の呪いだわ」
    のろい、という言葉をサンジはうまく頭の中で変換できない。だから、のろい、ノロイ、鈍い、と何回もその言葉を脳内で繰り返して。ようやく、答えだと思われる呪い、に辿り着いたのだった。
    「わたしはね、海の……そうね……占い師みたいものをやっているのよ。普通の人の目には、見えないものが見えるの。
    だから、分かるわ。貴方の声が変わらないのは、呪いのせいよ」
    「そんな、呪いなんて……」
    「あるはずないって思うでしょう? でも、胸に手を当ててよく、聞いてみなさい。思い当たることが、あるんじゃないかしら」
    女性との会話に、気づけばサンジは引き込まれ、掻き乱されていた。突拍子もない、理論的でもない話をされているのに、彼女の話し方は真剣で、思わず信じそうになる芯の強さがあった。
    現に、サンジは彼女に言われたように、己に降りかかった出来事を振り返っていたのだった。何か、呪いと思われるものを受けた記憶があるか。誰かに呪われる様なことをしたことがあるか。
    考えて、考えて。断定はできないが、幾つか思い当たる節がある、とサンジは思ってしまった。
    「もしも、まだ信じられないって言うのなら……、そうね。どうやら、貴方を困らせているのは……声が変わらないことだけじゃないみたいね」
    いや、何を信じてしまっているんだ、と。自分を叱咤しているサンジにまたも声が掛けられた。
    女性はサンジから目を離そうとはしない。奥の奥にある、誰も知らない秘密まで見通す様な目で。サンジの青い眼のさらに深くにある何かを、見つめる様にして呟いた。
    「そう……貴方、ずっと困っているのね。可哀想に」
    「そんなことは、」
    「貴方にかけられた呪いは、大人になれない、という呪いよ」
    大人になれない。彼女の発した言葉は、サンジの外側の皮膚を逆撫でする様に刺激した。それだけで、サンジは、本当に全てが見透かされているのだということを悟ってしまった。
    彼女の言った、その言葉の通り、サンジはまだ大人になれてはいなかった。背が伸び、色んなことが前と比べて分かる様になり、責任のある仕事を任されることが増え、周りの人間から信用されることが、対等に扱われることが増えたのに。
    その肉体は、いつまで経っても大人には成り切ることがなかった。
    「貴女には……なにが、見えているんですか?」
    「私はね、人よりも足りていないの。ほかの人が当たり前にできることが、出来なくなってしまった。でもね、そうやって失ったからこそ、人には本来見えない色んなものが、見えるようになったのよ。運や病気や罪がね、私にははっきりとこの目で見えるの
     呪いも、そう。私が見えるようなったものの一つよ。そしてわたしは、呪いにはとびきり詳しいの。沢山見てきたから、眺めるだけで大体のことが分かるわ。間違いなく、貴方に掛けられているのは、愛の呪いよ」
    「……愛?」
    サンジが繰り返したその様子を見て、女性はにっこりと笑う。そうなってから始めて、サンジは、自分がいつの間にかずっと、地声で彼女と話していたことに気がついた。
    「とびきりの、愛の呪いね。悪いものではないわ。貴方にとっては、辛く感じるものかもしれないけれど」
    「じゃあ、どうすれば……」
    「失礼します」
    サンジの言葉を割る様に、背後から言葉が差し込まれた。声の主人はサンジのすぐ後ろに居た。サンジよりも大柄な男。
    「お嬢さん、一杯だけご一緒しても?」
    そう言って微笑むゼフの接近に、サンジは、彼が言葉を発するその瞬間まで気づくことが出来なかった。
    「あら、もうお嬢さんなんて歳じゃないわよ」
    「おれからしたら、貴女はいつまでもお嬢さんだ」
    「相変わらずお上手なんだから」
    テーブルを取り囲んでいた雰囲気が、ガラリと変わる。ゼフと女性との間には、旧知の人間同士にだけ流れるまろい空気が存在していた。
    サンジは途端に居心地の悪さを感じる。自分は部外者なのだという気がして、わずかに、怖気づいた。
    「ありがとう」
    「随分と話し込んでいたみたいだが、コイツとはなんの話を?」
    テーブルに置いた二つのグラスに、ゼフが白いワインを注いでいく。そして、その動作の中で静かに尋ねると、女性は、
    「この子の身体に起きていることについて、二人でお話をしていたの」
    と、さり気なく答えた。
    女性がサンジを横目で見る。それに、釣られる様にしてゼフもまたサンジのことを見た。
    「そうか」
    その一言で、バレている、とサンジは思った。悩みを、現状を。
    声変わりがなかなか起きないことでゼフがサンジに何か言うことは決してなかったが、それがサンジにとっての悩みであることを、既に知られてしまっているのだとサンジは自覚した。
    身体が急速に冷えていく。どこまで知られているのか、という懸念で、サンジは自分の指先が固くなっていくのを感じていた。
    「なにか、分かったのか?」
    「……言ってもいいの?」
     嫌だ、と思いはしたが、そう伝えると事を重大に捉えているのだとバレてしまいそうで。サンジは小さく、頷いてみせたのだった。
    「ありがとう。彼の身に起きていることは、呪いよ。愛の呪い。深いけれど、ちゃんとした呪いだから、真実の愛で簡単に解けるわ」
    「そうか。……具体的には、どうすれば?」
    「おとぎ話で言うところの、真実の愛のキスで解けるはずよ。ただし、この世界はおとぎ話なんかじゃないから……。あとは、分かるわよね?」
    「ああ、分かった。ありがとう」
    「いいえ。……この子のことが、とても心配なのね。お弟子さん?」
    「いや、」
    ゼフが呟く。傍に立っているゼフに、女性は手を伸ばして。ゼフはその手を包み込むようにして取った。
    「息子だ」
    「そう。……変わったわね、船長さんも」
    「おれをそうやって呼ぶのは、もう、貴女くらいなもんだ」
    「わたしからしたら、いつまでもそうよ。素敵で、勇敢な船長さん」
    「……貴女が、そう言うなら」
    二人の雰囲気に、サンジは自分が場違いなことをより強く知覚した。だから、
    「失礼します」
    と一言だけ残して、頭を下げる。
    「ありがとう」
    次に顔を上げたとき、ゼフはマダムの手の甲に軽くキスをしていた。そして、女性に促されるがまま彼は義足の音を静かに鳴らし、彼女の向かいの席に腰掛けた。
    ワイングラスが二つ、持ち上がる。サンジは席から離れていく。二人の姿を振り返ることはなかったが、どれだけ距離を置いても、あの時感じた場違いであるという気持ちが消えることはなかなかなかった。




    サンジがゼフの自室に呼ばれたのは、その日の夜のことだった。
    「チビナス」
    店を閉め、片付けをしている時に後ろにいたゼフにそう呼び止められ、サンジは慌てて振り返った。
    「なんだよ」
    「今夜、時間ができたらおれの部屋に来い」
    「部屋?」
    「なんだ? おれの部屋の場所もわからねェのか?」
    「なっ……!」
    馬鹿にされて、サンジは怒りたかった。その上で、昼間の人は誰で、どういう関係で、あの後なにを話したのか。そういうことを全部問い詰めたかったのだけれども。自分とゼフの会話を、またやっている、という具合でコック仲間たちが聞いているのが分かったから。それ以上ここで追求することはできず、吠えるように、
    「わかったよ、行けばいいんだろ!」
    と言ってから、自分の仕事に戻ったのであった。
    「なに怒ってんだ」
    「怒ってない」
     怒っているだろ、というゼフの声をサンジは無視した。聞こえないふりをして、もう、振り向かなかった。そうしているうちに、ゼフはわざとらしくため息をついて、サンジから離れていった。
    サンジの心の中はずっと、穏やかではなかった。幼少期から特殊な環境に身を置いていたこと、そして現在は第二次成長期の真っただ中であることから、平常からして内心が凪いでいること自体あまりないことなのだが。それにしても、今日のサンジはずっと、何かに駆られるような焦燥感を抱いていた。
    理由は明白だった。
    自らの肉体の状況を呪いと指摘されたことと、そして、ゼフとあの女性を取り巻いていた空気が気になってしまったからだった。
    「クソ……」
    そんなことで、冷静でいられるなくなる自分自身にも、サンジは腹が立っていた。何もかも嫌で、取り分け自分が一番嫌で、だからといってどうしたらいいのか分からず、怒りと不安と悲しみと虚ろが喉元まで込み上げて溢れそうな感触がしていた。
    いっそ全部吐き出せたら楽になるのだろうが、そんなことはできるはずもなかった。自分の気持ちを吐露するなら死んだ方がマジだった。
    だから、いつもみたいにサンジは顔を顰めて、目の前に積まれた膨大な作業を処理することに、ひたすら没頭するのだった。



    結局、作業を全て終えてもサンジの抱える焦燥感は完全には解消されてはいなかった。それでも、明日の営業に備えて綺麗になった厨房を前にすると僅かながら気持ちは落ち着きを取り返していた。
    既に、周りには従業員が誰もいなかったこともサンジに落ち着かせた原因であった。彼自身特別意識はしていないが、サンジは他の人間、特にコックたちを前にすると気を張るところがあった。
    それは、彼がここで一番の古株でありながら、一番若いからであった。舐められないように、見縊られないように、隙を見せないように、いつも張り詰めてしまっていた。
    ようやく少し落ち着けた、営業終了後のバラティエの、一人の時間。その中でサンジは、息を大きく吸い、そして吐いた。このまま、ずっと気になっていたレシピの試作をしたい気持ちがあったが、生憎今日はまだ一つだけやることがあった。
    吸った息を長く吐く。辺りからは、冷たい夜の香りがしていた。
    ようやく気持ちを固めたサンジは、厨房のランプの光を一つずつ消し、油と香辛料の香りがする部屋が真っ暗になったのを確認してから、階段の方へと向かった。そのまま、どこか重い足を動かし続けて三階に辿り着く。
    そうすると、目当ての部屋はすぐそこにあった。主の名前も書かれていない、他の部屋と同じドア。けれど、ここが誰の部屋であるのかをバラティエで働く誰もが知っていて、そして、誰も立ち入ることが出来ない。この部屋の主、以外は。
    その部屋の前でもう一度だけ深呼吸をして、ついにサンジは扉をノックした。
    「開いている。入ってこい」
    聞こえてきたのは想定していた声と、想定していた言葉だった。サンジはそのまま何も言わず、ドアノブに手をかけて扉を開く。
    「……来たけど」
    扉の前でサンジが呟く。部屋の中でゼフは、丸いテーブルの近くに腰掛けていた。眼鏡をかけ、机の上に紙と算盤が置いてあることから、帳簿をつけていたのだろうとサンジは推測する。
    「座れ」
    「呼び出して、何の用だよ」
    「そこに、座れ」
    求めている回答は得られないまま、もう一度ゼフに、向かいの椅子を指差されて。このままでは話が進まないと悟ったサンジは、舌打ちをしてから言われた通り椅子に腰掛けた。
    「これでいいかよ」
    「ああ。少し待っていろ」
    呼びつけておいて待たせんのかよ、と。そういう反抗的な言葉がサンジの口から出掛かった。それを、本当に言っても良かったのだが、眼鏡を外したゼフが義足の音を立てながらベッドの方へと歩いて行ったので。その動作を追うのに夢中になって、ついに彼は何も言うことは出来なかった。
    ゼフはベッドサイドの棚から何かを取り出した。サンジの位置からゼフの背に遮られてその手元は見えなかったが、あまり大きいものでないことだけは分かった。それを片手に持ったままで、ゼフは元居た場所へと戻っていく。
    歩みを進めるごとに鳴る、義足の音はサンジから言葉と思考を奪った。サンジはただ、目の前の男がやることを見ていることしかできなかった。
    「これを、持っていけ」
    サンジの前に再び座ったゼフは、手にしていたものをサンジの前に置いた。彼の前に現れたそれは、封筒だった。 一見して、何の変哲もない、水色の封筒は膨れていて、中に何か入っているようだった。
    「……なんだよ、これ」
    「自分で確認しろ」
    ため息をついて、サンジは封筒を手に取る。青い封筒はそれなりの厚みがあり、重くはなかったが想像よりも軽くはなかった。何となく嫌な予感だけ抱いて、サンジは封筒の中に指を入れた。
    中には紙のようなものがいくつか入っているようだった。纏めて取り出すと、ランプの光に晒されて、初めてそれが紙幣であることを、彼は知った。
    「……なに、」
    それなりの金を前にサンジはまた冷静さを欠く。彼の目は真っ直ぐにゼフを見ていたが、その心は大きく揺れていた。これが何を目的とした、どんな意味のあるものかは分からなかったけれど。なぜか、サンジの中で真っ先に、手切れ金という言葉が浮かんで脳にベッタリと張り付いてしまっていた。
    「なんで……」
    揺らぐ脳は言葉を作り上げられない。サンジは疑うように、縋るように、祈るようにゼフの事だけ見ている。
    「給料とは別だ。誕生日の祝いに、渡しておく」
    「要らねえよ、こんなもの……」
    声色を調整することも難しくなり、サンジの喉からは子どものような声が漏れた。その事実もまた、彼の動揺を誘う。
    「金なんて、要らない……」
    元々、サンジはゼフから毎月の給料を受け取っていた。それすら、使う時間がないことを理由に殆ど手を付けずにいるくらいなのに。ゼフだってそのことを知っているはずなのに、どうして。
    このタイミングで、金を渡されたことの不穏さにサンジは悪い予感しか抱けなかった。
    「要らないから……」
    金なんて要らなかった。欲しいものも貰いたいものもなかった。誕生日だって、祝われなくても良かった。
    だからずっと側に置いておいて欲しい。嫌わないで欲しい。手を離さないで欲しい。そう思っているのに、言ったら更に嫌われそうで。サンジは、ただゼフの次の言葉を待った。
    「それで、明日にでも女を買ってこい」
    「……は?」
    ランプの光が揺れながら照らす部屋の中。ゼフの言葉が、あまりに想定とかけ離れていたものだから。サンジは思わず絶句し、それから、ゼフの言葉の意味を理解すると怒りで肩を震わせた。
    「何言ってんだ、クソジジイ……! バカにするのも、大概にしろよ!」
    そのまま、怒りに任せてサンジはゼフの胸ぐらを掴んだが、ゼフは少しも動かず動揺もしなかった。その場 所に座ったままで、真っ直ぐにサンジのことを見つめていた。
    「お前は、呪われているんだ」
    ゼフの声は静かだった。その冷たさが、熱くなったサンジには痛いくらい刺さる。
    「その呪いを、解いてこい」
    「なんなんだよ! 呪いとか、愛とか……そんなこと突然言われたって、意味が分かんねェよ……。
    それに、あの女の人……誰なんだよ。ジジイと、どういう関係なんだよ」
    サンジはまだ怒っていたが、その怒気を受けるゼフはどこまでも普段通りだった。だから、自分と同じ温度にならない男を前に、サンジはそれ以上怒り続けるのが難しくなってしまう。
    胸ぐらを掴んでいた手は力を失い、テーブルの上に落ちる。感情のやり場をなくしたサンジは床を一度強く蹴ったが、それだけだった。けたたましい音が響いて、止んで、何も変わることはない。
    「あの人はおれの……幼馴染みたいなもんだ。同じ街で、生まれて育った。幼い時に親を亡くしたおれが、子どもの頃、一番長く一緒にいた相手だ」
    ゼフはゆっくりと話し始めた。その目はサンジのことを見ているようで、今は。どこかもっと遠い、もう存在しない場所を眺めているようでもあった。
    「彼女は、占い師のようなことをやっている。腕は確かで、おれも何度か助けられてきた」
    「……あの人のこと、好きなのかよ」
    ゼフは瞬きをして、一度目を伏せた。それからまたサンジのことを見て、
    「好きだった。だが、お前ほどじゃない」
    と、静かに答えた。
    「……お前相手に嘘をつく必要もないだろうから、いいだろう。気になるようなら、全部、話す。
    あの人とは、お前が思うような関係じゃない。けれど、もしも……何かきっかけがあれば、或いは何かが起きていなければ、おれたちは一緒になっていたかもしれない。
    だが、結果としてそうはならなかった。ならなかったし、お互いに今更、別の関係性になりたいとは思っていないから、これ以上のことはおれたちには起こり得ない。
    あの人は、おれにとって……昔は姉のような存在で……、今は、妹みたいなものだ」
    「何かって、なんだよ」
    煙草を吸いたい、とサンジは思った。とにかく、気持ちを和らげたかった。しかし、生憎今の彼の手元には煙草は一本も無い。
    「何かが起きなければ、一緒になっていたかもしれないって、アンタは言った。その何かって、何が起きたんだよ。実際になにかあったから、そんなことを言ったんだろ?」
    「神隠しにあったんだ」
    神、という言葉は、海の真ん中に浮かぶ船の中で、より神聖な響きを持ってサンジに伝わった。彼がいないと信じているはずのものが、いるのではないかと錯覚するくらい。そのくらい、ゼフの口から発された神、という言葉には強い輪郭と存在感があった。
    「あの人は、昔、神隠しにあった。そして、同じようにある日、忽然と戻ってきた。神隠しにあったのだと、おれたちが暮らしていた街の大人は子どもたちに話した。
    けれど、本当は神隠しなんて起きちゃいなかった。あの人は街の大人たちに売られて、そして、自力でそこから逃げだしてきた。それだけだったんだ」
    サンジの脳内に、一つのイメージが溢れた。寂れた、寒い街だ。小さな家が幾つも建ち並ぶが、どれも窓や扉に修繕の跡が色濃く残っている。裕福ではない街は昼間でもどこか暗く、通りを入ると光が差さないために一帯が湿り気を帯びている。そして、人の目だけが嫌にぎらぎらと光っている、そんな場所だった。
    そんな場所に、少年と、少女が立ち尽くしている。
    「おれは、どんな形であれ命を繋がなければ意味がないと思っている。何かを失ってでも、明日に命を繋げれば、見えてくるものもあると……そういう風に、今でも考えている。けれど、あの時、戻ってきた彼女を目にした瞬間だけは、その信念が揺らぎそうになった。
    半年間姿を消していた彼女が、もう一度、おれの目の前に現れた時。彼女の足は何か所も骨が折れ、股関節が脱臼し、歩くことが出来なくなっていた。視力と聴力が低下し、暗いところでは何も見えず、右耳からはほとんど音が聞こえなかった。生殖機能は失われ、排泄機能にも障害が残った。
    幾らかは治療とリハビリで治るものだったが、殆どがもう二度と取り戻すことはできないものだった。その姿と事実を前にした時、おれは、一瞬だけ。生き続ける方が彼女にとって、苦しいことなんじゃないかと思った」
    虚な目をして座り込む、傷だらけの少女を少年が見ている場面をサンジは想像する。二人の間には断絶があった。もう、これまでの二人ではいられないのだという、絶望が横たわっていた。
    「そんな風に思って立ち尽くすおれに、彼女は、失うのは何も悪いことじゃない、と言った。彼女の瞳も心も死んではいなかった。以前と変わりなく、美しく気高かった。
    失くした代わりに得たものがある、と彼女はおれに言った。そう言って、微笑んでいた。
    彼女は、大切なものを幾つも失い、代わりに人には見えないものが見えるようになっていた。その力が、彼女を生きて帰らせて、その後のあの人の生活を支えた」
    そうして、もう二度と、二人は昔のように戻れなくなったのだとサンジは思った。
    それを、彼はどのような気持ちで受け止めればいいのか分からない。女性に起きたことには怒りを覚えるが、彼女が事件に巻き込まれることがなければ、サンジとゼフが出会うことは、きっと、無かったのだから。
    「彼女は色んなことがわかるようになった。そうして、占いと称して色んなものを見るようになった。
    旅立ちに適した日、幸運に出会える方角、そういうものを教えてもらったことがある。
    彼女の指差す方角にはいつも何か良いものがあった。宝、食材、新しい仲間。それだけじゃない。彼女は人の秘密が覗けるようになった。禁忌や呪いが、理解できるようになった。そういう風に、彼女という存在は変容していた。
    彼女の占いはよく当たった。評判が評判を呼び、ほかの国からわざわざ彼女を訪ねて来る人がいる程だった。やがて彼女は有力者に囲われ、生まれ育った街を離れて、安全と安定の中に暮らすことが出来るようになった。
    そのころ、おれも海に出た。それ以来は、殆ど会っていない。数年に一度、様子を見に訪ねるくらいだ。それも、おれがここの店をはじめてからは出来ていない。
    これが、おれとあの人の関係についてと、あの人という人間について、おれの話せることのすべてだ」
    ゼフの話を、黙ってサンジは聞いていた。そして、彼が話を終えたとき、どう反応をすればいいのか分からなくなってしまっていた。それどころか、聞くべきではなかったとサンジは後悔していた。聞かなくてもいいことを、自分のためだけに尋ねてしまったことへの自責が、再び、サンジの喉を締め付けた。
    「……そういうわけで、彼女の見るものは、絶対だ。あの人がお前の身に起きていることが呪いだって言うのなら、おれはそれが正しいと思う」
    「けど……呪いなんて」
    「愛の呪いは真実の愛で解けると言っていた。それなら、この金で、好きに女を抱いてこい」
    「なっ……」
     ようやく、いろいろなことが線でつながって。ゼフが差し出してきた金の意味が分かったサンジは、目を丸めた。
    「しばらく、店も休んでいい」
    「なに言ってんだよ……! 全然、そういうことじゃ、ないだろ」
     言ってからサンジは、自分がゼフにどうしてそんなことを伝えたのだろう、と不思議に思った。呪いについて今さっき知ったばかりのサンジが、そういうことじゃない、などと言えるはずがないのに。なぜか彼は、咄嗟に、違う、と思ったのだ。
     それは、彼の心、あるいは本能が発している信号だった。それなのに彼の脳は、その信号が灯る理由を理解できない。
    心と体の間には齟齬が生じていた。だから、両者間の違和感を、サンジがすり合わせていこうとする。
    「あの人は、真実の愛は……。そうだ、真実の愛のキスで解けるって言っていたはずだ。それなのに、女を抱けって、飛躍しすぎだろ」
    「それは、おとぎ話の場合だ」
     おとぎ話、と言われて、サンジは昼間に聞いた女性の言葉を思い返した。
    『おとぎ話で言うところの、真実の愛のキスで解けるはずよ。ただし、この世界はおとぎ話なんかじゃないから……。あとは、分かるわよね?』
     彼女はそう、言っていたはずだった。
    「おとぎ話は、子どもになにか、人生のためになることを伝えるために作られることが多い。人に親切にしろ、だったり、嘘をつくな、だったり。教育的な側面がある。
    子ども向けのおとぎ話の中で、愛に纏わる呪いの解決方法として愛する人間とのキスが書かれているからと言って、現実世界での解決策も同じだとは限らない。あれは単に、子ども向けに婉曲表現されているだけだ。
    この世界は、おとぎ話ではない。呪いなんて深いものは、キスだけでは完全に解けはしない」
     受け売りだ、とサンジは思った。その言葉はきっと、元はあの女性の言葉だったのだろう。そしてゼフは、彼女の言葉を聞き、自分のものにした。
    ゼフは実際に、彼女の元で呪いが解けた人間も見たことがあるのだろう。そうでなければ、こんな強い調子で彼が、呪いなんて曖昧なものについて話すはずがない、とサンジは思っている。
    「でも……だから、って」
     違和感を探る。本能だけが知覚する、不自然さを必死に手繰り寄せようとする。
    「相手が誰でもいいとは……限らないだろ……」
     言いながら、サンジの背中に鳥肌がたった。急速な寒気に襲われ、纏まりかけていた思考が、瞬時に霧散していく。
     危険信号だ、とサンジは思った。大きくて凶暴な生き物を前にした時のように、身体が震えて現状を拒んでいる感覚に襲われた。この先にあるものは、危険なのだと本能が訴えかけていた。この先に進んではいけないのだという予感が、全身の神経を撫でていた。
    「誰からでも受け取れるものを……真実の愛とは、言わない……」
     だから、ゼフの行動はおかしいのだとサンジは思った。そして、彼がそのことに気づかないほど耄碌しているとは、とても思えなかった。
    では、なぜ。ゼフはこんなことを自分に提案して。そして、どうすれば、この身に降りかかった呪いが解けるのか、と考えたところで。サンジは、気が付いてしまった。
    「おれが……本当に愛している人に愛されないと、この呪いは解けない……」 
     本当に愛している人。そう、口にした時。サンジの脳によぎったのは、ただ一人の人間だった。
     気づけば、サンジの背はぐしょりと冷たい汗で濡れていた。汗ばんでいるのに、身体の芯も指先も、どこも急激に体温を失っていくのが分かった。全身の血が冷えて、気持ちが悪かった。そうやって身体が異変を起こしているのに、サンジの頭の中はいつもよりクリアになっていて。確かな意識は、ただ一つの結論に辿り着いてしまっていた。
     サンジは顔を上げることが出来なかった。
    彼は、自覚してしまったのだ。
    自分が愛する人間とは、自分の義理の父親であり、恩人でもある、目の前の男なのだということに。
     気づいてしまった。自覚に伴い、パンドラの箱を開けてしまったかのように、次々と感情が溢れてサンジをかき乱した。
    気づきたくなかった、と思った。思えば思うほどに、彼を愛しているのだという事実が確かになっていってしまった。
    呪いを解きたかった。大人になって、早く一人前だと彼に認めて欲しかった。けれど、その身にかかった呪いを解くにはただ一人の家族に愛される必要があって。
    サンジの呼吸が浅くなる。体温はどんどん、下がっていく。まるで、砂漠の夜の中に居るかのように。
    呪いを解くためにしなくてはならないことを考えると、サンジは息が出来なくなりそうだった。それは、彼がゼフとの行為そのものを、受け入れられないからではなかった。
    サンジは気づいてしまったのだ。
    自分が、ゼフと関係を持たねばならないという事実を、受け入れることに抵抗がないことに。それどころかむしろ、そうなることを、望んでいるような感情があることに。気づいて、サンジは絶望していた。
     火が付いた瞬間、自認は存在を増した。あの手に触れられたいと思ったことが、一度や二度ではないことを思い出す。触りたいと思って眺めていた時間の長さ、様々な虚構に彼を重ねていていたこと。息子だと言ってもらえて、嬉しかったこと。それと同時に、息子ではない何かになりたいと思ってしまったことがあること。
    「……どうして、」
     サンジの喉から、小さく声が漏れる。幼い時から変わらない、少女のような高い声。
    「あの人は、今日……バラティエに来たんだ……」
     これが呪いであると、言われなかったら。そうしたら、こんな思いをすることはなかったのかもしれない、とサンジは思った。
    それは、根本的な解決ではないことは明らかで、彼もそのことを分かってはいたのだけれど。もはやサンジは、そのような行き詰った思考しかできなくなってしまっていたのだ。
    「おれが、呼んだ」
    「……なんで、」
    「お前の身に起きていることが、普通ではないと思ったからだ」
    「じゃあジジイはこれを……呪いかもしれないって、元々思っていたってことかよ?」
    「そうだ」
     顔を上げられないサンジは、ゼフの表情を見ることができなかった。それでも、多分、目の前の男は優しい目をして自分のことを見ているのだと思った。これまでもずっと、そうであったのだ。
    「お前の背が伸びて、体格も良くなったのに、一向に声変わりをしない様子が気になった。はじめは、単に個人差に拠るものだと思っていた。それが、半年、一年、もっと続いたころ、いよいよ病気だと思って医者を呼んだ」
     数年前、突然ゼフが医者を呼び寄せてコック全員の健康診断が実施されたのは、それが理由だったのかとサンジは思った。今まで一度もやってこなかった行事が、あの年から急遽実施されるようになったことを変だとは思っていた。
    ただ、健康診断が行われた日より少し前にコックの一人が調理中に急に倒れたことがあり、そういうことを実施する頃合いになったのかな、と勝手に納得してしまっていた。
    「検査の結果、異状は見つからなかった。ホルモン注射をして変化を促す方法もあるらしいが、治療を行う程ホルモンの数値が低いわけではなかったらしい。この様子なら、今に変化があるはずだ、と医者は言った。
     けれど、お前の声に変化はなかった。次の年も、その次の年もだ。お前の背はどんどん高くなるが、声は変わらない。医者はいつまでも、個人差の範囲内だから問題はないと言う。数値がそう、表しているとも。だが、お前の身体の起きていることが普通じゃないことは、素人にも一目瞭然だった。
    その証拠に、お前は人と話すときに声色を変えるようになっていた。誰もが、お前の普段の声に、驚くからだ。そうだろう、サンジ?」
     サンジは答えられない。そこまで全部、ゼフに見通されているとは、思わなかった。ましてや、彼と医者との間にそのようなやり取りが行われていたなんて、考えたこともなかったのだった。
    「それからおれは、ほかのいい医者がいないか探しながら、民間療法についても調べはじめた。
    そんな風に、お前について考えていた時だ。不意に、昔、彼女から聞いた愛の呪いの話を思い出したんだ。
     それは、塔の上のお姫様の物語として子どもたちに語り継がれていた。けれど、元は、本当に存在した一国の姫と、彼女に掛けられた呪いの話だったらしい。
     ある国に姫がいた。彼女は、海難事故で両親を亡くした。そして、両親を亡くした後から、彼女の身におかしなことが起き始めた。
     姫が城から出ようとすると、異変が起きる。大きな扉の外に踏み出そうとしても、彼女の身体は動かなかった。どれだけ外に出たいと思っても。彼女の身体は言うことを聞かない。城の扉の前に立ち尽くして、一歩も踏み出せなくなった。
     自分の意志ではどうすることも出来なかった姫は、城の人間に自分を連れ出すように頼んだ。彼女は駕籠の中に入り、それを執事たちに運ばせて外に出ようとした。
    すると、城から出るや否や、彼女は気を失ったんだ。そして、再び城の中に戻るまで、目を醒ますことはなかった。
    城の外に出ることが出来ない。それが、彼女に掛けられた呪いだった。お前に掛かっているものとは少し違うが、意志とは関係なく身体に影響が出る点が、似ている、とおれは思った。
     姫は、国で一番の占い師に会い、自分が愛の呪いに掛かっていることを知った。彼女はその呪いに衝撃を受けたが、結局、その呪いこそが彼女を、遺産目当ての詐欺師たちから守ったんだ。最後には、彼女が子どもの頃からずっと愛していて、そして愛されていた、下町の貧しいが心の優しい青年と結ばれて……。呪いは解けて、物語はめでたし、めでたしで幕を閉じる。
     こいつが、あの人から聞いた愛の呪いについての話だ。思い出したおれは、すぐにあの人に連絡をした。まさか本当に、お前も愛の呪いに掛かっているとは、思わなかったが……」
    「愛の、呪い……」
    呪いという言葉に引っ張られて、サンジはてっきり、それを悪いものだと思い込んでいた。現に、彼の身体に起きていることは彼のとって呪いと呼ぶに相応しいもので。だから、サンジはそれが、自分を恨む誰かによってかけられたものだと思い込んでいた。けれど、愛の呪いというものは、彼が考えているいわゆる呪い、というものとは違うらしい。
    「だとしたら、呪いは……、誰にかけられたんだ?」
    疑問を溢して。それから、サンジは顔を上げた。
    「お姫様に呪いを掛けたのは、」
    「彼女の、両親だろう。呪いを掛けるつもりはなかったはずだ。ただ、まだ若くて純粋な娘が、悪いものに騙されることがないように、死にゆく中で願ったその祈りが、呪いとして形を表したんだと……おれは、思っている」
    「ってことは……愛で解けるから、愛の呪いなんじゃなくて……。愛する人にかけるから、愛の呪い、って呼ぶんじゃないのか?」
    確かめるように、サンジはゼフに問いかける。なぜか、目の前の男であればその答えを持っている気がしたのだ。
    もしも、そうではなくても。何か答えに近づくためのヒントのような、きっかけのような話を聞けないかとゼフを見たサンジは。自分を見るその瞳が、これまでとは違う色を含んでいることに気がついた。
    ゼフの表情の中にある色を、サンジは知っていた。どこかで目にしたことがあった。彼との思い出をサンジが忘れるはずがないのに、記憶に靄がかかったように、思い出すことができない。
    「なら、おれに呪いをかけたのは、誰なんだ……?」
    ゼフが目を伏せる。表情の中にある、あの色が濃くなる。
    そして、ようやくサンジは思い出す。ゼフの隠しきれていない感情の正体を。その、既視感の理由を。思い出したのと、ゼフが、
    「おれだ」
    と呟いたのは、ほぼ、同時だった。
    「お前に呪いをかけたのは、おれだ」
    ゼフは視線を上げてサンジを見た。その、表情は。二人きりの岩山の上で、飢えの中で見た、あの時の表情そのままだった。
    「呪ったつもりはなかった。言い訳がましく聞こえるだろうが、嘘じゃない。お前を、苦しめるつもりなんて、これっぽっちもなかったんだ。それだけは、分かって欲しい」
    十年近く前のことだ。ゼフとサンジは遭難して、何もない、海の真ん中にあった小高く抉れた岩肌の上に二人きりで流れ着いた。そこで、二人は食料を分けて、岩山の端と端に座り、どこかの船が近くを通るのを待ち続けた。
    救助はなかなか来なかった。サンジは、手にしていた五日分の食料をさらに細かく分けて食べていたが、それらは二十五日目には無くなっていた。その間に船は一隻だけ通ったものの、雨と風が強かったためか二人に気づくことなく去っていってしまった。
    焼けるような日差しと、寒い夜が繰り返し訪れては過ぎ去った。
    七十日目に、サンジは死の気配を強く感じた。食料が尽きてからずっと、雨水を飲んで耐えてきたものの、身体にも心にも限界がきていた。
    だから彼は、ゼフの食糧を奪おうとしたのだ。ゼフの側にあった大きな袋にまだ食べ物があると信じて、ナイフを手にそれを奪おうした彼は。袋にナイフを突き立てて、そして、真実を知った。
    ゼフが食料なのだと言って傍らにずっと置いていた袋の中には、輝く財宝しか入っていなかった。最初から全て、食糧はサンジに渡されていたのだ。そして、飢えを凌ぐために、ゼフは自らの足を食べていた。
    それらの真実を、その時になって初めて、サンジは知ることとなった。
    「自分の足、食ったのか」
    か細い声で尋ねるサンジに、ゼフは短く、そうだ、と答えた。
    あの時の顔と、今のゼフの表情がサンジには重なって見えた。
    あの頃は、希望を失ったような、哀しむような顔に見えていた表情が。本当は、別の感情によるものであることに、今更ながら、サンジは気づいてしまった。
    「心配だった。不安だった。お前が、このまま海に出ることが。ずっと、おれは心配だったんだ。
    だから、祈った。海が凪いだ、星がよく見える夜に。お前が、ちゃんと大人になってから旅立つことを。愛が何であるのかわからない子どもが、そういうものを判別できるほど成長してからおれの手を離れることを。祈った。その結果が、これだ」
    罪悪感だ、と思った。サンジは、ゼフの顔に浮かぶその色を、感情を、罪悪感であると初めて知った。
    祈りが呪いになったこと。足を食べたことを打ち明けたこと。そういう時、この男は罪を認識した顔をするのだとサンジは思った。
    「こんな歪な形で、呪いになるとは思わなかったんだ。申し訳ない。サンジ、……お前には、謝っても謝りきれない」
    胸の奥が痛む。痛みは、熱を伴っていた。
    冷えた身体が、そこを中心にまた熱を持ち始めることをサンジは自覚する。
    そして彼は、その熱がどういうものかを、もう知っていた。
    「なら、責任とってくれよ」
    サンジは言う。胸と腹の底は新しく生まれた熱で熱くなっていた。
    「アンタがおれを呪ったんだって言うなら、アンタがこの呪いを解くべきだ」
    どこまで知られているのだろう、とサンジは考える。考えて、すぐに。きっと、全部知られているのだと思った。
    そうでなければ彼は、この金で女を抱いて来いだなんておかしな提案はしないはずだった。
    ゼフは、恐らく全部分かっていたのだった。呪いをかけた人間が誰であるのかも、呪いを解く方法も、真実の愛とは何であるのかも。分かっているから、金を渡すことしかできなかった。
    「知ってんだろ。おれが愛しているのは、アンタだよ」
    ゼフの顔に浮かぶ、罪の意識が濃くなるのをサンジは捉えている。それを分かった上で、言葉は溢れて止まらない。せき止められていた水が溢れるように、感情は言葉となって次から次へとサンジの口から零れ落ちた。
    「だから、おれの呪いを解けるのは、アンタしかいないんだ」
    サンジが手を伸ばす。その右手が、ゼフの頬に触れる。ゼフはサンジの指を振り解こうとはしない。出来ないのだ、とサンジは思った。罪の意識がゼフから、拒否権と選択肢を奪い去っているのだから。
    「ジジイも、本当は分かっていたんだよな。だから、こんな金渡して、女を抱けなんて言ってきた。抱いてやるだなんて、その口からは言えなかったんだろ?」
    サンジの親指の先が、ゼフの唇をなぞる。唇は乾いていて、触れるとかさかさと音が鳴りそうなほどだった。それすら、もう。サンジはどうしようもないほど、愛しいと思ってしまっている。
    「けど、女を抱いたっておれの呪いは解けない。アンタは、おれが女と寝れば、相手に情が沸いてその人のことを愛するとでも思ったんだろう。でも、その考えは間違っている。
    なあ、クソジジイ。おれが欲しいのは、アンタだけだ。アンタに抱かれない限り、この呪いは解けない。誰を抱こうが、抱かれようが。おれが他の人を好きになることなんて、ない」
    ゼフが目を閉じる。青い目を隠してもなお、感情は隠せていなかった。漏れ出る罪悪感を、サンジは抱きしめたいような気持ちで見ている。
    あの日、岩山の上でゼフが罪を感じる顔をしたのは。真実を打ち明けたことで、自分の人生にサンジを縛りつけることになってしまったからだった。自分のために足を犠牲にした男を、サンジは見捨てられないとゼフは思った。ほとんど会話もしたことがないのに、なぜか、分かったのだ。
    だから、ゼフは絶対に真実を知られたくなかったのに。それは知られてしまい、恩義から本当に、サンジはゼフの元を離れられなくなった。
    「おれのことを愛していて、おれに、本当の愛を知ってほしいと願っているなら。アンタが、それをおれに与えてくれよ」
    ゼフは、自分が罪を犯したと思っていた。そしてその罪は、今のサンジには甘い味がした。
    その身に起きた呪いは、真実の愛によるものだった。足の犠牲と引き換えに、縛り付けられるようにして始まった二人の生活は、甘露の味わいがした。向けられた優しさと愛はいつだって溶けるように甘かった。
    その甘さを、もっと欲しい、と彼は願ってしまう。足りない、とより大げさなものを求めてしまう。
    「おれの呪いを解いて……その手で、ちゃんと。おれを、本当のおとなにしてくれよ」
     サンジの唇が、ゼフの唇と重なった。乾いた唇は舐めると、潮風のような味がした。ゼフはサンジを、サンジのキスを拒まなかった。ただずっと、苦しそうな、悲しそうな、寂しそうな、そして罪深そうな顔をしているばかりだった。
    「そんな顔しないで」
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