水無月の夜「藍湛…!早くしないと仕事遅れるぞー!」
「うん」
カーテンが開いた窓からは朝の日差しが溢れ部屋の中を照らしていた。
パタパタと忙しなく動き回りながら支度を進める1人の青年。
藍湛と呼ばれた青年は対照的に落ち着いた面持ちで支度をしていた。
忙しなく動いていた青年は、自分だけ慌てているのが気に入らなくて小言を漏らしてみる。
「お前が早く寝かせてくれればこんなにバタバタしなくて済んでるんだぞ」
「うん」
「うん。じゃないって!少しは悪いと思ってるのか?」
「…魏嬰こそ、乗り気だった」
その一言で昨夜のことを思い出した魏嬰の顔は、かぁーっと赤くなる。
「っ…!うるさい…!!」
目の前にあったティッシュの箱を藍湛に向かって投げるも涼しい顔でするりと交わされやり場のない気持ちが更に膨らんだだけだった。
―――――
出会って5年になろうとしといた。
出会いは魏嬰が大学生の頃バイトしていた喫茶店に藍湛が客として来たのがきっかけだった。
やたら容姿が良く男なのにそこらへんの女の子より綺麗だったのを覚えている。
そいつはよく喫茶店に来るようになったがこっちなんて気にもせず何か難しそうな本をずっと読んでいた。
店員と客の最低限の会話はするもののそれ以上特別会話をすることもなく魏嬰も店の仕事をこなしたりと忙しく働いていた。
ある日、突然向こうから話しかけてきた。
「…これ、あなたの」
そう言って差し出してきた手のひらの上には1つのストラップ。
「あ」
それは魏嬰が姉から貰ったストラップだった。
そういえば今日講義が長引いてしまい全速力でバイト先に向かったのを思い出す。その時に鞄に付けていたのが落ちたのだろう。
「よく俺のだってわかったな!ありがとう!」
ニカッと笑って藍湛からストラップを受け取ると魏嬰は、ん?と小首を傾げた。
落としたということはストラップの紐が切れているはずなのに受け取ったストラップの紐は切れていなかった。
魏嬰の表情を見た藍湛はバツが悪そうに口を開く。
「悪いと思ったが直させてもらった…その…いつも付けているから大事なものなのかと思って…」
魏嬰が不思議そうな顔をしていたのが見え藍湛は言葉を続ける。
「…大学でよく、見かけていた」
それを聞いた魏嬰は今度は驚いた顔で
「お前同じ大学だったのか!?なんだよ!早く言えよな〜」
と、藍湛の肩をバシバシと叩いて笑った。
てっきり勝手に直したことを責められるか気持ち悪がられるかすると思っていた藍湛は魏嬰の反応が予想外でただされるがままに叩かれていた。
ひとしきり叩いた後、満足したのか叩くのを止めた魏嬰はしゃがみ込みテーブルの端に両手を重ねその上に顎を乗せ藍湛をじっと見つめた。
「こんだけの美男を俺が忘れるわけないし専攻が違うのかもな。授業終わったらすぐバイト出てたし専攻違えば会わないやつも多い。あ、おまえ名前は?俺は魏無羨」
「…藍忘機」
それから藍湛が店に来る度、魏嬰は話しかけにいった。
最初は藍湛が何を考えているのか全く分からなかったが少しづつ分かる様になるのが楽しかった。
趣味や好きなものは被らず正反対の二人だが何故か一緒に居るのが楽だったし落ち着いた。
連絡先を交換してからは頻繁に遊ぶようになりそこで気付いた。
お互い知らないはずの事を知っている。
自分のことをあまり喋らない藍湛が何が好きで、何が苦手でなんてこと魏嬰は知るはずないのに分かることがあった。
一度や二度ではない。
店先でうさぎのぬいぐるみを見た魏嬰は迷いなく、藍湛うさぎ好きだろ?買ってやろうか?と揶揄ってみせた。
でも、魏嬰は藍湛からうさぎが好きだと聞いた記憶はなかったし藍湛も魏嬰に伝えた記憶はなかったのだ。
散歩中の犬が前から来た時、自然と藍湛は魏嬰の前に出て犬と距離を取ったこともあった。
魏嬰は犬が苦手だと伝えたことがなかったし藍湛も聞いた覚えがなかった。
伝えてないはずなのにお互いの食の好みを理解していたりと不思議な体験をしたがそれで別段困ることは無かったから深く考えるのをやめた。
魏嬰はというと、そういうことが起きる度「前世では恋人だったのかも」と藍湛を揶揄う始末。
一緒に居ると居心地が良いし正反対の性格だがむしろそれが楽しいと思えるしお互いの事はなんでも分かるような気さえしてくる。
あながち自分が言っていたことは間違いじゃないのでは?と思った魏嬰はそのモヤモヤを藍湛にぶつけてみた。
「なぁ本当に前世で俺たち恋人だったんじゃないか…?考えれば考えるだけそうとしか思えなくて…藍湛はどう思う?」
「私と付き合ってほしい」
二人が出会って1年が経っていた。
―――――
「藍湛〜まだか〜?」
「すぐに行く」
「お腹減って死にそうなんだけど〜?」
「うん」
「うん、じゃなぁーい!!」
いつもなら魏嬰の方が準備に時間がかかり待たせることが多いのに自分のことは棚に上げぶつぶつと文句を言いだす。
本当に怒っているわけではなくちょっと急かしてやろうぐらいの気持ちだった。
ようやく準備が終わった藍湛は待たせた、と一言かけ魏嬰の頭を撫でた。
それだけで空腹でどうにかなってしまいそうだった気持ちもどこかへ行ってしまうのだから自分は相当単純で藍湛に甘いなと思う。
今日は付き合って4年の記念日だ。
律儀に記念日を祝ってくれる藍湛の気持ちは嬉しい。
ただ、毎回かしこまったようなところへ連れて行かれるのは苦手で今年は事前に魏嬰がそういうところ以外が良いと希望を出したおかげでラフな服装で出かけることが出来た。
その話を藍湛にした時少し不服そうな顔をしたのが気になった。
いつもなら魏嬰がそうしたいなら、と好きにさせてくれるからだ。
まぁ特別抗議されなかったのならいいかと思って意見を通させてもらった。
今年は藍湛が予約するような高層階のディナーではなく個室でゆったりとした小料理屋にした。
この店にしたのは、個室でゆっくり食べる方が藍湛は好きだろうし日本食なら薄味を好む藍湛にもピッタリだと思ったからだ。決して、仕入れている日本酒がおすすめだと教えてもらったからではない…!
電車に乗ってそれからちょっと小道に入り人通りが少なくなった通りにそのお店はあった。
隠れ家的な存在の趣が秘密基地みたいで少年心をくすぐる。
中に入ると店主が出迎えてくれ奥の個室に案内される。
事前にメニューは任せると伝えてあったので飲み物だけ注文して待つことにした。
すぐに飲みものとお通しが出てきた。
「それでは…今年もこうやって祝えたことに感謝して〜乾杯〜!」
コツンと藍湛が持っていたグラスに自分のグラスを当て乾杯する。
魏嬰はビールをごくごくと喉を鳴らせ飲み切る。
「プハーッ!やっぱ一杯目はビールだよなぁ!藍湛、本当に今日は飲まないつもりか?せっかくのお祝いなのにさ」
元々お酒に強く無いため藍湛が酒を飲むことは少ない。
一杯だけ飲んでその後はソフトドリンクになったりするのだが今日は最初からソフトドリンクなのだ。
「さては…この後やらしいことするつもりだな?!藍湛のエッチ…」
揶揄おうとするが出先だからか静かに、と制しされた。
その後は出てくる料理や酒を楽しんだ。
藍湛も気に入ってくれたようで美味しそうに料理を口に運んでいた。
今まであった面白おかしい話をしながら楽しい時間を過ごし、また来るよと店主に伝え店を後にした。
最寄りの駅まで戻った二人はこのまま家に帰るのも惜しく近くを散歩することにした。
ぽつりぽつりと魏嬰が話すことに相槌を打つだけの会話。
会話がない時間も嫌ではなく心地良いぐらいだ。
気負わずに一緒に居れることが何より良かった。
ふらふらと歩く魏嬰の後ろをゆっくりと藍湛は付いてくる。
ふと空を見上げると満天の星空が広がっていた。
街中から少し離れた並木道は街灯の光しかなく余計な光がない分、星空がとても綺麗に見える。
魏嬰が空を見上げると藍湛も空を見上げる。
「凄く綺麗だな…」
「うん」
特に話すこともなくただ二人して上を見上げて歩く。
月の光と淡い街灯の光が道を照らす。
前を歩いていた魏嬰が後ろを振り向くと藍湛は少し後ろで止まったまま上を見上げていた。
藍湛の玻璃のように淡い色の瞳が月の光に照らされ思わず吸い込まれるように見入ってしまった。
魏嬰の視線に気付いた藍湛がふわりと笑う。
あぁこの感じがずっと続けばいいのにな…とふと思った。
特別なことは何もなくていいただ、隣に藍湛が居てくれるだけで…
「魏嬰」
名前を呼ばれ藍湛の傍まで行くと手を握られ顔の前まで持ち上げられる。
持ち上げた手の甲にチュッと唇を何度か落とされる。
「どうした?」
「魏嬰」
「ん?」
「好きだ」
「お…ぅ…、俺も好きだよ?なんだよ突然びっくりした〜」
今まで何度も言われている言葉だけど予測してない場面で言われると照れがどうしても出てしまう。
藍湛の顔が良いから仕方ないんだ…こんな美形に真正面から告白されたら誰だって照れるに決まっている!
言い訳する必要もないのに魏嬰は心の中で叫んだ。
「好きだ…」
「うん、知ってる。俺も好きだよ」
「ずっと一緒に居たい」
「うん、俺もずっと一緒に居たい」
「…ずっと」
「ずっと…」
握られた手は離されたが今度は頬に触れられる。
そっと割れ物でも扱うように優しく撫でられもどかしいようなくすぐったいような感覚に思わず目を閉じた。
「へへっ、なんかプロポーズみたいだな」
誰も居ない並木道の真ん中で見つめ合ったままでいるのがなんだか恥ずかしくなって誤魔化すように藍湛の胸に顔をぐりぐりと押し付けてみる。
きっと今の自分の顔はみっともないぐらい赤いだろう。
今まで照れた顔も泣いた顔も見られているけどなんだか今日は特別恥ずかしかった。
「魏嬰」
「ん〜?」
顔の火照りが引いてない感じがして顔を上げれなかったがいつまでも胸に埋まったままでいれるわけもない。
酒のせいにしてしまおうと意を決して顔を上げた時だった。
「大切にする」
そう言って魏嬰の左手を取ると薬指に銀色の指輪がはめられる。
何の装飾もなくシンプルなデザインのそれはキラキラと輝いていた。
「こ、れって…」
目頭がじんわりと熱くなるのを感じる。
「言葉にするのが得意ではないから困らせることもあると思う」
ゆっくりと魏嬰の頬を撫でながら優しい眼差しで話す藍湛を見上げながらうん、と小さく相槌を返す。
「魏嬰とずっと一緒に居たい。一緒に居てほしい」
「結婚しよう」
想像したことがないわけではなかった。
ずっと一緒に居たいと思っていたしそうなるかもしれないとも思っていた。
お互い何も言わなかったが同じ気持ちだと確信していた。
藍湛のことだから隠しごとなんて出来ず何か企んでいても気付くだろうから大袈裟な程反応を返してやらないとな!と思っていたのに…
思い当たる節はあった。
今日は藍湛の方が準備に時間がかかっていた。
いつもなら譲ってくれるのにディナーのお店を変更したいと言い出した時は渋い顔をした。
お酒が弱くても必ず1杯は付き合ってくれるのに今日はお酒を飲まなかった。
もうちょっと先の事だと思い込んでて気付かなかったけど傾向はあったんだ。
「…魏嬰?」
「…一生、一緒に居てくれるのか?」
「うん」
「絶対、離れるなよ?」
「うん」
「…俺も離してやらないからな?」
「うん」
胸の辺りがじんわりと熱くなって少し痛かった。
藍湛も一緒にずっと一緒に居たいと思っていてくれたんだと思うと涙が出てきそうになる。
不安になったことはなかったし疑ったこともない。
だけど、言葉にされるのがこんなにも嬉しくて安心出来るとは思わなかった。
「藍湛、今藍湛の分の指輪ってあるのか?」
藍湛はジャケットのポケットから小さな箱を取り出す。
貸して?と手を差し出し箱を開くと自分の指にはめられた指輪と同じデザインの指輪を取り出し今度は藍湛の指にはめる。
「俺が断るわけないだろ?もちろんYESだ!」
藍湛の薬指にチュッと唇を落としてニヤリと笑って見せると勢いよく抱きしめられた。
強く抱きしめられすぎて少し痛いぐらいだったが藍湛が嬉しそうだったからそのまま抱きしめられておくことにした。
「藍湛、結婚するってなると身内だけで集まったりはするのか?俺はどっちでも良いけど藍湛はどうしたい?」
「したい。魏嬰の花嫁姿見たい」
花嫁姿ってことは女物の衣装か…?それに式がしたいのか…?と思ったが藍湛がしたいなら魏嬰はなんでも良かった。
さっきまで後ろを付いて歩いていた藍湛は隣を歩き、心なしか嬉しそうな表情でじっと魏嬰を見つめる。
「でもさー、あーいうのって準備する時間がいるだろ?」
「早くしたい」
「早く、たって…一年後、とかか?」
何をしないといけないかとか全然わからないけどすることが多くて時間がかかるイメージがある。
お互い仕事もしているし時間が取れるのか少し不安だが早くしたいという藍湛の希望は叶えてあげたい。
「今週末したい」
「え?…ん??なんて?」
「今週末」
「へ?ま、待てよ、藍湛?!まさか…もう準備してるとか言わないよ…な?」
「……。」
「え?!ちょっ、何か言えよらんじゃーんっ!!」
数時間後、準備は全然してないことに安堵する魏無羨だった。