誰も知らない レンが扉を開けた時、鏡の前に立っていたのは水色の髪をした少年だった。彼は手を止めて一瞬扉のほうに目を向けたが、「ああなんだ、知らない人か」という時の仕草で、すぐに目線を手元に戻し、蛇口を捻った。レンもまた「知らない人」と一瞬目が合った気まずさなど忘れて、友人と喋りながら彼の後ろを通り過ぎた。すでに出口に向かおうとしていた彼の指先をこっそりと掠めながら。水色の髪をした少年はわずかに動きを止めたが、指先を掠めたのなど偶然に過ぎないとでも言うように、楽しそうに談笑を続ける彼らの声を耳に残したまま、すぐにその部屋を出て行ったのであった。
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水色の髪の少年が彼の部屋を訪れた時、彼はアコースティックギターを抱えて気まぐれに指で弦を弾いているところだった。ぽろん、ぽろん、と音がまどろみこぼれていく。彼は手を止めて少年を見上げると、にっこりと嬉しそうにほほ笑んだ。
「やあ、キョウ」
キョウと呼ばれた少年は、むっとした表情になると、わざとらしく音を立ててリュックを床に置いた。
「レン、お前さあ、今日余計なことしてきただろ」
「余計なこと・・?」
レンがギターを触る手を止めて、首を傾ける。
「・・手、触った」
隣に座って手短にそう告げたキョウに、レンはようやく思い出したように「・・あっトイレの」と声をあげた。
「そう、それ。やめろよな、ああいうの・・誰かに見られてたらどうすんだよ」
「わあ、ごめんね。だって、まさかキョウがいるって思ってなくて・・なんかすごい嬉しくなっちゃってさ、それで、つい・・」
でも、ごめんね、学校では知らないふりって約束したのに・・と彼は申し訳なさそうに笑みを浮かべたが、それはただ表情を取り繕うとして上手くいかなかった結果のように思えた。視線は行き場をなくして弦に置かれたままの指先に落ち、眉は控えめなカーブを描いて下がっている。彼にこういう切ない表情をされると、きまってキョウは自分が最低な人間になったような気がして、自動機械のように滑らかに動いていた口が錆びて鈍くなってしまうのだった。
「いや、別に、怒ってるわけじゃなくて・・それに、触るなんていつだってできるだろ、その、学校じゃなければだけど・・」
勢いをなくして弱弱しくなっていく言葉にレンが視線をあげると、キョウは困った時に彼がよくやるように、肩まで伸びた鮮やかな髪を耳にかけて、逃げるように視線を逸らした。
「・・ありがとう、慰めてくれてるんだよね」
「別にそういうわけじゃ・・ないけど・・」
磁石のように、追いかけるたび離れていく彼のあまのじゃくな視線がおかしくて、レンは思わず笑ってしまう。笑いながら、でも本当にこれからは気を付けるよ、とつけ添える。それから、一拍の間を置いて、おずおずと口を開いた。
「ね、あのさ・・今、触ってもいい?」
「・・は?」
「あっいや、嫌だったらいいんだけど・・でも、学校じゃなければいつだってできるって言ったから、今は学校じゃないし、だめかなあ、なんて・・」
「・・・」
眉間に寄った皺と反して、キョウの色素の薄い肌が徐々に赤く染まっていく。レンは彼の答えを待つように黙ったまま、虚空をにらみ続けている彼を見つめる。こういう時のレンは意外と頑固なのを彼も知っていて、結局、いよいよ葛藤に耐え切ることもできず、ようやくレンに視線を戻した。それから、
「・・・勝手にすれば」
とできる限りぶっきらぼうな口調で返した。それでもレンは、うれしい、と首を傾けて幸せそうに微笑んで、それから彼の隣に並ぶとその手を握った。正確には、彼の指と自分の指を絡めて、手を繋ぎ、それから彼の肩に頬をこすりつけるようにしてもたれかかった。ふふ、なんか安心する、とハミングでもするみたいに囁きながら。キョウはむずむずする肩の感覚に意識を向けながら、それ以上のことはするつもりのなさそうなレンに、少しだけ肩透かしをくらった気分になる。
「・・触りたいって言うから何かと思ったけど」
思わず出た呟きに、レンは小さく笑って、「だって、トイレで会った時はちょっとしか触れなかったから、今堪能してるんだ」と繋いだ手をゆらゆらと揺らした。それから、あっそ、と興味がなさそうに答えるキョウに、少しの間を置いてから、でも、と言葉を続ける。
「・・キョウは、もっと俺に触りたい?」
さっきまでとは違う、試すような囁き声にキョウが思わず横に視線を向けると、ゆったりと肩にもたれかけていた頭を少しだけずらして、彼が上目遣いに見つめていた。地球みたいな色をした緑色の瞳が弧を描く。予想していなかった彼の問いかけにキョウは動揺し、いっそう顔を赤くした。そして、彼はきっと「別に」と言って顔を背けてしまうだろうとレンは思っていたのに、レンもまた予想していなかったことに、キョウは視線を上に左に動かして短い逡巡を経た後、紅潮した頬のまま覚悟を決めたように彼をにらみつけた。
「・・悪いかよ。そうだよ、めちゃくちゃ触りたい」
キョウが繋いでいない方の手をレンの頬に伸ばす。今やレンの顔はキョウに負けず劣らず赤くほてっていた。廊下ですれ違う時の、遠くから見かけた時の彼には絶対に認められない、飢えた獣のような熱い視線に、捕食される喜びで鼓動が高鳴り心が満たされる。誰も知らない、彼の、自分のこんな表情を。レンは熱で溶けそうな視線で彼を見つめ返す。それから、うん、たくさんさわって、ぜんぶさわって、と掠れた声で懇願する。