無題/明日、世界は新しく無題
手を繋ぐ。スローテンポのダンスを踊るように親指を滑らせ、黒く塗られた爪の表面をなでる。からかうように目で見つめあう。温かい吐息を空気に溶かして微笑む。確かめるように顔を近づける。キスをする。大きな手が白いシャツの下にかくれんぼするみたいにもぐりこみ、まだシャワーを浴びていない、じめっとした肌をさらってお互いの汗が混ざり合う。レンがくすぐったそうに笑う声がして、つられるように彼も笑う。数カ月前に買い替えた木製のベッドがぎこちない音を鳴らし、ドッピオの手はじょうずにシャツをはだけさせ、レンの笑い声に少しだけ違う色が混ざる。熱を持った身体が触れ合う度、心に灯った小さな炎が全身を溶かしていく。身体に起こるわずかな変化を手探りで探し当てて、寝かしつけるみたいに優しい手つきで愛撫すると、レンが地球色した目を切なそうに細めた。
遊びの延長線だった行為は伸びた線の先で愛情になり、果てが見えるまで線路のように伸び続ける。言葉がなくても、彼らの目は愛を語りあい、彼らの存在を形作る。
明日、世界は新しく
※🛸がエイリアンであることを隠して、人間に完全に擬態化して生活している設定です。
エイリアンが見つかり警察に保護されているらしい、とのニュースが流れたのはつい3日前のことだった。
大統領がテレビで国民に語りかける。・・皆さん、慌てないでください。まだエイリアンと確定したわけではありません。今我々は特別チームを立ち上げ調査をしているところです。エイリアンが他にも紛れ込んでいるなどという憶測が飛び交っているようですが、皆さん、パニックに陥らず今は冷静な判断をしていただくよう協力をお願いしたい・・。
俺はリモコンの赤いボタンを押してテレビの電源を切った。大統領だろうが何だろうが、もう何を言っても遅すぎた。すでに学校ではエイリアン探しがちょっとしたブームとなっている。最初に目をつけられたのは変わり者の生徒たちで、「お前、エイリアンなんだろ」という冗談半分のからかいはすぐに陰湿ないじめへと発展し、インスタグラムには“もしかしてエイリアン?”のハッシュタグが溢れかえり、街中で見かけた疑わしき人々の隠し撮りが日々あげられていた。
俺は隣に座る彼の横顔を盗み見る。テレビをつけたのは彼だった。そして、ニュース番組にチャンネルを合わせたのも彼だった。俺は言う、「こんなの気にするなよ」と。彼は少しの沈黙のあと、「そうだね」と悲しそうに笑った。
数日が経って、事態は一変した。エイリアンだと疑われ暴行を受けた男性が死んだというのだ。その次の日、同じ地域で年配の女性が湖に浮かんで溺死しているのが見つかった。そしてまた次の日に、10代の若者が。彼らもまた近所でエイリアンの噂を立てられていた一人だった。まるで火が燃え移っていくかのように似たような事件はその後も続き、ついには“自称エイリアン”の小集団が声をあげ、Youtubeのライブで記者会見を開いた。どう見ても人間にしか見えない彼らは、“私たちはあなたたちを脅かすつもりはありません。私たちは今までも人間たちに馴染み、平穏に暮らしてきました。どうか私たちが安全に暮らせる権利を保証してください”と悲壮な表情で訴えた。彼らの背後には数日前に殺された男性と女性の笑顔の写真が飾られていた。どうやら本当に彼らはエイリアンだったようだ。俺はとたんに怖くなった。写真の中で優しそうな笑みを浮かべる彼が、もしかしたらあの日「そうだね」と悲しそうに笑った彼であったとしてもおかしくないのだ。俺は彼にテキストを打つ。“レン、大丈夫?問題ないよね?”と。すぐに彼から返事がくる。“うん、大丈夫。でもドッピオに会いたい”。俺はすぐに車に乗って彼の家に駆け付けた。ドアを開けると、不安そうな表情のレンが目に飛び込んで、俺はすぐにドアを閉めると彼の身体を抱きしめた。レンはそっと俺の背中に手を回すと小さな声で「ありがとう」と言った。
分かりきったことだったが、事態は悪化する一方だった。声明を出したことで却ってエイリアン狩りは過熱し、“尾てい骨が出ているのはエイリアンの尻尾がある証拠”“エイリアンは人間よりも舌が長いらしい”などのくだらないデマが流布し、暴行事件が頻繁に起こるようになった。人権団体はホワイトハウス前で「エイリアンにも人権を!」と叫び、宗教家たちは各々の宗派に従って様々な説を唱え、一部のエイリアンたちは顔を隠してライブ配信やSNSでメッセージを発信した。もちろん、コメントは憎悪で溢れかえっていた。
世の中が暴走していくのと反比例するように、レンは日に日に元気をなくしていった。俺は両親に適当な嘘をついてレンの家に泊まり込み、どうにか彼を元気づけようとしていたが、こたえるように見せてくれる彼の笑顔はどう見ても弱々しかった。
ある日、彼がスマホの画面を見せてきた。クラスメイトのインスタグラムのストーリーだった。そこにはレンの顔写真が映し出され“学校をしばらく休んでる、もしかして・・?”“彼がご飯を食べているのを見たことがあるけど、舌がずいぶん長かったような?”とコメントが添えられていた。俺は何も言えなかった。すがるように彼の顔を見ると、彼は何かを観念したような、諦めたような目で微笑んだ。もう「こんなの気にするなよ」とは言えなかった。
その夜、俺たちは海に出かけた。とにかく静かな場所でふたりきりになりたかった。数年前、レンとふたりで行った海へと車を走らせる。車の中ではレンが好きなowl cityの曲が流れ、“うまく言えないけど、寝ていても起きていたいんだ すべては見た目通りではないから”と彼が口ずさみ、俺は「いい曲だね」と言った。1時間半かけて着いた海辺には人の気配はなく、世界の始まりのようにひっそりしていた。砂を踏む音と、レンが「きれい」と呟く声が、浜辺に近づくたびに大きくなる海鳴りにかき消されそうになる。「風がきもちいいね」「静かだね」「星がきれいだね」とふたりして小さな声でとりとめもない言葉を交わす。それから、突然訪れた一瞬の沈黙のあと、レンはおもむろにビーチサンダルを履いていた足を海に入れると、「つめたっ」と笑った。彼の笑顔に釣られるように俺も足をつっこんで、やっぱり「つめたあ!」と笑った。こんなに笑ったのは久々で、大きく開いた口から自然と新鮮な空気が流れ込んできて、ここ数日感じていた心の中のわだかまりが砂のようにさらさらと攫われていく。レンも同じだったのかもしれない。頭の中がからっぽになるまで笑って、ふと合った彼の瞳にはもう悲しみの影はなく、今はただ愛や優しさで満たされていた。俺は自然と彼の手をとる。そして、もう一度見つめあった。言葉がなくても、彼の薄い涙袋の伸縮やわずかに揺れる瞳の動きで全て分かる気がした。そしてまた、きっと彼も。
冷えた身体にも限度がある。名残惜しさはあっても、お互いの赤くなった鼻先をからかいながら彼と手を繋いで駐車場に戻ると、見知らぬ男が車の側に立っていた。ニット帽をかぶり、防寒ジャケットのせいで上半身が着ぶくれしている。それから、手には棍棒のようなもの。彼の顔に改めて目を向けるのと、「この薄汚いエイリアンめ!」と彼が興奮しきった声をあげながら走り寄って来るのと、頭に重い衝撃が走ったのはほとんど全て同じ瞬間のことのように思えた。地面に向かってぐらりと倒れていく時、視界の隅にレンのビーチサンダルがうつる。あれは今年の夏に露店で買ったお揃いのビーチサンダルだった。夜凪の思い出と一緒に砂をかぶって少し汚れたビーチサンダル。こんなことにならなければ、来年も一緒に履くはずだった、ビーチサンダル・・・。ごん、と頭が地面にぶつかる音がした。強い衝撃と痛みと共に最後に聞いたのは、レンが俺の名前を叫ぶ声と、続いて男の野太い奇声だった。
目が覚めた時、俺はまだあの駐車場にいた。波打つ音と、刺すような冷たい風、それから目の前には泣きそうな表情のレンがいて、「ああ、良かった・・」と俺の頬を愛おしそうになでた。心配そうな彼をよそに、俺はまだ夢の中にいるような心地で、彼の頭からここ数週間見ることのなかったエイリアンらしい2本の角が生えていることに気をとられてしまう。「レン、角が・・」と言うと、レンは笑って触りやすいように頭を下げてくれた。久々に触った角に懐かしい気分になる。彼の角もまた、俺との再会を喜んでいるかのようにぴかぴかと水色の角先を点滅させた。それから、段々と思い出した。知らない男に待ち伏せされていたこと、鈍器で殴られたこと、それから意識を失っていたこと。俺は重たい身体をようやくゆっくりと起こすと「レン、あの男は・・」と彼に聞いた。殴られたはずなのに頭は痛くない。きっとレンが力を使って助けてくれたのだろうと気が付く。レンは一瞬だけ緊張したように表情を強張らせてから、深いため息を吐いた。
レンいわく、俺が倒れたのを見て怒りのあまり男を一発殴った後、我に返って男の記憶を改ざんして家に帰らせたらしい。俺は男の辿った結末よりも、あの虫さえ殺せないレンが人を殴ったことに驚き、それから思わず「やるじゃん!」と笑ってしまった。レンはばつが悪そうに「笑うなよ!」と顔を赤くして「死ぬかと思ったんだから」と付け加えた。本当だ。レンがただの人間だったら2人とも今頃こうして生きて話せなかったかもしれないのだから、本当はもっとシリアスな表情でいるべきなのだろう。それなのに、不思議と笑えてしまう。いつまでも笑っている俺に、結局はレンもつられてしまうけど、「死ぬかと思って、本当に怖かったんだ」と段々と泣きそうな表情になるから、「ごめん」と言って彼の冷たくなった身体を抱きしめた。違うんだ、俺こそ巻き込んで、すぐに助けられなくてごめん、と彼が絞り出すような声で言うのを「そんなことないよ。それに俺のこと助けてくれたじゃん」となだめるように背中を撫でる。うん、ありがとう・・と、彼はずびずびと鼻を啜る。自分たちを襲ってきた人間よりも自分を責めてしまう、どうしようもなく優しいこのエイリアンはずっと傷つきながらも俺にそれを見せまいとしてきたのだろう。俺は切ない気持ちでいっぱいになって「大丈夫だよ」と言って背中を撫で続けた。
ふと、俺たちこれからどうなるのかな、と鼻声のまま彼が不安そうに呟いた。俺はそれに答えられなかった。俺たちに殴りかかってきたあの男も、インスタでレンの画像をあげたクラスメイトも、平和を訴えたエイリアンたちも、殺されてしまったあの若者の家族も、きっと、誰一人答えを持ち合わせていない。俺たちの日常は今や一変してしまった。だけど、生きている限り明日は必ず来る。俺はただそうやって繰り返す日々を、レンと一緒にいたかった。俺はそっと身体を離すと、彼の手をとり向き直った。「出来るだけ元の日常を取り戻そう。俺はレンを守るし、レンも俺を守る。“これから”は明日にならないと分からないから・・今はそれでどうかな」。レンは少しの間をおいてから、うん、と赤くなった目元を細めて頷き、それから、「俺、ドッピオのことを好きになって本当によかったな」とはにかんだ。
しばらくして、俺たちは車に乗り込みエンジンをかけた。もう夜は明けていた。人目につかないよう、鼻先を赤くしたエイリアンは角をひっこめる。それから来た時と同じように音楽を流して、owl cityの歌詞を口ずさみ、俺はやっぱり「いい曲だね」と言う。彼は歌う、「目を閉じないで、だって君の未来は美しい」と。
冷えた空気の中、ライトで照らされた長い道を車で走らせる。そしてまた、新しい1日が始まる。