忘却を羨む手のひらがあたたかい。
ぼろぼろになった藍湛が、俺の前に跪いて両の手を握っている。
懸命にこちらを見あげて、いつになく必死なその顔が、俺に何かを伝えようとしている。
唇がうごく。嗚呼、彼はなんと言っている?
「――――、――!」
何かを伝えようとしていることはわかるのに。それがきっと大切なことだとわかるのに。
ここは乱葬崗に近いのか。どうしてかいつもより鮮明に聴こえる亡者たちの声がうるさい。
「魏嬰、―――」
うるさい。うるさい。
「――、聞いて。私は――、」
黙れ。藍湛の声が聞こえないだろう。
「――失せろ!」
もう届かない。壊れていく彼の心を留める力が、私にはない。
―――遠くから聴こえた彼の義姉の声は届いたのに。
どうすればよかったのだろう。どうすれば、彼を繋ぎ止めていられた?
彼の帰る場所が私でなくとも、せめて。
せめて、この世の何処かにあれば。この世の何処かに、ひとつでも残っていれば。
私では駄目だった。どうして。こんなに想っているのに。こんなに。こんなにも。
みんな居なくなってしまった。産んでくれた人も、育ててくれた人も、いつも味方でいてくれた師姉も、温情も、温寧も。守らなければと決めた人達も全て。
「ああ、でも」
憎まれてしまったけれど、でも。彼は、江澄だけは、どうにか護ることが出来たのだろうか。
虞夫人と江おじさんから託されたものは、護ることが出来ただろうか。
―――それなら。
「もう、ひとりだ」
どうなったっていい。もう、どうでもいい。
金丹の無い肉体に陰気を纏わせて、無理やり動かしただけの体はそろそろ限界だ。
不夜天での傷も癒えきっていない。
ひとりなのに。なんのために抵抗なんてしているんだ?
そんな思考が過ぎった時点でおしまいだった。
今まで仙師を敵としていた凶屍達が、唐突に動きを止めてこちらを向く。
爛爛とした無数の目が俺を見ている。
「……ぁ、」
初めて乱葬崗に落とされた時の恐怖がどっと湧き上がり、口元から離れた陳情が、びくりと震えた手から滑り落ちた。
―――もう、制御できない。
怒る亡者たちの声が聞こえる。
お前が叩き起こして戦いに使ったくせに、何を言っている!
罰は甘んじて受けよう。その一瞬だけでも、彼と同じ痛みが味わえるなら。
肉体の傷が癒えぬうちに、彼が死んだと知らされた。
「……そうか」
死んだのか。
失せろと拒絶されたあの時から薄々と感じていたからか、それ程の衝撃はなかった。この世に絶望した彼が、私の声で戻ってくることは無いと思い知ったからだろうか。
ただ、ひとめ会いたかった。それが亡骸でも、魂のひとかけらでも。
木のうろで見つけた、あの日、穏やかに会話が出来た最後の別れの日に、彼が抱いていた小さな子ども。何も残さなかった彼との、唯一の繋がり。
高熱でそれ以前の全てを忘れてしまったこの子を、彼が守ろうとしたものの一端を、私が救い上げなければ。
ほとんど縋るように、無理やり藍家に迎え入れた幼い子の育ちを見守る。
願う名を与えて、彼の人を思う字を与えて。限りなく細い縁の糸を、手繰り寄せるように。
深い深い眠りの中、呼びかけてくる全てを拒絶する。
やっと眠れたんだ。もう起こさないでくれ。あの地獄のような現に戻るくらいなら、このまま穏やかに死んでいたい。
招魂にも問霊にも応えないなら生きている。そんな絶望的な望みに縋って幾日も琴を爪弾く。それでいながら、白檀の香を焚いて密かに彼の弔いをする。
相反する思考が、常に胸中で渦を巻く。
死んだのは私の方かもしれない。香の匂いで無理やり精神を落ち着けて、彼が守りきった幼子を思い出す。掬うと決めたなら、生きねばならない。
そうやって、どうにか、現を生きる。