それってきっと「私には、君にあげられるものが無い。私の運命は、空と共にある。今まで永い時、二人で幾つもの世界を越えてきた。…きっと、いつかはこの世界を遠く離れるの。この在り方を変えられない。だから」
蛍は、真っ直ぐにタルタリヤを見つめた。揺れる瞳には、不安と哀しみが滲む。
「だから、普通の女の子みたいに……貴方に、私の全てはあげられない」
涙を流す代わりに、蛍の手は震えていた。
「それでも、その時までは...私と一緒にいてくれる?」
微かな泣き声にも聞こえる懇願は、部屋の空気に溶けていく。堪えきれなくなった蛍の瞳からは、大粒の涙が一つ、二つと零れていく。
タルタリヤは、その止まらない涙を指で一つ一つ掬っていた。それでも拭い切れず、蛍の頬は濡れていく。それを見て、タルタリヤは堪らず、蛍を抱き締めた。
「馬鹿だな…君。……本当に馬鹿だなァ……俺に、そこまで心を割かなくても良かったんだ。泣かせたいわけじゃない。そんな思い、させたいわけじゃなかったんだ」
そう呟くと、抱き締めていた少女がドンッと強い力で胸を叩いてきた。タルタリヤが蛍を見下ろすと、その顔には激しい憤怒が現れていた。涙が零れるのも躊躇わず、蛍は怒鳴る。
「分かってないッ…分かってない!貴方にはもう、そんなこと言う権利は無い!私をッ、こんな風にしたのは、他でもないタルタリヤでしょッ…」
キッと睨みつけてくる蛍とは対照的に、タルタリヤの顔には緩んだ笑みが溢れている。それを見た蛍がまた怒鳴る。
「なにッ、何で笑ってるの」
「だってさァ……それ、凄い殺し文句だけど、分かってる?」
「ふざけないでッ」
「ふざけてなんかない」
タルタリヤは、一度身体を起こした。そして、腕を引いて蛍の身体も起こすと、真っ直ぐに向き合った。
旅人では無い、一人の少女の一糸纏わぬ姿が、昏く凪いだ蒼眼に映る。
「俺も君と変わらない立場だ。俺の忠誠は、女皇様のもので、俺の心は家族のもの。そして、俺の運命は、スネージナヤと共にある」
蛍の手を握る指に、力が篭もる。
足掻いたところで揺るがない意思は、お互いに同じ場所にある。
目の前に共にありたい人はいるのに、彼を、彼女を選ぶことはどうしたって出来ないのだ。
「…俺だって、手放しに君に贈れるものはあまり無い。本当に少ないんだ」
嘲笑を混じえながら話すタルタリヤに、蛍は顔を歪めた。
成就することのない想いだけが堂々巡りする。
分かってはいたことだが、為す術はないと目の前に突き出されると最早嗤う以外に何も出来ない。
苦笑を漏らしながら、蛍がタルタリヤの手を握った。
「お互い、何も持ってないね」
「……」
タルタリヤの顔にも、諦念の交じる笑みが浮かんでいる。蛍の指に絡めた手には力が籠ったまま、離れる様子はない。
「まァでも、私たちらしいね。そっちの方が」
「……うん、そうだね」
「……そうかもね……」と、タルタリヤはもう一度呟いた。蛍は、寂しがる子猫のように弱々しい顔を見て、零れるだけの笑声を漏らした。
しかし、すぐに蛍の顔が一瞬だけ痛みに歪む。
「……痛いよ」
「うん」
「うんって……」
ギリッと、蛍の左手薬指をタルタリヤが掴んでいた。爪の痕がつくほど強く握られる部位に目を落とし、蛍は思わず顔を顰めた。
「どうしたの」
コツンと、二人の額が触れる。
「こうしないか?俺の特別をあげるよ」
「……特別って?」
「そうだなァ…俺に暇が出来たら、一番に君に逢いに行くよ。君が望む時に、いつでも手料理を作ってあげるから、一緒に食べよう。その後は、一緒に釣りしてもいいし、探索に行ってもいい。もちろん、手合わせもしよう」
少年のように笑うタルタリヤを蛍は呆れたように見上げた。
「あんまり今と変わらない」
「いいじゃないか…それで。俺はそれでもいいよ。今、君と一緒にいられるならそれで」
タルタリヤは、蛍の頬を包むとその顔を見下ろす。昏い瞳に囚われた蛍は、目を離せないままその瞳を見つめ返す。
「その代わり、俺のことも、君の特別にして。君が何処に行こうと、この世界を発とうと、誰の傍に居ても構わない。そいつに譲ってあげる。君の運命は、君だけのものだ。自分で選択しろ」
璃月の喧騒も寝静まり、窓の外からは眩しい月明かりが差す。柔らかなカーテンのように、二人を包む淡い光の下、タルタリヤは決闘を申し込むような愉しそうな表情で、トンと蛍の心臓の上を指す。
「だけど、俺のこと考えていて。いつも...俺のこと考えて。俺が、君の最後の初恋になってあげるから。どう?最高だろ?」
蛍は、思わず目を見開く。
なんて傲慢な告白だろう。
あまりにも自分勝手な告白に、蛍はおかしくなって笑みを零す。
「私だけ、要求されてる重みが違う」
「俺もそうしようか?君が家族になってくれるなら、喜んで君を最優先しよう。受けてくれる?」
「それはだめ」
「だろ?俺は我慢してる。なら、この我慢分は蛍が持たないと、フェアじゃないだろ」
「最悪」
「はァ?最高の間違いだろ」
「最悪」
ひとしきり抑えた笑声を上げた蛍は、微笑んだ。
タルタリヤが今まで見てきたあらゆるものの中で、一等綺麗な情景だった。
蛍の色素の薄い髪は、月光に照らされて銀色に輝いていた。まるで故郷の雪景色と同じ、いやそれ以上の絶世の美しさを誇っていた。長い睫毛に縁取られ細められた瞳の中で、蜂蜜色がとろりと揺れる。
「でも、いやじゃない」
ギュッと、蛍の指がタルタリヤの指に深く絡む。
「いいよ。君のこと、いつも心に想う事にする。それぐらいの余裕はあるからね」
「よし。それでこそ、俺の相棒。…ははッ…変な気分だ。大事なものが増えるって、本当に動きにくい」
「じゃあ、やめよっか」
「嫌だ」
蛍の身体がベッドに沈む。
「……いつもは、ちょっとだけで…いいよ、俺の事考えるの。今日何食べようかな、とかの次ぐらいでいい」
ぽつぽつとそんな言葉を零すタルタリヤからは、いつものような自信満々の姿は想像も出来なかった。
「でも今は、俺だけのこと考えてて」
そんな泣きそうな嘆願に、蛍は自分を宝物のように触れている少年を抱き寄せた。
積み重なった血の匂い。
土埃と入り混じる血の匂いが、少年からはする。それを覆い隠すような濃縮された水の匂いも。
タルタリヤの傍に居ると、水に溺れるような感覚がある。
掴み所の無い飄々とした青年で、
抱き締めても腕をすり抜けていく、誰のものにもならない自由な水のような少年だった。
そんな人が、自分の腕の中に大人しく捕まってくれるだけで、蛍には十分だった。
これが幸せって事なんだろう。
それだけで、タルタリヤは蛍の特別と同意の存在になっていた。
ただ、この初めて抱いた気持ちを優先してみたかった。今まで血生臭い道を歩んできたタルタリヤにとって、性差の中で芽生える欲望など、路傍の石にも等しかった。まして、しぶとく生き抜く気ではあるが、心の何処かで短い人生だろうと達観している自分の運命において、恋慕とか情愛は無縁のものだと思っていた。
案外呆気なく、己の予想は裏切られるものだ。
見渡せば血の海。
一歩踏み外せば、深淵に呑まれそうなその場所で、望む場所へは二度と行けないタルタリヤを、誘うように咲く白い花。
触れるのも躊躇ってしまう程の真白な花。
こんなにも心奪われるのは、初めての事だったのだ。
血が燃え滾る命の駆け引きも、それ以外の穏やかな時間ですら、この少女と過ごす日々はかけがえのないものとなっていった。
彼女が最期を迎えるのなら、それはきっと俺の腕の中だ。
俺が最期を迎えるのなら、きっとそれは彼女の温もりを感じながら。
そんな矛盾を抱えている。
それがいいなと夢に見ている。
最期の瞬間まで、お互いの最大限の力をぶつけ合って、怒って、泣いて、笑って、求め合って。
心臓が止まるその瞬間まで、彼女の瞳から光が消えるまで、ずっと見ていたい。
(あァ...ほんと)
タルタリヤは、静かに眠る蛍を抱き寄せる。
まるで死んでるみたいに音がしない。起きないように蛍の頬を包みこんで、そっと顔を近づけた。
生温い温度が唇に伝わってくる。
何度戦っても、何度乱しても、彼女からは果てない清廉な匂いがする。
(君は、俺をどうするつもりなんだろう)
一人の青年は、腕の中の少女を抱き締めて小さく笑った。泣き出しそうに震える、吐息に溶け込むような笑声だ。
どこまでも期待してしまう。
俺に見せて。俺も知らない俺のこと。
きっと君なら見せてくれる、誰も知らない俺のことを。
それってきっと、正真正銘君だけの俺だって言えるはずだ。
君にだったらあげてもいいって思ってしまう。
スネージナヤで生まれ育った、ただの◾︎◾︎◾︎◾︎◾︎という名の男のことを。
そして、
君がこの世界を旅立つ前に、命を懸けた俺たちだけの戦争をすると指切りしよう。
だから、君だけに最期を捧げる男の名前を、どうかいつまでも覚えていて。
君が寂しくならないように、誰よりも傍にいると約束するから。