発熱
雨が降りしきる放課後、花垣タケミチは傘も差さずに学校の門を出た。ヤンキーがセンチメンタルに浸ることは何ら珍しいことではないが、校門の前で堂々とやってのけるのはなかなかお目にかかれないので、生徒たちは土砂降りの中を晴天かのように歩くタケミチをジロジロと見やった。
空は灰色に沈み、コンクリートの地面に跳ねる水滴が靴下まで染み込ませてくる。ずぶ濡れの学ランはぺっとりと体に張り付き、重たい足取りで帰路についていた。いつもなら友達とくだらない話で笑いながら歩く道も、今日はただ静かで、雨音だけが耳に響く。
友情というのは時に儚く、タケミチの遅刻指導なんて待っていられるか、と友人達は学校に一人も残らなかった。とある筋からの情報だが、友人の一人がとんでもなくエロい本を手に入れたということで、千冬も誰も彼も、タケミチの懇願なんて聞き入れずに女体目当てに帰っていった。
「はぁ…最悪だな。」
タケミチは小さく呟いた。そんな呟きもザァザァ降りの騒音に絡め取られ、誰の耳にも届かずに排水溝に流れていく。朝から何となく気分が乗らず、授業中もぼんやりしていたせいで、こんな日に限って傘を忘れた自分が恨めしい。
角を曲がったところで、不意に肩が誰かにぶつかった。反射的に「すみません。」と口にしかけたが、目の前に広がるのは見覚えのない制服を着た数人の不良だった。ニヤニヤと笑う顔、濡れた髪から滴る水滴、タバコの匂い。タケミチの眉がわずかに寄る。
「おい、テメェどこ見て歩いてんだよ。」
リーダー格らしき男が絡んできた。タケミチは一瞬、どうでもいい、とさえ思った。雨で気分が沈んでいる上に、こんな奴らに絡まれるなんて、うんざり以外の何ものでもない。
「別に…なんでもねぇよ。通してくれ。」
不機嫌が隠しきれずに低く返すが、それが火をつけたらしい。次の瞬間、腹に鈍い痛みが走り、タケミチはよろめいて膝をついた。傘を持たない手で地面を叩き、濡れた髪から滴る水が視界をぼやけさせる。
「なんだその態度。舐めてんのか?」
殴られ、蹴られ、雨に混じって泥まで跳ね上がる。顔に跳ねる泥を拭う気持ちも、抵抗する気力も体力も削がれ、タケミチはただ耐えるしかなかった。やがて不良たちは飽きたのか、「つまんねぇな。」と吐き捨てて去っていった。
タケミチはしばらくその場に座り込み、雨に打たれながら息を整えた。体が冷え切り、震えが止まらない。立ち上がると、全身がズキズキと痛み、濡れた服がまるで氷のように感じられた。「帰ろ…。」と自分に言い聞かせ、よろよろと家までたどり着いた。
部屋に着くなり、タケミチは濡れた制服を脱ぎ捨て、適当にタオルで体を拭いた。暖かいシャワーを浴びる気も起きず、しかしホットミルクなんてものも用意する気もない。冷えた体をそのままにベッドに倒れ込む。
しばらく横になっていると、疲労のせいか何なのか、頭がぼんやりして、体がベッドに癒着していくみたいに重たく、沈み込むような感覚。喧嘩の痛みと冷えが混じり合い、眠気に襲われる。「ちょっと寝れば…大丈夫だろ。と呟き、そのまま目を閉じて意識を深いところへ手放した。
▽
翌朝、タケミチは目を覚ました時、喉がガラガラで体が重いことに気づいた。
「やべぇ…風邪か?」
そう呟きつつも、熱を測るのも面倒だし、そもそも体温計の場所も知らないので、そのまま学校へ向かった。少し気だるい程度なら我慢できる。そう思っていた。
教室に着くと、窓の外はまだ曇り空で、雨は止んでいたものの湿っぽい空気が漂っている。タケミチは席に座り、頬杖をついてぼんやりと教科書を見つめた。授業が始まっても、頭が働かない。鼻が詰まり、喉が痛み、だんだんと体が熱っぽくなってくるのが分かった。
「花垣、ちゃんと聞け。」
教師に名前を呼ばれたが、返事をするのも億劫で、ただ小さく頷くだけ。ボーッと眺めていた教科書の文字もぐにゃぐにゃ歪んでいくせいで、ロクに読めなくなって、シャーペンを握る手がカタカタとわずかに震え出す。やがて我慢の限界が来て、タケミチは机に突っ伏した。額も自らの浅い吐息も熱くて、それでも湿っぽい空気が少しの風と共にタケミチを撫でると、一気に寒気が背筋を走り抜けた。
意識が遠のきそうになる中、耳元で教師の声が聞こえる。」
「おい、花垣!寝るな!」
肩を揺すられ、無理やり顔を上げさせられた瞬間、教師の表情が変わった。
「お前…顔真っ赤だぞ。熱あるんじゃないか?保健室に誰か連れてってやれ。」
「ひ、とりでいけます…。」
掠れた声で返事をしてタケミチはフラフラと立ち上がる。
「…授業は一旦中止だ、戻ってくるまで静かにしてるんだぞ。」
教師に支えられながら保健室へ向かった。頭がクラクラし、足元がふらつく。たどり着き扉をノックすると保健の先生が出てきて、タケミチを支えながらベッドまで連れていく。ベッドに横になると、保健の先生が額に手を当てた。
「こりゃひどい熱だね。」
そう呟いた。タケミチは目を閉じ、ただ寒気と少しのセンチメンタルから逃れるために眠りに落ちるしかなかった。
▽
その頃、教室では佐野万次郎がいつものように窓際の席で足を組んでいた。授業が終わり、周囲が騒がしくなる中、彼はふとタケミチの席を見た。空っぽだ。眉を軽くひそめ、隣の席の生徒に尋ねる。
「タケミっちは?どこ行った?」
「さっき熱出て保健室連れてかれたよ。」
生徒にそう返され、万次郎は小さく「へぇ。」といつもの様子で呟いた。だが、その目にはわずかに心配の色が浮かんでいた。
タケミチはどうしても弱音を言いたがらない時がある、万次郎やらには「本音を言え、笑わないから。」と何度も優しく諭すくせに、自分の気持ちだけはどうしても隠したがる。怖い、や痛い。とかではなくて「苦しい、助けて。」が言えない。
自分が言うと周りが言えなくなる仕組みがあるとでも思っているのだろうか、そんな事はないときっと理解しているはずだが、それでも言わないのだ。
廊下を歩くたびに、心配が少しずつ募っていく。
保健室に着いた万次郎は、ドアを軽く叩いて中を覗いた。ベッドに横たわるタケミチの姿が見える。顔は赤く、息が荒く、時折小さく咳き込んでいる。シーツを握る手がわずかに震え、辛そうな様子が伝わってきた。
「おい、タケミっち。」
万次郎が声をかけると、タケミチは重い瞼をゆっくり開けた。
「…マイキーくん?」
「なんだよその顔。死にそうじゃん。」
笑いながら軽口を叩きつつも、万次郎はベッドの横に腰を下ろし、タケミチの額に手を当てた。
「熱やべぇな。昨日何してたんだよ。」
「雨ン中で…不良に絡まれて…。」と途切れ途切れに答えるタケミチに、万次郎の目が鋭くなった。まだここいらに佐野万次郎の友人である花垣タケミチに喧嘩をふっかけるやつがいただなんて、と万次郎の心中は地獄のような様相だ。
「誰にやられた?言えよ、後でぶっ飛ばしてやるから。」
「いいよ…もう終わったことだし…。」
弱々しく笑うタケミチを見て、万次郎は小さく舌打ちした。
「バカだな、お前。無理すんなよ。」と言いながら、万次郎はタケミチの髪を軽く撫でた。その声には普段の軽い調子とは違う、柔らかな響きがあった。タケミチは目を閉じ、万次郎の優しさに小さく頷いた。保健室の静かな空間に、二人の穏やかな時間が流れた。