「なんかおもしれーコトねぇかなぁ〜…。」
真一郎がそう呟いて、黒い尻尾がゆらりと揺れた。若狭は真一郎の言う「おもしれーコト」の内情7割5部は面倒ごとが占めているのを知っているので、起こったら起こったで楽しいだろうが、起こらなくても良いかなとは思っている。
この事実を言ったところで「んな事ねえ!あれは面白い事だった。」と、面倒ごとを強引に面白いことへと昇華させるので、若狭はいつも通り「ね。」と一言だけ返す。
フラフラ街を適当にほっつき回っては、何も無かった、酒買って帰ろう。となるのがお決まりの休日で、今日もどうせ「おもしれーコト」なんて起こらずに酒買って、佐野家でしこたま酒飲んで年下の生意気な子供達に「酒臭い」「クサイ」と言われながら酒を飲むに決まっている。
「おい、ワカ聞いてんのか?」
「うん。酒何にする?」
「聞いてねーじゃねぇかよ。」
ツッコミを入れられる、心地のいい会話。言葉のキャッチボールを適度にしながら、コンビニに向かう途中の公園を2人が突っ切ろうとした時だった。
その公園は住宅街にある公園にしては中々の広さで、ちょっとした林があった。朝も昼も、その林の木々は背が高くて葉っぱが年中茂っているため、陽の光が差し込みづらく常に薄暗い。ジメッとした不気味な林なので子供達はそこにボールが入り込むと、取るのを諦めたりもする。
その林の中から微かに「ゔにゃ〜…。」と小さな子供の声がした。
「聞こえたか?」
「は?…ナニが。」
真一郎は若狭に聞いたが、若狭の耳には子供の声が届いていなかったようだ。空耳かとも思ったが、もし空耳じゃ無いとしたら、と考えて真一郎は耳をピンと立てて感覚を林の方へ向けた。
「ゔにぃ…。」
「!…やっぱり、林に子供がいる。」
「はぁっ!?何言ってんだよ真ちゃん!」
真一郎は柵を越えて林の中をズンズンと進んでいった、歩いては止まって声の出どころに感覚を澄ませて子供の居場所を探った。
どんどん小さくなっていく声に焦りながら、林の中を彷徨う。
「に、に…。」
「…いた。」
真一郎が足を止めた、若狭もすぐに追いついて真一郎の目線の先にあるものを捉えた。
木の根を枕にして横たわっている小さな猫獣人だった、何というか全体的に酷くボロボロで、憔悴しきっている様子が一見で伺えた。顔も服から覗く肌も傷だらけで、唇は乾燥しきってガサガサになって切れていた。目は泥と涙か何かでくっ付いて開かない、極め付けは手。
猫獣人特有の先端に向かって細く鋭くなっていく爪が、ほぼ剥がされていて、残っている爪も先端が潰されている。
虐待されていたことはほぼ確実、目も当てられないような姿に若狭は「うげえ」と心で呟く。それよりも正義感と怒りで、毛が信じられないくらい逆立っている隣の男の方が、恐ろしくて見ていられなかった。
真一郎は腰を屈めてその子供を抱え上げた。
「ちょ、どうすんのソレ。」
「手当してやる。」
ここでこの子供を見捨てる真一郎だとしたら、それは若狭が憧れて着いてった真一郎ではない。根っからのヒーローだな、と笑ったような呆れ顔で林を抜けた。コンビニではなく薬局へ行き、消毒液やら色々買って帰り真一郎の部屋のソファへと子供を下ろした。
「にしても酷え状態だな…。」
真一郎が呟く、一体どこから手をつけたらいいのかわからないくらいに傷だらけで、とりあえず顔から手当てをすることにした。
洗浄綿で顔の泥や固まった血などを拭いていき、汚れが落ちたら傷口を消毒して絆創膏を貼った。目元は泥を落として、目のキワを濡らした綿棒で綺麗にする。唇にはワセリンを塗って一先ず顔の処置は終わった。
「はぁー…疲れた…。」
「んで、これからどうすんのソレ。」
「決まってんだろ、面倒見ンだよ。放っておけねぇだろ。」
「だよねー、知ってた。」
ボサボサでパサパサの頭を撫でる、するとパチっと目が開いた。青くて澄んだ瞳が真一郎と若狭、そして部屋の中をギロギロと見渡した。そして次第にその大きな目に涙を蓄えた、と思ったらポロリとこぼしてソファを濡らした。
「えっっ。」
「ちょ、どうした?痛い?」
突然泣き出した子供に真一郎が動揺しつつも心配そうに聞くと、パチパチと瞬きをしてその度に大粒の涙を降らせた。震える小さな手で目を擦って細い喉を嗚咽で揺らす。
「お、おれのこと、たたきますか?」
「えっ?」
「ごめん、なさいっ…許してください…おねがいしますっ…!」
えぐえぐと泣きながら、ソファの上で芋虫のように動いて土下座の体制をとる小さな子供。耳をペタンと下げて、怯えを全身で表現している。
ごめんなさい、と涙交じりに何度も呟く姿に胸を痛めつつも真一郎はソッとその頭を撫でて、抱え上げてやった。
「叩かねえよ、腫れちまうからもう泣くな。」
「…たたかない?」
「叩かない。こっちのも、お前のこと叩かないから安心しな。」
潤んだ目が若狭の方を向いた、若狭は同意を示すようにコクコクと頭を上下に動かした。少し安心したのか涙は止まり、耳が少しだけ上がる。
「メシ食うか?喉とか痛くねぇ?」
「いたくない…食べたいです。」
「よしよし、ちょっと待ってな。ワカ、こいつ見といてくれ。」
「ン〜。」
真一郎は子供を若狭にパスして部屋を出た。想像してるよりも格段に軽いその体に、顔には出さないが驚いた。膝に乗せて真一郎を待つ。
「…お前名前とか無いの。」
「名前?…タケミチです、花垣タケミチ…。」
「タケミチ?」
「はい、お兄さんは…。」
「オレは若狭、ワカでいいよ。さっきのは真ちゃ…えーっと、真一郎。」
「ワカくん?」
「そう。」
タケミチは若狭の胸に頭をスリスリと擦って、喉を「うるる…。」と鳴らした。小さな背中をトントンと落ち着かせるように叩きながら、時折撫でてやる、クルクルと喉からなるご機嫌な音が部屋に響いて若狭の耳にも心地がいい。
ちっこい手でシャツを掴んで、離れないようにピッタリとくっ付いているタケミチに、若狭の庇護欲やら何やらがやたらと刺激された。
「待たせたなぁ、メシだぞ〜。」
少しして真一郎が茶碗と小さなスプーンを片手に戻ってきた。
「タケ、ご飯だって。」
「たけ?」
「名前、タケミチっつーんだって。」
「へえ。タケミチ、おはよう。」
フニフニと頬っぺたの傷がないところを突いて起こす、ゆっくりと目を開けて真一郎を見る。
「真一郎、くん…。」
「おっ、そうそう。よろしくなぁ、お粥作ったから食べるか?」
「真ちゃんそのお粥レンチンで作るヤツじゃん。」
「うるせーな、早く出来上がる方がタケミチも嬉しいだろ。」
なー?とタケミチに同意を求める真一郎、タケミチはそもそも「レンチン」が何かを理解してないのだがとりあえず頷いておく。小さなスプーンにお粥を掬って、息を吹きかけて冷ます。口元に持っていくと小さな口を開けて食べる。
「んいひい。」
「美味いか〜そっかそっか。」
「オレもやりたい。」
若狭がスプーンと茶碗を取って、タケミチの口元に「あーん」と言いながらお粥を運ぶとタケミチも同じように「あー」と言って食べた。親鳥が運んできた餌を食べる雛のようで、既に真一郎も若狭も目の前の小さな子供を心の底から気にいった。
特に真一郎なんか弟妹はすでにお兄ちゃん好き好き期間をとっくに抜けていて、可愛さ余って憎さなんたら状態に両足を突っ込んでいる。そんな中で素直で可愛いタケミチに出会ってしまったら、もう気にいるしかない。
気がつけば茶碗は空になっていた。
「おー、完食。偉い偉い。」
「ごちそうさまでした。」
「え…?偉すぎ…。」
「タケミチまだ寝るなよ、風呂いくからな〜。」
タケミチを抱えてヨッコラセと言いながら立ち上がり、部屋を出て風呂場へ向かう。洗面器の下にある収納スペースには、まだ子供用のシャンプーハットが眠っている。ソレを引っ張り出してタケミチの頭に嵌めて風呂場に押し込もうとする。
しかし。
「んに"ぃ"ぃぃっ〜!! に"ゃお"ぉぉ〜!!」
「うおうおうお、どうしたんだよタケミチっ。」
「風呂が嫌なんでしょ、ネコ科のガキにはよくある事じゃん。」
「タケミチー?離れてこっち座ろうぜ?」
「ん"ん"にい"ぃぃっ〜…!」
真一郎の腰に抱きついて離れなくなってしまった、風呂場にある椅子に座らせようと説得しても、若狭が引っ張っても泣いて離れなかった。
どうしたものか、と風呂場の中で突っ立って考える。
「しょーがねぇ、この状態で洗うか。」
「真ちゃん濡れちゃうじゃん。」
「別に平気だろ、ワカ洗ってくれ。」
「ハイヨ。」
結局は服を濡らしてタケミチを洗うという強行突破の策になった、蛇口を捻ってシャワーのお湯が適温になるまで少し待つ。温かくなったらゆっくり体にシャワーをかける、するとブルブル震えて真一郎に抱きついてたタケミチが、キョトンとした顔で真一郎を見上げた。
「どうしたタケミチ、熱い?痛い?」
「おふろなのに、冷たくない?」
衝撃的すぎて固まってしまった。あんなに嫌がっていたのはタケミチにとってのお風呂は冷たくて、寒いものだったから。今まで風呂を温かくて気持ちがいいものとして捉えていた2人にとって、タケミチの拒絶は単なるワガママに映ったが、ここまで価値観が違うとタケミチ目線の常識を疑わざるを得ない。
とりあえずお風呂は温かく気持ちいい、と常識を変えるところから。
「お風呂は冷たくない、あったかくて気持ちいいものだぞ。」
「そうなの?」
「そうそう。」
タケミチはそーっと真一郎の腰から離れて、椅子に座る。頭にお湯をかけてシャンプーで丁寧に洗う。体は傷が酷かったので、わかりやすい切り傷などは避けてボディーソープをタオルにつけてチマチマと洗った。
風呂から上がり体を拭いたところで気がついた、タケミチの洋服が無いのだ。もともと着ていた服はボロボロで、何より泥だらけだったので捨ててしまったのだ。
「服…万次郎のでいいか、ちょっと待ってな。」
真一郎は脱衣所から出てしばらくして服を持って戻ってきた。
「サイズ合うかなー…お、ちょい大きいけどまあ平気か。」
「まんじろー…?」
「オレの弟、そうだタケミチ自分の歳わかるか?」
「9さい。」
「ふーん…じゃあエマと同い年か。」
「エマ…?」
「オレの妹。」
すぐ会えるよ、と言ってタケミチのふわふわになった頭を撫でた。大きな手に引かれて先ほどいた部屋に連れて行かれたと思ったら、ベッドに寝かされてポンポンとお腹を叩かれる。
「疲れたろ、寝てていいぞ。」
「つかれてないです、2人といる。」
「寝るまでいてやるから、な。」
タケミチは先まで眠くなかったのにだんだんと眠気が昇ってきて、瞼が下がってくる。若狭と真一郎の手が温かくて柔らかくて、意識がぼんやりとする。目を瞑って、また開けた時、あの暗く寒い林だったらどうしようと思うと眠るのが怖い。目が覚めたら、と抗おうとしたが結局勝てずに寝てしまった。
「寝たな…。」
真一郎がそう言って若狭が「酒買い行く?」と部屋の扉を開ける、すると毛を逆立てて尻尾も山なりに立てた万次郎が立っていた。キュッと細まった瞳孔が若狭を見上げる。
「…誰、そこ誰いんの。」
どう見ても部屋の中で寝ているタケミチの匂いか気配を察知し、知らない奴が自分のテリトリーに入ってきていると警戒心を剥き出しにしている。
「タケミチだよ、これから一緒に暮らすから仲良くしろよ?」
「はぁ?…チッ。追い出せよそんなヤツ。」
「そんなに怒るなよ万次郎、今は寝てるから起きたら優しくしてやるんだぞ。」
真一郎は万次郎を宥めて昔のように頭を撫でてやろうとしたが、パシッと軽く叩かれてしまった。ムスッと不機嫌な顔をしたまま「ふん。」と鼻を鳴らしてどこかへ行ってしまった。先が思いやられる反応だが、真一郎は獣寄りでナワバリ意識が強い万次郎のことだからこうなるのではないか、と何となく理解はしていた。
「めっちゃキレてたね、真ちゃんどうすんの?」
「どうもこうも…折り合いつけて貰うしかねえだろ。」
そう言って酒やら何やらを買いに家を出た。
徒歩10分圏内のコンビニ、店員はいつも通り変わらない近くの大学の学生で、コチラはもうすでに名前も挨拶のイントネーションも覚えている。おそらく向こうも休日にはほぼ現れる若狭と真一郎、たまに武臣のことを不摂生三銃士みたいなあだ名をつけて呼んでいることだろう。
2人はビニール袋をガサガサ揺らして佐野家へと帰った、玄関を開けるとバタン!と大きな音がした。まさか、とは思いつつも走って音の方へ向かうと爪と牙を立てた万次郎がタケミチを引きずっていた。
「っ、やめろ!!何してんだッ!」
真一郎の毛が一瞬で逆立って、威圧のフェロモンが家中を埋め尽くす。焦りで加減ができなくなっているのか、咄嗟に想定以上のフェロモンを出したのかはわからないが、若狭は一瞬完全に動けなかった。
タケミチから引き剥がした万次郎は低く唸っていて、腕の中でジタバタと動いている。
「ゔうぅっ!!ゔゔ〜〜〜っ!!」
「落ち着けって万次郎!」
「真にぃ?マイキー?」
「!?エマッ、今は出てくるな!」
「えっ?…キャッ!」
タケミチに向かって行こうとする万次郎を何とか腕の中に留める、しかし帰ってきたエマが物音によってやって来てしまった。万次郎の振り回した爪がエマの腕を裂く。
パタパタと床に落ちる血、万次郎はその赤を見て水を被ったように静かになって落ち着いた。
「あ、あ…エマ、ごめん…。」
「…エマ、手当するからこっち来な。万次郎は手ぇ洗ってこい。」
真一郎が奥の部屋に行くと、若狭にピッタリ抱きついて離れないタケミチがいた。離そうとすることもなく、背中を撫でて耳元で何かを言っている。
「ワカ、タケミチどうした?」
「マイキーに蹴られたっぽい場所の傷が開いてンだけど、こんな感じで離れねぇから。」
「タケミチ?手当てしよう?」
「ヤダ…。」
「うーん…、エマ先に手当てするか…。」
エマの腕にできた傷は見た目よりも浅く、適切な処置をすれば傷跡は大きくは残らなさそうだった。包帯をキツめに巻いて終わる。
「グッパーできるか?」
「うん。」
「よし、なんかあったらすぐ言えよ。」
「…その子だれ?」
エマはタケミチを指さした。真一郎はどう話したらいいのかよく分からなかった。
虐待を受けて逃げてきたか、捨てられたか、わからないがタケミチは心身ともに傷を負った状態。それが放っておけなくて拾ってきたのだが、その事を伝えれば優しいエマのことだから、甲斐甲斐しく怪我をしているのに世話をすることだろう。
それはあまり望ましくない。
「一人でいたから拾って来たんだ、万次郎は気に入ってはくれなかったみてぇだけど…。」
「…でも、マイキーきてるよ…?」
「はっ?」
エマが指差した方を振り向けば万次郎がおずおずと立っていた。尻尾をキュッと握りしめて、入っていいか様子をジッと伺っている。
「万次郎…入ってこい。」
そう言うと、そろそろと入ってきた。
タケミチを抱えている若狭の方に歩いて、ストンと腰を下ろした。そして、服を捲り上げると開いた傷口をペロリと舐めた。
驚いたタケミチがわっ、と飛び上がって万次郎と向かい合うと逃げないように手を伸ばしグッと引き寄せ、次は頬をペロリと舐めた。
「なに、なにっ?」
「……ごめん、知らねー奴がいたら気をつけろって言われてたから。ふほーしんにゅうかと思って…。」
「ごめんなさい…。」
「何であやまってんの。」
「………オレ、ジャマじゃないですか?」
「わかんねぇ、でも家族になるなら、ジャマじゃない…気がする。」
「いても、いいですか?」
万次郎はそれに答えず、真一郎の方を向いた。タケミチも同じように視線を向けた。
「当たり前だろタケミチ、もうオレらは家族だ。」
タケミチの頭をクシャクシャと撫でると、目から涙が溢れた。次第にタケミチの息は上がっていって、ひっくひっくと喉を鳴らして「ありがとうございます」とベチョベチョに泣き腫らした目をこすりながら何度も言った。
「泣くなよタケミっち。」
「たけみっち?」
「うん、タケミチだろ。だからタケミっち。」
万次郎が頭を撫でやる、涙は止まったがひっくひっくと鳴る喉は治らなかった。腕の中に優しく抱き入れてポンポンと背中を叩く、泣いて体温が上がり熱くなった背中はどうにも小さい。
「あ、万次郎そのまま抱っこしてろよ。」