INCARNATIONサンプル(仮) フロイトは格納庫の最奥、一際広くとられた区画にロックスミスを停めるとシートに背を預け、肺に満ちていた空気をすべて追い出すように深く息を吐いた。
まだ先ほどの戦闘での興奮が肌の下で、恥じらうこともなく燻る火となって残っていた。いつまでもこんな時間が続けば良い。久しぶりにそう思えるような戦闘だったと彼は短く振り返った。
ISB二二六二 惑星ルビコンⅢ。かつては多くの人類が入植し、コーラルとともに繁栄したこの星は約半世紀前のアイビスの火により荒廃し、宇宙の片隅でその暗闇に紛れるように息をひそめて生き永らえていた。
人間というものは御多分に漏れず忘れっぽく薄情な性質で、コーラルを失ったこの星の存在は、惑星封鎖機構の監視もあり、人々の記憶からも、人類の歴史からも忘れられようとしていた。しかし。突如として報じられたコーラル再発見の知らせは、伝染病のように素早く全宇宙を駆け巡ると、この星は望まぬ形で再び世の耳目を集めた。知らせを聞いた二大星外企業、アーキバス・コーポレーションとベイラム・インダストリーは早々に調査という名目のもと、それぞれのAC部隊を進駐させることを決断した。それは調査とは名ばかりの、コーラルの実効支配を目的とした侵略ではあったが、彼らに面と向かってそれを非難することができるものは宇宙連合政府には存在しなかった。
彼らの迅速な決断と対応に反して、調査は順調とは言い難かった。両企業とも惑星封鎖機構の厳しい監視と、アイビスの火の生き残り──灰かぶりとその子孫たちで組織されたルビコン解放戦線の妨害により、スケジュールは当初の想定を超えて延伸した。アーキバスのAC部隊、ヴェスパーについてもルビコンⅢに進駐して以降、目ぼしい成果を上げられずにいた。編成された調査隊は、べリウス南部の廃墟となった旧居住区を、中部に横たわる峻険な山々を彷徨い、コーラルの手がかりを探し求めた。
スネイルをはじめとした部隊長が忙しく駆け回る中、フロイト自身に下される指令は拠点での待機ばかりで(過保護な上層部の決定によるものだとフロイトも理解はしていた)、シミュレータでのACの初動パターンから回避行動に至るまで暗記しても尚、時間を持て余し、ついには人目を盗んでは目立つロックスミスではなく汎用MTに乗り換えてこっそり調査部隊に紛れこんで彼らと行動を共にしたりもした。
「この惑星はアイランド・フォーなどよりもはるかに厳しい戦場となる」
出立前にフロイトを含めた部隊長全員に向かって檄を飛ばした幹部の顔を思い浮かべながら、かつてはルビコン調査技研の関連施設があったと思われる地を巡り、機器に残ったログを漁り、ビルの間を飛び回った。
どこに厳しい戦場とやらがある?フロイトは、もう何度見たかわからないログ解析の進捗バーを睨みながら思った。次に本星に戻ることがあったらぶん殴ってやる。そう願いながらも何の充実感も得られない日々だけが過ぎていった。
しかし、この停滞の日々はある一人の独立傭兵の出現で一転することとなる。
ハンドラー・ウォルターとその猟犬、独立傭兵レイヴン。彼らは企業のみならず、解放戦線からすらも公平に任務を受託し、達成し続けた。ほとんど無名だった彼らの名は、コーラル再発見の報と同様にたちまちルビコンⅢ上を広がった。
ここ、中央氷原にもどの勢力よりも早くたどり着いたという知らせは記憶に新しい。アーレア海を物資運搬用のカーゴランチャーで横断するというネジの外れた方法に、額に青筋を立てて言葉を失ったスネイルを横目にフロイトは大笑いし、ひどく感心したのを覚えている。確かに手っ取り早い方法だった。パイロットの負担を考えないのならば。彼らはヒアルマー採掘場に設営されたアーキバスの調査キャンプを襲うと(この節操のなさもフロイトが独立傭兵を気に入っている美点だった)現れた惑星封鎖機構と交戦した。この戦闘を機に戦況はせき止められていたダムが決壊するかのように激化の一途をたどった。
旧宇宙港とハーロフ通信基地への強襲と、惑星封鎖機構の持つ強襲艦の破壊。追い詰められた惑星封鎖機構は、ついにルビコン調査技研の自立防衛型C兵器IA‐〇二──通称アイスワームを起動させた。衛星写真にも写る、コーラルを動力に動くこの化け物を前にアーキバスとレッドガン、そしてかの独立傭兵は一時的な停戦協定を結び、惑星封鎖機構をあざ笑うかの如く、これを打ち破った。惜しむらくはその作戦にフロイト自身が参加できなかったことだ。
ログを眺めれば眺めるほどにどこか親近感を覚える独立傭兵とその飼い主。敬愛する木星戦争の英雄と、その部下。ヴェスパーからはスネイルと第四隊長のラスティが参加した。ログの中で独立傭兵はアーキバス先進開発局から提供されたスタンニードルランチャーを操り、アイスワームの顔面に雷撃を浴びせていた。
俺だったら。画面に映る鈍色の機体とロックスミスが重なった。俺だったら。俺だったらもっと正確にスタンニードルランチャーを当てられる。だが、左手にパイルバンカーを選んだセンスは評価せざるを得ない。
端末の画面の中でアイスワームがコーラルを血液のようにまき散らしながら地をのたうちまわる。
「面白いな」思わず、言葉がフロイトの口からこぼれ出ていた。防衛のためにこんな化け物を作り出すとは……もし技研の人間がまだ生きているのなら会ってみたいものだ。再び、最初からこの戦闘を観ようと巻き戻しに指を伸ばした。そのとき。フロイトの胸の内をざわりと撫でる、予感のおとないを彼は聞いた。
まだ、だれもコーラルを手にしてはいない。しかし、終幕の足音はゆっくりとこの地に鳴り響きはじめている。コーラル争奪戦が終わる。それは、また退屈な日々に逆戻りすることを意味していた。
「最悪だ」思わず身震いして呟いた。脳裏にじわりと浮かび上がった考えを振り払うように巻き戻しと再生を繰り返す。本星に戻れば奴らはアイランド・フォーと同様に救国の英雄としてフロイトを祭り上げ、もっともらしい理由をつけて戦場から遠く、護衛付きの安全な任務を割り当てようとするだろう。それか後方支援という名のデスクワークか。……糞くらえだ。それに、まだろくに遊べてもいない。レイヴンとも一度も戦っていない!……解放戦線にでも行けば戦れるだろうか。この数日間、ひそかに芽吹いた疑問が頭の中で揺らいだ。そうすればこの争いを長引かせることも、今まで以上に戦場を飛び回ることができるのは明白だった。
だが、それはヴェスパーとの、アーキバスとの決別を意味する。惜しむものなどなにもない。むしろ、やかましいばかりの上層部と離れられるのは喜ばしい限りだったが……スネイルは俺についてきてくれるだろうか?あいつがいればこの星をもっと自由に、もっと楽しむことができる。思って、フロイトは頭を振った。そんなことはルビコンⅢが滅びたってあり得ない。スネイルにとって、アーキバスこそが彼と、同じく寄る辺なき不安に苦しむものたちの庇護者なのだ。それを裏切ることはまず、ないだろう。
画面の中でアイスワームの巨体が五度目の断末魔の叫びを響かせながら氷の粒を巻き上げ大地に倒れ伏したとき、フロイトは「あっ」と声を上げた。
ACに乗るだけならもっと簡単な手があった。それもスネイルの作戦で、だ。
彼はログを再生していた端末を放り投げ、代わりにヘルメットを引っ掴むと立ち上がった。出発予定時刻をもう三分も過ぎていることに気が付いた。スネイルは自分の遅刻には甘いが、人には厳しいペナルティを課したがる。今日の任務が取りやめにならないことを祈りながら、やっと割り当てられた惑星封鎖機構強襲の任務へと向かった。
ロックスミスが通常モードから切り替わり、正常にその機能を停止したことを示すアラートはこの楽しい時間の終わりを告げるように短く響くと、コックピットの灯りは一段と明るくなった。辺りを映していた投影型ホログラムの画面は消え、いつまでも席を開けようとしない客に帰宅を促すような光の下、ゆっくりと首をまわし、渋々ハッチの解錠ボタンを押した。軽く空気の漏れ出る音をこぼしながら扉が開く中、慣れた手つきで座席に固定された四点シートベルトの金具を外していく。
跳ね上がった扉から覗くキャットウォークの上に不自然なまでに細く長く伸びた影が落ちていた。もう来たか。その先に立っている人物を頭に思い浮かべてフロイトはもう一度、少しでもこの時間を長引かせようと長く深く息を吐いた。彼の出迎えは好都合だが、どうやらこの影の主はエクドロモイの、エネルギーパイルの切っ先をほんの数十センチで回避したスリルも、放たれたプラズマとすれ違いながらコアにブレードを叩きこむ痺れるような喜びに浸る時間を与える気は無いように思える。あまりここでぐずぐずすると、恐ろしく強い力で引き摺り出されることを理解していた体は背もたれを掴むとしぶしぶ座席から立ち上がった。
開けた視界に細長い影の主──ヴェスパーⅡ スネイルの、作りものめいた無表情な顔があった。彼は手元の端末に目を落としていたが、フロイトの気配を察知するや視線を上げ、保護ゴーグルの下の目を細めた。
「ご苦労さまでした。問題はなかったようですね」
「ああ」
コックピットから勢いをつけてキャットウォークへと飛び移る。スネイルの真横を金属板の入ったブーツの踵が鋭く打ち、その音は格納庫の天井へと舞い上がって長々と鳴り響いた。残響を耳に、スネイルの抗議を遮り、フロイトは続ける。
「やはり封鎖機構はいい。解放戦線よりも層が厚い。なかなか良い機体が揃っている」
飛び降りた際の反動を活かしてキャットウォークを大股に進んだ。叩きつけるような足音に混ざってスネイルのため息が続いたが、やがて、彼もまた歩き始めた。二つの足音はそれぞれのリズムを刻みながらも、複雑なシンコペーションを生み出して第一隊長麾下の部隊の帰投に沸く格納庫に膨れ上がった音の中の一つへと溶け込んでいく。
「レイヴンだったか?あの独立傭兵に感謝しないとな」
キャットウォークの先からロックスミスの整備担当たちが工具を手に走ってくる姿を認め、フロイトは軽く手を上げる。エンジニアたちは立ち止まり、帰還を労う言葉とともに頭を下げた。その声を遮って、フロイトは自身の左肩を指さし、「肩にレーザーを受けたんだ。その後からドローンの射出スピードがずれていた気がする。確認してくれ」と早口で指示を出し、返答も待たずに「頼んだ」と一番年嵩の男の肩を叩いた。
「あいつが暴れまわってくれたおかげで俺も惑星封鎖機構と戦れた」
「……貴方を楽しませるためにやっているのではありませんよ」
わかっている。フロイトはキャットウォークが広くなった通路と合流するその境界で立ち止まり、くるりと振り返った。
視線の先、ロックスミスは先ほどまでの戦闘の余韻を漂わせることなく静かに佇んでいる。カメラアイの電源は既に落ち、わずかに俯いたその姿は通路を歩くフロイトたちを見守っているようにも見える。
──今日は楽しかった。だろ?ロックスミス。
フロイトは心の中でたった一人の家族でもあり、友人でもあるロックスミスに語りかける。返事なんて必要としなかった。彼はそこにいる。それだけで十分だった。ここにいる限りロックスミスは何者にも脅かされることはない。
通路を挟んだ向かい側には、スネイルのオープンフェイスが主人同様に固い無表情で冷ややかにフロイトを見下ろしているような気がした。ACは魂を持たない。所詮はパーツの組み合わせでしかない。言われるまでもなく理解してはいたが、それなのに彼らがパイロットに日々似ていくような気がして、それがどうしようもなく不思議に思えた。スネイルならば、何か答えを知っているだろうか。思って、横目でフロイトにあわせて立ち止まったスネイルを見上げた。
自分よりも頭一つ分高い長身に、一分の隙もなく完璧に鍛えられた体躯。わずかに癖を帯びた金髪を櫛目も美しく後ろに流し、角膜を保護するゴーグル越しでも作り物めいた整った顔の奥にある、中央氷原を覆う氷よりも冷たい眼差しを隠すことができないでいる。今もオープンフェイスと同じようにあたりを睥睨するスネイルは昔から──それこそ出会ったときからかわらない。アイランド・フォーの動乱からもう五年の月日が流れたが、年を重ねれば重ねるほど、見れば見るほどにオープンフェイスが彼に似てきているように思えるが彼に伝えたところで、「そうですか」と適当にあしらわれるのが目に見えているので伝えるのはやめた。
庫内に部隊の帰投を告げるアナウンスが流れた。技師が、衛生兵が、医師が、拠点で待機していたありとあらゆる人間が慌ただしくキャットウォークを駆け、タラップを登り、コックピットで動けなくなったパイロットを引きずりだしては救護を行い、破損したACや、MTの修繕へと向かう。フロイトは見るともなしに彼らを目で追った。彼らは、巣の中を忙しく動き回る蟻のようにも見えた。蟻。そういえばこの星には──……
「フロイト」呼びかけにフロイトが再びスネイルに視線を向けると、彼は無言で自身の頬のあたりを指さした。
「ああ」頷き、ヘルメットを脱ぐ。途端、格納庫内の騒音が分厚い層となって迫りくるも、熱気に蒸れた頬に触れる風は冷たく、心地よく感じられてわずかに目を細めた。
スネイルはフロイトの顔を見降ろし、鋭い視線で彼の顔を様々な方向から確かめ、耳鳴り、幻聴、視界のぶれはないか矢継ぎ早に短く問いかけた。
ない、ない、ない。投げやりな回答に怒る素振りもなく、彼は「本当に問題はないようですね」と一人納得したように頷いた。
「ああ。痛みもない」
最後に虹彩にぶれがないかを確認しようとスネイルはフロイトの顔をのぞき込んできた。落ち着きに満ちた青灰の瞳はフロイトの今日の行いや、考え(つい先ほどまで考えていた、なんでACがパイロットと似るのだろう?と言う子どもじみた疑問すらも)をすべて見透かそうとするかのようにしばらくの間じっとしていたが、ようやく満足したように息を吐いた。
「大変結構。念の為、このままメディカルチェックを受けてください」
「スネイル」
フロイトの呼びかけに、スネイルは手にした端末に何かを打ち込みながら顔もあげずに「なんですか」と先をうながした。
「話がある」
「話?あなたが?」
「ああ」
「……シミュレータならお断りです。この後は会議が」
「違う。お前の試験の件だ」
俯いたスネイルの頬がほんの一瞬引きつったのをフロイトは見逃さなかった。
「試験?何の話ですか」
端末に視線を注いだままのスネイルを下から覗き込み、笑いかけた。ゴーグルの下の瞳は先ほどとは打って変わって頑なにフロイトを見ることはなかった。
「ごまかすなよ。この前、開発局のやつと話してただろ?あのパーツの試験だ。ほら、捕虜の頭部を」
「フロイト」
鋭く名前を呼ばれて、フロイトは口をつぐむ。
予想通りだ。スネイルは相当、この話には触れられたくないらしい。笑みがこぼれそうになるのを唇を噛みしめて耐え、無言のままスネイルを見つめると彼は「まったく……」とぼやいて一糸乱れぬ側頭部を撫で上げた。
「……メディカルチェックが終わったら執務室に来なさい。少しなら時間を取りましょう」
「ああ、わかった」
おざなりに頷き、スネイルとロックスミスに背をむけた。遠くからペイターが長い脚でこちらに駆けてくる姿が見えた。ペイターはフロイトの前で一度立ち止まり、最敬礼の姿勢を取った。
「フロイト第一隊長殿、惑星封鎖機構強襲の任務、お疲れ様でした」
ああ。軽く頷いて道を譲る。ペイターはスネイルに呼びだされていたようだった。
「遅い」いつも以上に短く鋭い叱責が背後から飛んだ。
「遺体は安置室に。ドクター、トリアージを。急ぎなさい。重傷者は何名いますか。軽症者は端によりなさい。動けるものはドクターの指示に従いなさい。ペイター、各員から話を聞いて取りまとめたら私まで報告するように」
「承知しました」ペイターは略式敬礼で応えると再び駆けだした。弾む足音は騒音に交じり、人々の熱気とともにますます大きくなり、この拠点いっぱいに広がり満ちる。それでも、先ほど見せた一瞬の動揺などまるでなかったかのようなスネイルの指示は、はっきりとフロイトの耳まで届いた。その姿はやはりオープンフェイスそっくりで、彼がいる場所こそがアーキバスであり、ヴェスパーであり、そして、このルビコンⅢもまた戦場なのだということをフロイトに改めて告げているような気がした。
そうだ。フロイトはふと、先ほど脳裏にぼんやりと滲んだ疑問の答えを口にしていた。「この星には蟻はいない」アイビスの火以降、大きく生態系の崩れたこの地には、一部の食用生命体を除いて昆虫は存在はしない。ここには、人間を模した機械と、かつての存在した生物を模した機械しかいない。その単純な事実が、フロイトの心に一滴のインクのように落ちて、溶けて消えた。
彼は一度振り返って人々の存在を確かめるように眺めると、聞き慣れた音たちに背を向け、足取り軽く医務室へと向かった。