赤い酒瓶釈明先が思いつかない。神仏の存在は信じていない。「何故いるのか」だなんだと詰め寄られたら面倒なことになる。
神隼人は一人で眉根を寄せた。
せめてこれまでの己の人生に誓って言えば、今日の予定は意図していなかった。
昨晩の会食で研究の出資者相手にワインを零され、気に入っていたシャツが駄目になってしまった。それに関してはいい、怒ったところで仕方がないし弁償代はきっちりせしめた。だが自分は服に拘る性質だが拘り過ぎて数が少なかった。このままでは換えがきかなくなると馴染みの店に向かったのが今日のことである。
気に入った服は見つかった。足りないタイプのものだけではなく、新しく少し襟の高いシャツも買った。なにせ戦友を「選ばれた奴しか着こなせねえ服しか着ねえ」と言わしめるほどだったので、好みに合致するものがこうまでして簡単に手に入ることを喜んだ。浮かれていたと言ってもいい。そこからついでに自宅用の酒でも買おうかと近場の大型量販店に向かって、今に至る。
この店の食料品売り場は広大で、その一区画を占有するリカーコーナーも所狭しと酒瓶が並んでいる。天井まで伸びたその棚に手を伸ばしているのは、間違いない、件の戦友だ。
思わず死角に隠れてしまった。別に気まずい仲というわけではない、隼人の人生において数少ない「気の置けない仲」に該当する男である。昨晩も隼人が気苦労を重ねている横で、ニヤニヤしながらぐい吞みを手放さずにいたのが彼だ。
普段ならば「お前も少しは"らしく"したらどうだ」なんて文句の一つでも言いながら偶然の出会いを笑うだろう。この後にどうだ、と酒を一緒に買い込むかもしれない。
そうしなかったのは、彼──竜馬の隣に、それよりも小さな背中が見えたからである。
一度しか会ったことはないが忘れてはいない。月面戦争から帰ってきてしばらくした後に面会した少女だ。彼女が竜馬のよく話していた"親戚のガキ"だということにそこで気が付いた。「竜馬お兄ちゃん!」と飛び込んできたその姿は、戦争の年月を経て、彼が語る"ガキ"よりも随分大人びていた。
付き添いで来た彼女の親が二言三言で去ると、少女とは沢山の応酬を交わした。もうすぐ高等学校を卒業するのだと語る彼女に、竜馬は「浦島太郎かよ俺は」と笑った。
「こんな小せえガキだったのによ」
親しみを込めて彼女の背を撫でる手のひらにある親愛感は、血縁によるものだと思っていたのだが。
「竜馬お兄ちゃんお酒飲みすぎ!私との約束忘れたの?」
「いーんだよ、呑んでも呑み足りねえんだから体にも悪くねえ。で、お前の方は俺との約束を忘れたわけじゃねえだろうな?」
「お兄ちゃんって呼ぶなってやつ?ずっと竜馬お兄ちゃんだったのになんで今更?」
「駄目なもんは駄目だ」
大の男でさえたじろぐその気迫の一片が、彼女の喉笛を撫でる。そこには絶対的な線引きがあると知らしめる。それでも見知った顔だから彼女はまだ臆さない。甘えることが許されている。
「じゃあ、りょーまくん!」
揶揄う声音だったが、竜馬は満足したようだ。「それでもいいぜ。呼び捨てでも構わねえよ」と微笑むその表情は温かい。
温かい。生温い。
濡れた感情を包んでいるから。
彼女が棚に並んだ美しいガラス瓶に見惚れているその姿に、竜馬は視線を投げかける。
「りょーまくん、どれ飲むの?」
「ああ、そうだな……お前が好きなものを選びな。なんでも呑めるからよ」
隼人は思った。もしここで少女が振り返れば、隣に立つ男が一体何を一番欲しがっているのか知ってしまうだろう。どんな酒を呑んでも満たされない男が、一つだけ選ぶものを知ってしまうだろう。
酔いが回っているような熱量の瞳は、ただ一つを射抜いて離していない。それは決して"年の離れた親戚"に留まっているものではない。
世界で一番美しいものを見る目だった。それは隼人自身にも覚えがあった、自分は世界で一番美しい人を知っている。しかし同種ではない、決して。
(俺は人だ、しかしあれは──獣だろう)
しかも、罠を使う。獣だと舐めてかかれば理屈で潰され、理屈でかかれば獣性に潰される、月で嫌と知った彼の精神性だ。眩暈がした。
「じゃあ、あれとかどう?あの赤い瓶のやつ」
「桃のリキュールか」
「甘いお酒だよね?りょーまくんそういうのも好き?」
女の呑むもんだろ、と、隼人の記憶にある彼なら言うだろう。しかし目の前の竜馬は「おう。なんでも呑むっつったろ」と口角を上げてみせる。
少女が選んだ酒は棚の最上段にあった。竜馬の肩より下にある少女の背丈では当然届かず、代わりに竜馬自身が手を伸ばす形になる。カートを押した客が背後を通ると、竜馬は酒瓶を掴みながらもう片方の腕で少女を抱き寄せた。力強く、けれど決して痛くしないように気遣っていることも、遠目で分かってしまった。
そこが引き際だった。隼人はそのまま駐車場へと急いで引き返した。愛車の運転席に座って、二着の服が入ったショッパーだけを伴に家へと走る。
明日揶揄うための話の種にするか、あるいは忠告をするか、それさえ決めあぐねた。
きっと竜馬は、彼女を泣かせることをしないだろう。どれだけの年月を我慢しようが構いはしないだろう。
だが決して手放すこともしない。直情的だが理性的なあの男は、直情的に愛情を注ぎ、理性的に絡めとる。
次第に少女は赤いものばかりを指さすようになり、竜馬の本当の好みの酒を選ぶようになるのだろう。あるいは、逆に甘い酒を好みに変えてしまうのかもしれない。
そして彼女は気付かない。
隼人は考えた。かつて「親戚のガキ」をぽつりと話した彼の表情は、もっとあっけらかんとしていた。親愛の情はそれそのものでしかなかった。
だが彼はきっとあの日に気付いてしまったのだ、年月が経っても愛してくれる存在の尊さを。死にゆくものたちを見て、殺すべきものを殺してきた己に抱きついてくれる存在の愛おしさを。
そしてそれこそが世界で一番美しいものだと、気付いてしまったのだ。
面会の後、竜馬が冗談めかして言ったことを思い出した。
「手を付けんなよ」
「誰が、そんな面倒なことになるか……」
あの日と同じことを呟いて、隼人は家の扉を開けた。
さっさと寝てしまいたい。
酒を呑んでいないのに悪酔いするなんて、全くなんて日だ。
悩み多き隼人の顔色は、新しいシャツにきっと似合わなかった。