九尾の日和と人の子ジュン小高い丘のてっぺん。大きな木の下に二人で腰をおろす。日和は珍しく緊張した面持ちでここまで繋いできたジュンの手をぎゅっと握りしめたままでいる。日和から感じたことのない雰囲気にジュンも緊張をおぼえる。
「ジュンくん。まずは、謝らせてね。きちんとぼくのことを話していなかったから、最近のぼくの態度できみを不安にさせちゃったんだよね。」
ごめんねと謝る日和がとても苦しそうに見えてその頬に手を伸ばす。触れる直前に伸ばした右手は日和に捕まって降ろされる。手を取られることで自然と上半身だけ向かい合う形になる。そのまま、苦しげな表情を繕うこともせずに日和は言葉を続ける。
「最近のぼくの話をする前に、過去のことを話さなきゃいけないね。おもしろいことなんて一つもない、長く鬱屈なお話になるね。・・・でも、できれば聞いてもらえると嬉しいね。」
———そう、これは数える事も辞めてしまった数百年前のおはなし。
日和は今よりずっと山の麓、人里の端にある神社に住む九尾だった。神さまのいない社をそこに住まう人々の信仰と強い自分の力でなんとか浄化して暮らしていた。
ある年、続く日照りに作物がうまく育たず、更には新種の流行病に村人の多くが苦しめられた。当然、村人たちは日和の住まう社を訪れては苦しい生活の中から絞り出した供物を持っては村の安寧と人々の健康を祈りに来たが、日和にそれを救う力はない。
日和はこの村が村として栄えだすより以前から、人に化けては村人と親交をはかってきた。人が、人のあたたかさが好きなのだ。特にこの村の民は他所者(に扮している)の日和をいつだってあたたかく、家族のように迎え入れてくれた。そんな優しい人たちを自分では救ってやれない、見殺しにしかできない。そんな自分が無力で、情けなくて、嫌で、大嫌いになって、もう、意識は半分ほど闇に堕ちていた。
深い深い闇に意識が沈んでいく感覚は全く気持ちのよいものではなかったけれど、もうこれ以上つらい現実を、憎しみ合い流れる血を見たくなくて闇に身を任せてしまう。あぁ、もう美しいぼくではいられないんだね。———願わくば、あの村にぼくが害を与える事のないように。ぼくを屠る何者かが現れますように。
勝手だと分かっていながら、無神の社の中枢で最後の祈りを捧げる。・・・捧げる相手なんてここにはいないのにね。と、諦めと共に目を開くとそこに、神がいた。いや、正確には神なんかじゃないのかもしれない。ただ、全てに絶望していた日和にはその人物が神に見えた。沈みかけた意識をなんとか保って問う。
「きみは、神さま?」
目の前の人物は話さない。いや、話せないのか。不思議な雰囲気を纏った少年だった。一本一本が最高級の銀糸でつくられたかのような美しい長髪に、全てを視ているようにも何も映していないようにも見える琥珀の瞳、顔だけでなく指先まで全てが作り物のように整った少年。
少年はゆっくりと瞬きをした後、音もなく日和に近づき、そっと日和を包み込んだ。自分より遥かに小さな少年に包み込まれる訳などないと頭では否定してみるものの、確かに少年に包み込まれていた。あたたかい。あたたかくて柔く、やさしい。ずっと包み込まれていたいような、すべてを洗い流してくれるような。
どれくらいの時間、そうしていただろうか。
いつの間にか日和を蝕む闇は形をなくし、堕ちる感覚なんて思い出せなくなっていた。
・・・まるでお伽話でも聴いているような気分だ。
人生の殆どを日和と過ごし、人の経験するはずのない事をたくさん経験してきたジュンがそう思うほどに、日和の話には物語染みた残酷さがあった。
おひいさんの過去を自分が知ってしまっていいのかと思う。オレにおひいさんの心の傷を癒してやれるんだろうか。愛し、愛されることが好きなこの人にとってどれほど辛いことだったのか、想像が及ばない。
難しい顔をして考え込んでしまっていたのか、日和の手がするりとジュンの頬をひと撫でしてから頭を撫でてくる。
「ジュンくん、ありがとう。ぼくのお話を聞いてくれて。ぼくを知ろうとしてくれて。」
慈愛に満ちた日和の眼に、ジュンは自分が日和を支えたいと思った決意を新たにする。
「・・・おひいさん、オレは大丈夫です。何を知ってもおひいさんを突き放したりしません。オレたちは一心同体なんでしょ?オレだけは絶対におひいさんの味方です。」
そうだね、と一際痛々しい微笑みを作った日和が物語の続きを紡ぎ出す。
日和を助けたその少年はその後、村の窮地を救った。村人は無神の神社に神が降りてきたと大変喜び、砂が巌になるように村の凪いだ成長が長く続きますようにと思いを込めて新たな神を「凪砂様」と名付けた。
日和も後から分かったことだったのだが、この少年———凪砂は人や自分の強い願いや想いが造った神だった。どうやって、等言われても分からないとしか答えようがない。妖怪や神というのはあやふやに誕生してあやふやに存在するものだ。
元々日和は狐の類であるので、自分の使えるべき神の降臨を心の奥底から喜んだ。この最早習性的な喜びとは別に、実際にその温もりで命も助けられているのだ。日和はこの少年を「凪砂くん」と呼び、初めてできた自分の家族として愛し、世話を焼いた。言葉や生活、行儀、神事に至るまで、自分の持つ知識を全て凪砂にあたえた。
凪砂という家族を得た日和は幸せに過ごしていた。決して大きくはない社で、贅沢とはいえない生活だったが、二人で四季を愛で、訪れる人間の話を聞き、手を差し伸べたり見守ったりする生活をとても気に入っていた。
そんな日和の幸せな時間が終わってしまったのは人の一生ほどの時間が過ぎた頃だった。
全国各地で力を持ち過ぎた妖たちが、暴徒と化し、人間を襲う事件が起こった。それは例外なく日和たちの住まう村も襲った。日和や凪砂はこの妖どもを鎮める革命軍として懸命に闘った。数十年に及ぶ闘いであったが、最恐の九尾と恐れられた日和と神である凪砂に敵うものはおらず、多少の被害はあれど村は平穏な日々を送っていた。だが、外の村の被害を聞き及び、全ての妖を過剰に恐れた村人はあろうことか日和を討ちに出た。勿論、日和に村人を攻撃する意思はなく、その強力な力は民を守るために使われていたのだが、恐怖を抱いた人に聞く耳はない。
社を襲う人々の怒号に、壊される社。自分を見る恐怖と憎しみの混ざった目、浴びせられる暴力と罵声に日和の心は二度目の限界を迎えた。自分を支えてくれる凪砂の存在に救われて闇に堕ちる事こそなかったが、ここにはもう居られないとそう思った。
日和は自分も行くと縋る凪砂の手を払い、独り山の奥へと姿を隠した。・・・そうしてこの山にこもり、ジュンに出会う日まで数百年。人に会うことを恐れ、独りを選んで生きてきた。
「・・・これが、ぼくの昔話。ぼくは絶対に離してはいけなかった凪砂くんの手を、払ってしまったんだね。昔は仲良くしてくれていた人間の変貌をみて、凪砂くんにも嫌われちゃったらと思うと怖くなって逃げ出してしまった。」
はらり、日和の瞳から溢れる涙をジュンは不謹慎にも綺麗だと思った。どんな価値のある宝石よりも綺麗だと思った涙は指で掬うと当たり前にジュンの指を濡らして消えていった。この涙と同じように、つらい思い出は話して消えてしまえばいいのにと思う。ただ、ジュンの中にはまだ疑問が残っている。
「・・・その凪砂って神さまはどうなったんです?」
残酷な質問だっただろうか。言ってから最悪の可能性に思い至り、発言を後悔する。
「詳しくは知らない。でも、先日、凪砂くんから手紙が届いたんだよね。」
先程まで淡々と事実だけを紡いでいた日和だが、ここにきて最低限のことしか話さなくなった。・・・ならば、最近の日和の思い悩む態度の原因は、
「その手紙に何か嫌な事でも書いてあったんです?」
ジュンの問いに日和は口を固く結んでしまう。
大丈夫。オレがここにいます。絶対にあんたを離してなんかやらない。そう気持ちを込めて日和の冷えてしまった手を握り込む。
「・・・手紙にね、"会いたい"って"あの時のことを謝らせてほしい"って書いてあったね。凪砂くんが謝ることなんてなにもないのに。ぼくが悪いのに。ぼくは、ぼくにはっ、凪砂くんに会う資格なんてない。」
言い切った後、だらんと脱力してしまった日和を今度はジュンが抱き込む。届け、伝われと得意ではない言葉を丁寧に紡いでいく。
「おひいさん、会いましょう。その、凪砂さんに。きっと大丈夫です。おひいさんの素直な気持ちを伝えれば、きっとうまくいきます。また、凪砂さんと笑い合えるようになります。———もしダメでもオレがいます。必要なら一緒に謝ってやります。だから、勇気を出してみましょう?」
そんなに大切な人なら、失ってはいけない。自分が言えたことではないけど、家族なら離れて過ごす必要はない。想像したくないけれど、人間であるジュンが死ぬ時、こんなに寂しがりやの日和を一人で置いてはいけない。
いろんな想いがあるけれど、一番は、笑っていて欲しいと純粋にそう思った。
大丈夫、大丈夫です。オレがいますから。と今度はまじないのように声に出して唱える。
「本当に?ジュンくんはいなくならない?ぼくのそばにいてくれる?」
「ええ。死が二人を分つまで・・・でしたっけ?いや、例え死んじまったとしてもおひいさんのそばに居ます。大丈夫です。寂しがりやのあんたを一人になんてさせません。」
「死ぬなんてダメだねっ!縁起でもない!ぼくを置いていくなんてそんなの許さないからねっ」
「えぇ・・・」
先程までとは打って変わって急に威勢の良くなった日和に気圧されてのけ反るかたちになっても、手は離さずしっかりと繋いだままでいてくれるジュンに嬉しくなって飛びつく。
「ぐぇっ、なんなんすか・・・急に飛びついて「ジュンくんジュンくんっ!」
「ははっ、なんなんすかもう・・・」
押し倒されたことに文句を言うはずだったけれど、日和の幸せそうな顔にジュンにも笑みがこぼれる。
「一緒にきてくれる?ぼく、凪砂くんと会いたい。会ってお話ししたいね。」
「言ったでしょう?どこまでもついて行きますよ。おひいさん。」
風に撫でつけられて顕になったジュンの額にキスを送る。いい男になっちゃって。きみを守るとあの日誓ったのに、いつの間にか守られちゃってる気もしなくもないね。日和はご機嫌に揺れる尻尾を隠すこともせずもう一度ジュンに抱きついた。