選ぶということ、選ばないということ 桜の花がゆらりと視界をよぎった。異世界の京で迎える何度目かの春の風景は、いつ見ても綺麗だ。頼まれた届け物を届け終えて、望美はひとり京の街を歩いていた。
今回の旅の始まりは、まずまずの滑り出しだと思うと足取りも軽かった。流れで行くと、今日はまだ何も起きない日で、大きく事態が動くのにはもう少し猶予がある。けれど繰り返し時空を渡っているからといって、望美もすべてを把握しているわけではない。例えば、今の状態がそうだ。先ほどまで一緒に届け物についてきてくれた譲くんは、師匠に呼ばれている。いつもは私を送ってから師匠の所に向かっていたけれど、ふと思ってしまった。
ーここの選択を変えたら、どうなるんだろう。大局が変わる所ではないかもしれないけれど、もしかしたら新しい未来が見れるかもしれない。例えば、誰かと出会えるとか、みんなが喜ぶ情報が見つかるとか。
だから渋る譲くんに子どもじゃないから一人で帰れるよ、まっすぐ帰るだけだよと何度も説き伏せていつもとは逆、譲くんを見送って一人で屋敷に向かっていた。
どこからか流れる桜の花びらは、その足も思わず止まった。そういえば桜をゆっくりと見たのは久しぶりな気がする。最近は誰かと一緒にいることが多かったし、誰かといるとその人の言葉に集中してしまう。何に変化が起こっているのか、気づかないわけには行かないから。
「ねえ、あれってみこさまかなあ」
「わかんないよ」
ぼんやりと桜の花びらに見とれて立ち止まっていると、はしゃぐような囁き声が後ろから聞こえてくる。思わず振り返ると、慌てて物陰に引っ込む小さな影。隠れ切れていない髪の毛が土壁の後ろで揺れていった。悪戯心が芽生えて、そっと足音を消して反対側、彼らの背後へと忍び寄る。
「……いっちゃったかな?」
「ばあ!」
「「ぅわーーーーーーーーーーっ!!!!??!!」」
「わーーーー?!?!あれ、そんな驚、あ、あのね!?ごめんね、怒ったりとかじゃないから!ね?ね!泣かないで!大丈夫だから!ね!!」
目の前に突然現れたことを想定以上に驚いた子どもたちにつられて、望美も思わず大声をあげてしまう。怒られると思ったらしい子どもの目にあっという間に涙が浮かぶのを、慌ててわたわたと幼い子たちをフォローする望美の後ろ姿は、彼女の幼馴染たちが見たら苦笑いするだろう光景だった。
「みこさま、さっきさくらみてたでしょ?」
「うん、京は本当にたくさん桜が咲いてて綺麗だね。びっくりしちゃった」
「じつはね。もーーっときれいなひみつのばしょがちかくにあるんだ!」
「ねえ、あんないしてあげるからいっしょにいかない?」
望美を挟んで3人、仲良く手を繋ぎながら子どもたちと京の町を歩いていた。キラキラした瞳で見上げる子どもたちの視線がくすぐったく、望美も思わず顔が緩む。自分たちの素敵な秘密の場所を案内したいのは、いつの時代も変わらないらしい。望美も秘密基地を作っては幼馴染に案内し、一緒に遊んでいた事を思い出した。
「じゃあ折角だから、案内してほしいな」
「そうこなくっちゃ!」
「みこさま、こっち!」
ぐん、と足元のスピードが上がる。テンションの上がった子どもたちは、望美と手を繋いだまま走り出した。
「いきなり走り出さないでよ!?」
一言文句を言えば、返事はなく、ただちょっと悪い顔で返ってきた。そういえば子どもってこんな感じだった!
爆走のおかげで息は上がっていたが、目的の場所は案外すぐだった。大路のはずれ、人気が少ない場所にその桜は佇んでいる。
「みこさま、ここ!」
「きれいでしょ!」
案内されたのは、いつの頃から植えられたのはわからないくらい立派な桜だった。厳しい年月を絶えた幹の険しさと、それを微塵にも感じさせない柔らかな色の花びら。ざあ、と風が吹くけば、枝が震わせて花を落としていく。
「……うん、すごく綺麗……!」
「へへ、そうでしょ?」
「連れてきてくれてありがとうね、えーと……」
「?」
お礼を言おうと思って、ふとこの子どもたちの名前を聞いていなかったことに気づいた。
「ねぇ、2人とも名前はなんというの?私は、春日望美」
「のぞみさま?」
「ええとね、わたしはー」
2人の子どもの、背の高い方が答えた時だった。後ろに揺らりと影が立ち込める。直感で間に合わないと判断して、子どもたちの腕を勢いよく引き寄せる。間一髪、2人のいた場所に鋭利な爪が走った。
「みこさま!?」
背中側から驚いた声が聞こえる。一体だけだと思ったけれど、複数で隠れ潜んでいたらしい。目の前の怨霊らから目を離すわけにもいかず、そのまま前を向いたまま、でも不安を与えないようにと力強く答えた。
「下がってて!絶対、動かないで。大丈夫、なんとかするから」
「……ほんとう?」
「うん」
その言葉と同時に、望美は自分の頭を戦場にいる時に切り替える。地面を蹴って、目の前の敵に斬りかかる。すぐそばで聞こえていた桜のざわめきが遠くなった。
さすがに一人で複数の怨霊を切り結んだのは久しぶりだった。は、と息を吸い込めば、喉がひりつくようにと乾いていた。人と違って、怨霊は切って終わり、ではないからややこしい。
息を落ち着かせているうちに、ふと後ろの気配が薄いことに気づいた。あの子たちは、と思って振り返ると赤い血だまりがゆっくりと広がっている。その真ん中に、身動きもしないふたつの体。叫んでしまいそうになる声を無理やり飲み込む。
驚いた顔だった。先程、望美が後ろから顔を覗かせていた時のように。その表情のまま、2人とも息絶えていた。
「ねぇ、………、あ、」
名前を呼びかけようにも、望美はふたりの名前を知らない。知らなかった。
何度も戦場に立っては、沢山の息絶えた身体を見てきた。名前の知らない誰かの死体を跨いできた。慣れていると思っていた。慣れてきたと思っていた。けれど、戦場とはかけ離れた場所で死体を見るのはあの時以来だった。
ー最初の時空。燃え盛る、京。望美が無知だったから、誰も助けれずに終わってしまったあの世界。
キキ、と嗤うような声がした。のろのろと顔を上げると、数歩前にそれはいた。怨霊の爪には鮮やかな血が滴っている。
そこから先のことは途切れ途切れにしか覚えていない。ただ、執拗に残った怨霊が動かなくなっても、封印もせずに切り刻んでやろうと、必死に剣を振るっていた。
騒ぎをききつけた検非違使が伝来を回し、望美が保護され帰る頃には京屋敷もどこか浮き足だっているようだった。それでも望美はどこか他人事のように見ていた。剣は固く握ったままで、手放す事ができないまま。
部屋に通された時も、まだぼんやりとしていた。剣が離れないことにも何も思わなかった。どこまでも遠い世界だった。廊下で大きな音を立てて九郎さんが入ってきた時も、望美を見て傷ついた顔をしていたことにも、気づかないほどに。
「望美!」
真正面、名前を呼ばれて望美はようやく目の前の人物と焦点があった。
「……九郎、さん?」
「そのままじっとしていろ」
眉を顰めたまま九郎さんが腰を下ろして、床に置かれたままの手を取った。他人の手が触れて初めて、自分が剣の柄を握ったままだったことに気づく。黒ずんだ赤い跡が、九郎さんの大きな手にも広がっていった。
「大丈夫、ではないな」
「……無茶する九郎さんにそんなこと言われたら、おしまいですね」
「減らず口が叩けることで誤魔化すな。─望美、今日の事は俺の差配不足だ」
「九郎さ、」
「京で起きたことの責任はすべて総大将である、俺が負うべきものだ。望美、お前はたまたま通りかかっただけだ。……お前のせいではない。だから落ち込むな」
九郎さんはそうやってまっすぐ私を見せて、ひょいと剣を取り上げてしまった。そのまま、反論は受け付けないと言わんばかりに、剣ごと部屋から出ていってしまった。何かその背中に言おうとして、追いかけようと力を入れようとしたけれど、話すことも動くこともできなかった。
その後入れ替わりで来た朔に身体を拭かれ、手当を受けて初めてあちこちが戦場と同じくらい、全身が赤く汚れていることを知った。朔は何も言わなかった。ただ、優しく私の顔についた泥と血の跡を拭ってくれた。その優しさに甘えて、私も何も言わなかった。
お水を取ってくるわね、と朔が部屋から出てしばらくすると、小さな影が部屋の外でこちらを伺っていた。思わずさっきの事が過って身を固くする。無邪気な声。好奇心の視線。それから、それが失われたあの瞬間。違うとわかっていても、脳裏に浮かぶ先ほどの光景がフラッシュバックする。
「神子」
その声に少しだけ、身を緩めた。優しい私の神様はただ、じっと見つめていた。その表情がすべてを物語っている。悲しみ、だった。
「白龍……、」
「神子。私に力がないから、あなたを悲しませてばかりだね」
「違う」
悲しげに俯く白龍の言葉に、思わず強く声を上げる。
「違うよ、白龍。それは違う」
神様である白龍の力は、確かに私たち人とは違うものがある。力がある。世界のバランスを整える力があるという。その地脈が乱れたから、龍脈が穢された影響で京を含め、怨霊による恐怖と荒廃が進んでいるのは確かだ。けれど、それを意図的に引き起こしたのは誰だったのか。神様は、白龍は、そんなことをしただろうか。そんなこと、願っただろうか。
いつだって、勝手をしてばかりなのは私たち人間なのに。神様ではどうしようもなくなったからこそ、修復させるために人である、私が呼ばれたのに。なのに、何もできない。
「……私に力がないまま、ちゃんと選べなかったからだよ」
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「譲くんごめんね、送ってもらっちゃって」
「気にしないでください。俺がやりたくてやってることなので」
譲くんと歩きながら、春の京を帰る。陽は柔らかく、屋敷までの道は桜の花が時折風に舞って揺れている。春の匂いが隅々まで立ち込めていた。
(ねぇねぇ、あれってみこさまかなぁ)
(どうだろう?)
あの時の声が後ろから聞こえて、振りそうになった。無邪気で、幼い好奇心。驚いた顔、驚いたままの瞳。ここで、私が何もあの子たちと関わらなければ、少なくともこの場所で命を落とすことはなかった。私に釣られて、怨霊が出ることがないからだ。
「先輩?どうかしました?」
一瞬、身体を硬くしたのに気づいたらしい。やっぱり譲くんは優しくて、鋭い。
「ううん何でもない。行こう、譲くん」
私は何も聞こえなかったふりをして、帰り道の先を急ぐ。春のざわめきを後ろにして。