喫喫
はじめ、「茶を喫する」とは、高尚な趣味だと思っていた。古来から「茶道」など、それで身を立てている人がいるくらいだからだ。
しかし今現在、己が敬愛する作家先生のため、自分でもよく茶を淹れるようになったとある出版社の普通のサラリーマン・水木の頭を占めているのは、
(小さく愉しむ分には経済的な趣味だな)
という、その一語であった。
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例えば、煎茶を二人で飲むとする。茶葉五グラムで、急須いっぱいに茶を作ることができる。その五グラムで二〜三煎淹れられるのだから、一日に大人が飲む茶の量としては充分保つと言えるだろう。
五グラムで一日分なのだから、十日で五十グラム。つまり三十日、一ヶ月で換算すると百五十グラムである。飲まない日もあることを思うと、これは多く見積もった数だと言えよう。一ヶ月に百グラム消費というのが、平均的な茶葉の消費量だろうか。
そして百グラムの茶葉というのは品種や品質の上を見すぎなければ、二千円もあれば買えるのである。外食へ二回行くよりも安い。その金額で一ヶ月、味も香りも愉しめる。これを経済的と言わずして何と評そう。
かくして、今日も水木は茶を淹れているのである。
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ただ水を飲むだけなら蛇口をひねれば足りる。熱いのが好みなら、白湯でも沸かして飲めばいい。長らくそう思っていた。
しかし、自分が少年時代から愛読し、今はその編集を担当する作家先生――田中ゲゲ郎が珍しく自分をもてなしてくれる際に、ろくに洗っているか怪しい湯呑みに、さっきご自身でも飲まれていた出涸らしの茶葉を入れ、湯に親指を突っ込んでこちらへ勧めてきたのを目にした時、水木の頭からそういった考えは一切霧散したのである。
(まずは、この先生に、ちゃんとした茶を飲んでもらいたい)
何が一体「ちゃんと」なのか、その時はてんで分からなかったのだが、直感的に、強くそう感じたのだった。
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さて、いざ茶を淹れてみよう、と思うと奥が深い。その頃の水木が会社のデスクでよく飲むのは、茶ではなく眠気覚ましのコーヒーであったし、家においては母親が冷蔵庫に作り置きしている麦茶か、そのまま水道水を直であった。ゲゲ郎の住まう山奥の草庵には、電気が通っていないため、冷やした飲み物を作り置きしておくことはできない。畢竟、庭に湧いている井戸水を都度火で沸かして、その湯で茶を淹れることになる。熱い飲み物といってもゲゲ郎が今まで上梓してきたエッセイなどを思い返す限り、コーヒーや紅茶を愛飲するたちのお方ではないから、飲んでもらうなら日本茶か中国茶か、その辺りになるだろう。湯呑みがないのう……とぼやきながら出されたあの日の、色も味も香りもあったものではない、薄い茶の風味を渋面で思い出して、まあ日本茶だろうな。と水木は目算をつけた。
茶葉の選び方は分からなかった。
最初は、秘書室の社員に尋ねた。
恥を忍んで、母にも訊いた。
そのうち、自分で選べるようになった。
選ぶようになったのは茶葉だけではない。ゲゲ郎は草庵に一つしかない湯呑みと、本来は米をよそうのに使う飯茶碗――これも器の縁が無頓着に欠けていたりする――に、交互に茶を入れて飲んでいるような人だったから、「今度、俺の他に来客があったら困るでしょう」などと口八丁を言って、勝手に来客用の、それなりの茶器を置いたのである。
ゲゲ郎が居住する草庵は山奥で、かつ、そこに至るまでの道のりも辺鄙な田舎である。水木のような酔狂な編集者を除いて、わざわざそんな便の悪い辺境まで、訪ねて来る者はそういない。今やその「来客用」で持ち込まれたセットは、有名無実、水木とゲゲ郎の専用茶器のようになっていった。
かくして、水木は今日も茶を淹れている。
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厨の竈に掛けた鍋の底から、ぷくぷくと水泡が上がっている。
波立つ水面を睨んでいても沸騰が早くなるわけではないのだから、完全に沸くまで放っておけばいい――理性ではそう思うのに、使う湯呑みも急須も茶葉も、用意してしまった身には気忙しい。水木は知らない内に息を詰めていた胸郭を下ろした。こういうところに、せっかちというか、生来の直情型が隠せない。
沸き立つ湯面を一本傷のある青い瞳で見張りながら、ボロのつっかけで、厨の土間に立っている。行儀悪くも水木はスーツのスラックスの片足を上げて鶴の足になると、分厚い冬用靴下の先を、もう片方の足に重ねて足の甲を擦った。寒い。仲秋も過ぎれば、山の中にある家というだけで冷えてくる。湯に関してはそろそろ囲炉裏のある部屋の、自在鉤に吊るした薬缶で沸かした方がいいのかもしれない。
(とはいえ、今日の茶はなぁ)
鍋のぷくぷくが、ぶくぶく、ぼこぼこぼこ! に変化したのを見、待ってましたとばかりに柄杓で掬う。流しに竹製の巻きすだれを敷いて、その上に置いていた湯呑み二個と急須に、半分ほど湯を注いだ。しかし、この湯は捨ててしまう。茶器を温めるための熱湯に過ぎないからだ。急須の蓋をつまんで開き、茶壺の中へ、枯れた団子虫のように丸まっている茶葉を、茶匙で掬ってコロコロと入れる。見た目が明らかに日本茶と異なるその茶葉。
水木の中では最近、台湾茶が流行っていた。日本茶と異なり、三から五煎は楽しめる。苦味やうまみは日本茶に軍配が上がるが、茶の濃さや香り高さは台湾茶の方が優っている。そう思えた。気まぐれで何度かに一度出しているのだが、その変化について、ゲゲ郎が気づいているのかは分からない。今日の当人は卓袱台に置いておいたおやつの煎餅を、今頃見つけて食べているはずである。晩飯に響くといけないから、こっそり煎餅の数は間引いてある。
(さて)
コロコロと入れた軽い茶葉に、またも半分、熱湯を注ぎ入れた。茶葉がくるくると茶壷で回る。しかし、この湯もすぐに捨ててしまう。茶葉を熱湯で洗って、葉を開きやすくするためだけの工程だからである。次に注ぐ湯が本番だ。高いところから静かにとろりと、穏やかに柄杓を傾けていく。急須いっぱいに満たしたら蓋をして、外からも急須を温めるために、蓋の上からさらに熱湯を回しかけ――このこぼれる湯を受ける「茶盆」という茶器がない家なので、厨の流しに巻きすだれを敷いて、水木は簡易茶盆としている――蒸らしに入る。
この茶葉の場合、蒸らし時間は三分。ゲゲ郎の厨の数少ない備品である、使い込まれている砂時計をひっくり返した。
自分の淹れる茶は美味いのだろうか。と、ふと立ち止まることがある。ゲゲ郎に直接「美味い」と言われたことはない。とはいえ、不味いと言われたこともない。執筆作業の合間、やれ厠だ小腹がすいた等と、ふらふらと原稿部屋から出てきたゲゲ郎に、何かにつけ「茶を淹れたんですが飲みませんか」と声をかけると、ほうと卓袱台に腰を下ろし、あの短い眉と眉の間を寛げてしばらく飲んでいるのだから、悪い腕ではないのだろうとは思っている。
「水木よ」
「はい」
左手首の腕時計でも時間を計っていると、厨の背後から声がした。
「煎餅、なくなりましたか」
「何故それを」
「洞窟から出てきた熊の顔してます」
「別に喰うなとは書いておらなんだ」
「喰っていいから置いてあるんですよ」
そろそろ三分が経つ。
「来たんなら、そっちの棚からお茶請け選んでください」
「……栗の一口羊羹じゃ!」
「じゃあそれで」
水木は急須を流しから引き上げると、茶漉しを載せた茶海――ピッチャーのようなものである――へ、中身を注いだ。若緑色を含んだ黄金色の茶が、薫香と共に姿を現す。湯呑みも二個とも中の湯を捨て、軽く払って水気を拭いた。全ての茶器を盆に載せ厨を出る。
「あ」
「なんじゃ」
廊下を歩く自分についてきていたゲゲ郎を振り返る。背の高い白髪のその人は、片手に羊羹、片手に小皿とフォークを持って立っていた。二本の竹製フォークをまるでVサインのように持っている。うきうきお茶タイムといった風情である。
「竈の火、消してきてください」
沸かした鍋の湯が勿体無いが仕方ない。火の用心の方が肝要である。
「わしがか?」
「ええ」
ゲゲ郎は不服そうな顔をしている。
「ずっと座って書いていたでしょう? 多少は動かれた方が血行にいいですよ」
「物は言いようじゃのう……」
水木の捧げ持つ盆の隙間に、フォークと小皿と羊羹をねじ込む。後ろ頭を掻きながら、ゲゲ郎は厨へ戻っていった。その隙に水木は居間の卓袱台にせっせと湯呑みを配し、皿に羊羹を出していく。煎餅を盛っていた菓子皿は空になっていた。声には出さず、口角だけで笑って菓子皿を盆へ下げていると、流石は家主、もう火の始末をして帰ってくる。
「栗じゃ。栗羊羹じゃ」
「お茶もありますよ」
白い作家がほくほく顔で座布団に座る。
茶海から湯呑みへ注ぐ茶は、火傷しないくらいの温度になっていた。華やかな香りが居間に満ちる。
そういうわけで、水木は今日も茶を淹れている。
<続>