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    MondLicht_725

    こちらはじゅじゅの夏五のみです

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    MondLicht_725

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    転生パロです。小学生な夏五(になる予定)。
    続きは随時更新する予定です。

    12/5 続き追加、これでおしまい。
    加筆修正して、支部にあげます。

    #夏五
    GeGo
    #転生パロ
    reincarnationParody

    【夏五】空席の同級生 転校初日って、どういう気分でいるのが正解なのだろうか。いつも悩む。
     きっちり閉じられた、古い引き戸を見つめる。小学6年生ですでに170をゆうに超えているので、上部にあるすりガラスの窓から向こうがぼんやりと見える。これから担任になる教師が説明している声がくぐもって聞こえる。まだ若い女性教師で、快活で、声がでかい。それが第一印象。
     新しい学校、新しい教師、新しい同級生。
     今この瞬間飛び込もうとしている、新しい環境での新しい生活に期待と不安で緊張しまくるのが普通なのかもしれないが、あいにくこれが2年ぶり3回目の転校である。
     しかも小学校6年生ともなればいやだいやだと駄々をこねることもない。そんなことをしたって状況が変わらないことを知っているからだ。親の庇護の下にいる子どもに、選択肢などない。
     もっとも、小学校2年生だった最初の転校から文句ひとつ言わずに受け入れていた。父親が転勤族なのだから仕方がないと、あまりに淡々としているので両親の方が心配していたくらいだ。
     せっかくこの街に慣れたのに――友だちとも離れて辛いだろう――それは余計な心配だと両親に言えたらどんなに楽だろう。あいにくと、数年暮らしたゴミゴミとした街に未練などないし、友だちと呼べる存在だっていない。
     今回の引っ越し先はこれまでに比べればずっと田舎で、高いビルやマンションの類はもちろんないし、コンビニも自転車でぎりぎり行けそうなくらい遠くに1軒だけである。家よりも田畑が多いような村で、子どもの数も少ない。そんな環境を、両親は――特に母が心配していたが、むしろ嬉しかった。
     物心ついたときから、人が多い場所は苦手だった。
    同い年の群れの中に混ざることが苦痛だった。
     それでも誰とも関わらずに生きていくなんてできないので、最低限の接触だけは我慢して暮らしていた。だから、この田舎のようにもともと接する人間は少ない方がいい。
     前の場所は最悪だった。大人も子供もあちらこちらにひしめいていて、望んでいないのに近づいてくる。馴れ馴れしく触れてこようとする。
     だから、口には出さなかったけれど、今回の引っ越しをとても待ち望んでいたのである。たとえ通う学校が、怪談話に出てくるくらい古くてボロくても、人間の多さよりはマシなのだ。

    「入ってきなさい」

     すりガラスの向こうから、よく通る大きな声が呼ぶ。少々建て付けの悪い引き戸を開けて中に入ると、一斉に視線がこちらへ向けられる。
     教室の広さは前の学校とさほど変わらない。けれどそこに並ぶ机の数は、半分もなかった。
     好奇心いっぱいの目を向けられてもやっぱり特になにも感じることはない。でかっ、本当に同じ年?え、かっこよくない?そんなこそこそ話もいつものことだ。
     無言のまま担任の横に立ち、これから同級生となる面々と向かい合う。黒板にはすでに、名前が大きく書かれていた。名前の部分がやけに大きくて傾いている。字数が多い漢字だからか、大体の人はこうなる。

    「夏油、傑です。よろしくお願いします」

     促されるままに簡単に自己紹介して頭を下げる。
     げとう、すぐる。それが、自分の名前である。
     今回も、自分の名前である。
     昔から、やけに大人びていると言われてきた。転校に関してはもちろん、それ以外にもあまりにも落ち着きすぎて、周囲は心配するか不気味がるかどちらかである。稀に、そんなところが好きだとありがたくもない好意を向けられることもある。

     傑が年不相応に落ち着いているのには理由がある。決して他言できない理由。
     これが、人生2回目だからだ――というのが、11年とちょっと生きてきた中でたどり着いた結論だ。

     傑には、違う「傑」の記憶がある。
     夢や妄想なんかじゃない。あれは間違いなく「記憶」だ。

     なんの因果か、名前も漢字も同じ「夏油傑」で、自分自身はもちろん、両親の姿形までもがそっくり同じなのである。
     ただ大きく違うのは――今のこの世界に、「呪い」と呼ばれるバケモノが存在しないこと。
     いや、存在しない、と断言はできないかもしれない。今の傑にはなにも見えないだけで。かつての「傑」が幼い頃から目視し、祓い、飲み込んできた「呪霊」と呼ばれるバケモノが、本当はすぐ傍に潜んでいる可能性はゼロではないのだ。
     もし視えていないだけで実際は呪霊は存在しているのだとしたら、今の傑は「夏油傑」が蔑んでいた「猿」と同じ立場になったわけだ。そんな皮肉に思うところがなかったわけではないが、幼い傑はやっぱりあっさりとその事実を受け入れた。
     拒絶したって意味はない。
     かつての記憶を持つ傑は、呪霊がいない――視えないこの世界に生まれ、生きている。どうしたってその事実は覆らない。転校と同じだ。
     術式とは、生まれながらに持っている力だ。ならば欲しがったってどうしようもないと、言い聞かせた。

    「じゃあ夏油くん、窓側の空いている席に座って」

     どこから来たのか程度の簡単な紹介を終えた担任が指さす方向へ視線を向けて、首を傾げた。
     教室には、横4列、縦3列に机が並んでいて、窓側の後ろには誰も座っていない机が確かにある。あるのだが――なぜか2つ。しかも後ろの机は、列からひとつだけはみ出している。そこだけが縦にも4つ並んでいるのだ。綺麗な長方形に、不自然に凸がある。
     とりあえず近くまでいって、2つの空席を交互に見た。どちらかが傑の机で間違いないが、どちらも同じくらい綺麗に磨かれている。

    「夏油くんはこっちだよ」

     これからお隣さんになるらしい小柄で眼鏡をかけた少年が、小声で前の方の空席を指さした。

    「そっちは、別の子の席だから」
    「ありがとう。その子は、休み?」

     同じく小声で返しながら、机にカバンを置く。ランドセルなんてとっくに背負えなくなって、今は買ってもらった黒のリュックサックで登校しているのだ。傑の体格を見て、文句を言う者はいない。ただ、そのせいで中学生に間違われることはある。

    「休み、っていうか、もうずっと来てないんだよね」

     最後に見たのはいつだったっけ。特に心配する様子もない同級生に、ひとつだけはみ出した机を見る。傑が転校してきたことで追い出されてしまったかのような机が、顔も知らない同級生の境遇を物語っているようだった。
     不登校、か。前の学校でも何人かいた。事情は様々で、でも結局傑には関係ないことだと興味を持ったことなどない。今回も同じだろうと、前を向いたとき。

    「そいつんち、呪われてるからさ。ゲトーくんも近づかない方がいいぜ」

     前の席の違う少年が振り向いて、バカにするような口調でコソコソ告げた。

    「呪われてる?」
    「ちょっと止めなさいよ。ゴジョウくんは体が弱いだけでしょ!」
    「それも呪いのせいだってみんな言ってるだろ。あいつのあの色だって、」
    「生まれつきだって言ってたじゃない」
    「だからヘンなんだろ」

     斜め前の少女が反論し、前の少年が舌を出す。けれど傑の耳にはもう、彼らの言い争う声はほとんど届いていなかった。
     少女は今、なんと言ったか。

    「ご、じょう…その子の名前、ごじょうくんていうの」

     興味を示したのが意外だったのか、少女は驚いた顔を見せたが、すぐに頷いた。

    「そうだよ、ゴジョウ、サトルくん」

     それからのことは、もうほとんど覚えていない。転校初日だというのに、早々におしゃべりを怒られた(ほとんどトバッチリだ)が、完全にうわの空だった。

     空席の、同級生――ゴジョウ、サトル。
     偶然だろうか。それとも。

     傑は、再び「夏油傑」として生まれた。ならば彼も――そう考えなかったわけではない。
     会えたらいいな、とは思う。間違いなく本音だ。けれど、積極的に探そうとは思わなかった。傑のように前の記憶があるとは限らないし、もしそうなら傑がそうであるように、彼にも今の生活がある。
     ――なんて、いい子ちゃんなことを言ってみても、本音は拒絶されるのが怖いのである。
     記憶がある、と言ってもすべてではない。特に最後の方はまだ曖昧だった。ぼんやりと、靄がかかっている。ただ、かつての親友とは喧嘩別れしたのだと、その事実だけは強く残っていた。
     でもそんなモヤモヤとした感情は、名前を聞いてどこかへ飛んで行ってしまった。
     もし覚えていなかったら、覚えていたとしても嫌がられたら――そんな不安よりも、「彼」が存在しているかもしれない事実が強かった。
     だから、いつもならば囲まれるのが嫌で早々に逃げ出す昼休みも、寄ってくる同級生たちの群れを甘んじて受け入れた。そして、彼らが口を開いて質問攻めにされる前に、傑が先に尋ねたのだ。

    「ゴジョウ、サトルくんについて教えてくれないか」








     歩いていくうちに、周りの景色も徐々に変わっていく。住宅の数は徐々に減っていってついには田畑だけになり、さらに進めば田畑もなくなって雑草が生え放題の荒れ地になる。
     道を切断するように流れる小さな川と、そこにかけられた短い橋に走っていた足を止めた。乱れた息を、整える。ここまで大体20分。小学生が歩いていくには遠い距離だと言われたが、傑は「前世」の記憶を思い出し始めてから早々に体を鍛え始めていた。このくらいの距離を走るのも問題はない。
     もちろん、前回と違って呪力はないはずなのですぐさま回復というわけにはいかないが、呪霊や呪詛師と戦うわけでもないので十分だろう。鍛えるのはもうほとんど趣味みたいなものだ。
     呼吸が整ったところで、ゆっくりと橋を渡っていく。年季の入った木製の橋は古く、一歩踏み出すたびに悲鳴のような音を立てる。もともとは赤く塗られていたのだろう名残があちこちに残っていた。
     橋を渡れば、目的地はもう目の前だ。
     後ろ半分を森に囲まれた、大きくて古い屋敷。これが。

    「ゴジョウ館」

     ゴジョウサトルという、会ったこともない少年について教えてほしいと頼んだ傑に、他の同級生たちは戸惑った様子だった。それはそうだろう。なんで、どうして、そう尋ねる彼らに。
    「呪いとかそういうの、すごく興味があるんだよね」
     ついでににっこり微笑めば、なんとなく納得はしてくれる。
     同級生が語る「ゴジョウサトル」像は、両極端だった。最初に呪われていると口にした前の席の少年は、特にボロクソにこき下ろした。
     あいつの家は、この村では有名な幽霊屋敷だ。加えて、あの家のヤツラに手を出すと、倍にして報復される。あいつが来なくなったのだって、絡んだ中学生に大怪我させたからで――等々。嫌いな野菜を無理やり口の中に突っ込まれたかのような顔をして語る内容はどれも荒唐無稽だが、他の同級生の反応を見るに誇張はされていても嘘ではないのだろう。
     それなのにあいつ、面はいいから女子はみんな味方しやがって――最後に小さく零れた愚痴が、もしかしたら気に食わない本当の理由なのかもしれない。ようは、僻みである。出会って数時間でも、後ろから見ていて彼が隣の少女に恋をしているのは明らかだった。むしろ、本人にバレていないのが奇跡レベルでわかりやすい。
     その、思いを寄せられている斜め前の少女本人は、真逆のことをこっそりと教えてくれた。
    「五条くんの家はね、特別なの。昔からこの村を守ってきた一族で、上級生をケガさせたのだって、向こうが先に手を出したから。五条くんを守る神様が怒ったのよ」
     内緒話の途中からやけに早口で語る少女の顔は、目をキラキラ輝かせてまるで好きなアイドルを語るファンそのものだった。実際そうなのだろう。いやむしろ、ゴジョウサトルが神様で、崇拝している信者のようにすら感じる。
     ああこれは勝ち目がないね。まだ名前も覚えていない同級生に内心同情した。彼女には、他の有象無象は眼中にない。
     好きな相手のことはなんでも知りたいというヤツなのか、少女はゴジョウサトルとゴジョウ家についてもある程度知っていた。
     古くからこの村で祭祀や神事を執り行ってきた、由緒正しい旧家であること。
     サトルは、現当主のひとり息子だが幼い頃からあまり外に出ることを許されていなかったということ。学校には昔から病弱であると説明しているらしいが、真偽は不明。彼女自身サトルと最後に顔を合わせたのはもう1年も前だという。他の子どもに比べてそこそこ背は高いのにひょろりと細く、生まれつき髪の色も肌も真っ白で、日光に弱いからと常にサングラスをかけていたらしい。そのせいで、同級生からは気味悪がられるし、上級生に目を付けられることが多かったそうだ。確かに、こと田舎では特に、他と「違う」容姿では悪目立ちしてしまう。
     少年いわく、病弱なんてあんなムカつく野郎、そんなの嘘に決まってる。
     少女いわく、あんなに細くて儚いんだもの、本当よ。
     なるほど、感情の混じったフィルターの違いでこうも印象は変わるものなのだろう。ならば、前世の記憶を持つ傑のフィルター越しに見る、今の「ゴジョウサトル」少年はどうだろうか。
     そんなわけで、放課後帰宅してから早々に、教えてもらったゴジョウ家に向かったのである。両親は共働きで、18時過ぎじゃなければ帰ってこない。一人っ子の傑は比較的自由に動けるのだ。決断は早かった。
     ここまでくればもう、99%は間違いはないだろうと確信していた。
     良家のお坊ちゃま、古くから続く由緒正しい一族、白い髪にサングラス、なにより名前が「ゴジョウサトル」。これで別人である方がおかしい。
     屋敷へ向かう足には、驚くほど迷いはなかった。直接会ってなにを話すのかとか、もし記憶がない場合どうすればいいのかとか、そういうのは全部飛んでいた。少なくとも前世では、もっと計画的かつ慎重だった気がするが、このことに関してはどうにも上手くコントロールできないらしい。
     橋を渡って向こう岸に足を踏み入れた、瞬間。
     思わず足を止める。というより、体が動かなくなった。ぞくりと、久しく――今世では初めてのどこか懐かしい感覚が、背筋を震わせた。相変わらず視えないけれど、なにか得体の知れない気配を肌で感じる。
     ――驚いたな。呪われてるっていうのも、あながち嘘じゃないのかもしれない。
     それともこれは、同級生の脅しともいえる話を聞いた先入観から来る錯覚だろうか。
     今の傑には呪力はないし、この世界に呪霊は存在しない――はずだった。実際、今までこんなことはなかった。
     とりあえず纏わりつくような不快感は無視して、すぐ目の前の屋敷を目指す。今回の目的は、とにもかくにも「ゴジョウサトル」に会うことなのだ。
     話に聞いていた通り、屋敷はそれはそれはそれは立派なもので、まるで時代劇のセットかというくらい古風である。まず傑を出迎えた、でかくて立派な門。どこぞの有名な寺で、こういう派手じゃないのに厳つい門を見た気がする。
     幸いにも門は左右に大きく開かれており、玄関までは行けそうだ。掛けられている表札に書かれている名前は、「五条」。間違いない。
     大きく深呼吸してから門をくぐり、これまた大きくて立派な玄関についたチャイムを鳴らした。前時代のまま佇む屋敷につけられた、新しいチャイムはモナリザがスマホを持っているかのような異物感がある。それでも当たり前だがちゃんと機能はしているようで、すぐさま中で気配が動いた。

     ―――結果から言えば、傑は「サトル」に会えなかった。

     玄関口に出た、使用人と思わしき無表情で無愛想の女が、坊ちゃまは誰にも会うことはできない、会える状態ではないのだと淡々と告げて、お帰りくださいと容赦なく扉を閉ざした。なんなら施錠する音まで聞こえた。
     完全な拒絶である。自己紹介をする隙もなかった。
     玄関前に突っ立ってどんなに粘ってみたって再びドアが開かれることはないだろうし、小学生とはいえ不法侵入で通報される可能性もある。それに、そろそろ戻らなければ両親が仕事から戻る時間だった。メールも書置きもなにもしていないのだ。
     ――仕方がない、出直そう。
     やっぱり切り替えの早い傑である。まだ時間はあるのだ。きっとまたチャンスは来る。そのはずだ。自らに言い聞かせて、踵を返す。そうしてまた古い橋を渡ろうとしたとき。


    「なあ、お前」


     どこからともなく、声がした。初めて聞くような、どこかで聞き覚えがあるような。高くもなく低くもない、大人と子供の狭間の声。

    「お前だよ、お前」

     もう一度はっきりと聞こえて、幻聴じゃないとわかる。
     勢いよく振り向けば、立派な門の瓦屋根の上から、ひょっこり白い顔がのぞいていた。夕方が近いからか、聞いていたサングラスはなく、大きな目が剥き出しになっている。
     その色は―――空をそっくり映したかのような、青。

     ―――ああ、まさか本当に。

    「――さとる」

     君なのか。
     思わず声に出してしまった名前に、屋根の上の少年は首を傾げた。

    「俺の名前、知ってんの?」
    「あ――ああ、うん。クラスの子が教えてくれた。五条、サトルくん、だろう?」
    「へぇ?」

     嘘ではない。ただ、ついうっかり、馴れ馴れしく下の名前を呼んでしまったことの言い訳としては苦しかった。
     けれど屋根の上の白い少年――五条サトルは、特に気にすることもなく立ち上がり、遠慮の欠片もない視線でじろじろと傑を観察した。
     上と下、距離があるので正確にはわからないが、確かに聞いていた通り、小学6年生にしては背丈は傑と同じくらい高い。しかし白い着物から覗く、負けないくらい真っ白な首筋やら手首やら足首は、離れていてもはっきりとわかるくらいに細く、痩せている。
     「前」の記憶を呼び起こす。
     決して良好とは言えなかった初対面。お互いに15歳のガキで、まだ成長期の途中で、それでも平均よりはどちらも身長が高かった。それまでクラスで1番大きかった傑は、初めて同い年の同級生を見上げることになったのだ。それが内心悔しくていつか追い越してやろうと密かに決意したのだが、終ぞ叶わなかったことになる。
     もちろん、今は互いにまだ小学生なのであのときほど大きくはないが、身長差で言えばあまり変わらないだろうと思う。ただ、「前」に出会った少年は、御三家のお坊ちゃまで貴重な目と術式持ちということもあってすでに術師として一人前であり、着やせはするがかなり鍛えていて体格はよかった。
     けれど、この「サトル」は違う。強く押せばぽっきり折れてしまうんじゃないかってくらいに頼りない。

    「……なんでそんなところにいるの。危ないよ」

     そんな少年が見るからに不安定な屋根の上にいる光景は、なかなか心臓に悪い。立派な屋敷の立派な門は、それなりに高さがある。梯子でもなければ登れない。見た限り、そんな梯子や登れそうな階段はない。ならば少年はどこから現れたのか。
     傑の言葉にサトル少年はさらに首を傾げ、器用に屋根の上に胡坐をかいて座った。言外の、下りてきてほしいという願いは伝わらなかったらしい。「傑」の記憶にもないくらい長く伸びた白い髪を鬱陶し気に払いのけて、小さな頭を掻いた。

    「こうしないと、外に出られないんだよ」
    「は?」
    「俺の部屋、2階なんだけどさ、窓の近くにでっけぇ木があって、その枝から塀に飛び移れんの。外に出る唯一の方法」
    「いや、だからって」

     危なすぎるだろう。落ちたらどうするんだ。つい出そうになった説教じみた言葉を飲み込む。けれど言いたいことは伝わったのか、サトルはケラケラと笑った。
     ――ああ、その顔。
     記憶よりも幼いけれど、間違いなくかつての親友と同じもので。なにより胸の奥のあたりが、ぎゅっと締め付けられるかのように熱くなる。
    この子は間違いなく、かつての「五条悟」の魂を抱く者だと、傑の中の「傑」が叫ぶ。
     だからこそ、もっと近づきたかった。もっと傍で、話をしたい。

    「降りてこられないの?」
    「無理。本当は俺、誰にも会っちゃいけないらしいから。こうやって話すのもダメだって」
    「……じゃあなんで出てきたの」

     坊ちゃまは誰にも会えないのだと、玄関で対応した不愛想な使用人が確かに言っていた。同級生が話していたように、体が弱くて伏せっているからだろうかと思っていたが、今目の前にいる少年は、痩せていることを除けば頗る元気に見える。そもそも伏せっている人間が、2階の窓から抜け出して塀の上を歩くなんて冒険はしないだろう。

    「今まで、学校のヤツがここまで来たことねぇからさ。たまに担任とか校長が来るけど、すぐ帰るし。だから――わざわざやってきた奇特なヤツのツラ見てやろうと思って」

     お前、よそから来た転校生だろ。サトルは笑う。
     わかるのかい、と尋ねてしまったあとで、「初対面」の子どもならそう考えるのが普通かと気づく。ほとんど登校しないが、まったく来ないわけじゃない。小さな村の小さな学校だ。子どもの数も少ないから、ほとんど顔見知りみたいなものなのだろう。上級生に絡まれたこともあると聞いたから、中学生だって皆知った顔かもしれない。
     傑には「前」の記憶があるから、初対面だとは感じなかっただけで。

    「村の連中は好き好んで近づかないからな。来るのは大抵何も知らないか、怖いもの知らずの外から来たヤツだけだ」

     もっとも、「噂」を聞きつけた物好きが来たとしても、再び訪ねてくることはない。ここは、そういう場所だ。実際そういう経験があるのだろうと、サトルの言葉から察する。
     確かに、橋を渡った瞬間の違和感は、傑も感じていた。今も、全身に纏わりつくような不快感がある。呪力がなくても、感じる。

    「満足したか?じゃあ帰れよ、見つかる前に。で、もう来ない方が良い」

     強く拒絶するわけじゃない。あくまで楽しそうに、それでいて柔らかい口調でサトルは言った。やることが子どもじみているのに、ひどく大人のようにも感じる。

    「そこの川が境界線、橋渡らなきゃ大丈夫。だから――もう来るなよ」
    「君、は」

     ここまでの会話で薄々気づいていたが、サトルには傑のように「記憶」はないようだった。けれどこの世界でも、なにか大きなものを背負っている。背負わされている、と言った方が正しいだろうか。それが何なのかまではわからないけれど、そんな気がした。
     サトルは再び屋根の上で立ち上がった。そうして傑に向けてひらりと手を振る。

    「俺もそろそろ戻らないと。窓まで塞がれたら最悪だ。じゃあ、気を付けて帰れよ」
    「待ってくれ、まだ、」

     まだ、話したいことがある。まだ、聞きたいことがある。
    けれど傑が止める前に、まるで時代劇に出てくる忍者のような軽やかな動きで塀の上を駆けていってしまう。傑は結局その細い背中を、見送ることしかできなかった。咄嗟に伸ばした手は、虚しく空を掴むだけだ。
     再び静かになった門の前に取り残されて、ため息をつく。しばらく未練がましく留まっていたものの、サトルが戻ってくる気配はもうない。空が徐々に赤く染まり、もうすぐ夜が来る。本格的にタイムリミットだ。
     ―――名前を伝えることすら、できなかった。
     諦めて、傑は渡ってきた橋を戻った。サトルが言ったとおり、不快感は向こう岸についた途端に綺麗に消えてなくなった。
     川が、境界線。
     こちらと、あちら。
     もう一度、屋敷を振り返る。あちらには、一体なにがあるというのだろう。

    「また、会えるかな」

     尋ねることができなかった言葉は、虚しく冷えはじめた空気に消えた。








     これ、出なきゃダメかな。無視していいかな。
     …ダメだよな、やっぱ。
     逡巡すること数秒、ため息とともに通話をタップする。出ないという選択肢はない。非通知設定でも、かけてくる相手はわかっている。
     はい、こちらカゲロウ。声に出す前に、さっさと出ろと苛立った声が耳をついた。

    「いやぁすいません、ちょっと手が離せなくて」
    「嘘つけ、暇だろうが」

     わかってるならかけてくんな、という文句を寸でのところで飲み込んだ。相手も仕事なのだから仕方がないと頭ではわかっていても、ムカつくものはムカつくのだ。

    「ええ、そのとおりです、暇ですよ。だから新しい報告なんてなんにも」

     ない、と言いかけた視線の先で、ひとりの少年が歩いてくる。今日、接触しようと思った対象だ。先日とある場所で見かけてから、目を付けていた存在である。けれど、有益な情報が手に入るかは五分五分だ。だから結局、進捗はなし、と続ける。今のところは、と心の中で付け加えて。

    「”大祭”まであと3日だぞ。わかってるんだろうな」
    「へいへいわかってますって、じゃ、仕事に戻りますんで」
    「おい!」

     適当にあしらって、通話を切る。いつものことだ。だからかけ直して来ることはない。そうして次の日また、同じことを繰り返すのである。
     仕事とはいえ、実に不毛だ。でも、これも終わり。終わり、にしたかった。
     明日こそは少しは進展した話を報告できれば、とも期待していた。その取っ掛かりになる――はずなのが、あの少年である。
     通話は無理やり切ったが、急いでも焦ってもいない。少年の姿が遠ざかろうと、見失おうと、問題はないのだ。むしろ今ここで警戒されて、別の場所に逃げられる方が厄介だ。体力には自信があるが、小学生の逃げ足に勝てるかと言われれば疑問である。もういい年のおっさんだという自覚はあった。
     少年の行き先は決まっている。あの日から、毎日同じ場所に通っている。今日も、進行方向からして、間違いはない。ならば、先回りできる。彼よりはちょっとばかし長くこの村に滞在しているのだ。抜け道のひとつふたつはすでに把握している。
     多少の警戒心は向けられても、会話に持ち込む自信はあった。なにしろこっちにも、おそらくは少年が知りたがっている情報切り札があるのだ。
     








     五条館を訪れてから、昼休みや放課後に学校の図書室や村の小さな図書館に通うのが傑の日課になった。なんでもいい。どんな些細なことでもいい。この村の歴史と五条家について、なにかわかればと思ったのだ。
     人に聞くのが1番手っ取り早いが、それは止めた方が良いだろうとなんとなくわかった。きっと皆答えてはくれない。知っていたとしても、教えてはくれない。せいぜい村に伝わる昔話とか伝説とか、そのあたりを話して有耶無耶にして終了だ。
     早いうちから慣れた学校の教室、傑の後ろはずっと空席のままだ。同級生たちも担任も、誰も疑問には思わない。そのことに、強烈な違和感がある。
     村に来てまださほど経っていなくてわかる。
    きっと五条家は、気軽に触れてはならないタブーなのだ。
     あらゆる書物や資料を捲ってみても、有益な情報はあまり得られないのもその証拠。神話や伝説の物語はたくさんあるのに、中心的存在だったという五条家の記述はない。不自然なくらいに存在しない。
     わかったのは、サトルの名前がやっぱり「悟」の字を書くのだということだけで。
     当然、インターネットでも調べてはみたものの、結果は似たようなものだ。むしろ、低俗な噂話を面白おかしく書き立てている分たちが悪い。
     どれもこれも、田舎の小さな村の旧家にありがちな話ばかりである。とはいえ、火のない所に煙は立たぬ。だから必死に火元を見つけ出そうと試みているのだが、今のところ煙に巻かれている状態から抜け出せていない。
     実は翌日もう一度、五条家に行ってみたのだ。けれど前日とは違って、橋の向こう側が真っ白な霧に覆われて何も――門の屋根すら見えなかった。橋から屋敷まではさほど距離がないというのに、異常なほどの濃霧だった。それでも構わず橋を渡ろうとして――不意に悟の言葉が蘇った。

     ――そこの川が境界線、橋渡らなきゃ大丈夫。だから――もう来るなよ。

     あれは、悟からの明確な拒絶だった。そして五条館自体が、傑の存在を拒否している。本能的に、無理やり踏み込むのはまずいとわかった。それはなぜか。わからないから、傑は橋に踏み出しかけた足を戻して、後ろ髪引かれながらも帰ってきたのだ。
     そうして理由を知るためには、五条家について調べなければならないという結論に至った。五条家がどういう一族なのか、この村にどんな秘密が隠されているのかを知らなければならない。
     まずは情報収集。それがかつての任務での鉄則だった。ターゲットについて知らなければ、対処できない。ある程度知識を詰め込んで行っても思わぬ落とし穴に落っこちたことが何度もあるのだから、無防備で近づけばなおさらだ。
     だから、調べた。で、今のところなにも見つからない。それでも、無駄だとわかっていても、今日もまた傑の足は図書館へ向かっていた。
     図書館と言ったって、独立した建物じゃない。村役場の一室が、この村の図書館として開放されているのだ。学校の図書室に、毛が生えた程度の規模である。
     ほとんど毎日通っているから、年配の司書ともすっかり顔見知りになってしまった。彼女は、歴史好きな勉強熱心な小学生ねぇ、くらいにしか思っていないのだろう。片っ端から歴史書を捲り続ける傑を、いつもニコニコ見守っている。一度その司書に尋ねてみようかとも考えたが、それで通いづらくなることは避けたかった。
     すっかり慣れてしまった道を歩き、見慣れた古い鉄筋コンクリートの建物を目指す。そのままいつもどおり中に入ろうとして――その横に、見たことのない男が立っていることに気づいた。

    「なあ坊主、お前、五条家のこと調べてるんだって?」

     無視して通り過ぎようとした傑を、馴れ馴れしい声が呼び止めた。

    「……誰ですか」
    「そう警戒すんなよ」

     苦笑する男を、睨みつける。男は傑の警戒などまったく気にする様子もなく近づいてくる。お前でかいなぁ、本当に小学生?なんて軽口を叩きながら。そういう男の背は、傑よりも頭一つ分大きい。
     知らない人には付いていってはいけません。知らない人に声を掛けられたら大声で叫んで助けを呼びましょう。どの世界でも、小学生の鉄則である。
     傑はすでに、体を鍛え始めている。それでも、平均よりでかいとはいえまだ小学生なのだ。技術に、体がついていっていない。相手は傑よりもでかい大人の男だ。ならばここは、逃げの一手。今日図書館は諦めようと、走る体勢に入ったとき。

    「俺は、お前が知りたがってる五条家の秘密を知ってるぜ?知りたくないか」

     踏み出しかけた足が、止まった。訝し気に男を見上げれば、してやったりな顔を目が合った。あ、くそ、引っかかった。

    「そう警戒すんなって。怪しいモンじゃないからさ」
    「どう見ても怪しいですけど」
    「だよなぁ。わかるわかる。でもさ、君とどうしても話がしたいんだよ。ほら、この中でいいから。ジュース奢ってやるよ」

     なかなか自分勝手な上に強引な男である。この中、と指さしたのは、すぐ目の前の村役場の建物だ。放課後のこの時間、人の出入りは少ないがゼロではないし、今の時間はまだ職員がいる。そのあたりの公園で、というよりは安全なのは確かだ。

    「知りたいんだろ?五条家の秘密。本なんていくら調べても無駄だぜ?俺が教えてやるからさ、」
    「代わりに、あなたはなにが知りたいんだ」

     見ず知らずの大人が、傑のような小学生に声をかけてくるなんて裏があるに決まっていると、経験からわかっていた。なんなら「傑」も使ったことがある手段である。
     どう見ても胡散臭い相手に声を掛けられるってこんなにも嫌なものなのか。悪いことをしたな、なんて悪いなんて微塵も感じてないことを考える。

    「お、話が早いね。お前、あの屋敷に行っただろ」

     図星なのに男は焦る様子もなく、あっさりと言った。
     瞬間、反射的に傑は後ろへと飛びのき距離を置く。おお、いい反応。男はカラカラ笑う。

    「見てたのか」
    「ああ。俺はずっとあの屋敷を見張ってるからな」
    「なんで、」
    「それが仕事だから」

     なんでもないことにように、男は言い切った。見張るのが仕事って、探偵かなにかか?それとも、それ系の雑誌の記者だろうか。脳裏に、ネット上で見つけた低俗な記事が浮かぶ。

    「そんで、いつもどおり見てたらお前が現れて、橋を渡っていった。前も、担任だか校長だかが何人か屋敷に来るには来てたけどな、お前が渡った後で、妙なことが起こった。急に霧が出てなにも見えなくなったんだ」
    「霧?」

     そんなもの、出てただろうか。数日前の邂逅を思い出す。
     屋敷の形も、門のデカさも鮮明に覚えている。もちろん、そこにいた、言葉を交わした少年のことも。見えなくなる、なんてことはなかった。

    「信じられんだろうが、本当に出たんだよ。目隠しするみたいにな。で、しばらく待ってたら、お前は何事もなかったかのように戻ってきた。あのときなにがあったのか――誰かに会ったのか、知りたい」
    「知って、どうするんです」
     
     男はきっと、傑が誰に会ったのかわかった上でわざとらしく濁した。つまり、目的は「彼」だと、明言したようなものだ。わからないほどバカじゃない。なにしろ、30年弱とはいえ、一度人生経験をしているので。
     見透かされたことに気づいたのだろう。大袈裟に肩を竦めてみせる。

    「それは、企業秘密」

     どう考えても怪しすぎるのに、傑は悩んだ。男の態度が、疚しいことをしているわりにあまりにも堂々としているせいもある。どうにも調子が狂う。巧みな話術に、はめられている気がする。
     本には書かれていない、誰も教えてくれない話を男は知っているという。なぜ知っているのかという根本的な疑問には、この様子じゃ答えてくれないだろう。限られた情報でも聞いておくべきか、それとも。
     視線だけで、役場の入り口を確認する。入り口は、二重の自動ドアになっている。ちょうど、年配の夫婦が出てくるところだった。そこから入って左側に小さなロビーがあっていくつかのベンチと自動販売機が設置されている。図書室の入り口は、ロビーに面していた。何度も通っていたので、すっかり覚えてしまったルートである。
     もしなにかあっても、ひとり逃げ出す自信はあった。男が持っている情報が、ネットに広がっている程度のものなのか、それともそれ以上なのか。聞くだけならば損はない。どうせ、図書館ではもう新しい情報は見つからないだろうという諦めもあった。
     だから。

    「ジュースより、コーヒーがいいな」








     強い風が、窓を叩く。毎日、毎日、忙しなく、飽きもせず。
     それがただの風じゃないことを、知っている。だからこそ、ソコは封じられていないことも。
     ほんと。

    「悪趣味だよね」

     この部屋のドアは、向こう側から施錠されていて中からは開けられない。トイレも風呂も中にあるのだ。
     開くのは1日1回、食事が運ばれてくるときだけ、だった。昨日までは。
     以前は3回だった食事が、いつしか2回になり、1回になり、そして昨日からゼロになった。餌を与える必要がなくなったというわけだ。
     唯一自由に開けられる窓から見えるのは、真っ黒な森。高く聳える山。そして――普通の子どもならば、恐怖でとっくにおかしくなっているだろう。本来であれば、ここに入れられるのはもっと年下の――7つになる子どもなのだからなおさらだ。
     たった7つの子どもに、残酷な使命をまざまざと見せつける。ここは、そのための場所だった。
     けれどあいにくと、自分は「普通」の子どもではなかったので。

    「――わかってるって。せっかちだなぁ」

     風に混じって聞こえる声が、早く早くと急き立てる。はやく、おまえもこっちへこいと呼ぶ。
     ―――大丈夫、逃げたりしないさ。
     どうせ聞こえていない相手に話しかけるので、すっかり独り言ばかりの不審者だが、誰もここには入ってこないし監視されている様子もないから問題ない。
     物心ついたときから、自らの運命は受け入れている。覚悟はしている。だから、大丈夫――だったはずなのに。
     不意に脳裏に過った姿がある。
     数日前、わざわざここまでやってきた少年だ。目を閉じればすぐに、はっきりと姿形が浮かんでくる。
     別に、会う必要なんてなかった。これまでの客人と同じように、使用人が追い帰して終わり。それでよかったはずなのに。
     予感がして、気づけば窓を開けて外に出ていた。窓は、封じられていない。鍵もない。いつでも抜け出せた。縛り付けていたのは、「出てはならない、誰にも会ってはならない」という、家人の言葉だけ。
     両方を破ったことになるけれど、不思議と罪悪感はなかった。
     代わりに、胸の中に浮かんだのは。

    「……会わなきゃよかったな」

     少々大きな子どもは、未練の形をしていた。
     ため息とともに吐き出した小さな後悔は、誰の耳にも届かない。


     








    「祭り?」
    「そ。あんまり知られてない、秘祭中の秘祭」

     さてどんな「秘密のお話」が聞けるのかと思いきや、意外な単語に傑は目を瞬かせた。



     図書館前のロビー、大きな窓から差し込む光が徐々に薄くなっていた。隅からゆっくりと闇が広がり、あと1時間もすれば役場は閉まり、さらに1時間後に図書館も閉館する。傑はいつも閉館ぎりぎりまで滞在して、薄暗くなった役場を後にするのだ。
     今日はもっと早く帰ることになるのか、遅くなるのか。すべては男の話す内容次第である。
     1つだけ設置された自動販売機で、男は約束通り缶コーヒーを買ってくれた。田舎の自動販売機に電子決済なんてものは付いていない。久しぶりに小銭使うなとポケットから財布を引っ張り出して皺くちゃの千円札を3回拒否られ、四度目の正直でようやく吸い込まれて喜ぶ姿を冷めた目で見た。なにやってんですか。いや、これしかなくてよ。出会って数分とは思えないやりとりを交わしつつ迷わずブラックを選んだ一応小学校6年生の傑に、男はませてんなと苦笑した。
     ロビーには他に誰もいない。図書館の中も、相変わらず利用者がいる気配もない。少し離れたフロアに役場の職員がいるはずだが、あちらからロビーの方は死角になっているはずだ。ときどき電話が鳴るくらいで静かなので、内緒話に向いているのかは微妙である。
     それでも男は気にする様子もなく、自動販売機の隣に設置されているベンチに先に腰掛け、隣に傑を促した。仕方なく並んで座り、奢ってもらったもののプルタブは開けないままの缶コーヒー片手に男に顔だけを向ける。
     早く話せ、お前が知ってること全部吐け。本音はそう問い詰めたいところだが、小学生らしく、五条家の秘密って何ですか、と控えめに尋ねた。

    「まあまあそう焦るなって。まず自己紹介だ。俺の名前は、山田太郎」
    「絶対嘘だろ」

     ついつい間髪入れずに突っ込んでしまった自分を呪う。案の定、男は――自称・山田太郎は楽し気に笑った。

    「本名は名乗れねぇんだよ、だから今日は山田で」

     じゃあ明日は鈴木か?うっかりまた出そうになったツッコミを、ぎりぎりで飲み込んだ。

    「……なんの仕事してるんですか」

     それは、嫌味でもなんでもなく純粋な疑問でもあった。
     訛りのなさから、自称・山田太郎が村の者ではないことは明らかだった。それでいてしばらくここに滞在していて、五条館を監視するのが仕事。どう考えたって後ろ暗い職業としか思えないのだが、この自称――ああもういい、山田という男はこそこそ隠れようとする様子もなければ、ビクビク怯える様子もない。あまりにも堂々とこの村に存在している。探偵だってもっと控えめに動くんじゃなかろうか。
     普通、隠れてなにかを探っているのであれば、監視対象で見かけたからと言ってこんな真正面から接触したりしないし、村の中心ともいえる役場の中で話そうとも思わないだろう。かつての「夏油傑」だって、「家」以外の外では大人しくしていた、はず。記憶は曖昧だが。

    「それを知ったら君を殺さなきゃいけない」

     どこかで聞いたことがある脅し文句を、やっぱり山田はさらりと笑いながら言った。後ろ暗い職業らしいが、ヤクザには見えない。それが、山田に抱いた印象である。

    「じゃあいいです。それより、本題」
    「お、物分かりがいいねぇ、助かるよ。そうそう、五条家の歴史な」

     傑としても、山田自身への興味なんてこれっぽっちもないのだ。しいて言えば、なんで五条家を見張っているのか、という点については多少は気になるが、それ以上にこの村における五条家の――あの日出会った悟のことが気になった。
     なら早速、とあっさり話し始めた山田の口から出たのが、「奇祭」である。

    「五条家の起こりとか、そういうのも一から説明してやってもいいんだが、お前が知りたいのはこっちだろうからな」

     山田の言う通り、傑が本当に知りたいのは、なぜ五条悟が学校に来ないのか。原因が五条家にあるのならば、理由はなんなのか、である。だから黙ってうなずいた。
     奇祭――独特の習俗をもった、風変わりな祭りのこと。
     そのくらいは傑にもわかる。むしろ、前世ではより身近な存在だった。往々にして、そういう祭りが根付いている地域には、同じく風変わりな呪霊が発生する例が多かった。しかも、変わっている上に長年の畏怖を吸収しているため強力なのである。

    「祭りって言ったって、皆が想像する、屋台が出て花火が上がってみたいな、そういうんじゃない。五条家だけに伝えられる、門外不出のイベントだ。だから村の連中も、内容までは知らない。知らないが――存在はわかってる。わかった上で、黙認してんだ」

     村に引っ越してきてからまださほど経っていなくても、思い当たる節はいくつもある。
     空席のままの机。その状況を疑いもなく受け入れる大人たち。同級生たちは詳細を知らなくても、きっと親や教師の影響で、無意識のうちに受け入れてしまっている。
     それが、普通なのだ、と。

    「この村はな、昔からあらゆる災害が頻繁に起こる場所なんだ。土砂崩れ、氾濫、干ばつ――地理的に見て、とか、今なら科学的に解明できる部分も多いんだろうが、そんなものがなかった時代、それらはすべて”悪鬼”の仕業だとされた」
    「悪鬼」
    「こんな言い伝えがある。ソコに置いてある本には載ってない話だ」

     少し声を潜めて、山田は語る。
     昔々、ここにはもっと小さな村があった。地図にも載ってないような小さな集落だ。田畑を耕し、木を伐り、裕福ではないがそれなりに幸せに暮らしてたんだな。
     そんな村にはある秘密があった。
     裏山には昔から、鬼が棲んでいた。不思議な力を持つという鬼だ。ある日村人数名が山から鬼の子どもを浚ってきて、返してほしくば村を守れと、そんな無茶苦茶な要求を突きつけた。当然鬼はそんな約束守りたくはないが、子どもがどこに隠されたのかわからない。逆らえば命はないという。だから仕方なく、50年という約束でしぶしぶ契約を結んだ。鬼が守ったから、周辺の村や町が災害に襲われてもこの村だけは無事だった。
     しかし約束の50年が経過したある日、事件が起こった。突然、雷とともに怒り狂った鬼が現れ暴れ回り、村人たちを次々と襲い、殺していったんだ。なんとか生き残った村人が近隣に助けを求め、中央から術師が駆け付けると、村は世にも恐ろしい地獄と成り果てていた。
     鬼に襲われた村人たちは悪霊となり、恨みの声を上げてさらに村人を襲っていた。吸血鬼みたいなもんだな。それで殺された村人がまた悪霊となって村人を殺す悪循環だ。
     これには実は裏があって、50年で返すはずの約束を村人たちが守らなかったんだ。それもそのはず、鬼の子どもはとっくの昔に殺されていた。そりゃ怒るって話だろ。鬼にとっちゃ、我慢して働いてた意味がなかったわけさ。
     それでも、村人に非があったとしても、地獄をそのまま放置すれば近隣――最悪中央まで影響は及ぶ。だから、術師たちは鬼と戦った。
     最終的にはなんとか悪霊ごと鬼を山の中に封じ込めることはできたが、完全に葬り去ることはできなかった。鬼の怒りは収まらず、封じられてなお村に厄災を齎した。
     そこで残った村人たちは祠を作り、どうか大人しくしてくれと祈りを込めて祀った――っとまあ、よくありそうなお伽噺だな。

    「で、その鬼が封じられてるって伝説の山が、五条館の裏にある」

     傑には、まるっと完璧に、ではないけれど、30年弱生きて後半は呪詛師として活動した男の記憶がある。より強い呪霊を集めるために、変わった風習や伝説が残る地方にも何度も足を運んだ、記憶が。
     だから、この流れでなんとなく先が読めた。

     子どもを殺された鬼。
     封じられてなお収まらない怒りを押えるためには、村の安全を確保するためには、なにが必要だったか。

    「――その祭り、毎年、定期的に行われてるんですか」

     かつて大人だった記憶があっても、今の傑は表情を取り繕うのはまだ上手くできないらしく、山田はすぐに察してにやりと笑う。

    「いいや、不定期だ。しかも数年、長ければ数十年に一度。前に祭りが行われたのは、50年以上前。今回は久しぶりの開催ってわけだな」

     お前、やっぱり察しがいいな。傑に顔を近づけて、さらに声を潜めた。
     役場の方で、電話が大きく鳴る。その音に被せて、男は傑の耳元で言った。

    「お前のお察しのとおり、五条家の秘祭とは――封じられた鬼の怒りをおさめるべく、子ども生贄を捧げるイベントさ」









     離れていく背中が完全に見えなくなったところで、ポケットからスマートフォンを取り出し履歴の1番上をタップする。
     その番号しかない履歴に我ながら寂しいなと苦笑しながら、ワンコールで出た相手の低い声を聞く。

    「…どういう風の吹きまわしだ?」
    「なにかあれば連絡しろって言ったでしょ。そのなんかが起こったので」

     まったく人が歩いていない静かな道を歩く。普段都会で生活すれば、こういう環境に憧れを抱く気持ちもわからなくはないが、1か月もすれば飽きてくる。経費で落ちないというから毎日コンビニ弁当は諦めて真面目に自炊しているが、そろそろ某ハンバーガーチェーンのしょっぱい芋が恋しくなっていた。デリバリーの薄いピザでもいい。
     そんなどうでもいいことを考えながら、きっぱり本題を告げることに決める。
     ダラダラと長い前置きは好きではない。

    「協力者を使うことにしました。地元の小学生ですけど」

     小学生、にしてはやけにデカくて大人びた少年だった。頭もいいのだろう。こちらが話すことを瞬時に理解し、飲み込んでくれる。唯一、ときどきほんの一瞬覗く不満げな顔だけは年相応だった。逆に言えば、隙らしい隙はそのくらいで、とても小学生とは思えない、なんと言えばいいのか妙な「凄み」がある不思議な子だった。ようするに、只者じゃない。
     何考えてるんだバカモノ!てっきりすぐにそんな怒声が飛んでくると思ってスマートフォンを耳から離してみたのだが、いつまで待っても反応はない。
     実際、怒られることをしでかした自覚はあるのだ。いくつもの規則違反――口頭で叱られて終わり、ってレベルじゃない。

    「もしもーし、聞こえてます?」
    「……聞いている。”持っている子”か」
    「さすが、話が早い。ただ、実際のところはわかりません。奇妙な子で、呪力もあるようには見えない。ま、俺にはそのあたり判断できないんですけど。けれど彼は、五条に”招かれた”」

     これだけでも十分、相手には特殊な出来事だと伝わるはずだ。
     大祭までの期間、少なくとも半年は外部との接触が禁じられているはずの子どもと会ったのだと言っていた。会ってなにを話したのかまでは教えてくれなかったが、そのあたりはお互い様なので深くは追求しなかった。その事実だけでも十分な収穫なのだ。
     実際、再びの沈黙が落ちる。相手の信条に反しているとはわかっている。けれど、こっちも一か八かの賭けなのだ。
     だから、畳みかける。

    「このままじゃ、手出しできずに大祭は終わっちゃいますよ。そうなれば次のチャンスはいつ来るかわからない。だから、あの子を使います。一緒に乗り込んでいって、確認する。あわよくば――御曹司の命も助けられるかもしれない」

     それが、あなたが本当に望むことでしょう。電話口から、低い唸り声が聞こえる。悩んでいるときの声だと、もう短くはない付き合いで知っている。ついでに、厳つい見かけとは裏腹に、繊細で優しい心の持ち主だということも。なにしろ、趣味・特技は編み物と縫物なのだ。もちろん、これはトップシークレットなので、知っている者は限られている。
     結論が出るまで、静かに待つ。やがて、小さなため息とともにようやく結論が下された。

    「お前のことだ、どうせもう進めてるんだろう」
    「さすが話が早い。ええもう、ばっちり少年とも打合せ済みです」

     だろうと思った、という声に呆れは含まれているが、怒ってはいないようだった。
     実際すでに、少年とは硬く握手を交わしたばかりだった。なんなら、あの子の方がやる気満々で、説得する手間も省けたくらいである。

    「――わかった、お前に一任する。だが、その少年のことは、」
    「わかってます。責任もって守りますんで安心してくださいよ、ヤガさん」

     名前で呼ぶな、と相変わらず声だけは迫力満点の相手は、静かに通話を切った。
     黒く戻った愛機を再びポケットに入れた頃、現在仮住まいとしている平屋へと到着する。今回のために、借りている空き家である。右も左もお向かいさんも空き家で、ご近所付き合いがいらないのは気楽でいい。
     今日からしばらくはコンビニの飯にしようと決める。少々遠いが、村唯一のスーパーの総菜は、あまり期待できないのだ。
     決戦は、3日後。
     それまでに準備しなければならないことは山ほどあった。









     最初に浮かんだのは、利用されてしまった鬼への憐れみと人間たちへの怒り。村人たちが報復を受けることになった結末は、自業自得だザマアミロ――そう思ってしまうのだから、きっと傑の根本的な部分は変わっていないのだろうと思う。
     わかっていた。この世界でも、あまり他人と関わりたくないと思ってしまうのも、なんの力も持たない自分が歯がゆく、虚しくなるのも。
     生まれ変わったって、基本的な部分はなにも変わらない。

     いつもより早い時間に自宅に戻ると、両親はまだ帰っていなかった。
     そのまま真っ直ぐ2階の自室に駆け上がって、ベッドの上に横になる。たまに母が帰ってくる前にいくらか夕飯の準備を進めておくのだが、今日はとてもじゃないが無理だ。他のことを考える余裕がない。
     バクバク大きく鳴っている心臓を宥めながら、ついさっきの山田という男との会話を思い出す。
     人は、7つまでは神様の子だという。つまり人ならざる存在だ。7つを過ぎれば、人間になる――そんな話は、傑も聞いたことがある。由来や根拠は様々で、実際のところはわからないがとにかくこの地域でもそういうしきたりのもと、7歳をひとつの目安とした。人となった子どもを、村の平穏のためと称して荒神に捧げる。そういう儀式が、少なくとも50年前まではひっそりと行われていた――山田はそう言った。
    「他もそうだが、時代とともにそういう儀式的なのもの廃れて、代替案だったりそもそもがなくなったりするのが普通だ。ここも例外じゃなかったはずなんだが――ここ数年でなにかが起こったんだろうな。それは五条の人間じゃなければならないが、最悪なことにそこから鬼に子どもを捧げなかったからだという結論に至った、らしい」
     いまどきそんな、と言いかけて止めた。古い風習を守っている地域が、過去のしがらみから逃れられない人間が大勢いることを、傑は知っている。
     それが、ときには大きな悲劇を生むことも。
    「お前の言いたいこと、わかるよ。昔話は昔話で、嘘か本当かは誰にもわからない。でも問題は、そこじゃない。今この時代に、山の中には今でもなにかがいると信じているヤツラによって、子どもが殺されようとしている」
    「――あなたって、もしかして警察」
    「に、見える?」
    「全然」
     だよなぁ。終始変わらず胡散臭い男は笑った。
    「ま、当たらずとも遠からずってところかな」
     閲覧できる図書資料には残っていない五条家にまつわる事情を詳しく知っていて、かつ調査のために極秘で村に滞在し監視している、警察ではない男。
     不意に傑の中に浮かんだ可能性は、結局口にすることはなかった。
    「そんな怪しい男の頼みを、聞いてくれる気はあるか?」

    「3日後…」
     無意識に出ていた声が、静かな部屋の中にやけに響いて聞こえる。
     詳細は省かれたが、大雑把に言えば山田の目的は五条館の裏山にあるモノの正体を突き止めることだと言った。ただの伝承、お伽噺で済めばいいが、実際説明できない現象が繰り返し起こっているのである。
     傑が訪ねたときに発生した謎の霧もそのひとつ。
     もっとも、傑自身は見ていないので本当のことなのかわからないが、その後もう一度訪ねたときには拒絶するかのような霧でなにも見えなかったことは事実である。
     得体の知れない、なにか。山田の目的はあくまでその解明であり、もしかしたら殺されそうになっている「五条悟」を助けることではないのだ。
    「っていうのは建前だけどさ、やっぱいい気はしないだろ。殺されるかもしれないってわかってて見捨てるのは。しかも、まだ小学生の子どもだ」
     それまでどこかヘラヘラとしていた山田が、そのときばかりは表情を硬くした。きっとそれが男の本質なのだろうと思った。
     お前、五条悟を助けたいだろ?助けたいよな?はい、ともいいえ、とも応えていない傑の気持ちを断定して、話はどんどん進んでいく。もちろん、間違いではないので反論はせずに黙って話を聞いた。
     祭り――山田は大祭と言っていた――の日付は必ず決まっているのだという。50年ぶりの開催で、やり方は多少変化したとしてもそれだけは変わらない。

     村が悪鬼に襲われた、とされる日。
     その、深夜0時。

     作戦、とも言えないような計画の実行日はその当日にすると山田は言った。
     本当はもっと前に、なんなら今からでも動きたいというのが傑の本音だ。けれど、あそこにいる「何か」を調査に来ている以上、山田は拒否するだろう。「何か」に動きがあるとすれば、大祭当日に狙うのが確実だ。そんなことは傑にだってわかる。
     なにより、下手に動いてこちらの目的がバレれば逃げられる可能性があるし、悟がどんな扱いを受けるのか不安もある。
     なにより今の傑には、「何か」と戦える力はない。
    「多少形式が変わってるってったって、大まかな流れは同じはずだ。大祭の日、生贄の子どもはたったひとりで祠の前に置かれる。その時は他の誰も近づかない。ま、なにかが本当にいるとすれば、トバッチリを受けるのは嫌だろうからな。逆に言えば、そのときが助け出す1番のチャンスだ」
     悟は今、堅牢な五条館の中にいる。祭りが近いのならなおさら拘束は強いだろう。こっそり抜け出すことももうできないだろうし、もしこの前のことがバレていればなおさらだ。
     それが、外に出されてかつひとりきりになる機会がある。
    確かに、山田の言うことには一理ある。
     夜、大祭が始まる前に山の中に先回りして待機する。それが、山田が決めた作戦だ。すぐに助け出すことはしない。「何か」がいるのかどうか確認するまでは、手は出さない。
    「もちろん、断っていい。小学生が出歩く時間じゃないし、両親の許可は貰えないだろう?悟少年を必ず助けられるという保証もない。もし危険な状況なら――まず自分たちの命を優先して逃げる、そういう決まりだ。それが耐えられないなら、俺ひとりで」
    「でもそれじゃあ、祠に近づけないかもしれないんでしょう?」
     それは、山田が自分で言っていたことだった。
     祠に先回りして待機する――口にするのは簡単だが、ここでは10分で富士山に登頂するより難しいことだった。
     山田は当然、これまでだって何度も五条館の裏山に入ろうと試みたらしい。大元はその祠なのだから、現地に向かうのが1番である。しかしそのたびに妨害があった。迷わされ、惑わされて近づくことすらできず、祠の存在すら確認できていない。
     山田はなにも答えずに苦笑した。その顔には、図星だと書いてある。
     傑が声を掛けられた理由がそこにある。本来、生贄に選ばれた子どもは外部との接触を禁じられている。理由はわからないが、その禁忌を破ってまで一度とはいえ話すことができた傑ならばなにか突破口があるかもしれない――まさに、一か八かで縋られた藁だった。
    「大丈夫、抜け出すのは得意だ」
    「小学生が胸張って言うことじゃないだろ」
     ま、助けてくれるなら大歓迎だ。そうして山田の連絡先を聞き、明日また同じ時間に図書館で会う約束して別れたのだ。


     決戦は、3日後。
     3日後の――――9月XX日。


    「9月、XX日…」


     ふと。なにかが、引っかかった。
    なにかが――妙にもやもやとする感情の正体を探ろうとして、そして。
     傑は飛び起きた。
     急激に、喉が渇いていく。眩暈がする。


    「9月、XX日…?」


     ここは、■■県、■■市の一角。
     かつてはひとつの村だったが、全国的な合併の波に乗って面積だけは大きな市の一部となった。
     ■■県■■市。かつての村の名前は――――図書館で何度も目にしたのに、どうして気づかなかったのだろう。
     ……いや、わかっている。そんなことは、「彼」にとってはどうでもいい些細なことだった。覚える価値もないモノだった。


     あのとき、「彼」が――「夏油傑」が向かった村はどこだったか。
     あれは、いつのことだったか。


     ある日突然、怒り狂い暴れまわったという鬼。村人たちを次々と襲い、殺した悪鬼。
     なんと哀れな鬼だろうかと思った。だって彼はなにも悪いことはしていない。理不尽に大切なものを取り上げられたにも関わらず、契約を守って己のするべきことをした。
     約束を破ったのは村人。鬼の家族を、殺して、その事実を隠したまま利用しようとした。
     当然の報いだと、傑は思った。

     この世界は。
     記憶にある「夏油傑」が生きた世界とは繋がっていない。けれど、すべてがまったく違うわけじゃない。
     ここは日本という国だし、首都は東京だ。数回引っ越したせいで育った場所は違うけれど、生まれた場所は同じ。父も、母も、同じ顔をして同じ名前を持っている。
     それならもしかしたら、傑が知らないだけで呪術師だってそこかに存在していてもおかしくはない。
     ―――例えばあの男、山田のように。
     尋ねたくてできなかったのは、それだ。
     山田の職業を「呪術師」、所属する組織を「呪術高専」と仮定すれば、しっくりくる。「非術師」が産み出した呪いを、「非術師」に知られることなく祓っていく。名称は違うかもしれないが、似た存在なのだろうと半ば確信していた。
     五条館の裏山に潜んでいるのは「呪霊」で、時間の経過とともに強大化し封印が弱くなった。そんな仕組みを知らない非術師たちは、古来の習慣に則り、生贄として子どもを捧げようとしている。

     その生贄が、よりにもよって、「五条悟」。

     前の世界の影響が、多少なりともこの世界にも及んでいるのだとしたら――この土地に根付いた呪いが、形を変えて存在しているのだとしたら。
     そこに、傑が引っ越してきたのは偶然なのか、運命のいたずらなのか。
     しかも、目に見えない呪いに絡めとられようとしているのは、傑ではなくかつての親友なのだ。

     重い体でなんとか立ち上がって、ふらふらと窓へ向かう。全開まで開ければ、秋を纏った風が中に入る込んでくる。少し高台にあるので、2階の傑の部屋からでもある程度見渡すことができる。右手側には通う小学校。反対側には、図書館がある役場。そうしてまっすぐ向こう側には、五条館。遮るもののない土地で、いくら距離があるとはいえ多少は見えてもおかしくはないのに、その方向だけ靄がかかったようにぼやけている。
     まだ引っ越してきて1か月足らずの小さな村。朧げな記憶を辿っても、あのときとは全くと言っていいほど違う。もっとずっと田舎で、輪をかけて閉塞的で、鬱陶しいくらいに呪いで満ちていた。中心にいたのは、やっぱり子どもだった。

    「さとる」

     本当に前の世界となにか繋がりがあるのかとか、そんなことは今はわからない。ただ、3日後に奪われそうになっている命が、親友の形をしている――その事実だけが目の前に突きつけられている。
     思い出すのは、ひょろりとやせ細った白い体。かつての姿とは、似ても似つかない。襲われれば簡単に、抵抗もできずに食われてしまうだろう。

     絶対に、阻止する。必ず、助ける。
     そうしたら―――そのあとは?私はどうするのだろう。

    「……まあいいや」

     ぐちゃぐちゃと混乱する思考を、いったん放棄する。諦めは、すっかり傑の癖になってしまっていた。「夏油傑」の記憶と、今の自分。あまりの違いに苛まれる心を守るための術だった。
     静かに、窓を閉める。多少乱れた髪を整えて、再びベッドに横になる。
     今は、悟を救出することだけに集中する。後のことは――そのとき考えればいいのだ。そう考えている途中で急激に眠気が襲ってきて、自然と目が閉じられた。

    黒い、黒い。真っ暗な闇。
     光は見えない。ただただ暗いだけの世界。
     激しい怒り、苦しみ、悲しみ……負の感情をありったけ集めて煮詰めた鍋の中に放り込まれた気分だった。
     もちろん、最悪。吐き気がする。
     なのに抜け出せない。逃げることができない。
     藻掻いたところで一層沈むだけだとなんとなくわかっていた。もとより、足掻くつもりもない。

     ―――逃げることを、自分自身が許さない。

     ドウシテ、ドウシテ、ドウシテ……頭の中に鳴り響く怨嗟。四方八方から伸びてくる無数の手。
     地獄絵図のような光景を、不思議と恐ろしいとは思わない。
     こちらへ来いと、誰かが呼んでいる。知っているような知らないような、そんな声が呼んでいる。
     たぶん、ずっと呼んでいたのだ。気づかなかっただけで。

     来い、ここへ来い。そして受け入れろ。
     これは―――お前の呪いだ、と。









     震えてしまうほどの冷たい水で全身を清め、真新しい白い着物を着せられる。伸び放題だった髪も整えられる。綺麗に身支度を整えて、木材を簡易的に組み立てただけの箱に乗せられる。もちろん硬い内部の座り心地は最悪だ。
     祭りの華美な神輿とはまるで違うイレモノだ。同じなのは複数の人間が担いで移動するという点だけ。中に入るのは神様じゃないのだから当然だ。一切の飾りのない、まさに箱――むしろ棺桶と言った方が正しいかもしれない。
     冥土へ向かうという点では、間違っていない。
     ある意味お決まりの流れである。昔から、何百年も続くしきたり通りの。
     最終的にあの場所に辿りつけれるならどうでもいいだろうと思うのだが、一応儀式としての形は重要視するらしい。バカバカしい、と悟が感じることでも、彼らにとっては大事な流れなのだろう。
     だから何も言わず、動くこともせず、望むままに着せ替え人形になっている。どのみち家にいたんじゃなにもできない。黙っていれば目的の場所に連れて行ってくれるのだからむしろ好都合だった。
     ゆらゆら、酔いそうになるくらい乗り心地の悪い箱の中で、悟はその瞬間を待っている。
     膝の上で、骨ばった手のひらを握りしめる。
     想定上に体力が削られてしまったのが誤算だが、それでもやらなければならない。
     最初から――「大事なお役目」とやらを聞かされたときから、家のヤツラの希望通りになってやるつもりはなかった。悟の顔すら見ようとしない親族たちに抱く罪悪感なんてものも存在しない。
     今の自分ができる限りのことをするだけ――どこかで聞いたことがあるセリフだ。
     だから、だから。

    「――なんにも気づくなよ。知るなよ。なぁ、すぐる」

     誰にも聞かれることのない秘密。
     口に乗せながら、どこかで無理だろうなともわかっていた。
     あのとき、再び悟の前に現れた姿を見た瞬間から。


     運命の輪が、回る。










     誰かがわざと結んだんじゃないかっていう雑草の輪に足を引っかけ転びそうになる。危うく茂みにダイブしそうになる寸前でなんとか堪えた。
     もうずっと、こうである。
     私有地となっている神聖な山に、外部向けの登山道なんてものは存在しない。祠へ続く整備された道は五条館から伸びる1本だけだと、案内人兼同行者の男――山田は言った。
     もちろん、正面から入り込むわけにもいかないので、ひたすら藪道を進むことになる。動きやすい服装と靴で来ること――学校行事での決まり文句を、まさかここでも聞くことになるとは思わなかった。一応着古したジャージ上下とスニーカーで来てみたが、正解だったらしい。
     木や草が、上にも下にも満遍なく生い茂っている。加えて今は日もとっくに沈んだ深夜と呼ばれる時間帯で、月明かりもろくに届かない深い山奥なので一歩進むだけでも大変だ。
    侵入を拒むような枝や草に服は頻繁に引っかかるし、ところどころぬかるんでいる場所も見えなくて、スニーカーはすっかり泥だらけだった。お気に入りの服や靴じゃなくてよかったと思う。特に引っ越し前に買ってもらったスニーカー。いまだに箱から出してもいない。
     油断すれば転がり落ちそうな悪路でも、今日はかなりマシなのだと細い懐中電灯の白い光の中で山田は笑った。

    「前チャレンジしたときは昼だっていうのに登り始めて1分でなにも見えなくなって、で、足滑らせて逆戻りさ」

     今はまだ、かろうじてだが懐中電灯で照らせば周りの景色が見えてる。だからマシなのだと力説されても、なんの慰めにはならない。
     相手をするのも疲れるので、傑は黙々と足を動かした。普段鍛えているはずなのに疲労が蓄積されていくのは、使う筋肉が違うということなのだろうか。
     山田の話を受け流しつつ、徐々に重くなっていく足から逃避するように、傑はこの3日見た夢のことを思い出す。

     山田と初めて会った日の夕方、いつのまにかベッドで寝てしまった傑は夢を見た。
     しっかりと内容を覚えている。真っ黒な、ドロドロとした汚いモノの中に放り出される夢。ドロドロしたモノは無数の手の形になって、傑をさらに深みへと引っ張り込もうとする。
     そしてなぜかと問うのだ。なぜ、どうして、なんでなんでなんでなんでなんでナンデナンデ――気がふれそうなほどのリピート。夢の中で傑は無数の声を黙って聞いていた。
     悪夢、と言っていい内容だと、客観的に見れば思う。
     けれど傑は、その意味するところがなんとなくわかるのだ。夢は、ここがどういう場所か理解した瞬間から始まったのだから、無関係ではない。
     そして最後に必ず、ここに来いと呼ぶ声。
     あれは、きっと。

    「お前、聞いてないな?」
    「聞いてますよ。で、あとどのくらいですか」

     足だけではなく全身が重い。それが疲労から来るものだけではないことに途中から気づいてはいた。
     それはつまり、目的地に近づいていることの証左でもある。
     聞いてねぇじゃねぇかと苦笑しながらも、もうすぐそこのはずだと山田は言った。

    「そろそろ着いてもおかしくな、っ!?」

     疲れなんて知らないように前を進んでいた山田の足が止まった。今はなにも見えない傑にも、わかる。淀んだ空気が、一層重くなった。吐き気を催すほどに。
     近づいている、というのは間違っていなかったのだ。同時に傑たちは、少し遅かったのだと悟る。それとも、向こうが予定を早めたのだろうか。
     なにかしらの力が、一気に増した。
     きっとすでにターゲットは獲物を見つけてしまったのだろうと、わかった。
     獲物とは、すなわち。

    「――さとる!」

     ついさっきまで鉛のようだった足が嘘みたいに動いた。
     そして。先導されなくても、傑にはどこへ向かうべきかもわかる。あんなに拒んでいたはずの草木が、自ら道を開けるように避けていく。

    「待て坊主、ひとりで行くな!」

     焦ったような山田の声も、すでに傑の耳には届かなかった。








    ずっと、聞こえていた声がある。呻いているような、歌っているような、不思議な声。それを、ある者は「山の神」だと言い、ある者は「悪い鬼」だと言う。
     悟にとっては、2つの間にさほど差はない。
     わかっているのは、その「何か」が、懐かしい気配を纏っているということだけ。

    「――すぐる?」

     ある、冬のはじまりの日。
     離れたり、近づいたり。気まぐれなのか単に不安定なのか、屋敷の周辺を漂う気配に、悟は思わずその名前を呼んだ。
     呼んでしまったのだ。

     生まれたときから頭の中に存在する記憶。
     もうひとりの、別の「五条悟」が生まれてから死ぬまでの物語。
     今の悟と名前はもちろん、姿形もまるで同じ。きっとあれは前世の姿なのだと、なんの疑いもなくそう思った。
     もちろん、誰にも話したことはない。ずっとひとりで抱えていた。話したところでどんな反応が返ってくるのか、幼いながらにわかっていたからだ。別に、困らせたいわけじゃない。
     だから、生まれ変わっても悟の中に強く残っている存在とよく似た気配――呪力、と言った方が正しいだろうか――に、つい声に出してしまった。自覚はなくても本当は寂しかったんだろうと今ならわかる。前世の記憶を抱えていても、体はまだ幼い子供だから、というのは言い訳だろうか。
     言葉はしっかりと形になって相手に飛んでいき、結果向こうも悟に気が付いた。
     不安定な、形を成さないモノだったのに、それはみるみると見覚えのある人の形になっていく。
     耳まで裂けてるんじゃないかってくらいデカい口が笑う。子どもから見れば大きな手のひらが、悟の丸い頬に触れた。恐ろしいほどに冷えた手だった。

     ――■■あ■■あ、わ、たし、■■はお前を知っ、■■ている。知っ■て、いるよ。

     ノイズ混じりの「音」が、次第に意味を成す「言葉」になっていく。ぐにゃぐにゃ歪んだ輪郭が徐々にはっきりしてきて、最終的にその形になる。

     ――■サ、■■トル、サト、ル、サトル、さとる……さとる、だ。

     長く伸びた黒い髪。デカいピアスが嵌め込まれた福耳。切れ長の目。憎たらしいくらい様になっている袈裟姿。
     「五条悟」の記憶に残る、最後の姿。
     そこで悟は、気づいた。
     ただ気配だけだった存在に形と名前を与えてしまったのは悟自身だ、と。
     この目の前の「呪い」は、悟が作り上げてしまったのだ、と。
     あのときはまだ自由に動き回れたから、悟は五条館の書庫に詰まっている資料を片っ端からひっくり返して調べた。
     五条家の歴史。密かに行われてきた血塗られた儀式のこと。しかし、時代とともにそういった儀式は廃れ、なくなっていくものだ。五条も例外ではなかった。記録に残る50年前を最後に、「大祭」と呼ばれる儀式は行われていない。この先もそのつもりだったのだろうと、館の中に居ればこそわかる。
     なぜなら、悟は7歳を迎えても生きているし、学校にも通っている。他者との交流を制限されていない。
     過去に五条家で行われてきた大祭で、裏山の祠に捧げられる子どもは誰でもいいというわけではなかった。記録によれば、数年に一度生まれる特殊な力を持った子どもと決められている。
     その子の特徴はわかりやすく、白い髪に青い目――今の悟と同じだった。これは憶測だが、五条家はもともとそういう子どもが生まれやすい家系で、同時にたまたま力を持っている確率が高かったのだろうと思う。それが、いつしか白髪に碧眼は力がある子どもだと認識され、本当のところがどうかは関係なく「捧げられるモノ」という決まりができてしまった。
     そういう子どもは、生まれてから戸籍には登録されていなかったという。つまり、この国では「存在しない」ものとして扱われる。山の神のために、7歳で命を落とすことが決まっていたからだ。
     昔は多産で、そういう子どもが生まれてくる確率も高かったが、時代とともに徐々に子どもの数は少なくなっていた。前に該当する子どもが生まれたのが、50年前というわけだ。
    クソみたいな習慣である。廃れて当然の、時代錯誤な儀式。
     五条の人間だってきっとみんなそう思っていたのだ。だから、五条家にとって久しぶりの「能力者」である悟でも、ちゃんと戸籍に登録された。ちょっとばかし他の子どもと色が違うけれど、ごく普通に育てられた。両親も、祖父母も、一族全員、誰も大祭を復活させるつもりなどなかったのだ。加えて悟は、一人っ子の長男だったのだからなおさらだ。親戚の子どもはそこそこいるが、直系は悟ひとりだけなのである。
     雲行きが変わったのは、悟が7歳の誕生日を迎えたときだ。
     その日を境に、五条家に「よくないこと」が立て続けに起こった。
     はじめは、館の庭で作業をしていた使用人の1人が突然発狂し、奇声をあげて庭中をぐるぐる走り回った末に倒れ、そのまま死亡が確認された。表向きは心臓発作ということになったが、持病はなかったし検死の結果原因不明だったことを屋敷の者だけは知っている。
     この日を発端として、雨が降った次の日だというのに庭の池の水が干からびてなくなったり、風もないのにガラスが派手に揺れて割れたり、祖母が階段から転がり落ちてケガをしたり――彼女は誰かに背中を押されたと証言した――とにかく大小さまざまな災いが襲ったのである。
     こうなれば当然、屋敷内に不安は生まれ、徐々に大きく広がっていく。そうして行き着いた先が――祟りである。
     贄の子どもを捧げなかったから、山の神様が、鬼が、怒っているんだ―――誰が最初に言い始めたのかはわからない。ただその言葉は続けざまに起こる事件にまるで伝染病のように広がっていき、結果。悟は少々年は取ったが12歳で神様に捧げられることにめでたく決まったというわけだ。
     7歳を迎えてからここまで揉めたのは、やっぱり一人っ子だということもあるし、そんなバカげた風習とどこかで信じられない気持ちもあったのだろう。特に最後まで、母は反対していた。そんなことで大事な息子を殺すつもりかと抱きしめた。
     けれど10歳の誕生日を迎えたとき、その母が突然意識不明の状態になり、今も市内の病院に入院している。これはいよいよホンモノだということになり、悟は12歳を迎える年の決められた日に、捧げられることになったのである。
     儀式にはあれこれ細かい手順やら決まりがあった。悟自身も古文書を読んでいたので知っている。贄となる子どもは、1年前から入念な準備が必要なのだ。その中の大きく重い決まりが、外部と――俗世とでも言うべきか――接触してはならないこと。学校の連中はもちろん、家族とだって必要最低限の会話すらできないことになっている。
     だから悟は、学校へ行くことを禁じられた。同時に来るべき日に向けて、いろいろと準備は進められていく。これまでと違い、戸籍がある子どもだ。あっさり殺してはいおしまい、というわけにはいかない。
     五条家の連中は知恵を巡らせ、まずは悟が生まれながらに病弱であるという設定を作り上げた。今すぐ死んでもおかしくないほどに弱いのだ、と。おかげで登校禁止になる前から学校にもほとんど行けなくなり、ついには外出すらままならなくなった。
     ついで、村の中に五条にまつわる「噂話」を吹聴した。人の口に戸は立てられぬ。五条家に起こっている不幸は、どんなに緘口令を敷いたところで外部に多少は漏れていた。そこを、逆に利用したのだ。
     根も葉もない嘘に、ちょっとだけ真実を混ぜるだけで効果は覿面である。

     五条家は、呪われている。
     五条館は、バケモノ屋敷である。
     ゆえに、五条の人間に手を出せば痛い目に遭う。

     五条の人間だけではそこまで広がることはない五条家は村の中ではまだまだ力があるようなので、密かに顔役たちに協力を依頼したのだろう。今は五条のみで災厄を押えられているが、いずれは村全体に影響を及ぼすかもしれないとかなんとか、そんなことを言って。
     そんな大人の中には、学校の校長も含まれていたはずだ。欠席が続いても、担任とごくたまにしか訪れないし、来てもお決まりの台詞だけを交わし合ってさっさと帰ってしまうのがその証拠。
     しかし、その状況を悟は嘆いてはいなかった。
     むしろ、好都合だと思った。「噂話」に説得力を持たせるために協力すらしてやった。
     本格的な外出禁止令が出る前に、密かに館を抜け出したことがある。そして、数年後には廃校が決まっているという村唯一の中学校近くをうろついた。
     以前から、この髪色が気に食わないだの、態度が生意気だだの、難癖付けられて辟易していたことを思い出したのだ。だからこの状況を利用してやろうと思った。
     案の定、授業をサボったらしい見覚えのある中学生数人――名前なんて知らない――が悟を見るなり絡んできた。あーだこーだ、相変わらず理不尽な文句を聞き流す。そして無視されたと激高してきたヤツラを、ポケットに両手を突っ込んだまま呪力で吹き飛ばした。まったく、行動パターンが決まっている単細胞で助かった。
     おかげで、「五条の人間に手を出せば痛い目に遭う」という話に信憑性が出た。これでもう、館の方へ近づく者はいなくなる。

     悟は、悟だけは、次々と起こる災厄の本当の理由を知っている。

     度重なる五条家の不幸は、何百年も前の本当にいたのかも怪しい鬼の仕業ではなく、あの日覚醒した呪いが引き起こしたのだ。
     あの日――12月7日。
     7歳の誕生日に、悟が名前と形を与えてしまったから。だから呪いは、「自らの望み」を思い出してしまっただけ。

     あの姿、あの男の望み――すなわち、人間たちの鏖殺である。

     ここがどういう場所なのか、気づいたのは随分と後のことだった。「五条悟」が、実際に訪れたことはない場所。行こうと思ったけれど、結局は止めた村。ただ、どうか読み違いであってほしいと何度も読み返した報告書に、その名前は記載されていた。

     ■■県■■市。旧、■■村。
     かつての記憶の中で、親友が――「夏油傑」が呪詛師と成り果てたきっかけの場所。
     村人を虐殺した村と同じ名前だ。

     この世界は、記憶の中の世界とは違う。けれど、すべてがまったく異なるわけじゃない。
     ここにも、奇妙で不可解なバケモノが存在しているし、不思議な力を持つ人間も確かにいる。悟自身がそうなのだし、視えているのだから間違いない。
     悟には前の記憶があるから、なんの疑いもなくバケモノが「呪霊」で、力を持つ者は「呪術師」なのだと受け入れている。ただ、これまで生きてきた10数年、この田舎の村の中で出会った人々の中で、呪いを「呪い」として認識している者はいなかった。
     前の世界でも、大半は視認すらできない非術師がほとんどだったが、全国各地に呪術高専の息がかかった術師、または窓がいて異変があれば報告が来るシステムになっていた。特にこういう田舎では、今の五条家のような旧家や名士が事情を知っていることが多く、ほとんどが高専に協力的だった。自らの生活圏が脅かされているのだから当然かもしれない。
     だが、今の五条家には「呪い」に関して理解している者は誰一人いない。散々読み返した記録や資料にも、それらしきものは書いていなかった。贄とされる白髪碧眼の子どもは「不可解なものを視る力がある子」とだけ記されているのだ。どこにも「呪」の文字は見当たらない。
     辺鄙な場所では、高専の目が行き届かないこともある。特に閉鎖的な場所は、外部から人でもものでも入り込むのを嫌がる。ここはそういう場所で――かつての傑が堕ちた場所だとなれば納得もできた。
     同時に、あの漂っていた呪いが、なぜ傑の気配を纏っていたのかも。

     あちらとこちら。
     平行世界のようでどこかしら繋がっている。
     悟がこの場所に生まれたのも、そこに傑の欠片が漂っていたのも、ほんのわずかな細い縁が繋がっているからなのだと、勝手に結論付けた。

     その曖昧な縁をはっきりと形にしてしまったのは悟だ。

     まだ被害が村全体に及んでいないのは、川を境目とした昔ながらの結界が辛うじて活きているためだが、どんどん力を増していく呪いは近い将来それすら破って出ていくだろう。
     これは、悟が起こした案件だ。
     だからこそ、自らで決着をつけようと意気込んでいた、のだが。

    「お、まえ、デカくなりすぎでしょ」

     棺桶もとい神輿を置いて、家の連中が山を下ったのを確認してすぐ悟は外に出た。裏山の中腹にある祠には、幼い頃に一度だけ来たことがある。
     ごくわずかな者だけが立ち入りを許される禁忌の場所。かつてこの村で暴れまわった悪鬼を封じ込めているという場所。
     記憶よりも、そこは随分と廃れ、一層禍々しさを増していた。理由はわかっている。祠の周りにびっしりと蠢いている「呪霊」。

     ―――ドウシテ、ドウシテ
     ―――オマエモ、ハヤク

     長年の悪習により、犠牲となった大勢の子どもたちの思念や怨念が渦巻いている。そこにこの数年、人々の不安や恐怖から生まれた「呪い」が引き寄せられているのだ。
     その、真ん中にいる、1番大きな呪い――夏油傑の姿をした呪霊は、這い出てきた悟を見てにやりと笑った。初めて顔を合わせた、はっきりと形を得たときと同じ笑みだ。

    『さ と る』

     応えずに、印を組んだ指を呪いへと向ける。
     今の悟には、圧倒的に力が足りないとわかっている。この、誇大化した呪霊に、楽に勝てるなんて微塵も思っていない。
     よくて相討ち、悪ければ犬死。それでも、やらなければならない。
     それが、今の悟の役目なのだとずっと思ってきた。
     細い指が、震える。
     恐怖ではない。圧倒的に、体力が足りない。それでもやるのだ。

     指先に、集中する。できるはずだと言い聞かせる。
     ありったけの呪力を込めて、そして、あの余裕ぶっこいている憎たらしいけれど、どうしようもなく心が揺さぶられる姿に。




    「―――悟!」



     がざりと、大きく茂みが鳴ると同時に、飛び出してくる影がある。
     小学生にしてはデカい、けれど記憶よりも幼い、今まさに考えていた姿だった。

    「―――すぐる」

     どうしてここに、という混乱のあとで、悟はようやく帳の存在に気が付いた。この山――おそらくは祠を中心とした周囲数メートルに、いつのまにか帳が下りている。
     もちろん、悟じゃない。ならば、誰が――そこで思い出すのはここ何か月か館の周辺をうろついていた不審者だ。直接見てはいないが、そこそこ強い呪力を感知していた。この世界では、初めてのことだ。
     もしかしたら――その可能性を考えた。こうして呪いが存在する世界だ、この呪力の持ち主はこの世界の呪術師(あるいは準じる者)なんじゃないか。
     その呪力が、すぐそこまで近づいていた。けれど、呪力の持ち主の前に現れたのが、傑だった。
     あの日、名前を呼ばれた瞬間に、記憶があるのだろうとわかっていた。
     だからこそ知らんぷりを決め込んだ。黙ってはいないだろうとわかってはいたが、どうせ五条家以外の場所に資料なんて残っていないと油断していた。
     きっと、もうひとりの呪力の持ち主が教えたのだろう。一体どうやって情報を得たのかは知らないけれど。
     悟へ近づこうとしていた呪霊が、ぴたりと動きを止める。ゆっくりとした動作で、首が突然の乱入者へ向けられた。そして。
     再び、耳まで裂けた口が笑う。


    ――ミツケタ、ミミミツケタ


     その声は、悟にははっきりと聞こえていた。

    「なにが、起こってるんだ」

     戸惑った声。乱入者――今の傑には、コレが見えていない。
     それはそうだ。少年には、まったくと言っていいほど呪力がない。かつての教え子のように、そしてあの男のように。
     でも、彼らとは事情が異なる。たった今、気づいた。
     今の傑に、呪力がまったくないのは―――

    「……そういうことかよ」

     緩みかけた印を再び結ぶ。やっぱり全身全霊、持ちうるすべての力をぶつけるしかない。
     これは村を救いたいからとか、家族のもとに戻るとか、そんな話じゃない。そんな情は存在しない。
     あるのはただのエゴだ。悟の、どうしようもないエゴ。
     以前、この年齢では知識では知っていても使いこなせなかった。
     でも今は、記憶のおかげで感覚でわかっている。

    「おいよせ!」

     聞き覚えのない誰かの声が叫ぶ。呪力の持ち主が、ようやく到着したらしい。
     聞き覚えがないはずなのに、奇妙に懐かしさもある。
     でももう、考えている余裕なんてなかった。



    「―――術式反転、赫」









     背後から山田の声が聞こえたかと思えば、一瞬眩いばかりの光が走った。なにかが爆発したかのように強い風が起こり、決して軽くはないはずの傑の体も吹き飛ばされ、でかい木の幹にぶつかって止まる。
     強かに背中を打ち付けた痛みに咳き込み、顔を顰める。咄嗟のことで上手く受け身がとれなかった。
     でもそれも一瞬。すぐさま立ち上がって光の源へと駆ける。

    「――悟!」

     鬱蒼と生い茂っていた草木は今の光で一瞬で吹き飛び、小さな祠も崩れて原形をとどめていなかった。蟻地獄のような凹みのど真ん中で、白い着物が横たわっている。
     緩やかな斜面を勢いよく駆け下りて傍らにしゃがみこむ。咄嗟に伸ばした手が、肩に触れる直前で躊躇した。

     触れて、いいのだろうか――関わっていいのだろうか。
     一度は、拒絶された。そこを乗り越えてしまっていいのだろうか。

     でもそれもまた一瞬だけで、まず肩に触れた。着物越しでも、ごつごつ骨ばっているのがわかる。肩、二の腕、肘――撫でるように触れていって、慎重に上体を抱き起こした。遠くで見たときから感じていたが、ゾッとするほどにやせ細った体だった。手のひらに触れる体温がなければ、生きているとも思えないほどに。
     というか生きて――るよね、まだ。
     顔を近づければかすかな呼吸音が聞こえるし、どくどく波打つ脈も感じられる。でも、今にも止まってしまいそうなほどに弱い。
     まさかこのまま――浮かんだ可能性に無意識に首を振る。いいや、大丈夫だ。絶対に助かる。初めて傑に、明確に喪失の恐怖というものが浮かんだ。
     早くここから連れ出さないと。その一心で、軽い体を抱え上げて斜面を登り、変わり果てた祠の前に戻る。痩せた相手とはいえ、背丈はある。鍛えておいてよかったと心底思う。思うけれど。
     昔からあの呪霊がいれば、とときどき考えてしまうことがある。飲み込む行為は苦痛でしかないのに、いろいろと便利だったのも事実である。今だってそうだ。悟も気に入っていたあのマンタ型呪霊がいれば、すぐさま飛んでいけるのに。
    もちろん、考えたってしょうがないことは重々承知だ。今はもう、自分の足で動くしかない。しかし、そのまま進もうとした足が止まる。本能的に、危険を察知したのだ。
     祠の周辺は、ついさっきまで感じていた重苦しい気持ち悪さは軽減している。けれど、完全になくなったわけじゃない。
     その正体は、なにか。
     今の傑には、なにも視えない。視えないけれど、知識としては持っている。人間の負の感情が溢れだして形となったバケモノがいること。そいつらを祓う術師がいること。
     さっきの光は、「前」も見たことがあった。高専時代――はじめは試そうとして何度も失敗を繰り返していた、相伝の術。あの事件があってからコツを掴みついにはモノにしたと、嬉しそうに語っていた。
     きらきらと、無邪気とすら感じる笑顔を、親友を、直視できなくなっていた苦い、けれど忘れられなかった思い出。
    今の傑は、再び「夏油傑」として生まれた。自分自身はもちろん、両親の姿形までもがそっくり同じ。この世界には同じようにそのまま生まれ直した者がいて、名前や外見と同じように術式までこの世界に持って生まれた存在がいるのだとしたら。今の現象にも説明がつく。
     悟はたった今、呪いを祓ったのだ。
     傑には見えない、けれどここに存在していた呪霊を。
     それで大半は祓除されたとしてもきっとすべてじゃない。こういう場所には幾らでも吹き溜まるのだと知っている。一度逃げ去った呪いも、すぐにまた戻ってくる。

     ―――まあ、今の傑にとっては全部予想に過ぎないんだけど。

     ここでも「呪霊」と呼ばれているのかはわからないが、人を害する存在となればそう大きく違わないはず。
     これで、確定だ。唇を噛み締める。
     どうやら本当に、この身は猿と成り果ててしまったらしい。
     今まさに呪霊が襲ってきたとしてもわからない。反撃もできない。完全に守り切ることはできないかもしれないけれど、こういう場合は下手に動かない方がいいことも知っている。
     だからせめてと、地面に下ろした細い体を胸の中に抱き込んだ。たとえ雑魚呪霊でも、今の弱っている悟にとっては大ダメージだ。祓えなくても少しでも負担を軽減できればと思ったのだ。

    「ったく、無茶しやがる、なァ!」

     背筋のゾワゾワが一層強くなった瞬間。ここ最近ですっかり聞き慣れた声とともに現れた長身が、思いっきり空を殴った。
     いや、わかる。きっと拳の先に、呪霊がいたのだろう。そのままじっとしてろと叫んで、山田はシャドウボクシングのように、傑の周りでひとり動き回った。空を蹴りとばす、殴りつける――傑の目には、山田がひとりで踊っているかのようにも見えるが、もちろん笑い飛ばすことなどできない。
    ひととおり終わったのか、息を切らせて山田は向かい合う形でしゃがみこんだ。

    「そっちの坊主は大丈夫、じゃなさそうだな。すぐに連れて行かないと」
    「どこに」
    「そりゃ病院に決まってんだろ」

     病院――確かに、呪いとかそういうもの以前に、悟の痩せ方は以上だ。栄養が足りていないことは素人が見てもわかる。そんなごく普通のことが、頭から抜け落ちていた。

    「隣町のでかい病院。こういう事態のために、ちゃーんと手筈は整えてる」

     この3日、遊んでたわけじゃない。だから大丈夫だ、という慰めは耳をすり抜けていく。
     山田の話を聞きながら、傑はかつてのもうひとりの同級生を思い出していた。反転術式――人を癒すことが出来る、稀有な力の持ち主。この世界にも呪霊や呪力が存在するのなら、彼女のような反転術式の使い手はいるのだろうかと、考えたのだ。病院でなにも知らない医者に見せるよりも信頼できる、なんてそんなバカげたことを。
     うわの空であることに気づいているだろうが、山田は相変わらず気にする様子もなく視線を崩れた祠へ移してため息をつき、頭を掻いた。

    「一体どういう力を使ったのかは知らないが、そいつが大ボス倒してくれたおかげでこの辺りにはもう雑魚しかいない。ま、すっかり見晴らしよくなっちゃって、言い訳は大変だけどな。ここにまた集まるにしたって時間がかかる。助けは呼んであるからあとはそいつらに任せて、俺らは先に山を下りるぞ。五条のヤツラに見つかっても面倒だ」

     そういえば。五条家の人間は、「鬼」に捧げるつもりでここに悟を置いていったのだ。もし生きていると知れたら――抱きしめる手に力がこもる。
     そんな腕の中から、山田の手が悟の体をあっさりと取り上げ、軽々と抱え上げた。自分が運ぶ、と言いかけて、ぶり返してきたあちこちの痛みに口をつぐむ。悟のためには、目の前の大人に任せた方がいいとわかっていても、どうにも悔しい。

    「お、目が覚めたか」

     山田の言葉に、傑もなんとか立ち上がって顔を覗き込む。視線の先で、閉じられていた白い瞼が震える。長く伸びた同じ色の睫毛が、ゆっくりと持ち上がった。

    「悟!」

     思わず、大声が出ていた。けれど微かに覗いた青い目は、傑には気づかずに自分を抱えている男を見た。
     そして。

    「―――ああ、なんだ。パンダ、か」

     掠れた声がたったそれだけを言って、再び電池が切れたように脱力した。一瞬焦ったが、呼吸が正常なことにほっとする。ほっとしたところで、今の一言を反芻する。

    「―――誰がパンダだ。初対面の挨拶にしてはあんまりじゃね?ゴリラはよく言われるけどな」

     この体だからな。山田が、苦笑する。どういう意味なのか、さっぱりわかっていないようだった。
     けれど傑は、悟の言った意味を理解できた。
    改めて、山田と名乗る男を見る。パンダ――ああ、なるほど。そういうことか。当たり前だが、あまりにも違うから繋がらなかった。
     脳裏に浮かぶのは、同級生を助けるためにすべてを破壊して現れた、呪骸の姿だ。
     
    「お前も結構怪我してるじゃねぇか。一緒に診てもらえ、な」

     きっと悟が祓除した瞬間、同じように吹き飛ばされたのだろう。山田の服もあちこちが敗れ、頬には切り傷が出来ている。それでもなんでもない顔をして心配してくる。あのときわからなかった表情が、今ははっきりと伝わってくる。
     魂が、次の――異なる世界に巡ることがある。これは今現在、傑が身をもって体験していることだ。
     そして人の魂が巡るように、呪骸の魂も――そういうこともあるのだろう。
     同時に、確信する。悟は、やっぱり。
     再び閉じられた瞼を見つめる。問いかけは声にならず、喉を下っていく。

     山田に促されながら、慎重にゆっくりと山を下りた。多少整備された道は、そのまま五条館に続いているので通るわけにはいかない。だから、登ってくるときに自ら作った道とも呼べない道を辿るしかない。
     けれど、登ってきたときよりも明らかに歩きやすく、視界もクリアである。空を見上げれば、木々の合間に月が見えていた。どうりで見やすいはずだ。それが、山田いわく「大ボス」のせいだったのか、それ以外の理由なのかはわからない。ただ、月明かりのおかげで多少は動きやすくなった。
     悟を抱えているので慎重に、けれどできるかぎり急いで道なき道をくだり、ようやく下界へとたどり着く。どうせ誰も来ないからと、狭い道路のど真ん中に傑も一緒に乗ってきた山田の車が停めてあるのだ。
     するとまるで図ったかのようなちょうどのタイミングで、村の方から2つの白い光が近づいてきた。山田の車のすぐ後ろにぴったりくっつくように停車したのは、闇に紛れる黒いセダンだった。

    「思ったよりも早かったな」

     どうやらあれが、山田が呼んだという「助け」であるらしい。1台だけとも思えないので、先遣隊だろう。どこか既視感のある黒塗りのセダンだった。どこにでもあると言われればそのとおりなんだけれど、あれはまさしく呪術高専の公用車そのものである。
     すぐに後部座席のドアが開き、誰かが降りてくる。月明かりではっきりと見える姿に、足を止め、息を呑んだ。
     思わず呼びそうになった名前を、寸でで飲み込む。
     下山中、頭の中であれこれ考えた。ここはあの世界とちょっとだけ繋がっていて、あの世界で生きていた人たちがこの世界でも生きているということ。中には傑のように「前」の記憶どころか術式も持っている人物もいるかもしれないということも。

     ―――例えば、悟のように。

     悟に記憶があるのは間違いない。なにしろ、教えてもいない傑の名前を呼んだのだ。危機的な状況で、咄嗟に口にした状況では誤魔化せない。記憶がないふりをしている理由はわからないが、この状況からすればなにか考えがあったのだろう。
     そんな中、まさか早速もうひとりにも出会うことになるとは流石に思っていなかった。
     記憶があるかどうかは今の時点ではわからない。けれど記憶よりも随分大人びた姿で、「彼女」は凛としてそこにいた。



    「そいつらが、話してた子だな」




     ―――硝子。















     呪力を底上げする方法は、いくつかある。
     術式の開示がその最たる例だけれど、他にも独自の制限や縛りで自らの力を最大限発揮できるようになる。時間制限でパワーアップするヤツもいた。
     それは、呪術師でも呪霊でも同じこと。
     あの呪霊が力を得るためにはいくつか条件があったのだと、今ならわかる。
     ひとつは、日にち。
     時間は関係ない。重要なのは、9月■日の日が完全に落ちた後であること。
     ふたつめは、この世界で長い間続けられてきた契約――五条家の、「力を持つ子ども」を取り込むこと。
     たぶん、年齢は関係ないけれど、大人はダメ。他人と接触しようがしまいが、禊ぎをしようがしまいが、とにかく特別な子どもを食う。
     これまではこのふたつだけが必須条件だったのだろう。そうして力を得て大きく成長し、領域を広げていった。
     過去の五条家には、それが「呪い」だとはわからなくても、災いをなすものだと気づいていた者もいたのだろう。大祭を行うことで、災厄を抑えるどころかむしろさらに力を与えてしまっている可能性があることに。
     それでも、止めることができなかったのだ。古くからの慣習とは、上下の関係とは、それほど重いものだった。だからせめてと、川を境界とする結界を張った。その名残が、弱まっているとはいえ今でも残っている。せめて、あの悪しきものの影響が、村の方へと及ばないようにと願いをこめて。
     そうするうちに時代の流れとともに人々の考え方も変化していき、大祭に対しても否定的な者も多くなった。そうして儀式が行われる頻度は下がり、呪霊の力も徐々に弱くなっていってやがては消える、はずだった。

     けれどここにきて、イレギュラーが起こった。
     それが五条家の、久しぶりの能力者の誕生と――みっつめの条件の発生である。

     呪霊が力を増すみっつめの条件。それは―――ふさわしい器。そうすることで、領域内に留められていた呪いは、自由にどこへでも出ていける。
     ただし、このみっつめは、ふたつめよりもさらに条件が厳しい。
     当てはまるのは、世界にたったひとりだけ。

     この地に起こった、嘘か本当かわからない伝説から始まって、異なる世界の不思議な縁の糸が、複雑に絡み合って生まれてしまった、これもまた呪いに違いないのだ。














     病院のにおいや雰囲気は、正直に言えばあまり好きじゃない。
     別に、過去に自分や親が入院したことがあるとか、そういうわけじゃない。むしろ今の傑には、ほとんど無縁の場所だ。
     けれどどうしても「前の記憶」が強烈だから、運び込まれて二度と目を覚まさなかった術師なかまや、助けられなかった被害者、その悲しみを食い物にするかのようにさらに群がる呪いを思い出して嫌悪感が湧いて出る。
     学校や病院は呪いが吹き溜まりやすい――なんども教えられたことだ。任務で、離反後も呪いを集めるために何度も足を運んだ。
     視えないけれど、きっとここにも呪霊は湧いているのだろう。天井の片隅に、ベッドの下に――そんなことを考えながら、ベッドの上で眠り続ける悟を飽きることなく見ていた。
     ここに運び込まれてから一週間。学校が終わると毎日通っている。
     走ってでも向かうと言った傑に、しょうがないやつだと苦笑しながら、毎日山田が送り迎えしてくれていた。ちなみに自宅からは10km以上離れているが、傑は決して冗談のつもりはなかった。
     病院での適切な処置や、再会した彼女――家入硝子の治療によって、悟の顔色はここに運び込まれたときよりも随分とマシになっている。ただ、マシだというだけで、全快にはまだまだだ。
     そして、一度も意識が戻っていない。
     力の使い過ぎで回復に時間がかかっているのだと、家入は言っていた。前の記憶でも、反転術式をモノにする前は、よく目の使い過ぎでダウンしていたことを覚えている。傑も、無我夢中で格上の呪霊と戦って、数日寝込んだ記憶もある。
    どちらも、家入には随分と世話になった。もちろん、お礼はたっぷりと渡したけれど。

    「―――悟」

     呼びかけに、答えがないことにももう慣れた。
     聞きたいことがたくさんある。でも今は。もう一度その目を見せてほしかった。
     名前を呼んでほしかった。

    「入るぞ」

     ノックの代わりに、不愛想な声が告げる。返事をする前に、スライド式のドアは静かに開いた。向こう側から、長い髪を揺らして白衣の医者が入ってくる。
     数日前、懐かしさを感じた声。ああ、彼女はこんな声をしていたっけと、感慨深く思ったものだが、ここ何日かですっかり耳に馴染んでしまった。

    「また来てたのか」
    「……や、硝子」

     傑が暮らす村の隣町にある、このあたりで1番大きい病院。白衣を着ているが、家入はここの医者だというわけではない。山田の手配によって、悟のために一時的に個室を借りているのだ。とはいえ、力以前に悟の状態が芳しくないので、ここの医者や看護師も頻繁に出入りする。
     最初の数日は検査やらなにやらでバタバタとしていたが、今は大分落ち着いた。あとは目を覚ますのを待つだけだと聞いてホッとしたのは、もう5日も前のことだ。
     家入がここに滞在しているのは悟のためなので、必然的に毎日顔を合わせることになる。けれど、彼女が今どういう仕事をしているのか、所属する組織がどういうものなのか、まだ教えてもらってはいない。
     互いに記憶があるとわかった、今でも。

    「ま、わかってたから来たんだけどな。君にも伝えておこうと思って」

     まるで旧知であるかのように大人の硝子が、小学生相手に気安い口調で話す。何も知らない人が見れば奇妙な光景だろう。ただ、2人で話すときは大抵人払いされているので問題はない。
     備え付けの丸椅子に座る傑の横に立ち、家入もまた眠ったままの悟を見る。この場所で2人だけで話す内容なんて、ほとんど決まっている。

    「こいつの処遇が決まった。夜蛾さんが五条家と話し合って、うちで引き取ることになった」
    「……そう」

     大体想像はついていたので、驚くことはなかった。少しばかり、ショックではあるけれど。
     夜蛾―――当然のように名前が出てきたかつての恩師が、「謎の組織」のトップだと聞いたのはつい昨日のことだった。見舞いに来ていた山田が、うっかり名前を口走ってしまったのだ。あ、パンピの前で名前呼んじゃいけないんだった。特に悪びれることもなく舌を出していたので、絶対わざとだろう。なにその名前を言ってはいけないあの人みたいな設定。この世界の呪術師はそんなことになっているのかと硝子を見上げたが、知らんぷりされた。
     そんなわけで、夜蛾自らがいろいろと交渉のため村に来ていると聞いたが、傑はまだ顔を合わせてはいない。ただ、同じように「前」の記憶があるのだということだけは聞いている。

     これで3人目――いや、悟を入れれば4人目だ。
     こんな短期間に、しかもこの4人なんて。

     驚きはもちろんある。けれどもっと動揺すると思ったのに、傑は意外にもあっさりと受け入れている自分に驚いた。

    「五条家は、納得したの」
    「思ったよりも、すんなり話は進んだらしいぞ。まぁ、殺したくてやったんじゃなかったってことだろう。生きてるって知ってホッとしたように見えたと言っていた」

     裏山の「鬼」が祓われた時間とほぼ同時に、こことは違う五条家の息がかかった個人病院に入院していた悟の母親の意識も戻ったのだと、家入に聞いた。彼女だけではない。同じように原因不明で――おそらくはあそこにいた呪霊が原因で――伏せっていた人々が、次々と目を覚ました。
     これは大祭のおかげだ。やはり生贄を欠かしてはいけなかったのだと、人々の考えがそういう流れになったタイミングで、夜蛾が直接五条館へ赴き、懇切丁寧に説明したという。

     大祭は失敗に終わり、悟が生きていること。
     ただし、祠に潜んでいたモノは祓われて消えてしまったということ。
     そのモノの正体について。

     そのうえで、五条が悟にしたことを考えれば、すんなりと戻すことは好ましくないと判断し、夜蛾の組織で預かるという話で決着がついたと、そういうことだった。五条家の人々はひどく困惑していたそうだが、思っていたより揉めることはなかったらしい。
     結果的には未遂に終わったとはいえ、一度は「死なせる」決断をしたのだ。複雑な心境は想像に難くない。自らの罪を突き付ける形となった夜蛾の申し出でも、むしろありがたかっただろう。
     もちろん、理解はしない。むしろ、軽蔑している。傑は、非術師さるどものそういう面を憎んでいたのだ。
     もっとも今は傑も「そちら側」、になり下がったわけだが。

    「――硝子、私も」
    「無理だな」

     意図を読み取っての即答に、思わず笑ってしまう。
     さすが硝子。よくわかってる。

    「わかってるよ。言ってみただけ」

     なにしろ今の傑には、呪力がない。
     彼らと、同じ場所にはいられない。

    「こいつの意識が戻ろうと戻るまいと、明日にはここを離れる。手続きは済んだからな」
    「……そう」

     投げ出された細い手を、握りしめる。
     仕方がない。どうにもならない――この世界の傑は、すぐに諦めることを覚えた。ごねたって仕方がない、変えられる力は持っていないのだからと。
     けれどどうにも、この手だけは離し難い。じゃあサヨナラと、あっさり別れることができない。

    「――また、会えるかな」
    「さあな。そいつが会おうと思うなら、会えるんじゃないか」
    「ひどいな。そこは嘘でも会えるって言って」
    「甘えるな」

     どの口が言うんだ。遠慮のない言葉は、容赦なく傑に突き刺さる。たぶん彼女は、ほんの軽い気持ちで、冗談のつもりで口にしただけだろうが、かなり耳が痛い。それは、嫌味をぶつけられるようなことをしたという自覚があるからで、だから別に「あの日のこと」を後悔なんてしていないけれど、その棘を甘んじて受け入れる。
     そうしているうちに、帰らなければならない時間が迫る。学校の退屈な授業はいつまでも続くような気がしてうんざりするのに、こういうときは光のように過ぎていってしまう。
    未練がましく、細い手のひらに縋る。
     悟、悟、どうか――その願いの裏で、傑は自分自身と賭けをしていた。明日には悟はここからいなくなってしまう。だから、今日が最後のチャンスだった。
     もしこのまま目覚めることなく別れを迎えるのなら、潔く諦める。再び交わりそうだったこの縁もここまでだったのだ、とそう決めた。
     でももしまたその目に傑を映してくれたのなら、名前を呼んでくれたのなら、そのときは。



     握った指先がぴくりと動く。
     もしや、と顔を上げた先で、頬に影を差す長い睫毛が震えた。そうしてゆっくりと瞼が持ち上がる。
     そこから現れたのは。



    「―――ぐ、る?」
    「―――や、悟。おはよう」
     


     焦がれていた、青だった。















     見覚えのない、けれど纏う呪力はとても懐かしい男と一緒に帰っていく背中をベッドの中から見送ってから数分後。
    これまた馴染みのある別の男が、無言のままのっそりと病室に姿を現した。

    「……はは、まさか本当にあんたとはね」

     横になった状態のまま、悟は苦笑した。
     厳つい体に厳つい顔。そこに全身真っ黒なスーツを着ているもんだから、どこからどう見ても堅気とは思えない、記憶の中の姿とそっくりそのまま同じ。まるでどっかの黒の組織の構成員である。よくそれで病院入れたね。揶揄いに、五月蠅いとすぐさま飛んでくる声も同じだ。
     それは、隣に立つ彼女も同じ。
     目を覚まして早々、まだ少しぼんやりとしている頭で悟はこれまでの経緯とこれからの予定を聞いた。
     明日の朝、組織が管轄する病院へ転院する。このド田舎から都心へ、長い長い旅になる。そこで療養した後で転校し、新たなスタートを切る。
     すでに決定事項で、拒否権はないというのだから横暴である。

    ――ま、拒否するつもりはないんだけど。

    「2人には、言っておきたいことがある」

     ひとしきり業務連絡が終わったところで、悟はおもむろに切り出した。再び襲ってくる眠気に負ける前に、伝えておかなければならないことがあった。別にひとりで抱えていてもいいんだけれど、でも。この2人なら、と思ったのだ。
     なんのことかとはっきり言葉にしなくても、2人とも察してくれたらしい。

    「傑の、ことについて」

     ついさっきまでここにいた小学生の少年。小学生、にしては体がでかくて、でもそれはお互い様だと笑っていた。
     そこにある魂は確かに「夏油傑」だとわかるのに、特殊な目は以前との違いを見せつけてくる。

    「今の傑に、呪力はない。でもそれは、真希みたいな天与呪縛じゃない。この世界の傑の呪力は――別に存在してる」
    「どういう意味だ」
    「体と呪力が、切り離されてるってこと」
    「…まさか、あの山にいた呪霊は」

     やっぱり硝子は、察しがいい。
     悟は頷いた。

    「そ。傑があの場所に拒絶されなかったのも、半分はそれが理由」

     傑が最初に五条館にやってきたとき、なんの障害もなく橋を渡れたのは、悟が無意識に引き寄せてしまったからだと思っていた。確かにそれもあっただろうが、もっと大きな理由は、山の呪霊が傑を見つけたからだ。
     その後もう一度訪ねてきたと言っていたが、そのとき結界がちゃんと働いたのは、まだ「そのとき」ではなかったから。そのせいで、気づくのが遅れた。

     ずっとあの呪霊は悟が、悟だけが作り上げてしまったのだと思っていた。
     でも、半分間違っていた。

     呪力を底上げする方法は、いくつかある。術式の開示が、その最たる例だけれど、他にも独自の制限や縛りで自らの力を最大限発揮できるようになる。
     それは、呪術師でも呪霊でも同じこと。

    「予測の域に過ぎないけど、あの呪霊が完全になるにはいくつか条件があったんだと思う。ひとつは、日にち。9月■日。ふたつめは、五条家の力を持つ子ども――ま、今は僕のことだけど、その体を呪力ごと取り込むこと」

     物心ついたときから、アレは館の近くを彷徨っていた。力は徐々に強くなっていた。それは、悟が生まれたからだと思った。過去50年は弱まっていた力が蘇ったのは、条件に合う子どもが生まれたからなのだ、と。
     でも、違う。あのとき、直接対峙してみてわかった。
     みっつめが、あったのだ。

    「傑は、あの呪霊が入るべき器だった。傑が生まれたことも、活発化した原因」

     ここへ来い、ここへ来い――呪霊は、ずっと呼んでいたのだ。
    悟は確かに形を与えてしまった。けれどもともとアレは「夏油傑」として存在していて、自由に動き回れる入れ物が来るのを待っていたのだ。

    「えーつまりなんだ、傑は体部門と呪力部門が別々に生まれ変わってきたと、そういうことか」
    「ま、わかりやすく言えばそういうこと」

     全部が合体すれば、それで完璧な夏油傑くんの出来上がり。今の状況では、そうとしか考えられないのだ。
     それがなぜなのかまでは、さすがの悟にもわからない。

    「待て、全部?」
    「そ、全部。つまりアレは単なる一部分にすぎないってこと。予想ばっかりで申し訳ないんだけど、きっと傑の呪力は全国各地に散らばってるんだと思う。ここみたいに、あの世界の傑に関わりのある場所に」

     パズルのピースのようにあちこちに散らばっていて、全部集まれば完成する。
     完成したとき、傑はどうするのか。その行き着く先を考えたとき――悟はあの呪霊に、傑の呪力に向かって赫を放っていた。

    「僕が一緒に行く理由は、それ。傑が気づく前に―――全部祓う」

     そう、これはエゴ。悟の、ただのエゴなのだ。

    「お前…」
    「傑には内緒だよ」













     傑の後ろから、机と椅子が撤去されていくのをじっと見つめる。結局、空席は空席のまま、一度もここで一緒に勉強することはないまま、「五条悟」は転校してしまった。
     斜め前の彼女がひどく残念がっていたけれど、それだけ。何もなかったかのように、日常は回る。
     今日もつまらない授業を聞き流しながら、傑は窓の外を見た。眩しいくらいの青空が、広がっている。
     彼の目と同じ。

     傑には、決めたことがある。

     悟の転院の日、傑ははじめて学校をさぼった。
     両親にはもちろん内緒。いつもどおりの時間に家を出て、少し離れたところで山田の車に乗った。前日に、頼んでいたのだ。
     どうにもこの状況を楽しんでいるらしい山田は、バレたら起こられるな、なんて苦笑しながらも願いを叶えてくれた。
     お前、学校は。ちょっとくらい大丈夫さ、私は優秀だから。車いすに乗せられて、呆れた顔をしていた顔を思い出す。
     そんな少年の膝の上の手を握りしめて、傑は真正面から宣言した。

    「必ず君を追いかけていくから、待っててね」

     驚きに、大きく見開かれた青の双眸は、やっぱり空よりも美しかった。


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