「目を閉じて。」
ゆっくりと口の形とジェスチャーで伝えたその言葉に、マユミくんは不思議そうな顔をして頷いた。
いつものようにこっそり僕の部屋のベランダまで来た彼の手には、みずみずしい薔薇の花がひとつ。受け取れない、だけど受け取りたい。……葛藤して、結局受け取って枯らしてしまう僕は、ただの愚か者だ。
ガラスの外、至近距離。おでこを窓に当てて目を瞑ったマユミくんの顔。庭仕事の時は少し皺の寄った眉間。すっと通った鼻すじ。薄い唇。閉じられた瞳。窓枠にかかった、節ばった指先。手袋を取ってそこに自分の指を這わせる。もし、指を絡め合えたら。その肌に触れることができたら。
(全部全部、願うことすらおこがましい。)
なるべく振動を与えないように、彼に気づかれないように。同じ位置に額を当てて、産毛が見える距離まで、近づいて。窓の隙間から毒が届かないように息を止めて、ゆっくり、ゆっくりと。
(……まゆみくん)
いつからだろう、花を置いていくだけじゃなくて、こうして僕の顔を見るまでバルコニーに居座るようになったのは。その姿を見て心を躍らせなかったことなんて一度もない。こんなに近くにキミがいてくれる。それだけでいい。それだけで僕は、こんなにも幸せだ。だからこれ以上は望んじゃいけない。身の程知らずだ。我儘だ。罪深い。そう頭ではわかっているのに止められない。
マユミくんにさわりたい。
だけど触ったらマユミくんは死んでしまう。
それなら、せめて。
「…………」
ひんやりと、固くて冷たい窓ガラスが唇に当たる。
マユミくんとキスをしている錯覚、そこから生じる微かな悦楽を。きっと本当に唇が触れ合ったら暖かいんだろうなんて、そんなない物ねだりも全部嚥下して。
離れた僕がこつんと窓を叩くと、まだ目を瞑っていてくれたマユミくんはちいさく首を傾げて、だけど何も聞かずにそっと窓から離れた。
また明日花を持ってくると告げて、いつものようにバルコニーから飛び降りる後ろ姿を見送る。
「……ごめんね、マユミくん」
人を愛することが許されない毒の身体。花のひとつも上手に受け取れない愚かな恋。ならばどうかせめて、ガラス一枚を隔てた妄想くらいは許してほしい。
今日もまた手の中でぼろぼろと枯れていく花に涙を落として溶かしながら、誰もいなくなった窓ガラスにもう一度キスをした。