変わらぬ日常、変わった感情 城の中でも何が起こるか分からないから、とラディムが俺の後ろをついてくる。振り切ろうと走っても、すぐに追いつかれてしまう。俺より八つも年上のくせに、身体能力は俺以上だ。
「ミカちゃん、どうしたー。追いかけっこか?」
「違う。おまえから逃げ出したいだけ」
「なんでまた。別にもう投げ飛ばしたりしねぇよ」
ぽん、と頭に手を置かれた瞬間、心臓が有り得ないほど跳ね上がる。息が詰まって、ラディムを直視できない。手を払いのけようとその長い指に触れると、あれ、とラディムが俺の手を握った。
「はっ!? な、なに……」
「いや、繋ぎてぇのかなって。甘えてんのか?」
「んなわけねーだろ! 離せおっさん!」
「おにいさん、だろ? そんなカリカリするなよ、ミカちゃん」
ラディムにキスされてから十日ほど経っても、俺はあのときのことを忘れられずにいた。得意だった勉強も手につかず、剣術の稽古も教師に怒られるくらい集中できなかった。それもこれも、ラディムのせいだというのに、彼は当日のことをきれいさっぱり忘れているようだ。酒を飲んだところまでは覚えているが、それから翌朝までの記憶がないという。
だから、俺が一方的に意識しているだけなのだ。その事実が悔しくて恥ずかしい。こんなの、まるでラディムに懸想しているみたいではないか。
「カリカリしてねぇし。おまえがしつこいから離れたいだけだし」
「オレはミカルの護衛なんだから、ついて行かなきゃ職務放棄だろうが。反抗期か? ……まあ、その割にはお手手離そうとしないみたいだけど」
意地の悪い表情で、ラディムが今一度手を握ってくる。慌ててその手を離すと、ラディムの肩がぷるぷると震えていた。
「わっ、笑ってんじゃねぇよ!」
「ぶはっ、必死すぎんだろお前。そうかそうか、おにいさんに甘えたくなったかあ」
「ちげーっての! お、おまえみたいな兄なんていらねぇし……」
「あっそう。でもなあミカちゃん、お前さん、メイドたちから結構言われてるぞ。『ラディムさんとミカル様は兄弟みたいで微笑ましい』ってな」
わしわし、いつものようにラディムが俺の頭を撫でる。顔が熱くて、体温が上がりそうだ。海の色の瞳が妙に優しく俺を捉えており、その中に映る自分はきっと、ひどく情けない顔をしているだろう。
と、そこまで考えてから気づく。青い目の中に映る自分が見えるほど、ラディムと俺の距離が近い。離れなければ、と後ずさると、壁に押しつけられた。
「ら、ラディム、近い、近いって……!」
「俺の目が好きなんだろ。見てろよ」
「な、な……っ!? おまえ、あの日のこと覚えてないって言ってただろ……!」
「大人の言葉をいちいち信用しない方がいいんじゃねぇのか、お坊ちゃん」
低い声が、すぐ傍で聞こえてくる。頭がぐるぐるして、うまく表情が作れない。頬が熱い。頭に置かれたままだったラディムの手が首筋に降りて、そのまま襟足に触れる。胸の鼓動がますます速くなり、どうしたっておさまりそうにない。
ラディムの目を見つめる。青い海色の瞳の中に、俺が立っている。きらきらと輝く宝石のような目に、自然と吸い込まれる。
俺から唇を重ねると、微かにラディムが目を見開いた。葉巻のにおいが、ラディムの付けている香水の香りが、混ざり合って溶けていく。
ラディムの匂いに、酔いそうだ。けれど、悪い気分ではない。もっと近づきたくて身を寄せると、首筋に触れていたラディムの手が離れ、反対の手でそっと俺を押し返す。
「積極的なのは嬉しいけど、一応、ここ廊下なんだよなあ」
「あっ、ちが、今のはおまえが近づいたから」
「へぇ、顔近づけたらキスしてくれんのか。もう一回やるか?」
ラディムの問いかけにも、答えられない。羞恥心で狂いそうになる。俺は、どうしてしまったのだろう。感情に任せることはあれど、衝動的ではなかったはずなのに。
「おーい、ミカちゃん?」
「ぜ、ぜんぶおまえのせいだからな!」
「はいはい、午後の散歩は?」
「行く!」
護衛をラディムに任せるようになってから、心が乱されることばかりだ。笑いを堪えきれないのかまた肩を震わせる赤毛を叩いてから、俺は中庭へと向かうことにした。