守るべきもの いつものように剣術の稽古が終わり、いつものように教師が帰るまでラディムと見送る。当たり前の日常を送っていたはずなのに、今日は違った。
「あなた、火の国の出ですか?」
剣術の教師が、何気なくラディムに尋ねた。すると奴は、今までにないほど動揺した。視線を泳がせて答えに窮している。尋ねた張本人は撫でつけた髪型を気にしながら、あまり気にしていない様子で続ける。
「火の国の出身なら、『呪い』のこともご存知なのですか? ……すみません、五年前に呪いが発動して、今は廃墟と化していると小耳に挟んだものですから」
「……さあ、知らねぇな。オレはあの国を捨てたんだ。どうなろうが構わないよ」
「そうですか。いえ、お気を悪くされたらすみません。……私の友も、火の国出身だったものですから」
「いや、こっちこそ悪いな。あまり、思い出したくないもんでなあ」
ラディムがそう言うと、彼は一礼だけしてその場を去る。その背中を見送りながら、俺はラディムの方をちらりと見上げる。落ち着きがない。いつもは鼻唄でも歌いながら俺にちょっかいをかけているところなのに、今のラディムは心ここにあらずといった様子だ。
その首には、やはりあの首飾りがない。妙に静まり返った中庭で、ラディムはぼうっと立ち尽くしている。
「……ラディム、少し話さないか?」
何となく、放っておくのは憚られた。俺が中庭にある椅子を指差すと、ラディムがぱちぱちと瞬きをする。
「いいけど、お前さん、このあと勉強だろ?」
「た、たまには休んだっていいだろ。母様が婦人との茶会で使ってるテーブルと椅子があるんだ。紅茶はないけど、その、少しは落ち着くかもしれねぇし……」
「ふは、心配してくれてんのか。ありがとなあ、ミカちゃん」
大きな手が、俺の頭を撫でる。少しだけ震えているそれに手を添えてみると、撫でる力がやや強めになった。
日差しが強いため、メイドが持たせてくれた日傘を差して目的の場所まで向かう。たまにしか使わないから、なかなか開けない。俺がもたついていると、ラディムが慣れた手つきで傘を開いてくれた。そのままラディムがその持ち手を掴み、結局二人で中に入る。
「今日は暑いな」といつもの口調でラディムが言う。椅子に座るまで、俺はその言葉に返事ができなかった。ただ頷いて、傘を持つラディムの手に触れることしか、できなかった。
テーブルの上には、何もない。紅茶もなければ、菓子もない。椅子とお揃いのただ真っ白な板が、そこにあるだけだ。
俺とラディムは向かい合って座り、どちらともなく視線を交わす。ラディムの奇麗な碧が、こちらを見つめている。心臓が跳ねる。体温が上がる。目を逸らせなくて、自然と手が伸びる。
抵抗は、されなかった。俺はラディムの眼帯に触れ、そっと外す。隠された、ほんの少し前に一度だけ見た赤色が、怯えるように俺を捉える。
「……女房が、いたんだ」
ラディムは唐突に、けれど真剣に話し始める。二十一のときに、見合いでとある女性と婚約したこと。妻となって自分を支えてくれた彼女は、村の長の娘だということ。ラディムは彼女の上司の知り合いで、当時は農業をしており、眼帯をつけていなかったこと。
——自分の片目が、火の国で忌み嫌われている赤い色だったこと。
「火の国じゃ、火の色はひとつでいいんだ。神様の色と同じ色を持って生まれたら、ダメなんだよ」
「……なんで、そんなの、仕方ないだろ。ラディムが好き好んでその色にしたわけじゃねぇのに」
「そういうモンなんだよ、ミカル。恨むならオレを生んだ親を恨め、ってな」
周りはラディムに近づこうとせず、ひっそりと侮蔑の眼差しを向けているだけだった。直接攻撃されていたわけではない。けれど、幼い頃から蔑まれて生きてきたのだ。人間を信じられなくなったし、心は傷つき荒んでいった。
その中で、彼女はラディムの目を否定したりしなかった。優しく笑いかけてくれた。それでも、心のどこかでは恐れていたのだろう、とラディムは苦笑する。
ある日、ラディムが仕事から帰って妻と眠っていたときだった。ふと焦げ臭さを覚えて起きたラディムは、そこで初めて自分の家に火がつけられたことを理解した。慌てて隣で寝ている妻を起こそうとして——……そのときには、既に妻が冷たくなっていた。
「女房は薬師として働いてたんだけどよ、毒薬も作れんの。オレが寝たところで家に火ィつけて、毒を自分で飲んで、そのまま。心中しようとしてたんだろうなあ。……村の女衆が、嫌がらせしてたんだ。それに気づけなかった」
「……それが、ラディムの左目のせいだって、言ってんのか?」
「そーいうこと。だから、ミカルもオレの目が好きとかあんまし言うなよ」
風が、やけに冷たく感じられる。まだ昼前なのに、真夜中に放り出された気分だ。ラディムの奇麗な目が、俺が好きな赤色の瞳が、生まれてきただけで罪だと、そう言われているのがひどく残酷に映った。
ラディムの言葉に何か言い返さないといけないのに、言葉に詰まる。それをどう捉えたのか、ラディムは話を続ける。
「オレの目のせいで、女房は関係ないのに追い詰められて、結局自分で自分を殺したんだ。もちろん女衆も恨んだけど、オレ自身も恨んだよ。もうあの国には居られねぇって思ったから、傭兵を募集してるっていうこの国に逃げた。カミサマの呪いなんざ信じちゃいねぇが、オレの目は確かに呪われてんだ」
「……ちがう、そんなことない」
「違わねぇよ。結局呪いがなんだと互いに疑心暗鬼になって滅ぼし合って、火の国はボロっちい廃墟になった。ま、この目がなかったらもっと繁栄してたかもな」
「違う! 俺は……俺は、呪いなんて信じない。……奇麗だよ、おまえの目。色なんか関係ない、ラディムの目だから、好きなんだ」
長い前髪から、赤色が覗く。きらきらと、右目と同じように輝いている。俺はその前髪をかき分け、左目にそっと触れる。
発言してから、気づいた。俺はラディムの青い目が好きだったのではない。惚れたのだと思う。目の前の男を、心の底から。
しばらくぺたぺたとラディムの顔を触っていると、不意にその目が細められる。身を乗り出したラディムにいつものように頭を撫でられ、けれど普段とは異なり、ラディムの方に引き寄せられた。タグのチェーンが擦れる音が微かに聞こえ、唇に柔らかいものが触れる。口づけられているのだと気づいた瞬間、全身が燃え上がるような熱さに包まれる。
「ん、んぅ……っ、っは、ちょ、ま、待っ……!」
角度を変えて何度も口づけられ、頭が混乱する。どうして、なんでラディムにキスされているのだろう。いつかの午後晴れの日を最後に、互いに触れ合ってはいなかったのに。
ラディムの舌が、ゆっくりと入ってくる。上顎をなぞられると背中がぞくぞくして、うまく力が入らない。テーブルに手をつくと、唇を舐められた。
「……なに、いまの」
「いや、告白してくれたからよ、応えようかなと思って」
「ちっ、ちが、告白じゃなくて……! 違わないけど、そうじゃないっつーか、えっと……」
「違うのか? オレは好きだけどな、ミカルのこと」
「……は、ぇ…………?」
ぐるぐると、思考がまとまらなくなる。好き? ラディムが、俺を好きだと言ったのか、今。
顔が、身体が熱い。全身茹で上がったみたいになって、頭がふわふわとする。俺が何も言えないでいると、ラディムが椅子から立ち上がり、また俺の頭を撫でる。
「ちょっと生意気だけど、可愛いよなあ、お前。オレなあ、お前さんが行ってらっしゃいって目に口づけてくれたり、オレの目を怖がらないでいてくれんの、嬉しかったんだぜ」
「あ、あれはその、なんというか。目が、奇麗だったから」
「今もさ、オレの目だから好きだって言ってくれたし。そんなこと言ってくれんの、ミカルだけだよ」
「……年下のガキだと思ってんじゃねぇの?」
「そりゃもう、オレに比べたらガキだな。……そういう趣味はなかったはずなんだけどなあ」
そう言いつつ、ラディムは先程から俺の頬や鼻先に口づけを落としている。くすぐったくて肩を竦めると、また唇にキスされた。
「ちょ、ちょっと、おい、ラディム……! さっきからしつこい!」
「ん、ああ、すまねぇ。抵抗しないからつい。嫌だったか?」
「ぅ、い、嫌じゃ……ねぇけど……」
「そ、よかった。もっかいしてもいいか?」
「……どーぞ、ご勝手に」
夜風のような冷たさが、今は心地良い。
まさか受け入れるとは思わなかったのだろう、きょとんとこちらを見るラディムの胸ぐらを掴んで、今度は自分から口づけた。
***
その日から劇的に関係が変わったわけではない。しかし、確実に距離が近いのは傍目にも分かるようだ。食事の後、姉が、不思議そうにラディムに尋ねていた。
「ラディム様、ミカルとなにかあったのですか?」
その問いに、奴は少しだけ考える素振りを見せる。頼むから変なことは答えないでくれとその脇腹を肘でつつくと、姉が首を傾げた。
「……ミカル、ラディム様をつついてどうしたの?」
「あっ、いえ、なにも……」
「……そう? あら、ラディム様、先程からどうして笑っているの?」
「……べ、べつに、何でもないです……ぶはっ」
俺が必死になっているのがよほど面白いのか、ラディムはずっと笑っている。何も知らない姉が俺の袖をくいっと引っ張るけれど、俺は何も言えない。何も言いたくない。
「……あとでぜってーころす」
「こら。姉ちゃんの前でそんなこと言うなよ。可愛さ半減するぞ」
「男は可愛いなんて言われたくねーの!」
「オレに言われたら嬉しそうにするくせに」
「ぇ、ちが、んなわけねぇだろ……! ばっ、ばか!」
ラディムにからかわれると、頭がぐるぐるしてふわふわして、俺が俺でなくなってしまう。自分が何を言っているのかも分からないし、分かりたくもない。たぶん、ラディムはそれすらも面白がっているから。
「……よく分からないけれど、ふたりは相変わらず仲良しね」
「ねっ、姉様はこんな奴の言うこと信じないで、早くお休みになられて下さい! お身体にさわりますから!」
「ラディム様に構ってもらって良かったわね、ミカル」
「姉様!!」
せっかく姉の体調が少し落ち着いたのに、これでは俺が寝込んでしまう。
どうしようもなくてラディムの方を見ると、奴は笑いながら頭を撫でてくる。もちろんばっちり見られてしまったため、姉はますますはしゃいでいた。
笑うラディムの首元を、ちらりと見る。
彼女とお揃いだったという小さな宝石の首飾りは、奴の部屋の窓際に飾られている。自分の存在を否定しなかった妻のことを忘れないように、そしてもう二度と大切な人間をなくさないようにと、けじめのつもりで置いているらしい。
それにどうこう言う権利は俺にはないし、言うこともない。ただ、ラディムの言葉を信じるならば、ラディムの目を奇麗だと言ったのは俺だけだ。俺だけが、奴の瞳の美しさを知っている。
それだけで、じゅうぶんだった。