とけだす、泡沫「うわ、あつ……」
誰が何と言おうとこんなにも暑いのに、空調の世話に慣れない中途半端な、夏になりかけの季節だ。校舎の窓という窓が開けられて、何が好きで我慢大会をさせられているのかと涼を求めて保健室の扉を開けたのに。ニコが風の流れを作ったので、消毒液の匂いが混じった生暖かい風が頬をさっと撫でる――いや、頬をじわりと撫でつける。
「なんだ、ジュードはいないのか」
廊下とは違い、締め切られた空間の暑さには本当にうんざりしてしまう。文句を言いながらもペタペタと上履きを鳴らすニコの額を、つうっと汗が流れていった。拭うこともしないまま、我が物顔でずかずかと進む先には冷蔵庫があって、ニコは迷うことなく上段に手を掛けて、まずは冷気を浴びた。それからアイシング用の冷却材や氷嚢用の氷の山を手のひらで掻き分けて探し出したのは、プラスチックの黄色いパッケージだ。ジュードはあまりいい顔をしないが特に止めもしないので、保健室の冷凍庫には定期的に氷菓を忍ばせることにしている。食べては入れて、食べては入れて。随分と奥に仕舞い込まれていたところを見るに、随分とそれもご無沙汰になってしまったようだ。
ニコの定位置は誰も使っていないベッドだった。数歩先へと向かうまで待ちきれなくて、蓋にひびが入るのを躊躇うことなく開けながら、マットレスに沈む。鮮やかな柑橘色の氷をガリガリと削って、スプーンに乗り切らないくらい欲張るから制服にひとかけらが落ちてしまったが、そんなものに構っていられなくて口を大きく開けた。
「……ッ! つめた」
舌の上に乗せた黄色を口いっぱいに広げながら咀嚼する。すぐに溶けてしまうのが分かっていても冷たすぎる氷をつぶす感覚が面白くて、次の柑橘を口に運んではまた、ガリと、音を立てる。すっかり溶けてしまった甘い液体を喉に流すと、まだ冷たいそれが少しだけ身体を冷やしてくれて、今この時だけは空調がいらないかもしれない、なんて都合の良いことを想ってしまうのも仕方がないだろう。
ようやく暑さから解放された安堵と、耳を反復するやたら大きな咀嚼音が周りの音をかき消す。聞きなれているはずの大きな歩幅の革靴の音が近づくのも、頭上から溜息が零れるのも。
「随分いいものを食べているな、ニコ」
半分呆れて様に紡がれた声がしたのも、気が付かなくて。後ろから顎を掬われて、影が落ちるアメジストと視線が合ってようやくニコは保健室の主であるジュードの帰りを知った。
「おかえり、ジュード」
「相変わらず、先生が抜けているぞ」
「別に気にするようなタマじゃないだろ」
「ハハ、それもそうだな」
ニコに触れていた指を離しながらカラカラと笑うジュードは白衣にハイネックのセーターを着ているから、見ているだけで熱そうだ。心なしかジュードの近くにいると熱いような気がして少し身体をジュードのいない方へ避けた。
「見てるだけで暑そうだな、ジュードの服」
「これでも中はサマーセーターにしてるぞ」
「成程、ビアンキに言われたのか……」
ニコの一学年先輩の名前を出した途端に爽やかに笑うジュードを見て、どうやら答え合わせの必要はなさそうだ。再び柑橘の氷菓を潜って、食べて、涼を得る。少し会話をしただけで、もう端の方から溶け出すそれを慌てて掬った。
「そういえばそれを入れておく賃料、もらっていないな」
「賃料も何も別にジュードは金を払っていないだろう」
「無断で生徒が保健室の冷凍庫を使用しているってお前の担任に言った方がいいか?」
「……卑怯者」
「どうとでも言ってくれ」
それでもその事実は間違っていないのでニコはジュードの方を向きながら訝し気に睨みつけた。ジュードにとってはそんなもの睨み所か人慣れのしないネコが一生懸命に毛を逆立てて威嚇しているようなものなのだろう、狡い大人の笑みを浮かべては妙に楽しそうだった。
「まあアイツにわざわざ話しかけるのも面倒だから、ソレで、見逃してやってもいいぞ」
「これで?」
「そうだ。一口貰ってしまえば俺も共犯だろう?」
「……ふうん」
たった一口の氷菓と引き換えに見て見ぬふりをしてくれてこれからも保健室の冷蔵庫を使う権利まで得られるなんて(そこまでは言っていないのだが)虫のいい話、ニコが喰らいつかないはずがない。ちょうど今ニコの口に入るはずの氷菓の山は賄賂と呼ぶには些か少ないような気がして、掬ってしまったそれごとスプーンを咥えながら、ベッドに寝ころぶ。流石に同じスプーンを使うのはどうかと思って冷蔵庫の横にこっそりとストックしてあるものに最短距離で手を伸ばした。
「ふ、交渉成立だな」
「は? ――む、ぅ……ッ!」
伸ばした手があと少しでスプーンの包装を掴みかけたのに、ニコはジュードの方を向かされて途端に息苦しくなる。ジュードに唇を貪られていることに気が付いたころには、ニコの咥内にジュードの舌が割って入って、ざりざりと、ニコの舌先ごと柑橘を絡めとる。ただでさえ一瞬で溶けてしまう繊細な氷の粒だ。二人分の体温が混ざりあってしまえば、冷たい余韻を感じることなく跡形もなく泡沫のように溶けていく。
「んっ、ふ……ぅ!」
一瞬感じる柑橘の味が甘い汁になって飲み込むことも出来なくて、唾液も混ざれば水音を立てて、溢れてしまった分は唇から漏れてしまった。頭を乱雑にジュードの両手でホールドされてしまっているので、逃げ場なんてない。背中をどんなに叩いても、ベッドの上で足をバタつかせても、ニコよりも幾分も大きな男に覆いかぶさられてしまえばどうすることも出来なくて、されるがまま。
「やっぱり甘いな」
「っ……ふりょう、教師」
「ああ。別に、好きに言ってくれてかまわない」
甘いだ何だと言っておきながらジュードはニコの咥内の甘い柑橘をすべて吸って、攫っていってしまった。指先で唇を拭いながら余裕の表情を浮かべるジュードが腹立たしくて悪態をついたのに、さらりと流されてしまって。この男に何を言っても無駄だと分かれば、ジュードが離れて一人で占領出来ると、大の字でマットレスを軋ませた。
「まあでもたまには悪くないな」
「……氷菓のこと?」
「キスの方がいいか?」
「絶対ない。気持ち悪い」
「ふ、酷いな」
そんなこと微塵にも思っていないようなサラリとした表情のジュードを横目で見ながら、ベッドの上に投げ出された氷菓の容器に滴りはじめた水滴がニコの指先にさらりと絡んだ。
――溶けちゃった、勿体ないな。
容器を傾けて柑橘の水面を揺らしながらニコは疲れたと、大きな溜息を吐き出した。