けものどものゆめのなか狭い路地裏。
切れかかった街灯に照らされた鉄紺色の羽は灯りが点滅する度に闇夜に紛れ、差し色のように羽に入った黄金色の模様と鋭い瞳だけが強くその存在を主張していた。
鴉。
単純にそう呼ぶにはあまりにも知っているカラスとはかけ離れている。
他の鴉よりふた周りも大きい体躯のせいでは無い。
一目見れば目を疑うような存在感。その上で目を離したら最期、と思わせる威圧感。
そして何より異質なのが三本生えた足と金色の瞳。
鴉によく似た異形。
それが至近距離に佇んでいた。
否。
半分襲われるようにして見下されていた。
地面に座り伏せられた体の上で、その鴉は真っ直ぐに此方の瞳を覗き込んでいた。
太い三本の足から生えた鋭い鉤爪は獲物を捉えたように太腿とジャケットの裾をがっしりと掴み、動きを封じ込めるような眼光が僅かでも動くことすら躊躇わせる。
しん……と全ての音が掻き消されたような静寂と緊張感が辺りを支配していた。
化け物、あやかし、怪物。
頭に浮かんだのはどれもそういう言葉。しかしそのどれもがしっくり来ない。
神の使い。神の化身。
その方が酷くあっている気がした。
夢だ。
これは、絶対夢だ。
そう理性が信じたくないと叫ぶ。
しかし、体にずしりと響く重さと脚に食い込む爪の鋭い痛みがこれは現実だと冷徹に語っていた。
どれほどそうしていたか。
お互いに微動だにしないまま、鴉はじっと不思議そうに、何かを期待するように見つめてくる。ともすればプレッシャーを感じるような圧。
ぐるぐると思考が回る。
何だ、何がしたいんだ。なんなんだ、こいつは。
「……ヤス?」
混乱した脳が、本能から来る直感のままにハッチンの口をついてその名を呼んだ。
何を、と自分で不思議に思う。
ヤスはミューモンで、鳥ではない。
「ガァ」
それなのに、高く、鴉にしては澄み渡った声で、呼応するように眼前の鴉は鳴いた。
まるでその名で呼ばれるのを待ちかねていたように。
「ヤス?」
「ガァ」
「マジでヤスなのか?」
「グゥァ」
「ファ……ヤス?」
「グァ」
瞬きながら何度も聞くが、その度に鴉はガァと鳴いた。が、残念ながらハッチンには鴉の言葉は分からない。
本当に本物のヤスならなんでどうしての疑問が尽きないが、それ以前にこの鴉をどうしたもんかが問題だった。ハッチンとしてはズキズキと痛む脚から一旦退いて欲しい気持ちで一杯である。
不思議とヤスかもしれないと認識した途端、さっきまでの恐怖感は少なからず薄れていた。驚きが勝ったのかもしれないが。
「ヤス?ちょっと脚から──」
「グゥゥ」
ハッチンがそう声をかけると同時に、唸るような鳴き声をあげて鴉が急にバサバサと羽をその場で羽ばたかせた。
一瞬、視界が黒に覆われ、面食らったように固まるハッチンにばさりと羽を動かし、身じろぐように鴉は体を近づける。鉤爪は脚から離れるもハッチンから離れる気配はない。そのまま鴉はハッチンの胸に目を細めて甘えるように擦り寄り、ぐるぐると甘い声を漏らす。
「ファ?」
さっきまでの威圧感は霧散し、嬉しそうに喉を鳴らしてぐりぐりとハッチンに頭と嘴を押し付けてくる。そろそろと手を伸ばして嘴と目元の間を軽く撫でればきゅぅと小鳥のように囀った。
完全に予想外の鴉の動きにハッチンは唖然とするしかない。
「やっぱヤスじゃねーのか?」
「ゥ」
「カラス語わっかんねー……」
とうとう体の軽いハッチンは巨体の鴉に押し倒され、ずりずりと胸に擦り寄る鴉にされるがままになっていた。
体温が高いのか、鴉の乗っているところがあつい。
そのまま、ビルの隙間から夜空を仰ぎながらなんなんだと思考を巡らせる。
(フツーにここ歩いてただろ?んで、背中に衝撃が来て倒れて、気づいたら……ヤスか!?ヤスが襲ったんだな!?)
ヤスに襲われるのはまぁ無くはない事だとして。
視線を落とすとぺたりと安心しきったように体の上に乗っかっている鴉。
(ヤスってこんな甘えん坊だったっけ?)
本当にヤスか怪しいがどうにもヤス以外にも思えない。
「つかなんでそんな姿なんだよ?」
「ガァ?」
優しく鴉──ヤス(仮)を撫でながらハッチンは疑問に思う。同時に、弁当屋は突然消えたヤスを探してないかと気になった。確か今は手伝いをしている時間のはずである。
軽く体を起こそうとすると、なでなでタイムは終了かとヤス(仮)が飛び上がった。
そして、そのまま起き上がったハッチンの肩に満足気に着地したのだった。
──表通りに出ると街中は、阿鼻叫喚とまでは行かずとも、大変な騒ぎが起きていた。
白っぽい狐族の女子がピンクと黄色の縞模様の猫を抱えて慌てたようで走っていた。
きらきらと水色に輝くユニコーンが道路をかけていった。
見上げるとビルの屋上と屋上の間を柴犬が飛び走っていた。
赤と水色のうさぎが遠くではしゃいだように跳ねていた。
足元を赤いハリネズミが走っていった。
それを追いかけるように鈴の首輪をつけた白と黒の猫が走っていった。
街頭のモニターテレビに映されたニュース番組のスタジオの中では、黄色いカラカルと青い熊が暴れ回り放送事故を起こしている。
「……」
絶句。
本能と野生のざわめき。
街中のミューモンは半分位がそのまま動物になってしまっているようだった。
ミューモンのままのがいっそ憐れに思える荒れっぷり。
思わず左肩に乗っているヤス(仮)を見上げると何故か誇らしげにしていた。
八咫烏族。
ハッチンは八咫烏をよく知らない。
鴉なんだろうなっていうのはわかる。
それだけ。
神獣なんだぞ、と自慢げに話していた小学校の頃のヤスを思い出して、なるほどと頷いた。
確かに神々しい。
それでも鴉には違いない。
街中を歩いている最中、時々髪の毛を弄ばれるように啄まれながらしみじみと思う。
「ファ……マジで動物だらけだな……」
とりあえずヤスんちの弁当屋に向かいながら、街中の騒ぎがあの大通りの1部だけではないとわかった。
空を鳥や蝙蝠が飛び、そこらかしこで犬やらうさぎやら猫やら狼やら見たことの無い動物まで走り回っている。
その上、スマホのネットニュースや動画サイトでも大騒ぎだ。心做しか段々とミューモン以上に動物が増えている。
季節外れのカブトムシがふわりと横切って飛んで行った。ふと、自分がブブブッと羽音を立てて飛ぶ小さな蜜蜂になってしまったらと想像してしまって、うへぇと触角を垂らす。
蜜蜂になったらギターが弾けない。
そうなると、肩に悠然と乗っているヤスの歌声はもう二度と聞けないのかと思い至る。
それは嫌だ。何がなんでも嫌だ。
「ファ……これって、元に戻んのかな?」
「グゥ?」
「ヤスはぜってーオレが戻すからな!」
グッと拳を握ってヤスに励ますように言うと、わかっていないのか首を傾げてふいとそっぽを向いてしまった。やっぱり話は通じそうにない。
それでも鴉とはいえヤスがいるだけでどこか心強い。
「もしもオレがハチになってたらさ、ヤスオレの事食ってた?」
「グゥゥァ」
「ファッ、食われそうだな……ヤス食いしん坊だし」
「ガァ」
「食うんじゃねーぞ?」
「ギュゥ」
歩きながらなんとはなしにずっと話しかけてしまうのは不安からか。
軽くため息をついて騒がしい商店街を歩く。そんなに離れていなかったからか弁当屋にはすぐ着いた。店先は無人で店内を覗き込んでも厨房に人影は見られない。
「こーんにーちはー!ヤスのかーちゃんいるー!?」
呼び鈴を鳴らしながら大声で叫んで呼んでみるが返事はない。
「ファ〜ァ……ヤスのかーちゃんも鴉になっちまったのかな……ヤス知ってっか?」
「グゥァ?」
「知らねーか……」
肩に乗ったまま、時折ハッチンの肩や耳たぶを啄むヤスは弁当屋への未練だとか、思いだとか、そういうのはあまり感じない。それが寂しくて、体から力が抜けたようにへなへなと店先のベンチに座り込んだ。
これからどうしようか。
トコトコと目の前をピンクと水色の変なイタチが歩いていた。ハッチン達を横目で一瞥し、直ぐに興味を無くしたようにさっさと去っていく。どこかで関西弁の焦ったような声がした。
ヤスとハッチンのようにミューモンと動物とになった奴らはどれだけいるんだろうか。
(そーいや、双循とジョウはどうしてっかな…… )
気になって電話をかけてみるも2人とも携帯は通じなかった。触角まで啄もうとするヤスを撫でて宥めながら、かっくりと項垂れる。
「ヤス……双循もジョウも野生に帰ったのかもしんねー……」
「グ」
「今頃野生の犬になってワンワン走り回ってんだぜきっと……」
「誰が野生の犬じゃハチ公」
脳天からかけられた声にばっと顔をあげるといつの間に来ていたのか双循がそこに立っていた。しかもちゃんとまだミューモンである。
やけにボロっとした姿で何故か赤いなにかを肩に担いでいたが、紛れもなくハッチンのよくよく見知った双循であった。
「双循!!」
「おどれも無事じゃったかハチ公……肩のは……ヤスか?」
「そう!そーなんだよ!ヤスが鴉になって!何があったかわかんねー!?あとジョウ知らねーか!?」
「何があったかワシもわからん、ジョウはこれじゃ」
ほれ、と双循が肩に抱えていた赤いのをずるりと降ろすとそれは大きい孔雀の如き紅蓮の不死鳥だった。しかし威厳はなく、ぐったりと覇気がない。
「ファッ!?ジョウ!?どうしたんだよ!」
「いつもの発作じゃ。すぐ元に戻る」
そう言いながらハッチンの隣に双循はそっとジョウを寝かせた。長い尾羽の炎がゆらゆらとか細く揺れている。普段の体調が悪い時も心配になるが、こうして鳥になってぐったりしていると心臓が嫌に早まってしまう。
ヤスも気になったのか、ハッチンの肩から膝に降りてジョウをじっと表情の読めない目で見つめていた。
数分程度経っただろうか。
か細い炎がじわじわと強さを増し、暗い赤は燃え盛る朱へと変化していく。ゆっくりと目を覚ました不死鳥が、全身にうっすらと焔の膜を纏い、長く、美しいその身を伸ばす。そこだけ白いトサカがまるで王冠のように主張していた。
「ファ……」
息を飲むほどの神々しさがそこにあった。
ふわりと起き上がった不死鳥は羽を揺らし、めらめらと炎が燃え上がる尾羽を広げる。切れ長の赤い瞳が情熱的に揺らめいていた。羽は陽光のように風に揺らめく度に緋色の輝きを魅せる。やがて完全に立ち上がったその姿は、全てを燃やすような熱さと静かさで圧倒的なオーラに身を包んでいた。
「すっげ……フェニックスじゃん……初めて見た……」
「曲がりなりにも不死鳥ということじゃ」
そう言いながら、ギュッと右手に何故かジョウの耐火グローブを嵌めた双循がジョウに手を差し伸べると、優美な動きでジョウは双循の手に乗っかった。わかっているのかなんなのか、
そのまま、鷹匠のように双循はジョウの止まり木として腕を持ち上げる。その1人と1羽の姿が妙にしっくりと似合っていた。様になっているとも言えよう。ファンタジーの映画にでもそっくりそのまま出せそうな絵。
一方ハッチン達、自分の頭より大きい三本脚の鴉がどっかりとふてぶてしく肩に乗っている不格好な姿を改めて、あまりの差にハッチンは息を吐いた。
「ファ〜……やっぱフェニックスってかっけ──痛ッファッ!?」
不死鳥のジョウの姿についじぃっと見入ってしまっていると唐突に太腿にとてつもない激痛が走る。見ればヤスがその鋭い嘴でまだ痛みが癒えきっていない傷跡を抉るように強く突いていた。条件反射でヤスの嘴を手でがっしりと掴んでしまうが、ヤスは何故か怒ったようにこっちを睨みつけている。怒りたいのはハッチンの方である。
「〜〜!」
痛みで文句の声も出ない。抗議するようにヤスがバッサバサと羽をばたつかせているが何が気に食わなかったと言うのか。
「嫉妬でもしたんかのぅ……?」
「嫉妬ぉ!?」
ヤスが?
嘴から手を離すと大きくひと鳴きしてぷるぷるとヤスは身震いした。
双循の言葉に、自分にヤスが嫉妬する要素があったかわからずハッチンは疑問しか持てない。
「嫉妬……?」
「グゥァ」
「……やべー、ヤスのこといつもの69倍わかんねー……」
「案外飼い主的に認識されとるのかもしれんぞ?」
「飼い主の傷抉るやつがいるか?」
「いるじゃろ」
「ファ……オレの事飼い主だと思ってんの?」
そうヤスに聞いてみたが、いまいち感情の読めない瞳でヤスは首を傾げただけだった。
ハッチンとヤスの様子を見ながら双循が小さく溜息をついた。そして、ひとまず、とくるりと周囲を見回した。
「ここで立ち話もなんじゃ。あがらせてもらうとしようかのう」
「ファ?」
◇◆◇
「ファッ血ぃ出てる……痕になったらヤスのせいだかんな」
「ガァ」
ズボンを脱いで見れば、ハッチンの太腿にくっきりとついた三本の傷に痛々しくじわりと血が滲んでしまっていた。
勝手に拝借した消毒液と包帯で軽く手当しながら隣で興味深そうに見ているヤスについ苦言を漏らす。
2人と2匹はとりあえずとヤスの部屋にいた。家主の許可も取らずに部屋にあがるのは気が引けるが今は非常事態。部屋の主のヤスもいるし別にいいじゃろうとは双循の談。外の喧騒がかすかに聞こえるも家の中は静かで人心地がやっと着いた。
「にしても荒れとったのう」
「ファ?」
「厨房と廊下の事じゃ」
「ファ〜……やっぱ、突然なったって感じだよな」
2人が家の中にあがった時、まず探したのは家主であるヤスの母親の姿だった。
結果から言うとそれらしき人影も鴉も見つからなかった。代わりに、なにかが暴れた後のような跡と廊下や厨房のそこらかしこに黒い鴉の羽が散乱していた。ついでに、フッとそこから唐突に消えたようにヤスの母親のものらしきエプロンや服が落ちていた事から、彼女も鴉になってしまったのだと察するに余りある状況であった。
「ワシも直接見とらんが……此奴が落ちていた所にも服が落ちておった。」
「じゃ、そのグローブって」
「拾った。素手で触れたら火傷しかねないからのう」
言いながら、ひらひらとグローブを嵌めた手を振って、双循はジョウを軽く撫でる。部屋に置かれたローテーブルの上に佇むジョウは、ちょこまかと動くヤスとは違い静かに、ただそこに炎の如く揺らめいていた。
面影があるようでいて、今のジョウにはミューモンの時の騒がしさはない。ヤスと同じくまったくの正反対にも感じる。
「オレらもそのうち変わっちまうのかな……」
「さぁ?現状、戻す方法どころか何故こうなったのか検討がつかん」
何故。
ハッチンが街中の騒ぎを目前にした時に真っ先に頭をよぎったのはダークモンスターだった。
MIDICITYでの大体の変な事件の原因はダークモンスターである。しかしダークモンスターにしては妙だ。
音楽エネルギーを感じない。
「でもダークモンスターぐらいしか思いつかなくね?」
「ダークモンスターの仕業にしては気配を感じんが……それに……」
「それに?」
難しい顔をした双循が急にジョウの背中、ちょうど胸の反対側に二本指をトン、と置く。
何かを探るように。
それまでじっと微動だにしなかったジョウも双循の手を確認するようにゆっくりと少しだけ振り向いていた。
やがて、不可解だと言うように眉をひそめた双循が手を離す。指には炎が糸を引くようにまとわりついていた。軽く手を振って火を消しながら眉間のシワを深めた双循が口を開く。
「──あまりにメロディシアンが変化しすぎておる。変化というより、作り変わるが正しいかもしれん。」
「つくりかわる?」
「ダメージを受けたのとは違うのう……そっくりと違う何かになっとる。原始的な、寧ろ音楽以前の問題じゃ。……断言は出来んが、治る治らんではないかもしれん」
「ファーン……」
「わかっとらんじゃろ」
「わかんねぇ」
「ハァ……とにかく情報が足りん。ハチ公はヤスと一緒におったんじゃろう?何かわかっとらんのか」
「何も……」
何か、原因、ヤスについて。単調な脳で考えてフッと疑問がひとつ湧いた。
「オレ、ヤスが何処で鴉になったのか知らねー!」
「知らない?」
「家の中にヤスの服とか落ちてなかっただろ?オレたまたまヤスに襲いかかられて会ったから……」
「……なら、なんでその鴉がヤスだとわかったんじゃ」
「ファ?」