Sun to Moon 啓吾と水色と別れてから、夕焼けを背負い、足早に人気のない路地を進む。最近足しげく通っている駄菓子屋はもうすぐそこだ。ここに毎日通う日が来るなんて、二年前の自分には想像もできなかっただろう。開いている戸を潜る。
「浦原さん、いるか?」
「いますよォ」
間延びした声とともに、浦原が店の奥から出てきた。帽子をかぶり直して笑う。
「最近、毎日いらっしゃいますねえ。そんなにうちは勉強捗るっスか」
「まあ、そんなとこ」
嘘だ。それだけじゃない。それを口にする勇気はなくて、適当に肯定する。浦原は、それに満足そうに頷いた。
「じゃあ、今日も頑張ってください。学生の本業は学業っスから」
「サンキュ。…また、分からないところ聞いてもいいか?」
「…教えやすいところであれば」
天才が、頼りなさ気にへらりと笑う。天才故に教えるのが苦手なのは、本人から聞いている。
だが、一心に医学を教えられたのだから、きっと高校レベルの数学だって教えられるはずだ。少しでも多く接点を持ちたい一護には、ユーハバッハ戦の際に知った、一心の医師としての師が浦原であるという事実は吉報だった。
浦原の対面ではなく右隣に陣取って、居間の卓袱台に教材を広げる。浦原が畳に手を突いて左にずれようとするのを、彼が敷いている座布団の端を引っ張って制止した。
「こっちの方が教科書見やすいだろ」
「…そっスね」
座布団の左側に寄りながら頷かれる。僅かでも距離を保とうという思考が見え透いて、それに内心でほくそ笑んだ。
一護は浦原に片想いをしている。それを、ルキア奪還後の土下座直後に見せた泣きそうな顔を見た瞬間に唐突に自覚した。あそこまで胸がつかえたのは、生まれて初めてだった。
きっと一護以外には見えなかったろう。罪の意識と、安堵と、これからを思っての不安と。一護には計り知れない様々な感情に押し出されかけた涙を、必死に留めたように映った。
そのとき、この人を護りたいと強く思った。
「なあ、ここ分かんないんだけど」
「ん…と、どこまで理解できてます?」
浦原の指が、教科書の本文を辿る。一護は、一拍置いて、浦原がなぞっている箇所のすぐ近くを指した。指先が僅かに触れ合う。
「このへん」
ピク、と震えて浦原の手が離れていく。文を追っていた目が一瞬泳いだのを見逃さなかった。その手を掴んで捕らえたいのを踏み止まる。
「…、良かった。教えられそうっス」
浦原が浅くため息を吐きながら笑う。そこには、教えることが可能そうだ、ということに対する安堵と、もうひとつ意味が籠められているのを一護は知っている。
片想いだと信じて疑っていなかった。――藍染との闘いに終止符を打つまでは。
全てを終え、一護は一度失った力を、浦原の技術力と仲間の支えで取り戻した。胸に突き立てられた暖かさが浦原の手によって作られたものだと知ったとき、身を焼くような熱さに変わった気さえした。そして、死神代行として再び浦原と対峙したとき、またあの表情をポーカーフェイスの奥に見た。
片想いを拗らせていなければ、気付かなかったと思う。その目には、安堵と、不安と、一護をこの手で戦場に引き戻した、という喜びが混じっていた。好きな人を一ミリでも疑ったことに対する自己嫌悪を抱きつつも、浦原商店に死神代行としてまた通えることが嬉しかった。
あの頃から、浦原の肩の荷が少し降りたのだろう。じわじわと、浦原の声音が、表情が、仕草が解け始めた。最初は、皆に対してそうなのだろうと思っていた。だが、ルキアとともに店を訪れたときには何ら変わりない。井上たちを伴って店に行ったときもそうだった。きっと自分の願望がそう見せるだけだ、自意識過剰すぎると我ながら呆れたが、浦原の態度の軟化は一護に対して特段に進行し続けた。
そして今、浦原が意識してくれている、と確信できるほどに、微々たる反応を示してくれるまでに至っている。
だが、問題は浦原がそれを認める兆しがないということだった。今だって、わざと接触したということくらい察せるはずなのに、自分の感情ごと気付かないふりを決め込んでいる。毎日通っている事実も、一護に『勉強しに来ている』という見解を肯定させることで逃げを打っている。
頭が良いが故に、ひらひらと逃げられれば、捕まえるのは難しい。我ながら厄介な男を好きになったものだ。しかし逃げられれば追いたくなる一護の粘り強さを、浦原はきっと甘く見ている。
「じゃあ、教えてくれよ」
グッと身を乗り出して、浦原の膝横に手を突く。小指が足に触れると、浦原が身を躱そうとして踏み止まった。臆病にも思える慎重な性格のせいで、不自然な距離の取り方はできない。
とことん躱す気でいるのは見え透いている以上、その性格を利用しない手はない。浦原の横に手を突いても違和感がない。右利き同士だから教科書に書き込みをしてもらいやすい。一緒におやつを食べるときにも互いが邪魔にならない。右隣に座る言い訳にも余念はない。
そして、それを浦原も分かっているから、意識していることを悟られているとは思っていないから、距離を取りましょう、とは言ってこない。
「ここはですね…」
するりと教科書を撫でる指先を目で追いつつ、若干歯切れ悪く説明するその横顔を盗み見る。本当は理解できている問題なので、浦原の様子を存分に堪能できる。
一護を如何に自然に躱すかに思考の半分は持っていかれていそうな浦原は、一護が学年十八位であるという事実が頭から抜けたままだ。こんな証明の問題、採点のポイントを全てクリアするに決まっているのに。
「…で、これで証明完了、QEDっと」
「…これじゃダメなのか?」
事前に考えていた、着眼点が僅かにずれている典型例を、浦原にたどたどしく伝えてみれば、勉強にスイッチした浦原はうーんと唸った。今までの僅かに警戒しているときとは違う、話すのが楽しくてたまらないという内心を隠せていない笑みが溢れる。
「それだと満点にはならないんスよねえ。何でかっていうと…」
浦原は、一護の惜しい解答を聞くと決まって表情を緩める。あともう一歩を後押しできるという感覚が好きなようだった。浦原のそういうところが好きなのだ。
「…分かりました?」
「ああ、凄え分かりやすい。ありがとな」
「いいえ~」
一段落ついて、湯呑に手を伸ばしてお茶を飲む。ミラーリングを図って一緒のタイミングで飲みながら、上下する喉仏をチラリと見る。こんなにも男らしいのに、それでいて所作は綺麗で品がある。湯呑を口から離した際に、唇の隙間から赤い舌がちろりと覗いた。猫舌の彼にはまだ少し熱かったらしい。
こうして少し肌に触れたり、浦原の慈愛に満ちた顔を見る機会を増やしたりと、一護なりにアプローチしているつもりだが、このままでは一向に進展しない。そして、浦原はきっと成就しないうちに心移りするだろうと踏んでいる。
コトンと湯呑を置いて、浦原がチラリと一護を見る。そこで目を合わせないのが、浦原の視線を長くもらうコツだ。
「黒崎サンは今年受験っスよね」
「ああ、夏がこんなに苦痛だったのは初めてだ」
「でも大学行ったらもっと長い休みがあるじゃないスか。そのためにも頑張らないと」
「動機おかしくねえ?」
「くだらない方が意外と力抜けていいかもっスよ?」
勉強を見てもらうようになってから、学生としての一護を気にかけてくれることが増えた気がする。それだけでも、本当は石田と井上に見てもらう方が早い勉強も、浦原商店に持ち込む価値があるというものだ。
「県内の医学部受験するんだけど、受かったらそっちの勉強も教えてくれねえか」
「おや、もう大学のお勉強の話っスか」
「…絶対受かってやるからさ。あんたに教えてもらえるって思った方がモチベ上がるし」
できるだけ何でもない風を装って言った言葉に、向けられていた浦原の視線が逸らされた。言葉からも目を背けられた気がして、胸がチクリと痛む。
「こんなのに勉強見られるのでやる気が上がるのなら、いくらでも」
「!」
落ち込んだ心が僅かに回復する。まさか、肯定されるとは思っていなかった。浦原にとっては、ほんの少しだけ未来の約束。それでも、卒業と同時に避けられるのではと思っていた一護にとってはこの上なく嬉しい。浦原が視線を戻す。
「合格しますよ。アナタ、根性ありますから」
「おう。頑張るから、見ててくれよ」
「応援してますよ」
ふわりと笑って、再び湯呑を傾ける。
ああ、好きだなという思いのまま、思わず凝視してしまっていたらしい。
「…黒崎サン?」
二年前よりも遥かに穏やかになった声音に呼ばれて、心臓が跳ねた。
「どうかしました? 具合悪い?」
たまにこうして敬語が崩れるようになったことには、未だに慣れない。一護を躱すことよりも、体調を案じることに思考が逸れたのか、浦原が躊躇いなく額に触れてきた。
「熱…はない、っスね」
「…いや、あんたが熱くねえか?」
「ん?」
触れてきた手が、自分よりも数段熱かった。自分への照れからくると期待したいが、それにしたって熱い。普段は低血圧で低体温気味だと、これまでに重ねた稚拙なアプローチで知っている。
「体温計どこ」
「いや、アタシは別、に…」
不意に浦原が肩口に凭れてきて、思わず抱きとめた。やはり、その身体は熱い。背に腕を回して撫で下ろすと、ぶるりと身震いした。
「大丈夫か…?」
「…スイマセン、急に寄りかかっちゃって」
一護の肩に手を置いて身体を離そうとする浦原を、力を込めて腕の中に閉じ込める。
「あの、離れてください」
「どんな感じで体調悪いんだ?」
「いいですから…」
「よくない。テッサイさんは?」
「…さっき出かけました」
背中をトントンと叩きながら、無理すんなよ、と囁くと、身体から力が抜けていく。
「大事な時期、ってさっき話したでしょ。うつすわけにはいかないんス」
「俺も、あんたをほっとくわけにはいかねえんだよ」
「…っ」
肩に置かれていた手が、ギュッと一護のシャツを握り締めた。縋り付くような動作に心臓を握られたような錯覚に陥る。
「とりあえず客間に布団敷くか。一緒に行こうぜ」
手を握って、同時に立ち上がると浦原がよろめいて、咄嗟に支えた。
「フラフラじゃねえか」
「自覚したら急に…、さむ…」
思わず口をついて出た言葉を受け、床に放っていた制服のブレザーを浦原の肩にかける。
「ありがとうございます…」
「熱上がりそうだな…。早く横になった方がいいぞ」
支えながらゆっくりと客間に移動する。普段ペタペタと音を立てて歩く浦原だが、今日は素足を引きずってズルズルとフローリングを滑らせている。
なんとか客間に辿り着くや否や、浦原はゆっくりとその場にしゃがみ込んだ。
「吐きそうか?」
「や…、吐き気はないっス」
手早く布団を敷き、浦原を横たえる。制服のブレザーは取った帽子と一緒にとりあえず布団の傍に置いた。そっと額に触れると、想像以上の熱さに怯んだ。
「うお…、体温計マジでどこだ」
「も、連れてきてくれただけで十分っスから、早く帰ってください」
「何言ってんだ。薬飲まないとだし、その前に胃に何か入れねえとだろ。てか、そうじゃねえ。体温計。どこにある?」
押し黙る浦原に、顔を近づけて、どこ、と聞くと、突然の接近に浦原が慌てて布団から手を出して制した。
「えと、隣の部屋の小物入れに…」
「小物入れだな」
すぐに体温計を取ってきて、浦原に脇に挟ませる。古いタイプのようで、測るのにきっかり一分かかった。抜き取って数値を見た浦原が、あはは…、と苦笑するのを見て、眉を顰めた。荒くならないよう気を付けて、体温計を浦原の手から取る。
「三十八度八分…」
「熱測るの嫌いなんスよォ。数値で見ちゃったら悪化する…」
子供の駄々のように布団をかぶってぼやく。咄嗟に可愛いと声に出そうになって、慌てて口を噤んだ。
「ふらつきと、他には?」
「黒崎サン、うつしちゃうからホントに帰って」
「俺が頑固だって知ってるだろ」
「アタシだって頑固です」
「負けねえ。ほら、布団かぶんの良くねえって」
布団を捲って浦原の顔を見ると、熱で赤くなった顔でクスクスと笑っていた。
「頑固さで負けないって何。でも、やっぱりダメです。お帰りください」
「浦原さん、俺ってそんなに頼りないか?」
あまりにも拒まれ、情けない声になってしまう。両片想いの状態だと確信していたから、多少なりとももっと素直に頼ってくれるんじゃないかと期待していたのに。
浦原は目を丸くした後、へにゃりと眉を下げて困り顔になった。
「……その聞き方はズルいでしょ」
「え?」
「頼りにしてるに決まってます。この世の誰より頼りにしてますよ」
普段よりもどこかふわふわとした口調で言われた言葉に、思わず口元を押さえる。この世、と言った。現世を差しているのだろう。夜一に並ぼうとは思ってもいないが、少なくとも現世の人間の中では一番だと言われて、ニヤけるなという方が無理だろう。
「じゃあもっと頼ってくれよ。な?」
「ん…、寒気と耳鳴りと、…あとボーッとします」
「結構キてんな…。何か食べれそうか? 甘いモンでもいいから」
布団をトントンと叩きながら問えば、暫し視線を天井に彷徨わせた後、浦原が一護を見た。熱のせいか目が潤んで見える。
「…ゼリーなら」
「ゼリーな。冷蔵庫にあるかな…。ちょっとキッチン入るぞ」
「はい…」
かなり輪郭のぼやけてきた声に、早く食べさせて薬を飲ませようと急いでキッチンに向かう。厨房のような広さに比例して大きい冷蔵庫の中を見回してみかんのゼリーを出し、スプーンを添えて薬を探しながら考えるのは浦原のこと。
おかしいとは思っていた。最近、意識しているのが分かってきたとはいえ、今日はあまりに躱すのが下手だった。もっと茶化し、声のトーンを保っていなすはずだ。今日はやけにレアな動揺が多く見れるな、と浮き足立っていた数分前の自分を殴りたい。
この思いから目を逸らさないでほしい、もっと俺を見てほしいという思いが先行して、なかなか自然体で接せていなかったのだと、看病をするときに肩の力が抜けたことで自覚した。浦原も、心なしか先程より表情が柔らかい気がする。距離を縮めることにばかり夢中になりすぎたな、と反省を終えた頃、救急箱を棚上に見つけ、無事に風邪薬を調達してコップに水を注ぎ、まとめて盆に乗せてから急ぎ足でキッチンを出た。
一護の足音が遠ざかってから、浦原は布団に潜って咳き込んだ。
「っは、ゲホ…ゲホ……ッ」
先程から咳がせり上がってきて会話をするのもきつかった。咳をすれば、確実に一護にうつしてしまう。彼がいない間に、嚥下と咳を繰り返して、なんとかコンディションを整える。
再び布団から顔を出して、天井を眺める。照明が僅かにぼやける。熱の高さを自覚してから、さらに悪化した気がする。とはいえ、自覚しないならしないで倒れるまで動くので、自分が引き金とはいえ、比較的早い段階でストップがかけられたのは幸いだった。
先程まで視界を占領するように覗き込んでいたオレンジが見えないことが、寂しく感じる。熱で気弱になっているらしいと自嘲気味に笑った。
ふと横を向くと、一護がかけてくれていたブレザーが目に入り、それを手繰り寄せて握りしめる。熱に侵された頭で、半ば無意識の行動だった。
「は……、はは」
ふわりと香る匂いが落ち着くなんて、我ながらどうかしている。こんなのはきっと錯覚だ。
力を取り戻してから、一護の態度が変わった。隣に座って勉強を見てほしい、と頼まれることが増えた。距離が近すぎて落ち着かなくて、一護が満足できるほどの説明ができているか自信がない。本当は対面で、一護が考え込む様子を見守る方が楽しいのだが、一護が嬉しそうにするので言えずにいる。
最近、どう考えても分かっているだろう問題を聞いてくることも増えた。教えると満たされた顔をされるので、素知らぬ顔をして丁寧に教えることを繰り返している。
一護は自分に好意を持っている。最初はそれを知って驚いたが、次に考えたのは、それを如何にして誤魔化し躱すか、だった。きっと若さ故の気の迷いだ。時間が解決してくれる。一護の人生を狂わせるのだけは絶対に避けたい。だから、自分の多幸感も、躱すときにじわじわと真綿で首を締められるような自業自得の苦しさも無視して、一護との関係を維持し続けている。
手の中のブレザーを、猫吸いのようにすうっと吸い込む。ひどく落ち着く気がした。
何でこんな自分を好きになってしまったのだろう。振り向く素振りも見せない男にこんなに良くしてくれるのだろう。あんなに優しくて、覚悟はあるけれど詰めが甘くて支え甲斐があって、誰にでも手を差し伸べてしまう青年が。きっと誰もが彼を好きになる。ボクに裂く時間なんてないはずだ。早く好きでなくなってもらわないと、でないと…―――。
頭がボーッとしてきた。ネガティブな思考のループに陥っていた脳が、綿あめのように朧気になっていく。ああ、あの太陽が見たい。手に入れてはいけないのに、そう思ってしまう。手を伸ばす資格も、差し伸べられた手を取る資格もない。それでも。
「ああ、すきだなあ…」
それが口をついて言葉として出たと認識することもなく、浦原の視界が暗転した。
それは、聞き間違いかもしれないと思うほど、小さくか細い声だった。
「え…?」
なるべく足音を立てないように客間に向かうと、自分のブレザーを握りしめて寝息を立てる浦原の姿があった。
「え…?」
再度全く同じ声を上げながら、そっと浦原の傍に盆を置いて座る。ブレザーは、浦原の目元の部分だけ少し色が変わっていた。まさか先程の言葉は、と期待してしまう。いや、もしかしたらブレザーの柔軟剤の匂いのことかもしれない、と、そうでなかったときのダメージを軽くしようと脳内で言い訳大会が始まるも、それを無理やり中断した。
今はそんなことより、浦原に薬を飲ませなければ。髪を梳いて「浦原さん」と呼びかければ、浦原がゆっくりと瞼を上げた。熱で潤んだ瞳が、一護を認めて細められる。
「起こしてごめんな。食べて、薬飲んでから寝ような」
浦原は、とろんとした目で一護を数秒見上げたあと、コクリと頷いた。先程と様子が違う。
「黒崎サン」
「ん?」
「ぉ、かえりなさい」
泣きそうに笑った浦原に胸が締め付けられ、抱きしめたいのを必死に堪える。その代わりに手を握った。
「みかんゼリーあったぞ。食べるだろ?」
「ん……」
起き上がるのを、背を支えて手伝い、手にスプーンとゼリーを持たせようとして、浦原がブレザーを握りしめたままであることに気付き、ふと思いつく。
ずるいとは思いながら、ゼリーの蓋を開け、スプーンで掬うと浦原の口元に僅かに震える手で持っていった。浦原が薄く開いた唇にそれを迎え入れるのが、スローモーションのように見えた。
「…美味い?」
「ハイ…」
もう一度掬って口元に運ぶと、あ、と口が開かれる。弱っているところにつけ込んでいることに罪悪感を抱きつつも、幸せな時間を味わった。
ゼリーを残さず食べ終え、薬も飲んで横になる頃には、浦原はかなり意識がぼんやりしていた。元々低体温の彼に三十八度を越える発熱はかなり辛いのだろう。
いつも逸らされていた視線は一護をじっと捉え、浦原が眺めているのは天井ではなく一護だった。いつもはこっちを見てくれと願うのに、いざまじまじと見つめられると気恥ずかしい。だが、今が甘やかすチャンスだと気持ちを切り替え、浦原の髪を撫でる。猫っ毛だが指通りはいい。見た目よりも触った感触は艶がある。
「なあ、浦原さん」
「んー…?」
「もっと、俺に甘えてくれよ。頼ってくれ」
堰を切った言葉は止まらない。先程まではなんとか自制できていたのに、浦原のあの言葉に我慢ならず、ついに彼を覆うように抱きしめ、腕の中に閉じ込める。
「あんたは、自分を蚊帳の外に置くけどな。あんただって望んでいいんだ。目を背けて苦しまないでくれ…。俺はあんたが好きだ。好きなんだよ。ちゃんと、見てくれよ……!」
浦原からの返事はない。怖々身体を離し、そっと顔を覗き見ると、眠気も吹っ飛んで目を丸々と見開いている浦原と目が合った。
「……ダメ」
青ざめているであろう、それでも熱で赤い顔を強張らせ、弱々しく首を振る。布団に肘を立て、力の入らない身体で上にずり上がろうとするのを呆気なく引き戻して抱きしめる。
「はな、離して…っ」
「嫌だ。絶対離さねえ」
「ゲホッ…は…、うつす、うつしちゃうから…!」
「うつしていいよ」
浦原が、一護の肩に手を置いて突っ張ろうとして、自分がブレザーを握りしめていることに気付いて、息を詰めるのが聞こえた。
「なあ、あんたさっきさ、好きだなって言ってたんだよ。覚えてる?」
「ウソ…」
その呟きが、何を好きと言ったのか示すことに他ならないのに、本調子でない浦原は気付かない。腕の中で藻掻く浦原の耳に顔を寄せた。
「浦原さん、好きだよ」
「…っ! イヤだ、やめてくださ…」
「やめねえ。ちゃんと俺の気持ち聞いて」
今逃がしたら、絶対に捕まえられない気がした。この手を離してなるものかと、さらに、だが優しく拘束する。
「なあ、誰に対して身を引いてんだよ。俺はあんたがいいんだよ」
「…ボクはイヤだ……っ」
初めて聞く一人称に、思わず身体を少し離して浦原を見ると、揺れる瞳が一護を見上げた。
「あんた、ボクって言うんだな。可愛い…」
「うあ…」
発熱で狭くなったキャパシティなどとっくに超え、浦原がさらに赤くなった。もはや心配になるほど真っ赤なその様子に、この気持ちは自分だけじゃないんだと胸が高鳴る。腕の拘束を解く代わりに、熱い頬を両手で包み込んだ。
「もう逃がさねえよ、諦めてくれ」
「…きっと、気の迷いです。こんなのより、アナタに相応しい人なんてたくさんいます。ボクなんかに構わないで、」
「それ以上、俺の好きな人を貶すなよ」
「ッ!」
思わず低くなった声でそう囁けば、浦原の肩が可哀想なくらい跳ねた。しまったとは思ったが、謝らない。覚悟を浦原に示したかった。潤んでいた浦原の目から、いよいよ涙がボロボロと溢れて、ぎょっとした。発熱で涙腺が脆くなっているらしい。
「う、浦原さん…」
「はい…?」
目尻を拭って、泣くなよ、と情けなく顔を歪ませる一護を見て、ようやく自分が泣いていると理解したようだった。グッと耐えるように顔を顰めて視線をうつ伏せる。
「…ズルい。今逃げられないからって……」
「うん、それに関してはごめん。でも、もう手段選んでる余裕もねえっつうか…。もっとカッコよく告白するつもりだったってのに」
濡れた瞳で、思わぬ発言にキョトンと見つめ返してくる浦原が可愛すぎて、思わず笑ってしまう。
「俺さ、二年前から好きなんだぜ。あんたのこと。気の迷いにしちゃ長すぎるだろ?」
「二年前…」
「ルキアの一件が解決したあたりから」
「え…、最低だって分かって引くところでしょう、そこは」
「でも、死にに行かせてたまるかって思ってたんだろ? 鍛えて、覚悟決めて信じて送り出してくれた。それに、帰ってきたとき凄え辛そうな顔で頭下げてた。それ見て、護りたいって思ったんだ。それが最初。叶わないって諦めてたんだけどさ、浦原さんが凄え穏やかになって、意識してくれるようになってめちゃくちゃ嬉しかったんだぜ?」
すりすりと濡れた頬をさすりながら、目でも愛情の程を伝える。浦原の口元が小さく戦慄くのが見えた。
「なあ、浦原さん」
「……」
「好きだよ。愛してる。浦原さんは?」
ついにくしゃりと顔を歪めて、浦原が声を殺して泣き始めた。そっと抱きしめ、頭を撫でると、浦原は一護の肩口に顔を埋めた。
「…絶対っ、後悔しますよ……」
「しねえよ。すっげえ好きだから」
「見る目がなさすぎる…」
「天下一あると思うけど?」
言葉のチョイスに、抱きしめている肩が微かに震える。それを感じて、一護も笑みが溢れた。
「絆されないうちに、って思ってたのになあ」
「もう手遅れそうだから、諦めろよ。あんたが頷くまで、俺は諦めねえよ」
「根比べしてみます?」
「絶対俺が勝つって。てかもう勝ってるだろ、これ」
答えを急かしたい気持ちをグッと堪え、浦原の息が整うまで宥める。一護の肩に置かれていた手から、ブレザーがするりと落ちた。ゆっくりと、腕が背に回される。
口元が思わず緩んだ次の瞬間、襟を思い切り後ろに引っ張られた。喉がグッと鳴る。
「ぐえ、えっ」
すぐに手が離され、びっくりして浦原を見ると、弱々しくも悪戯そうに笑っていた。
「弱みに付け込まれたのは腹が立つので…」
「わ、悪ぃ…」
「しょうがないから許してあげます」
飄々としたいつもの笑みに戻って、上から目線な言葉でツンと顔を逸らす浦原に、顔を手で覆った。
「はあ~、好きだ…」
「…ボクも、――ですよ」
バッと両手を下ろして凝視すると、クスクスと笑われた。一護が顔を赤らめる番だった。
「なあ、もっかい」
「やーです」
布団を頭からかぶると、おやすみなさいと笑みを含んだくぐもった声が鼓膜を震わせる。あまりの出来事に固まっているうちに、寝息が聞こえ出した。
「ズルいのはどっちだよ…」
布団の横に寝転び、浦原の寝息に耳を立てる。好きだという言葉を引き出すのに躍起になってなんとか両思いであると示してもらえたが。
「…付き合ってくれって言ってねえじゃねえか」
好き同士=恋人となるほど単純な男ではない。むしろ、満足したでしょ、ほら早く他に行ってね、なんて言われやしないだろうか。他に行く気などさらさらないが、またこれからアプローチする日々になるかもしれない。
「…ま、いくらでもやるけどな」
気持ち良さそうな寝息を聞いているうちに、一護も睡魔に襲われ、浦原の隣で眠りに就いた。
「…サン、…―――黒崎サン!」
ハッと一気に意識が覚醒する。目の前に浦原の顔があった。
「何やってるんスか!そのまま寝るなんて、ホントに風邪引いちゃいますよ!」
「悪ぃ…、体調どうだ?」
「おかげさまで少し楽になりました。でも、今はそうじゃないっスよね? 受験生サン」
怒気を孕む目で見下ろされ、はい…と小声で返すとため息を吐かれる。
「携帯にも連絡来てましたよ、一心サンから。アタシから事情は説明しておきましたけど、帰ったらタックルくらいは飛んでくるでしょうね」
布団の上で半身を起こしたままの浦原の隣で、一護も身を起こして座り込む。浦原は畳に置かれたままだったブレザーを拾い上げると、それの上に自分の羽織を重ねて一護の肩にかけた。
「えっ、いや、風邪引いてんのに」
「布団がありますから。ほら、身体冷えてるじゃないスか。早く帰って暖まってください」
そう言いつつも羽織をかけていることで即座に帰りづらくしているのは、無意識に留めようとしてくれていると受け取ってもいいのだろうか。
「暖めてくれねえ?」
「元気そうっスね。なら羽織返してください」
あっさり羽織を回収しようと手を伸ばす浦原を、慌てて自分の両肩を抱いて阻止した。
「えぇ ちょ、もうちょい貸しといてくれよ!」
「ふは、」
噴き出す声が聞こえて、浦原を凝視する。口元を手で隠して、目を細め肩を震わせて笑う浦原に釘付けになった。
「さっき、あんなにカッコよかったのに…、はは」
もう話題にすらされないかもしれないと思っていた、先程の告白についてカッコよかったと言われ、嬉しさで胸が高鳴った。感情のままに浦原を抱きしめる。
「なあ、浦原さん」
「…何スか」
だらんと下がったままの腕に寂しさを覚えつつ、浦原の背中を撫でる。
「俺と付き合ってくれ」
「……」
「絶対後悔しねえし、させねえ。両想いで終わらせる気もねえ。あんたと恋人になりたい」
その場を無言が支配する。身体を離して顔を見ようと思ったタイミングで、腕が背中に回された。今度は襟を引っ張られることはなく、確かに一護の背中を手のひらがさする。
「アナタの覚悟、確かに受け取りました」
「浦原さん…」
「でも、これまでアナタの好意を踏みにじってきたと思います。気の迷いと決めつけて、知らん顔していたような男です。…こんなのが恋人で、本当にいいんですか」
「浦原さんがいい。あんたじゃなきゃ絶対にダメだ」
強く抱きしめ合い、背中を叩かれながら暫くそのまま互いの体温を分け合った。冷えていた一護の身体が暖まった頃、ようやく抱擁を解かれた。
「暖まりましたね」
「ああ、…ありがとな」
「いえ、…看病してくれてありがとうございます。お帰りはお気を付けて」
掛け時計を見れば、もうすぐ十九時半だった。浦原が連絡しているとはいえ、妹二人が心配しているだろう。この空気が名残惜しいのを堪えて、羽織を浦原にかけて返し、立ち上がった。
「じゃあ、またな。浦原さん。…明日も来るよ」
「ええ、お待ちしてます」
ふわりと笑う浦原に、帰りたくないという気持ちが咄嗟に顔に出てしまったのか、浦原がふふっと笑って一護にひらりと手を振った。
「ほら、また明日」
「ああ!」
背筋をシャキッと伸ばして手を振って、客間を出てから廊下の冷気が雪崩れ込まないように慌てて襖を閉める。ふう、と息を吐いて玄関へと向きを変えると、廊下で佇んで器用に無言で号泣しているテッサイの姿があった。口をあんぐりと開けた一護に、テッサイが口元に人差し指を立てる。コクコクと頷いた一護を、テッサイは居間に通した。
「黒崎殿、お、おめでとうございます…!」
ブワッと涙を溢れさせておいおいと泣くテッサイのインパクトに気圧される。
「お、おう。サンキュな。…って、え? いつからいたんだ?」
「店長が体調を崩されたのは、霊圧で承知しておりました。ですが、黒崎殿がいるならばと引き返すことは致しませんでした。二人で寝ているのが見えたので、邪魔しないよう待機していたのです。気取られぬよう、外套で隠れておりました。何も掛けずにそのまま雑魚寝させてしまったのは申し訳ございません」
「いや、いいけど。そうだったのか…」
「看病はとても重要なラブイベント、と雨殿の書籍で心得ております。…本当に、本当におめでとうございます…!」
クッと目元を袖で拭って感動にむせび泣くテッサイに、愕然とする。一護の恋心など、とっくの昔に見抜かれていたのだろう。そう思うと、足しげく通っていたのがあまりにも分かりやすすぎて恥ずかしい。さぞ健気に見えていたことだろう。
「あ、ありがとな」
「店長ののらりくらりとした態度には、今回こそは本気でやきもきしておりましたが、よくぞ諦めずにアタックしてくださった! 私めは感無量ですぞ!」
なんなら、当事者二人を差し置いて一番嬉しそうにしている。同性同士、高校生と成人、死神代行と死神、数えだしたらキリがない障害の数々があるため、誰に認められずとも愛し通す気でいたのに、早々に祝福されて心の底から嬉しかった。
「ホントありがとな、テッサイさん。認めてもらえて嬉しいよ」
「ええ…! 本当に、毎日通われてください。雨殿の書籍でよければ参考書代わりにお貸ししますぞ!」
「それは大丈夫だ。また明日来る」
「ええ、お待ちしております!」
本当に気の置けない友人なんだな、と実感しながらテッサイに見送られ、浦原商店を後にした。
テッサイがそっと客間を覗くと、真っ直ぐに襖を見ていた浦原の視線に射抜かれた。
「…テッサイ」
「…店長」
視線で促され、浦原の布団の隣に正座する。
「いつ帰って来たの」
「先程、在庫補充を終えて帰って参りました」
「突然店内で霊圧を感知しました。…外套使ってまで、盗み見っスか」
「申し訳ございません」
「いえ…、良いもの見れましたか」
「とても良いものが見れました!」
即答するテッサイに、浦原が笑う。その目は、一護を必死に躱して余裕を無くしていたときとは比べ物にならないほど柔らかく孤を描いていた。
「そうスか。…いつもテッサイには助けられてばっかりだね」
「それは私の方ですぞ。店長、プリンを買って参りました。食べられますか?」
「何味?」
「ストロベリーチョコ味です」
「さすがテッサイ。いただきます」
思えば、最近イチゴ味やオレンジ味のものばかりに惹かれていた気がする。ゼリーといいプリンといい、テッサイには全てを見事に見抜かれていたらしい。ピンク色のプリンを食べながら、浦原は自分の思わぬ分かりやすさに苦笑した。