ずるくて甘い 尸魂界へルキア奪還に向かってからというもの、なんとなく浦原商店からは足が遠のいていた。別に、浦原に言った言葉が本心からでなかったわけではないし、まして浦原を軽蔑したわけでもない。
ただ、浦原が下げた頭を上げて帽子を被る直前に見えた、何かを耐えるような表情が脳裏に焼き付いて離れず、自分でも理解できない焦燥感と胸を焼く感覚をどう扱うべきか分からない。どんな顔をして会えばいいのか分からないだけだ。
だが、それを理由にこれ以上会うことを引き延ばしていると、浦原がどう捉えるのかはなんとなく分かっていた。当然のことをしたからだと冷静に割り切るだろうが、それでも勘違いして欲しくはない。そろそろ何かしら理由でもつけて会いに行くか。
そう思いながら、学校帰りに浦原商店への道をゆっくりと歩いていると、聞き慣れた声が耳朶を打った。
「だから、散歩中だからお財布なんて持ってないんですってば」
呑気さに、ほんの少しだけ焦りを混ぜた声。演技だな、とすぐに看破しつつも、声のした方へと足を向けた。
「今ないなら取りに行って来いや。お前、この辺の駄菓子屋の店長だろ」
死角に隠れながらそっと覗き見ると、浦原が塀を背に男子高校生五人に詰め寄られていた。どうやらカツアゲに遭っているらしい。
「マジかよ。あんなナリのオッサンカツアゲするか、普通…。よりにもよって浦原さんをオヤジ狩りするとか、ツイてねえな」
浦原がどう対応するのか、純粋に興味が湧いた。あんなガキ片足で伸せるだろ、とガキな自分を棚に上げて、見物しようと居直した時だった。
「無理っスよ。どっちにしろお金ないっスもん。勘弁してくだ」
「あぁ? グダグダうっせえな。殴られてえのか、ジジイ」
「ぐッ」
くぐもった声と同時に、男の膝が浦原の鳩尾にめり込んだのが見えた。
「は」
思わず声が漏れ、慌てて手で口を塞ぐ一護の目の前で、浦原が腹を押さえて前屈みになりながら呻く。男が、浦原の襟を鷲掴んでグイッと引き寄せた。沈みかけた身体を持ち上げて、じっとその目を帽子越しに覗き込む。それが何故だかやけに不愉快だった。
「さっさと金出、ぶっ」
死角から飛び出して、男の顔面にドロップキックを叩き込む。目を見開く浦原の襟から、男の手を引き剥がした。
「何ダセエことしてんだ」
「テ、テメエ…真柴中の黒崎…」
「いつまで中学の話してんだよ。全員ぶっ飛ばされたくなかったらさっさと消えろ」
敵意を向ける仲間を、ドロップキックを顔面に受けた男が慌てて制し、五人はそそくさと逃げて行った。
後には、路上に膝立ちになる浦原と、それを見下ろす一護だけが残される。
「真柴中の黒崎」
「うるせえ。何でやられるフリなんかしてんだ」
何故急に頭に血が上ったのか考えるのを本能的に遠ざけて、ガラ悪く睨み付けると、浦原は困ったように苦笑して帽子をかぶり直しながら立ち上がった。
「あそこで暴れて、変に目着けられたらたまんないっスもん。強いとか噂立ったら、すぐに喧嘩の的になるでしょうし」
確かに、一護自身髪の色を馬鹿にされて喧嘩の相手をしていて今に至るため、その理由については何の文句もなかった。だが、腹が立つことが一点だけ。
「あんな簡単に、胸倉掴ませるんじゃねえよ。それに顔近…」
「え?」
「な、何でもねえっ!」
「うっ」
自分でも口走りかけた内容が信じられなくて、八つ当たりに浦原の胸を殴り付ける。うう、と芝居がかった情けない声に、ハッとする。
「さっきの子供に蹴られた時より痛いっス…」
「わ、悪かったよ」
同年代を子供と言われたことが何故だか胸にグサリと刺さる。暴力を振るうつもりはなかったのに、何やってんだ。自責の念で謝罪を口にすると、浦原はキョトンと目を見開いた。
「…黒崎サン、何か心境の変化とかありました?」
「あ? 何でだよ」
「いや、初めて謝られたから」
言われてみれば確かに、レッスンの時も、頭を下げられた時も、目を刀の柄でド突いたり肘鉄をかましたりと荒々しいスキンシップを取ってきたが、謝ったことは一度だってなかった。心境の変化と問われれば、その原因ははっきりしている。だが、何が変わったのかと問われれば。
「分かんねえ…」
「……そっスか」
一護の言葉に目を僅かに細めて、浦原はくるりと背を向けた。
「この辺にいたってことは、うちの店に来るつもりだったんスかね」
「ん? ああ」
「何かお求めで? それとも相談事だったり」
「…涼みに来ただけだよ」
「それなら、学校の図書館とか、スーパーとか、うちより手近にあったでしょうに」
咄嗟に出たにしてもあまりに弱すぎる理由付け。
「…お、お茶が出るだろ!」
それしか思いつかなかったのかよと自分でも呆れる。振り返って目を瞬くのが見えるが、気まずさからその顔を直視できずに目を逸らす。小さく笑う息遣いが聞こえた。
「…じゃあ、お茶菓子もサービスしましょかね」
その柔らかな声音に弾かれたように顔を向けると、浦原は既に店へと歩き出していた。
テッサイに出迎えられて居間に通され、卓袱台越しに対面で羊羹をつまみながら茶を飲む。木の香りと畳のイグサの香りが、馴染みはないのに妙に落ち着く。
「夏休み明けましたけど、どっスか。学校の方は?」
「必死こいて課題終わらせたら次は試験だし、大忙しだよ」
担任にも目つけられてるし、と不服そうに付け加えると、浦原の笑みが深くなる。その怪しげな笑みが余裕綽々で腹立たしいし、何よりこんな男を前にどこかむず痒く感じている自分自身に落ち着かない。
「…何かありました?」
「何でだよ」
「落ち着きないんで。ずっと何か気にしてる」
目敏く動揺を見抜かれ、何と返したものか考えていると、浦原は目を眇めた。
「もしかして、優れませんか」
何が、とは言わない。暗に、内なる虚のことを指しているのだとすぐに分かった。もしかして、などと濁しているが、霊圧で感じているのだろう。だが、それを真っ直ぐに切り込んでこないこと自体、浦原がそれに対する手立てを持っていないことの顕れだった。
目論見はともかく、浦原のおかげで死神の力を取り戻した。この件について、浦原を攻め立てる気は毛頭ない。
「…大丈夫だ。大丈夫にする」
「そっスか」
僅かに揺れていた灰色が、そっと伏せられる。注視していなければ気付かないくらいの、頼りなさと弱さ。不甲斐なさを噛み締めるような掠れた声に、強く胸を殴られたような感覚に陥った。
これだ、この感覚だ。未だ尾を引いて、一護を惑わせる感情の根源だ。
浦原の弱さを覗くたび、その手を引きたい欲が沸き起こる。自分よりも強く、賢いこの男を放っておけないと、傍に駆けたい衝動に駆られる。あの日、頭を下げられた時に芽生えた、護りたいという気持ちがまた顔を覗かせた。
だからと言って、今の一護にどうとしようもない。自分が浦原より弱いのは知っているし、掛ける言葉も持ち合わせていない。ただ、その瞳の揺れが治まるのを見て胸を撫で下ろしただけだった。
それから、どう話を始めたものか分からず、暫く沈黙が降りた。茶と羊羹をいただき、涼みに来たという言い訳はもはや通じない。浦原に顔を見せるという目的も達した。じゃあ帰るわ、の一言で済むのだが、どうにも帰るのが惜しい。
「…浦原さんってさ」
不意に思いついたある可能性に、自分で不快感を覚えながら口を開く。
「ハイ?」
「夜一さんと付き合ってんのか?」
その問いに、浦原は数秒ポカンとした後、盛大に噴き出した。
「ふっ…、あははは! そう見えます」
あー可笑しい、と口元を扇子で隠すのも忘れて、ケラケラと笑う姿に愕然とする。こんなに屈託のない笑みは初めて見た気がする。
「だ、だって距離近いしよ」
「ただの幼馴染っスよォ。そんなこと言ったら、アタシが砕蜂隊長に八つ裂きにされちゃいますよ」
笑いの余韻が引かぬまま、細めた目元を袖口で拭って一息吐く。涙が出る程ツボに入ったらしかった。その珍しい笑顔に釘付けになっていると、茶を飲んで落ち着いた浦原が首を傾げる。
「そんなにじっと見られたら、穴空いちゃいますよン」
「空いちまえ」
見入っていたことにハッとして、照れ隠しに毒づく。それと同時に、彼が夜一と恋仲でないことに酷く安心する自分がいることにも気づいた。それに気付かないふりをして、蓋をする。
「なあ、浦原さん」
「何スか?」
「また、涼みに来ていいか?」
浦原は、何を当たり前のことを、という風にふっと笑った。
「もちろんっスよ」
その笑みに、胸が締め付けられた気がした。
その後も、気持ちに蓋をしたままたまに店に顔を出す日々が続いた。普段の飄々としている時の浦原を見ていても、あの時の感情は湧き起こらない。ただの同情だったのかと無理やり自分を納得させることに成功しそうになっていた頃だった。
「来たぞ…、浦原さん?」
いつもは店先に胡坐をかいている浦原が見当たらない。たまたま奥に引っ込んでいるのか、それとも死神の対応でもしているのだろうか。そう思い、見回しながらとりあえず上がり框に近づくと、奥からテッサイが慌てて出て来た。
「黒崎殿、申し訳ありません。店長は、今出られませぬ」
「何だ、新しい死神でも来てんのか?」
「いえ、そういうわけでは…」
「テッサーイ、調合途中の薬瓶どこぉ?」
言葉を濁していたテッサイの背後から、覚束ない足取りで浦原が出て来た。
「店長! 横になっていてくださいとあれほど」
「あれぇ、黒崎サンだ。いらっしゃい。スイマセンねえ、今日ちょっと取り込んでて…」
いつもの頼りない口調に輪をかけて緩い滑舌。帽子で隠された目元は見えないが、その顔色が優れないのが一目で分かった。元々色白故か、頬がはっきりと上気している。どこか艶めかしく荒い息を吐いてグラついた浦原の肩を、テッサイの大きな手が慌てて支えるのを見た瞬間、認めたくなくて何度も目を逸らしてきた嫉妬心が一護を内側から炙った。
「寝てろ、バカ!」
どう見ても体調不良のくせに、自分の薬すら調合で済まそうとして途中で倒れたのかもしれない。思わず怒鳴り付けると、浦原はポカンと素の表情を見せた。
「ンな具合悪ぃ時に出て来てんじゃねえ! また今度来るから早く横になれよ!」
心配で仕方ないのに、刺々しい物言いになってしまう。もし頭痛がするなら頭に響いたかもしれないとハッとする一護に、浦原はこくんと頷いた。
「はぁい」
そのたった一言で、今まで逃げていた感情全てが一護に襲い掛かった。もうダメだ、言い逃れできない。テッサイが隣にいるからこそ見せられた弱みだろうが、それでも破壊力を真っ向から食らい、また来るとだけ二人に告げると逃げるように店を飛び出した。
好きだ。あの男が好きだ。誰より賢くて、傷を隠しているあの男が。護られるのではなく、護れるようにもっと強くなりたい。もっと近くで支えたい。色んな表情を見てみたい。この気持ちを伝えたところで、そんなこと叶わないだろうけど。
猛ダッシュで帰宅してすぐに、言い逃れのできない表情をしていたのではと思い至り、翌日慌てて店に行くと
「何の話っスか? 多分それ半分意識ない時なんスけど…」
と申し訳なさそうに言われて、過労具合に戦慄した。
「マジで身体大事にしろよ…」
「気を付けます」
迷惑かけるから、とか絶対勘違いしてるぞコイツ、と眉を顰めた。好意だけでなく、心配という面でもますます目が離せなくなった。
それからは、ニ週に一度ほどの頻度で浦原商店を訪れた。不信感を持たれないようにするため、これくらいの頻度でしか行けなかった。それでも、カレンダーと睨めっこしながら日取りをずらし、なんとかこの日に自然に店に寄れるようセッティングした。
「おや、黒崎サン。いらっしゃい」
半年間定期的に通い詰めた努力の結果か、それとも単に偶然なのか、浦原が店先で出迎えてくれることが多くなっていた。普段はめっきり奥に籠り切りの男が、こうして片手を挙げて声を掛けてくれるだけでも、一護からすれば立派な成果だ。
「おう」
素気なく返事をして、ちらりと商品棚を覗く。思った通り、チョコが半分以上売れていた。
「ああ、今日はバレンタインデーっスからね。子供たちが買って行ったみたいっスよ」
一護の視線を正しく汲んで、浦原が上がり框から声を掛けてくる。ふうん、と気のない返事をして、商品棚から浦原に視線を移した。
「やっぱチロルだけ売れるんだな」
「まあ、そっスねえ。スーパーよりだいぶ安いっスから」
「あんた、何味が好きなんだよ?」
「え、アタシっスか? うーん、きなこもちっスかねえ。きなこチョコって珍しいし。黒崎サンは?」
「ミルク」
話しながら、スクールバッグをゴソゴソと漁る。手に当たった財布を取り出し、目の前にある棚からチロルチョコのきなこもちを三つ手に取って上がり框に近づいた。
「ん」
握り拳を浦原に向けると、ぱちくりと瞬きしながらも、手のひらが差し出される。それに、きなこもちのチロルと小銭を三枚乗せた。
「お買い上げありがとうございま…」
「あんたにだよ!」
「え?」
目を見開いて説明を求めるように見てくる浦原から逃げるように顔を横に逸らす。
「…別に、思いつきだ。深い意味はねえよ」
「…ありがとうございます」
口元を僅かに緩めて受け取る姿に、安堵のため息を吐きそうになって飲み込む。浦原は、早速包みを解いてチョコを一つ口に入れた。
「んー、おいし。やっぱり他人から貰うお菓子って美味しいっスねえ」
想いを伝える勇気もないがせめてこんなイベントくらいは乗っかりたかったのに、浦原からすればおやつを貰ったくらいの感覚らしく、少し癪に障る。
「黒崎サンは、学校で結構チョコ貰ったんじゃないスか?」
「あー…、義理チョコばっかだけどな」
「ばっかってことは、本命あったんスね」
ニヤリと笑いながら図星を突かれて、咄嗟に口を噤む。まさか俺が他人から貰ったこと気にすんのか、と淡い期待を持ちながら、何か続きがないかと待った。
「まあ、アナタ髪が目立つし目付き悪いだけで、お人好しっスもんね。見た目だけで判断しない女性からなら、結構モテるでしょう」
思わぬ評価に、飛び跳ねそうに嬉しくなるが、なんとか姿勢を正すだけに留めた。
「そ、そんなことねえよ」
「素直じゃないっスね。今、明らかに嬉しそうな顔したくせに」
「うるせえ!」
噛み付いても意に介さず、へらへらと笑われる。本当に、我ながら素直じゃない。だが、すぐに素直になって態度を改められるなら苦労しないし、急に改めてもそれはそれで警戒されてしまいそうだ。
「チョコ、ホントにありがとうございます。大事に食べますね」
急に改まってそう言われ、不意を突かれて言葉に詰まる。
「…そんな気にすんなよ」
「じゃ、遠慮なく」
ポイともう一つ口に放り込んだ浦原の頭に、それはそれでムカつく、とスクールバッグをスイングで叩き付けた。
「さーて、店仕舞い…っと」
重い腰を持ち上げて上がり框から足を下ろし、下駄を引っ掛けてシャッターを下ろす。夕暮れのオレンジを遮断して室内灯だけになった玄関で、浦原はふと思い出したように懐の小さな贈り物を取り出して手のひらに乗せた。
「ややっ、店長。黒崎殿に頂いたチョコレイト、まだ召し上がっておられなかったのですか?」
店の奥で浦原と一護の会話を盗み聞いていたことを全く悪びれないテッサイに、浦原は困り笑いを返す。
「その場で二個食べちゃったんで、もうこれしか残ってないんスよ。勿体ないことしちゃった。明日に取っておこうかなと思って」
「店長は妙なところで不器用ですからなあ」
腕組みしながら大きく頷かれる。特に否定する要素もなく苦笑いを浮かべたまま玄関に佇んでいると、
「夕食を準備致しますので、中へ」
と促された。ハーイ、と緩い返事を返すと、それに満足したテッサイが廊下を曲がってキッチンに消えていく。その背を見送ってから、手元のチョコに目を落とした。
このチョコに告白の意図はない。一護の態度でそう見透かしたからこそあの場は躱したが、この不純な気持ちも一護の純粋な好意も、このまま有耶無耶で済ませる気はさらさらない。
好意がバレていないと本気で思っているらしい彼の、こちらを伺っていたブラウンが嬉しそうに蕩ける様を思い出す。
「…ああ、早く食べちゃいたいなァ」
クスリと漏らした笑みとともに溜息混じりにそう呟き、一護がくれた小さな勇気に口付けを一つ落として、それを懐に仕舞いながら子供たちの待つ居間へと向かった。