ハロウィンパロ「ネロ。口あーってしろ」
ブラッドリーは膝に載せた子どもに向かって厳しい声で命じた。しかし子どもは琥珀色の瞳に涙を溜めたまま、ふるふると首を振って頑なに唇を開こうとしない。細い両腕でコウモリのぬいぐるみをぎゅっと抱え、その頭に口元を埋めてしまう始末である。ブラッドリーはため息を落とした。
年の頃は十を過ぎたあたりだろうか。何しろ拾ったときの年齢が定かではないので、正確なところはブラッドリーにもわからない。薄青い髪に豊穣の麦穂を思わせる瞳。肌はもとより魔族らしく白いが、今は血が足りていないせいでいっそう青白く、病的なほどであった。
子どもは―――ネロは吸血鬼なのだ。
「………ネロ、」
呼びかければ、条件反射的に泣き腫らした顔が上を向く。その機を逃さず、ブラッドリーは華奢な顎を掴んでかぱりと口を開かせた。閉じられないように親指を割りこませ、そのまま咥内を検分するように覗きこむ。
「あーほら、牙伸びてんじゃねぇか」
こんなになるまで我慢するなって言ってんのに、と呆れたようにこぼして、その小さな口に見合った控えな牙をぐりぐりと指でなぞる。吸血鬼の牙というのは本来、獲物の血を吸うときにだけ伸びる仕組みになっているが、極限まで空腹になると、「血を吸いたい」という本能から勝手に牙が伸びてしまうらしい。口腔を弄られる不快感のせいか、ネロがうう、と苦しげに呻いた。
「ぅ、やら……っ、はらひへ、!」
「やだじゃねぇよ。……大人しく自分で血吸うのと、俺に無理やり飲まされるの、どっちがいい?」
ネロは相変わらずやだ、やだと繰り返しながら、ぽろぽろと涙を流している。開きっぱなしの唇から唾液が滴ってブラッドリーのシャツに落ちたが、赤ん坊の頃から世話をしている相手のものだ。とくに汚いとは思わなかった。
「ほら、どうなんだ?」
「ひ、……っく、……ぶあっど、いたいの、やら……」
嗚咽のあいまに漏らされたのは、およそ吸血鬼らしくない言葉。まったく、どこの誰に吹きこまれたのか、近頃のネロは「ブラッドリーを傷つけたくないから」血を吸うのが嫌だと言う。吸血鬼の牙は咬まれても痛くないようにできているし、ブラッドリーも魔族だから、血を吸われても人間のように死んだりしない。そう何度も説明しているのだが、ネロは頑として受け入れない。もちろんブラッドリー以外の者から血をもらうわけでもないので、いつも貧血を起こす寸前まで我慢しては、こうしてブラッドリーに捕まっている。
仕方ない、とブラッドリーは一度ネロの咥内から指を引き抜いて、唾液にまみれたそれに自らの歯を食いこませた。ブラッドリーの意図を察したネロは逃げようと暴れるが、所詮は子どもの力なうえに、今は貧血で体力を奪われているため、片手で難なく抑えこめる。
「っ、いやだ、や、ブラッド……っ!」
「こら。暴れんな」
ぐずるネロの口腔に、歯で裂いた指先を乱暴に含ませる。最初は首を振って拒もうとしていたネロだが、溢れる血が喉を滑り落ちていくうちに、だんだんと抵抗をしなくなっていった。やがて最後にはとろんと目を蕩けさせ、ちゅうちゅう、と赤ん坊のようにブラッドリーの指を吸い始める。
「ん……っ、んぅ、んく……」
「よしよし、いい子だな」
強いて褒めてやりながら、ブラッドリーは血色をとり戻しつつあるまろい頬を撫でた。薄い舌に傷口をえぐるように舐められると、ただでさえ神経の集中している箇所なのでそれなりに痛い。本当は吸血鬼の牙で吸い出されたほうがブラッドリーとしても助かるのだが、自発的に吸うのを待っていたらおそらくネロは餓死してしまうだろう。
(ったく、世話の焼ける……)
厄介なガキを拾ってしまったものだと思う。それでも虚ろな瞳に徐々に光が宿り、触れた肌に体温が戻り始めると、無意識のうちに安堵の息がこぼれた。
血の滴る肉、ならばともかく生き血そのものを美味しいと思う感覚がブラッドリーにはわからないが、血を吸っているときのネロはいつも夢をみるように恍惚としている。頬をほんのりと上気させ、ピンク色の舌をちらつかせながら一心に指をしゃぶる姿は、子どもながらに扇情的だ。ついいたずらをしたくなって、柔らかい口蓋を中指の腹でくすぐれば、「ふぁあ」という甘い吐息とともに革靴を履いた足先がぴんっと跳ねた。
「ふ……、はぁ……ん」
「ん。ちゃんと腹いっぱいになったな?」
ネロはどこか陶然とした表情のままこくんと頷く。口を離すとまた傷ついた指先からじわじわと鮮血が滲み、小さな舌が名残惜しげにそれを舐めとる。――そろそろ血潮の勢いもなくなってきたかという頃、不意にネロの動きがとまった。俯いた顔を下から覗きこむと、先ほどとは別の意味で青ざめた頬に、はらはらと涙の粒が伝っている。
「ひ……っ、ごめ、なさ……おれ、がまんできなくて、ごめんなさい……っ」
どうやら、空腹を我慢できずに吸血してしまったことに罪悪感を覚えているらしい。つくづく難儀な性格だなと半ば呆れながら、ブラッドリーは口のなかで小さく呪文を詠唱した。ふわりと柔らかな光が指先に灯り、次の瞬間には、指の傷はすっかり癒えていた。
「ほら、もう何ともないだろう」
元通りに塞がった手のひらを差しだしてみせる。それでもどこか不安が拭いきれないようだったので、気に入りのぬいぐるみを抱かせてやり、あやすように背中をさすれば、引き攣った呼吸はだんだんと落ち着いていった。
「………俺、もう血吸うの、嫌だ」
ブラッドリーの胸に頭を預けたまま、ネロがぽつりと呟く。
「ブラッドのも、誰の血も吸いたくない。そのまま飢えて死んだほうがいい」
「笑えねぇ冗談だな」
職業柄、自殺願望者にはよく会うが、自ら死を望むなどブラッドリーには考えられない話だった。ましてや吸血鬼の自殺願望だなんて聞いたこともない。笑えないと言っておきながら、ついくくっと喉を震わせてしまうブラッドリーを、ネロは縋るように見あげた。
「……ブラッドは、人の魂を食うんだろう。俺の魂は食ってくれないのか?」
「勿論、食うさ。だが、お前はまだ成熟しきってないだろう。俺はきちんと成熟した極上の魂しか食わないんだよ」
魔族の――とくに吸血鬼の魂は希少で、食えば人間の千人分ほどの価値がある。その貴重な魂を存分に堪能するためには、今のネロでは幼すぎるのだ。
この若木のような身体が成長し、すみずみまで健康な魔力で満たされ、芳醇な色香を放つようになったら――そのときが、『食べ頃』だ。
「楽しみだな、ネロ」
ブラッドリーが殊更優しく微笑み、雨に濡れた白桃のような頬を撫でる。するとネロは嬉しげに口元を綻ばせ、うっとりと琥珀色の瞳を潤ませるのだった。